第六話『会話』
謎の化け物や紅い瞳の女の子の襲撃は(少女が)退けたし、夏樹に対する少女の警戒心も緩和された。
これで残る問題はただ一つ、この空間からの脱出である。
「……って言っても、それが一番の難題だよねぇ……」
憂鬱さに押しつぶされて、夏樹はがっくりと肩を落とす。
この空間に閉じ込められた原因はおそらく、少女の持つ力が恐怖心を引き金に暴発したせいだろう。確証こそ無いが、落ち着いて用いればもう一度扉を開き、元の世界に帰れるはずだと思っている。
問題は、そのことをどうやって言葉の通じない少女に説明するか、である。
最初の地点からだいぶ走りまわって座標がずれているので、夏樹の世界ではなく少女の世界への扉が開く可能性も否めない。その場合も、自分が元の世界に帰れるように協力してほしいと、少女にお願いしなくてはならないだろう。
サムズアップから受ける印象さえ違う少女を相手に、身振り手振りだけでそれらを上手く伝えられる自信が、夏樹にはなかった。
「ま、いいや。とりあえず何かやってみよう。案外すんなり通じちゃうかもしれないしね」
あれこれ考えるよりやってみたほうが早い。夏樹は身振り手振りで『君の持っている鍵で、この空間の外への道を開けられない?』というセリフを表現することにした。
少女の握っている鍵型の武器を指差し、自身の手に架空の武器を握って空間に突き刺し、捻るように動かしてから、扉を開くように両手を胸の前から外側に向かってスライドさせる。
「………………?」
少女は怪訝そうな顔をして夏樹の指差した鍵型の武器に視線を落としてから、きょろきょろと辺りを見回す。
それから、夏樹の機嫌を伺うように首をすくめて、上目遣いに視線を送ってきた。
「……ヘンミメレ、リウミユレエミレメン。ヒピメネヒリニエムニレ、ユヘミニテユレメネインヘム……」
「……どうしよう、これ想像以上に収穫がない……」
少女に夏樹の思い描いた方法を実行するつもりがないということだけは分かるが、その理由が『伝わったけど方法が間違っているから』なのか『伝えたかったことが伝わっていないから』なのかは分からない。
前者の理由なら別の方法を探して同じように伝えればそれでいいが、後者の理由だった場合はコミュニケーションの手段から探さなくてはならない。だというのに肝心の理由が分からないのだから、何から探すべきなのかも決めようがない。
要するに、事態は八方塞がりだということだ。
「……いや、そうじゃないか。にっちもさっちもいかないわけじゃなくて、あっちもこっちも進んでいけるから、迷っちゃってるだけだもんね」
選択肢が無いわけではなく、多すぎる選択肢の中から一発で正解を引こうとするから、動けなくなっている。
ならば虱潰しに、正解を引けるまであれこれ試し続けていけばいいのだと、夏樹は結論づけた。
「とりあえず、出口を探そうかな。もし脱出するのに鍵型の……普通に『鍵』でいいや、あれが使えないんだとしたら、鍵に頼らない脱出方法があるはずだもんね」
コミュニケーションの方法は、それを探す道すがら色々と試していこう。
今後の方針を固めた夏樹は、少女に笑顔を向けて手を差し出す。
驚いたように目を丸くし、おずおずと夏樹の手に重ねられた少女の手を引いて、夏樹は再び歩き始めた。
◇
豚という生き物は案外綺麗好きで、小屋の掃除が行き届いていないと他の豚の尾を噛み千切ったりするほどのストレスを溜め込むという。
羊は群れから引き離されると強いストレスを感じるし、犬や猫は尻尾を踏んだり握ったりすると酷く怒る。
そして、おそらくはそれらと同じくらい、人間は無知というものを嫌う傾向がある。
知っていると思っていたものの知らない側面に触れても最初から知っていたように振舞うし、造詣の無い分野の話題を前にすると口数が減り、機嫌も悪くなる。
終わりが見えない場合も同様で、五十分ごとに休み時間がなければ誰も真面目に授業を受けないだろうし、距離の決まっていないマラソンに参加しようと思うものは変人呼ばわりされてしまうだろう。
