第七話『落日』
夏樹たちは依然として、異空間から脱出するための糸口を掴めていない。
互いの名前が分かったからといって、その状況が好転するわけでもない。
けれどそれでも、二人は確実に先ほどまでよりも前向きだった。
「――ァァァァァァァ!!」
「レヘヘヘリヘ……! なつきテリンリユウニレネイヘルヘメイネ!」
行く手を阻む化け物を前に、ユーリエが夏樹の名を呼んで動きを制するように片腕を上げる。
おそらくは、『危ないから下がってて』的なことを言ったのだろう。
「あいよっ、了解! でも戦いたくなかったら逃げていいんだよ、ユーリエ!」
最初に化け物と戦ったときのことを思い出して、気遣いの言葉を向けてみる。
ユーリエは訝しげに夏樹のほうを振り向いたが、こちらの都合にお構いなしな化け物の攻撃を慌てて避けた後、泣きそうな顔で再び夏樹を見て口を開く。
「エニ、ネンヘミュウレ!? ユヘミテヘンミメレ……ミフメイミレミヘ、なつきニイフレイニネツヘイムリヒペネユレメネイニヘ、ヘリメペレヘエヒヘニミヘイヘヘリヘイニヘムネ……!」
「あー、うん、ごめん! 何でもない! こっちは気にしなくていいから、とりあえず前! 前!」
律儀に夏樹の言葉を理解しようとしているらしいユーリエに身振りで前を向くように伝えて、戦闘中に話しかけたことをその背中に謝罪する。
夏樹に促されて化け物に向き直ったユーリエは、細い腕での攻撃を捌いて化け物の懐に潜り込み、紫色の刀身をがら空きの腹部に叩き込む。
うめき声を上げて崩れ落ちる化け物の体を回避して武器を操作し、淡い光を纏ったそれを振り下ろして止めを刺した。
「……なつき、イレヘメミレミヘ。エツヒ、メリチヒテネンヒイツミュツヘイヘニヘムレ?」
化け物を倒して一息ついてから、トテトテと夏樹に近づいてきて、ユーリエは小首を傾げる。
きっと、先ほど夏樹が何を言おうとしていたのかを聞こうとしているのだろう。
互いの自己紹介が済んでから、目に見えてユーリエの警戒心は緩くなっている。
夏樹も、ユーリエから名前を呼ばれると自分に話しかけられているのだと分かるし、相手の言葉を理解しようという意気込みが断然違ってくる。
人は無知を嫌い、未知を恐れる。
けれど同時に、知らないことを知るということに強く惹かれる生き物でもあるようだ。
「あのさ、ユーリエ。あの化け物と戦うの、怖くない? もし怖かったら、無理に戦ったりしなくてもいいんだよ」
「………………?」
「やっぱ、通じないよねそりゃ……!」
困ったように眉を寄せて微笑むユーリエを見て、夏樹は己の浅はかさを呪う。
あまりにも当然だが、やはり名前を呼んだだけでは伝わる情報にも限りがある。
夏樹だって状況や表情、声音から察せられる感情を基に、ユーリエが何を言いたいのかを推測しているだけで、それが合っている保障もない。
単純なやり取りくらいなら比較的問題なくできるようになった(……はず)とはいえ、現状では『戦ってもらえたら助かるけど、嫌なら無理はしないでほしい』といったような、ややこしいセリフは通じない。
しかも、戦いを望んでいないユーリエに逃げるよう伝えられないのは忸怩たる思いがあるが、この空間の中で生き残るには、結局ユーリエに戦ってもらうより他はないのだ。
何とかユーリエに頼らずに、あの化け物から逃げることはできないかと考えていると、鈴を転がしたような声が聞こえた。
「……ユヘミニリヒ、ミンペイミヘルヘメツヘイムニヘムネ」
そう言って、ユーリエは柔らかく笑う。
訳の分からない現象によって未知の場所に飛ばされた挙句、どこの馬の骨とも知れない男と謎の空間に閉じ込められて、正体不明の化け物や同郷の女の子に襲われながらも……ユーリエは、夏樹に微笑みかけている。
「エミネヒウニテイレム、なつき。ユヘミテヘイミュウプヘム……ヘツヘ、ヘンミメレニミンペイミヘイヘヘレヘイムニヘムレメ」
くすくすと、可笑しそうに笑うユーリエの表情は穏やかだ。
さっきまでの弱々しさが嘘みたいだと、夏樹は思った。
いや、嘘だったとまでは言わなくても、あれは本当にユーリエの本来の姿ではなかったのかもしれない。
突然のことに驚いて、パニックを起こしていただけで……落ち着きを取り戻せれば、ユーリエはこんなにも強い女の子だったのだ。
「――ァァァァァァァ!!」
頭上で化け物の咆哮が響き、通路の後方に一体、前方に三体の新手が着弾する。
