第十二話 上海の娘
少女は親を知らなかった。「家族」という言葉すら知らない。上海の貧民窟に産まれ、物心つく前に租界のとある施設に買い取られた。
その施設には同じような境遇の子供が何人もおり、刺客として人を殺める訓練を施された。幼い子供には誰しも無防備となる。それを狙って、上海での熾烈な抗争に送り込まれた。
仕事が成功すれば、普段は厳しい親方が優しくしてくれた。そのわずかなぬくもりを求め、少女は仕事を励んだ。
少女が成長し月のものが始まると、少女の仕事は若干変化した。殺す以外に、標的の男と一夜を共にするという役目が増えたのだ。どうすればよいのかは、親方が自ら教えた。
ある日、少女はとあるホテルに行くよう命じられた。指定された部屋の前で待ち、現れた男を誘え。乗ってこなければ殺せと。
しかし、少女は初めて仕事に失敗した。現れた背の高い男は、彼女の誘いに乗らないばかりか、必殺のはずの毒塗り短剣の一突きをかわした。さらに腕を捩じり上げられ、壁に叩きつけられた。薄れる意識の中で、少女は自分の運命を悟った。帰ってこなかった他の子達のように、自分も用済みとして処分されるのだと。
少女が意識を取り戻すと、そこは見知らぬ部屋だった。柔らかいベッドの上で、痛めた肩には湿布が貼られ、ひんやりと冷たかった。それでも、両手と両足は縛られていた。
「目が覚めたか」
傍らの椅子に座っていた男が言った。租界で良く使われる上海語だった。しかし、少女が狙ったのとは別人だった。
少女が黙っていると、男は言葉を続けた。
「お前は任務に失敗した。自分がどうなるか分っているか?」
頷いて、少女は答えた。
「殺される。他の子のように」
そうか。自分はこの男に殺されるのだ。その前に慰み者にされるのだろうか。それにはもう慣れた。今まで何人も殺してきた自分だ。自分の順番が来ただけだ。悲しいと言う気持ちすら、少女の心には浮かばなかった。
ところが、男は意外なことを答えた。
「そうはならない。お前の身柄は、我々が保護する」
男は話し始めた。少女が命を狙った相手は、日本に取ってとても重要な人物だ。そのお方が、お前のことを案じてくれている。だから今度は、そのお方、ひいては日本のために尽くすのだ、と。
「ところで、お前の名は」
問われて、少女は答えた。親方が適当に付けた呼び名だが。
「劉美鈴と呼ばれています」
男は頷くと言った。
「では、今日からお前は冴木美鈴だ。私の養女と言うことにする」
養女。少女には馴染みのない言葉だった。冴木に呼びかける時に使うように言われた「お父様」も。
冴木と名乗るその男から、美鈴は毎日、日本語の訓練を受けた。それ以外の読み書きや計算なども。生まれてからこれまで、一切の教育を受けていなかったにも関わらず、美鈴は砂漠の砂地のように知識を吸収していった。
そうした日々の中で、美鈴は冴木に心を開いて行った。訓練の時の「親方」と違い、冴木は美鈴が勉強で答えを間違えても叩いたりしなかった。それでも「父親」という存在は、まだ彼女には理解できなかった。
ある日の朝食時。美鈴は冴木に尋ねた。
「お父様は、なぜ私を抱かないのですか?」
冴木は朝粥を吹いて酷くむせた。
「……父親は娘にそんなことをしない」
美鈴は不思議そうだった。育った環境が特殊過ぎたのだろう、美鈴は一般常識を大きく欠いていた。
そうなると、男手だけでは教えるにも限りがある。手を借りるとすると、選択の余地はなかった。
「今日中に荷物をまとめなさい」
養父の言葉に、少女は青ざめた。殺されることにも動じなかった心が、ここでの生活が終ることには恐怖を感じた。椅子から立って、床にはいつくばって懇願する。
「お願いします、ここにいさせてください」
冴木は、言葉が足りないことに気づいた。
「お前は日本でさらに学ぶことになる。石動さまのところで」
美鈴は顔を上げ、目を見開いた。
石動肇は、美鈴にとっては神のごとき存在だった。物心ついてからずっと訓練を受けて来た暗殺術を打ち破り、にもかかわらず自分の命を救ってくださった。
冴木が父親だとするなら、石動はもはや崇敬の対象だった。
少女の手刀が空を切る。男の手がそれを取って捻ろうとすると、体を巡らせてかわし蹴りを見舞う。男は一旦下がると一気に間を詰め反撃した。二人の足元からは落ち葉が舞い上がる。
古武術と中国拳法の応酬。