だからそういう意味では、夏樹たちが迷い込んだ異空間はストレスの掃き溜めみたいな場所だった。
空間の全体像が分からないので現在位置は当然不明、太陽も無いので大まかな時間さえ分からない。
迷い込んだ原因も脱出方法も推測の域を出ない上に、証明する手立てもない。
さらに唯一のパートナーとは意思の疎通が図れないのだから、ストレスが溜まらないわけがない。
せめて携帯電話があればこの空間に放り込まれてから何時間経ったのかが分かったのだが、家の中でも携帯電話を携帯する習慣が、残念ながら夏樹にはなかった。
疲れ果てて地面に座り込んだ夏樹は、黒塗りの空にかざした手をぼんやりと眺めてから、小さく嘆息してそれを下ろした。
「……やっぱり、なかなか上手くいかないなぁ……」
膝を立てて顔を埋めていた少女が、夏樹の独り言にわずかに顔を上げて、また膝に埋める。
おそらく、精神的にもう限界なのだろう。
この空間に迷い込む前の様子から見る限り、少女にも夏樹の世界に召喚される心当たりはないようだったし、散発的に現れる化け物との戦闘も少女に任せきってしまっている。
心に掛かる負荷は、夏樹の比ではないはずだ。
「……僕が、何とかしないとね……」
かつて、人間が想像しうる事象は全て、起こりうる現実であると誰かが言ったらしい。
けれど、それは想像しただけで現実が実現するという意味では決してない。思い描いた夢は実現しうるから、努力することを放棄してはいけないという意味のはずだ。
夏樹は足に力を込めて、立ち上がる。
しゃがみこんで膝に顔を埋める少女に近づいて、夏樹もしゃがむ。
夏樹が近づいたのは気配で分かったはずだが、少女は顔を上げない。まるで歩くのが疲れたと駄々をこねる子供のようだが、少女の置かれた状況を見れば仕方のないことだろう。きっと、駄々をこねているわけではなく、自暴自棄になっているのだ。
ささくれ立っているであろう少女の心を刺激しないよう、夏樹は優しく少女の肩を叩き、できる限りの柔らかい声で少女に呼びかける。
「ねえ」
「…………………………」
「おーい」
「…………………………………………………………」
「もしもーし」
「…………………………………………………………………………………………」
「かーめよ、かーめさーんよー」
「……………………………………………………………………………………………
……………………………」
気を引くためにリズムを付けたらバカにされたと思われたらしく(からかってみたくなったのも事実なので、否定できるかというと怪しいところだが)、顔を上げた少女に怒りのこもった視線で睨まれてしまった。
顔立ちのせいか雰囲気のせいか、怒っているはずの少女の顔は拗ねているようにしか見えず、正直に言って全く迫力がない。とはいえ、ただでさえコミュニケーションが取れない上に機嫌を損ねて口を利いてもらえなくなったら、文字通り話にならなくなってしまう。
「ごめんね、バカにしたわけじゃないんだよ。ほら、こんな場所だし、少しでも元気になれたらって思っただけで」
「……リウ、チウツヘイイヘルヘメイ……!」
せめて謝意だけでも通じればと思って話しかける夏樹に、少女が何かを言う。
その内容は相変わらず分からないけれど、その語気から察するに、あまり友好的なセリフではないらしい。
少女は、拗ねているようにしか見えない顔で夏樹を睨んだまま、続ける。
「ヒウメユヘミテ、イリュウヒネイヒメメムユウネペミュにイルメメムツミンチンリニネンヘミュウ!? ミンネユヘミヒイツミュニイムレメ、ヘンミメレリリンリレメヘメメネイニヘミュウ!? ヘツヘメ、リウインイヘム! ユヘミニリヒネンレイイヘイツヘ、ニレチルニヒリミニイレエミルヘメイ! イルメレヘツヘ、ヘンミメレニイレエミユリンリレヒニミヘイメツミュムテツヘムレメ!」
