第二話『切迫』
「よーし落ち着こう、一旦落ち着こう。大丈夫大丈夫、現代社会に毒されきったサブカル脳に、対応できない事象なんかないって」
自分の咆哮で気絶させてしまった少女を前に(布団やソファーに寝かせておいたほうが親切だっただろうが、少女の服はそれを躊躇わせるほどに薄汚れていたのだ)、夏樹は自分にそう言い聞かせて気持ちを仕切り直す。
とはいえ、さすがにここまで突飛な仮説を前にして簡単には落ち着けないので、夏樹はとにかく今分かっている情報の整理から始めることにした。
「えっと、お昼ご飯を食べようと思ってリビングに来たらこの子がいて、思わずシャウトしたら気を失っちゃって……」
整理するほど情報が無かった。
「いやいや、諦めんの早いよ僕! もーちょっとこう、色々分かることあるでしょ!? 例えばえーっと……そう!」
例えば、この少女の外見だ。
年の頃は夏樹とそう大差ないように見えるその少女は、くすんだ金髪やくたびれた衣服など、あちこちに貧しさが目立つ。
手や足が土で汚れていることからも(ソファーや布団に運ばなかった一因だ)、少女がいわゆる『農民』の娘であることが推察できる。
「……というか、勢いで異世界召喚とか言っちゃったけど、ホントに異世界召喚なの……? まだしも空き巣狙いのほうが現実味があるっていうか……」
冷静に考えると、そちらのほうが断然説得力がある。
床のことは何かの見間違いかもしれないし、痕跡を消すために拭かれたと考えるほうが、よほどしっくりくる。
だとするなら身の安全のために、少女が気を失っている今のうちに両手だけでも縛って封じておくべきなのだが……。
「犯罪に手を出したわりには神経が細すぎるというか……不法侵入先の住人に会ったときに気絶するって、一番やっちゃいけない対応じゃないの?」
それはもう、対応というか、ただの大失敗だろう。
ここまで気弱な少女が、果たして犯罪行為なんて大それたことができるのだろうか?
「……いや、食うにも事欠く生活が続いて、追い詰められていたのかもしれないし……うーん」
いまだに拭いきれない非日常への憧れと現実的な危機感の狭間で、夏樹は逡巡する。
当事者である少女本人から話を聞ければこんな考察……というか足踏みは必要ないのだが、生憎と未だに起きる気配がないので仕方がない……出会い頭の悪印象が強烈過ぎて、起きていても教えてもらえなかったかもしれないが。
そもそも外国人の空き巣だったなら、言葉が通じない可能性だってある。
「……とりあえず、空腹に耐えかねた空き巣狙いだと仮定して、何か食事でも用意しておこう」
食事がしたかっただけなら、それで穏便に片付くかもしれない。
念のため、武器も用意しておいたほうがいいかと考えながら、夏樹は立ち上がる。
うなされている少女を見ていると、そこまで身構える必要もないかなという気持ちが湧いてきて、思わず苦笑いがこぼれる。
そこで初めて、夏樹はリビングの入り口に人の気配があることに気がついた。
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
「……………………うわぁーおぅ……」
そこにはいつの間にか、檸檬が立っていた。
元々無表情な奴ではあるけれど、今はそれに輪をかけて感情の色が見えない。
ひょっとしたらこれは檸檬本人ではなくて、実に精巧に作られた檸檬のマネキンなんじゃないだろうかと思わされるほどの無表情だが、その仮面の下では怒りの炎というか、地獄の業火を滾らせているのがひりひりと伝わってくる。
要するに、めちゃくちゃ怖い。
立ち上る怒気で、般若の形相が浮かび上がっているような気さえする。
「……えっと……お、おかえり」
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………ただいま」
脳内警報のけたたましさに冷や汗を流す夏樹に対して、檸檬は眉一つ動かさず……ともすれば唇さえ動いていないのではと見紛うばかりの最小限な反応を返す。
……これは、ヤバい。
今まで散々檸檬の理不尽な怒りを浴びてきたと自負していた夏樹だが、ひょっとするとあれらは怒っていたわけではなかったのかもしれないと思ってしまうくらい、今の檸檬の威圧感は凄まじかった。
「ず……ずいぶん早かったね。三時間程度じゃ、大して遊べなかったんじゃないの?」
「……夏樹のお昼ご飯、用意してなかったから」
「そ……そっか。それは何か、悪いこ「その女は誰」
何とかして檸檬を落ち着けようという夏樹の思惑を踏み潰し、檸檬は自身の怒りの原因について檸檬は言及する。
下手なことを言えば殺されるんじゃないかと思わされるような重圧の中、どうすれば檸檬を刺激せずにこの少女のことを説明できるだろうかと、過去最高の速度で頭を回転させる、夏樹の背後で。
「――――っ!」
短い悲鳴を上げて、少女が眠りから覚醒した。
目覚めてくれたこと自体は素直に喜ばしいのだが、出来ればもう少し穏やかに目覚めてほしかったと夏樹は思った。
状況が状況だけに、檸檬の誤解が加速しかねない。
「…………………………?」
恐怖心を貼り付けたような表情のまま、少女は呆然としている。
見慣れない場所での目覚めに、少し混乱しているのだろう。
迂闊なことを言って少女を怯えさせないためにも、夏樹は可能な限り穏やかに少女に声をかける。
「えーっと……」
「っ!?」
何を言ったものかと逡巡する声だけで怯えられた。