ひとしきり組手が終ると、冷え込む晩秋の早朝にもかかわらず、汗が噴き出てくる。
「二人ともお疲れさま」
由美が手拭いをもって庭に出てきた。肇と美鈴に手渡す。
「ありがとうございます」
日本に着いた頃に比べると、美鈴の日本語は大幅に進歩していた。日本語ばかりの生活になったこともあるだろうが、何より由美が「よそ様から預かった、大事なお嬢さんなんだから」と、丁寧に直していったことが大きい。
「お風呂つくっておきましたから、汗を流しなさいな」
朝風呂とは豪勢だが、美鈴が来てからは多くなった。「年頃のお嬢さんを汗まみれで学校にやれません」というのが、由美の言い分だった。
美鈴が言った。
「先生、お先にどうぞ」
大して物を教えているわけでもないが、美鈴は肇をそう呼ぶのがしっくりくるらしい。
「じゃあ、先にいただくよ」
庭先であれこれお喋りを始めた女二人を残して、肇は浴室に向かった。
手桶で何杯か湯を浴び、髪と体を洗う。湯船につかると、稽古の疲れや凝りが湯に溶けだすような感じがした。
そこへ、いきなりガラス戸が開いた。
「み、美鈴! ぶわっ」
思わず立ちあがろうとして足が滑り、肇は浴槽で溺れかけた。一糸纏わぬ美鈴が、前も隠さず脱衣所から入ってきたのだ。
「先生! どうしました!」
美鈴が湯船の肇を抱き起こす。必然的に、肌が密着する。がぼがぼと湯を飲んで、ようやく咳き込みながらも息ができるようになると、肇は美鈴に抱き着く形になってた。
「まったくもう、美鈴ちゃん駄目でしょう」
騒ぎで様子を見に来た由美が言った。この手の騒動は毎日のようにあるので、もうすっかり慣れていた。慣れないのは肇ただ一人。
「若い娘さんなんだから、嗜みをもっと身に着けないと」
散々な思いで湯から上がる肇だった。
「おはようございます」
校門をくぐる美鈴に、同じ制服の少女たちが挨拶する。美鈴も同じように挨拶。この秋から転入した高等女学校だった。
そもそも、「学校」と言う存在からして、美鈴には初めての事だった。同じ年頃の仲間と机を並べて学問を学ぶ。体操をする。上海の貧困層では思ってもみなかった日常だ。誰もが幼いころから生きるために必死に働くしかない。それが当然だった。
昼になると、教室や校庭で学友とお弁当を食べるのも楽しみだった。冷めた御飯を食べると言うのも、日本に来て初めて体験したことだった。大陸ではどんなに貧しくても暖かい食事をとったのだが、由美が作ってくれたお弁当は、冷たくても美味しい。
そして交わす会話は、恋の話が殆どだった。誰が誰を好きか。誰がどこからの縁談を持ちかけられたか。その中で美鈴は、肇への気持ちが何であるかを知った。
そうした、こまごまとした日本の日常を、美鈴は大切に記憶に留めていくのだった。
学校から帰ると、光代が飛びついてきた。
「おねぇちゃん、あそぼ!」
敬愛してやまぬ肇の娘と言うだけでなく、光代は美鈴の中で大きな場所を占めていた。「遊び」というものを教えてくれたのも、この子だった。
お手玉、おはじき、ままごと。特に「ままごと」は大きかった。「家族」を遊びに取り入れる。家族を知らぬ美鈴には意外なことだらけだった。妻子のために働く父親。それを支え、子供たちを育てる母親。養父である冴木に聞かされた以上に、光代が遊びの中で示す「家族」は、現実味を帯びていた。何より、石動家の有り様と一致していた。
その年の暮れに冴木が迎えに来た時、美鈴はすっかり日本語も上達し、光代とは本当の姉妹のようになっていた。
生まれた時から刺客として育てられた少女。当然、女としての役割もあった。その彼女が初めて知った家族。それが石動家だった。
石動家を去る時が来たとき、泣いてすがりつく光代に、美鈴は自分も涙をこぼしながら言った。
「必ず、戻って来るからね。また、一緒に遊ぼうね」
肇に向き直って告げる。
「肇さま、ありがとうございました」
肇は頷いた。
「大好きです」
頷いて、答える。
「ああ、うちの家族みんな、君のことが大好きだよ」
冴木に連れられ、美鈴は石動家を後にした。
渋谷駅まで歩く途中、彼女は呟いた。
「お父様。私、振られちゃいました」
うむ、と冴木は答えた。
再び呟く。
「でも、嬉しいんです」
刺客として育てられた自分が、例え一時であっても、普通の娘として暮らせた。何と幸せなことだったろう。
美鈴にとっての、一生の思い出となる三か月間であった。
次回 第十三話 「慟哭の雪」