悲鳴のような叫びが、夏樹の耳を打つ。
怒りと嘆きの奔流が、夏樹の心を呑む。
やはり少女の心は、すでに限界だった――恐怖に削られ、絶望に眠りへと誘われ、目を、耳を、心を閉ざそうとしている。
何とかしなければと焦る夏樹の心が、ならどうすればいいんだと怒鳴り返す。
夏樹の言葉は、少女には届かない。
夏樹だって、少女の言葉が全く分からない――せいぜい、時折聞こえてくる『ヘンミメレ』という単語が、夏樹のことを指しているらしいと推測できるくらいだ。
言葉が通じない、ボディランゲージは誤解を招く。
他のコミュニケーションの方法が出てこないのは、果たして自分が悪いのかと、夏樹も絶望の海に沈みかけた時……。
夏樹の心が、一本の藁を掴んだ。
「……そういえば……何で僕、『ヘンミメレ』って単語が自分のことだって思ったんだ……?」
考えるまでもない……少女からそう呼ばれたからだ。
紅い瞳の女の子との戦闘中、夏樹は何度か『ヘンミメレ』と呼ばれている。
女の子から不意打ちを受けた時、女の子に攻撃を避けられて無防備になってしまった時。
状況的に考えて、少女が夏樹に呼びかけていたことに疑いの余地はない。
あの時少女は、ただ『ヘンミメレ』と叫んだ。だから夏樹も、それが自分のことだと分かったのだ。
ならば。
逆に、夏樹の口にした単語が、それ以外のものを指しているわけがないという状況を作りだせれば――!
少女が、僅かな怯えとともに、理解できないものを見る目を夏樹に向ける。
たった今怒鳴りつけた相手が笑っている理由が分からないのだろう。
大丈夫。
これを聞いたら、きっと分かってくれる。
そんな期待とともに、夏樹は自分の顔を指差して言った。
「夏樹。ナツキ、ムツラボシ」
「……………………?」
少女の夏樹を見る眼差しには、得体の知れないものを見る恐怖心がにじんでいる。
それでも夏樹は笑顔を崩さず、自分の名前を繰り返す。
「夏樹。な、つ、き」
「…………………………」
少女の目に、少しずつ光が灯る。
夏樹の言葉を理解しようとする意思が、宿っていく。
「夏樹。なーつーき」
「………………………………ねゃーつーひー、メレ?」
「おぉー!」
通じた。
発音が違う上に正体不明の接尾語が付いているので分かりにくいけれど、確かに少女は夏樹の名を呼んだ。
しかし発音はともかく、正体不明の敬称の存在が気になったので、せめてそれは外してもらおうと考えた夏樹は、もう一度自分を指差して、自分を示す言葉を口にする。
「夏樹。『メレ』は無しで、『なつき』でお願い」
『無しで』というのに合わせて首を振り、否定の意を示す。
半ば賭けではあったけれど、どうやら少女の世界でも首を振るのは否定の意味だったらしい。
「……ねゃ……ん、にゃ、つ、ひー…………メレ……?」
「いやいや、付けなくて大丈夫だよ! メレは外したままで大丈夫だから!」
結局自信なさげに敬称(推定)を付けてしまっていたけれど、確実に夏樹の意図は伝わっている。
自分たちは今、コミュニケーションが取れている。
少女が不安げに夏樹を見ながら、言った。
「にゃ、あー……んにゃ、な! な、つ、き……なーつーき……?」
「……………………っ!」
言葉が、出なかった。
口角がつり上がり、視界がにじむ。
伝わった。
夏樹の名を、夏樹の名だと理解してくれた。
たったそれだけのことがとても嬉しくて、夏樹は思わず涙を零す。
心配そうに言葉を探す少女に笑いかけて、夏樹はもう一度自分を指差した。
「そう。僕は、夏樹。……君は?」
自分を指差すのに使っていた手を広げて、少女に手のひらを向ける。
それで少女も、夏樹に何かを問われていることを察したのだろう。
やっぱり、自信なさげに……けれどしっかりと、夏樹の問いに答える。
夏樹と同じように、自分のことを指差して。
「ユーリエ……ユーリエ・ユーリヒ、ヘム」
こうして夏樹と少女は、何も知らなかった相手のことを、一つだけ知ることができた。