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そわか  作者: 空雲雛太
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プロローグ『満月』


 その昔、我らが日本の語彙には『愛する』という表現がなかったらしい。


 外国には当たり前にあるその言葉『I LOVE YOU』を和訳するにあたり、当時の文豪達は大いに頭をひねったという。

 ある文豪は『月が綺麗ですね』と訳し、またある文豪は『私、死んでもいいわ』と訳したそうだ。

 原文を読んだことはなく知識として知っているだけなので、誰がどういう状況で言ったセリフなのかは分からない。

 しかし、『私、死んでもいいわ』はともかくとして、『月が綺麗ですね』という表現はどう捉えれば『I LOVE YOU』になるのだろうと、少年は疑問に思っている。

 『月』が相手のことだとしても、『綺麗ですね』なんて、普通に普通の褒め言葉なのではないだろうか? それとも当時の日本人の感性では、好きでもない相手なら褒めることすら罷り成らんとされていたのだろうか?

 いずれにせよ、現代っ子の感覚としては、気持ちを直接言えない奥ゆかしさが可愛らしいなと、少年はそう思っていたのだが、言葉とは正しく伝わらなければ意味がない。

 伝えたいことが伝わらなかったり、伝えたいこととは別のことが伝わってしまうことだってある。

 少年が偉大なる先人達の努力に、理不尽ながらも文句を言いたい気分だったのは、それが理由だった。

 夜空に浮かぶ、丸々と太った淡月から視線を隣に向けると、そよ風に目を細めて微笑んでいる少女の横顔が目に入る。

 月明かりの中に舞う金色の髪を指で掬って耳に掛けた少女が瞼を開けて、ふと少年のほうを見た。

 思わず少女から逸らしてしまった少年の目が、再び淡く輝く満月を映す。

 胸中を満たす落ち着かない感情を発散したくて、少年は小さくため息をついた。

 どのくらいこうしていたのかは分からないが、こんなことを何回か繰り返しているような錯覚に陥るくらいには、時間は経過している。

 その間中ずっと、少年の夕涼みに付いてきた少女は微笑むばかりで口を開かず、話題を探して空を仰いだ少年が見つけた月は、文学の世界で愛の告白に使われているので、うかつに話題にできない。

 沈黙に気まずさを感じて再び漏らした少年のため息に、少女はきょとんと首を傾げた。

 なぜ自分だけこんな思いをしているんだという、わりと理不尽な恨み言が少年の胸中に首をもたげるが、そんな自らの悩みが如何に馬鹿馬鹿しいか、少年にも分かっている。

 透き通るような紫色の瞳に少年を映す少女は、少年とは異なる文化の中で育った、少年とは異なる世界の住人である。

 少年が声にするのを躊躇っている言葉はかつて、確かに『I LOVE YOU』の翻訳に用いられた。

 しかし、それはあくまでも少年の生きた世界とその中の文化においての話なのだから、そうとは知らない少女がその言葉を愛の告白と間違うわけがないのだ。

 自らの一人相撲を自嘲して少年は声なく笑い、それに気付いた少女が頬を膨らませて抗議の意を示す。

 少女が少年の笑みに何を見たのか、少年には分からない。

 しかし少女のむくれた顔には迫力がなく、むしろ可愛らしいとさえ言える。

 少女の感情と、少女の表情から受けた自分の印象の不一致が可笑しくて、少年はまた笑う。

 少年のリアクションは、どうやら今度こそ少女を怒らせてしまったらしく、少女は眉根を寄せた顔を、ずいと近づけてきた。

 上目遣いに少年を睨むその顔は、やっぱり怖くはなかったけれど、こんなことで少女の機嫌を損ねるのも面白くない。

 ひらひらと手を振って、大したことではないと伝えると、納得がいかなさそうではあったものの、少女もそれで引き下がってくれた。

 まだ僅かに唇を尖らせている少女から視線を外し、少年は再び夜空の月に目を戻す。

 霞んで朧な月を見て思ったことを、少年は誤解を恐れず声にした。

 少年の言葉に、少女は怪訝そうな視線を向けてから、ふうと一息ついて、また朗らかに笑った。

 楽しそうに笑う少女を見て、少年もまた笑顔になる。

 かつての文豪達は、どのような気持ちで外国語を翻訳したのだろうかと、少年は月を眺めながらぼんやりと考える。

 自らの解釈が間違っているかもしれないという恐怖は、なかったのだろうか。

 相手の伝えたいことをちゃんと理解出来ているだろうかと、不安になったりしなかったのだろうか。

 なかったわけがないと、少年は思う。

 言葉と文化の(とばり)に隔てられた、闇夜の直中(ただなか)にいるような恐怖と不安は、きっとあったはずだ。

 ふと視線を感じて、少女を見る。

 目が合うと、少女はにっこりと笑って、少しだけ首を傾けた。

 この少女とも、出会った当初はこんなふうに笑い合えるとは、思いもしなかった。

 始まりの日に抱いていた恐怖も不安も、今は無い。

 騒がしい朝を迎え、賑やかな昼を過ごし、つかの間の穏やかな夜に明日を思い描く。

 そんな毎日が、きっとこれからも続くだろうという安心と期待が、代わりにある。

 偉大なる先人達も、きっとこんな月明かりを見たに違いないと、だから少年はそう思った。

 良宵のそよ風が、二人の頬を優しく撫でる。


 少年と少女が夜空に輝く月を仰いだのは、ほとんど同時だった。



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