一体何をどうするのが正解だったんだと、檸檬の怒りにわずかに疑念の色が混ざった気配を感じながら、夏樹は胸中で毒づく。
「……夏樹、その子から怖がられるようなことをしたの?」
「……ぉあぁーっと……」
どうやら、最初に少女に会ったときに、是が非でも叫ばないのが正解だったらしい。
檸檬の問いかけには身に覚えがあるが、しかしやましいところがあったわけではない。
その辺りのことをどう説明するかと夏樹が迷う様は、檸檬の目から見れば言い訳を探しているように見えたらしく、少しずつ瞳の攻撃色が濃くなっていく。
険しくなっていく檸檬の表情から夏樹の得た結論は、もはや自分の言葉では身の潔白を証明できないということだった。
恐怖と混乱の果てに気を失い、たった今最悪の目覚めを経たばかりの少女に頼るのは気が咎めるが、自身の命が風前の灯なので気にしていられない。
触れれば切れそうなほどに鋭い殺気を放つ檸檬を前に、夏樹は一切躊躇することなく少女に助けを求めた。
「ごめん、起き抜けに悪いんだけど、あちらにおわすお方に軽く事情を説明して差し上げて! でないと僕の命がデッド・オア・アライブ!」
「…………!? !? !?」
気絶の原因である夏樹の慌てふためく姿と、悪鬼羅刹の如き激情を湛えた檸檬の無表情に、少女は目を白黒させている。
目覚めてすぐにこんな光景を見せられたら、空き巣先の住人の大声で気を失ってしまうほど細い少女の神経では、到底平静ではいられないのだろう、恐怖と不安に支配されて涙に濡れる鮮やかな紫色の瞳が忙しなく夏樹と檸檬を見比べている。
その様がどうやら、檸檬の疑惑をさらに加速させたらしい。
「……路上で健気に逞しく生きる外国人のホームレス中学生を、睡眠薬か何かで意識を奪い、略取してきた。……相違無い?」
「むしろ相違以外が無いよ! この子の素性についてはまあ、僕もよく知らないけど……誘拐云々って発想はどこから湧いてきたの!?」
「……夏樹が挙動不審で、その子が夏樹の機嫌を窺うみたいにキョドキョドしてたから」
「ヤバい……何がヤバいって、僕自身檸檬の言い分に納得できるのが何よりヤバい!!」
当の本人でさえ、なるほど確かにと思わされるのだから、外から見れば、もうそれ以外の正解など考えられないだろう。
元々の原因、どころか不法侵入者であるはずの少女に助けを乞うのもなんだかおかしな気はするが、その少女に弁護してもらうより他には、もはや助かる道はない。
そう悟った夏樹は改めて少女に目を向け、再び救難信号を発する。
「あの、ホントにお願い、いやお願いします! 僕にできることなら何でもするから、とりあえず今はあの悪魔の怒りを――」
と。
そこまで言ってから、夏樹ははたと気がついた。
こうして少女に助けを求める行為自体が、檸檬から見れば『誘拐犯が被害者に弁護を強要している』ようにも見えるということに。
「え、嘘でしょ……!? これ僕のデッドエンド確定してる!?」
「……夏樹……」
「いやいやちょっと待って、もうちょっと幼馴染を信用して!? いくらそれっぽい状況でも、僕がそんなことするわけないって信じて!」
「……大丈夫。なるべく痛くて苦しい方法を選ぶから」
「それは誰に対してどういう意味での『大丈夫』なの!?」
すでに殺害方法の検討を始めているらしい檸檬に、夏樹の言葉は届かない。
少女の弁護に期待することもできないのでは、檸檬の処刑を止める手段も無い。
八方塞がりの事実に愕然とする夏樹の眼前に、それは突然発生した。
「「――――へっ?」」
少女を中心に、リビングの一角に異空間が展開しているのを見て、夏樹と檸檬は同時に気の抜けた声を上げる。
前言撤回だ――異世界召喚よりも、空き巣狙いのほうが現実味があるだなんて、とんでもない。
夏樹の知る現実に、こんな不可思議な現象は存在しない。
「………………? ………………。――っ!?」
たっぷりと時間をかけてきょとんとしてから、少女が慌て始める。
どうやらそれは少女の意思で引き起こされた現象ではないらしく、軽いパニック状態に陥っている。
そんな少女に追い打ちをかけるように、展開されている異空間が収縮し始めた。
「ちょっ――!!」
「……っ!? 夏樹!?」
反射的に、マズいと感じて手を伸ばす。
怯えきった少女にはそんな夏樹がどう見えたのか、彼女は一瞬身を竦めたけれど、夏樹はそれでも、伸ばした自分の手で、少女の手を掴んだ。
その手を引いて、収縮する異空間から少女を連れ出そうとするが、僅かに間に合わない。
「夏樹――――!!」
普段の無表情や、ついさっきの怒りなどをまるで感じさせない、焦燥と悲嘆の滲む表情で夏樹に手を伸ばす檸檬。
その姿が収縮しきって閉じてしまった異空間の向こう側に消え、後には痛いくらいの静寂だけが残った。
「……は……はは……っ。いやいや何これ……?」
力なく呟き、十五年の人生で培ってきた常識を総動員して目の前の現実を否定しようと試みる。
けれど、何を言ったところで、眼前に広がる景色は消えて無くならない……目を擦っても、頬をつねっても、それは叶わない。
総動員した常識の全ては夏樹に、正体不明の異空間に閉じ込められたという事実を、ただ淡々と告げるだけだった。
「はは……いやいや、大丈夫だって、慌て過ぎだよ僕。こんなの……えっと、ほら……大丈夫に決まってるよ」
それは、誰に対するどういう意味での『大丈夫』なのか、皆目分からなかったけれど。
それでも、そう言って笑わないと、やってられない気分だった。