ユーリエは表情を引き締めて武器を操作し、燐光を纏うそれを構えて後方の一体に肉迫する。
そうして後方の化け物を、振り払われた細い腕ごと叩き斬って沈め、再度武器を操作して、前方の三体に向き直る。
「なつき、ツメヘルヘメイ!」
ユーリエが叫びながら、手のひらを下に向けて下げる動きをしたので、しゃがめという意味だと解釈してその場に伏せる。
それを確認するや否や、ユーリエは武器を振るって、巨大な腕を緩慢に振り上げる前方の三体に衝撃波を飛ばす。
通路がそれほど広くないせいで全ての化け物を攻撃範囲に収めることはできず、三体のうち二体が盾になる形になって、残った一体の巨大な腕が高々と掲げ、攻撃体勢を整えてしまう。
夏樹の全身より大きな腕にも怯まず、ユーリエは武器を操作しながら化け物と距離を詰め、振り下ろされた腕の横面に紫電一閃を煌かせる。
一刀両断とはいかなかったものの、化け物の巨腕は大きく破損し、その軌道を逸らされる。
けれどユーリエのほうも化け物の力を受け流しきれなかったようで、弾き飛ばされて近くの壁に打ちつけられてしまった。
「……………………っ!」
「ユーリエ!!」
「けほっ……エンミンミヘルヘメイ、なつき。リニルメイ、テツヒュメヘム!」
思わず駆け寄りそうになる夏樹を制して、ユーリエは気丈に笑ってみせる。
そして素早く立ち上がり、紫色の刀身を閃かせて、腕のダメージに呻く化け物に決定打を放つ。
「ァァァァァァァ……!」
断末魔を上げて、化け物が崩れ落ちる。
ユーリエと夏樹が一息つこうとしたその時、再び黒塗りの空から新手の化け物が五体降ってきて、戦況はあっという間に振り出しに戻ってしまった。
「「――ァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」」
「……いやいやいや、冗談でしょ……!? こいつら一体何体いるんだよ!?」
咆哮する化け物たちに夏樹は戦慄するが、同時に、これは絶好の機会なのではないかとも感じていた。
今回化け物が落ちてきたのは前方一箇所のみで、その前方の化け物の群れも数の多さが災いして、さほど広くない通路につっかえ気味になっている。
これなら戦わずにやり過ごすこともできるのではないかと考えた夏樹が呼びかけるより早く、ユーリエが勢いよく振り返って夏樹に言葉を向けた。
「なつき、ニネヘルヘメイ!!」
「え…………?」
狼狽しているユーリエの様子に気づいた瞬間、夏樹を強い衝撃が襲う。
吹き飛ばされて全身を打ち付けられた体が何かにぶつかって止まった時、夏樹の視界には、先ほどまで自身のいた場所に、細いほうの腕を振り抜いたような体勢で立つ化け物の姿が映っていた。
いつの間にか、音もなくひっそりと。
夏樹の背後に、化け物が忍び寄っていたらしい。
「なつき!! ミツレミミヘルヘメイ、なつき……っ!」
「…………っ!!」
吹き飛ばされた夏樹を受け止めてくれたらしいユーリエが、泣きそうな声で呼びかけながら、夏樹の体を揺さぶる。
早く笑顔を向けて、ユーリエを安心させなければという夏樹の使命感は、脳天を貫く激痛によって塗り潰されてしまう。
呻く夏樹から身を竦めるように手を離すユーリエへの申し訳なさが胸中を満たすが、頭が痛みで麻痺して思うように動けない。
「「「――――ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」」」
空気を震わす化け物たちの咆哮が、どこか勝ち誇ったもののように聞こえてくる。
その勝ち鬨を聞きつけてきたのか、夏樹を吹き飛ばした化け物の後ろから、通路を挟む左右の山の上から、新たな化け物がぞろぞろと現れる。
痛みに縛られた夏樹の頭では数えることすらままならないが、十体以下ということはないだろう。
「……リウ、ユレヘルヘメイ……!」
ゆらり、と立ち上がって、ユーリエがポツリと呟く。
悔しそうに、悲しそうに歪められた顔を伏せて、夏樹が感じているものとは別種の痛みに耐えているようだ。
「ユヘミヘヒネ、ネニユミヘツヘイウニヘムレ……? レイニヒリヒンヒイイニミミヘイヘニニ……リンネニユメミイレヘネニニ……! ヒウミヘエネヘヘヒテ、ユヘミヘヒニリンネチヒイリヒユムムニヘムレ!?」
溜め込んでいた痛みを化け物たちに投げつけて、ユーリエは鍵型の武器を操作する。
鍔に空いている鍵穴に鍵を差し込んで捻り、外れた刀身を半回転させる。
そうして露になった鍔の内部に、刀身を外すために使った鍵を差し込み、その上から刀身を嵌めこんで、黒塗りの空に突き立てる。
武器の纏う輝きが強くなり、放たれる紫色の光は刀身に沿って伸びて、巨大な剣の形を成した。
「……やぁぁぁーーーーーっ!!」
気合を上げて、ユーリエは剣を振り回す。
雄たけびとともに振るわれた光の剣は周囲の、化け物も箱の山も全てを粉々にして、攻撃範囲内を瞬く間に更地に変えてしまった。
紅い瞳の女の子が振るった時と同じように、力を使い果たしたのであろう鍵型の武器は砕け散り、光の粒になって霧散する。
感情を爆発させて荒くなった息を整えて、ユーリエが夏樹に歩み寄る。
見知らぬ場所で立て続けに理不尽に襲われたせいだろう、その表情が悲しみにこらえているように見えて、夏樹は我慢できる程度には落ち着いた痛みを押さえつけて、ユーリエに笑顔を向けた。
「……お疲れ様、ユーリエ」
「……なつき……」
ユーリエの表情は晴れない。
むしろ呼びかけた瞬間、より悲しみの色が強くなったようにさえ見えた。
足手まといなだけでなく、気休めにすらなれない無力さが情けなくて、痛みに制御を奪われた感情が夏樹の目から零れ落ちる。
情けなさとみっともなさでいたたまれなくなり、顔を覆った夏樹を苦しそうに見つめてから、ユーリエはそうっと夏樹の腕を取り、自らの肩に回す。
そうして夏樹の怪我が痛まないよう、静かに立ち上がってから、ゆっくりと歩き始めた。
「……ユーリエ……」
「……ニレンネメイ、なつき」
沈痛な面持ちで、夏樹たちは言葉を交わす。
相手に伝わる、たった一つの言葉に心を込めて、自分の気持ちを届ける。
力になれないことへの謝意を。
自分を責めるような顔をしないでほしいという、懇望を。
「ユヘミニメイヘリンネレニエユメヘミレツヘ、ニレンネメイ。レリミヒイムリヒネヘリネルヘ、ニレンネメイ……」
「ユーリエ、やめてよ……」
ユーリエの言葉は、夏樹には分からない。
だから出会った直後であれば、辛そうに歪められた表情はこの状況に放り込まれたことに対する不平や不満を訴えているのだと、そう考えたかもしれない。
けれど、夏樹は知っている。
恐怖の眼差しで見つめ、あまりいい意味ではないらしいサムズアップを向けてきた夏樹に対しても無視を決めることのできない、ユーリエの人の良さを。
理由は不明ながらも、夏樹を守るために命がけで戦ってくれた、温かな心を。
虎の子の超必殺技を使ったせいで武器が使用不能になり、自身も命の危険がある今現在でさえ、夏樹のことを助けようとしてくれている情の深さを。
出会ってまだ一日も経っていないけれど、夏樹はユーリエの、たくさんの強さと優しさを見てきている。
だから、言葉が分からなくても分かる。
ユーリエは今、自責の念に苛まれているのだと。
「謝らなきゃいけないのは、僕のほうだよ……。何の力にもなれずに足だけ引っ張って、挙句の果てに唯一の武器さえ使えなくしちゃったんだから……」
「なつき……」
化け物の攻撃を浴びた箇所から、痛みが引かない。
ひょっとしたら、骨が折れているのかもしれない。
傷が痛むたびに情けなさが込み上げてきて、心が衰弱していく。
いっそあの攻撃で死んでいれば、ここまでユーリエを煩わせずに済んだのだろうかと、そんな馬鹿なことを考えてしまうくらい。
「……エンミンミヘルヘメイ、なつき」
鈴を転がしたような声が、夏樹の耳を甘くくすぐる。
顔を上げると、ユーリエは気丈にも、柔らかく微笑んでいた。
静かで、だけど強い意志を光を紫色の瞳に灯して、夏樹に笑いかけている。
「なつきニリヒテ、レネメツエニペミュレヘイルリヒヒレレム。なつきネユメツヘルメヘリヒユ、ユヘミニネレエユユンヘルメヘリヒ……。なつきレメイヘヘイヘニインニムペヘテ、レネメツイレエミミレムレメ」
微笑みとともにユーリエが言葉を紡ぐたびに、辺りに暖かい光に包まれていく。
幻想的な光景の中で、もしかしたらユーリエは、空から落ちてきた天使だったのかもしれないとさえ夏樹が思い始めるころには、光は二人の周囲に満ち満ちていた。
異空間の黒い風景を覆い隠した光が霧散すると、見慣れた景色が現れる。
「……ここは……」
「……レエツヘ……リメヘニヘムレ……?」
感極まる夏樹に、少し身構えながらも不思議そうに、ユーリエが夏樹に疑問系(推定)の言葉を投げかける。
そこは、夏樹が三年間歩き続けた道。
異空間から抜け出した二人は、夕日に染まる中学校の通学路に立っていた。