002
クリスに手を引かれ、獣道を下っていく。やはり足場は悪かったが、支えがある分歩きやすかった。
「コウスケさん、今のペースで大丈夫? 疲れたなら言って下さいね、あなたに合わせるから」
「平気だって」
柔らかい女の子の手にどぎまぎとしながら、浩介は首を振る。
「そういえば、クリスは何でここに? 仲間とかはいないのか?」
「ええ、今は一人ですね。今回はちょっと野暮用で。普段は猪退治とか薬草採りをしているんです」
「そっか。そういうクエストも、やっぱあるんだな」
何気なく呟いた言葉に、少女がぴくりと反応する。
「クエスト、まぁ……依頼でよく受けるのはそういったものですね。まだ駆け出しだから」
「駆け出しかぁ……クリスってギルドではランクどれくらいなんだ?」
「ギルド?」
「あぁうん。冒険者ギルドとかだけど……どうした?」
可愛らしい顔を能面のようにしたクリスに、浩介はゾクリと背筋の凍るものを感じた。
だが、すぐ困ったような笑みを彼女は浮かべる。
「いえ、ギルドなんて言葉久々に聞いたものですから、びっくりしちゃって」
「久々?」
「ここは国の中心部から大分離れてるんです。都会ならパン焼きギルドなんてものもあるけど、そうでない場所ではギルドは無縁だから」
「あ、あぁなるほど」
納得しつつも、先ほどの表情が脳裏から離れず、恐々とクリスを見る。
「……あ、着きましたよ。ここです」
話題を変えるように呟く彼女と共に降りた村は、良く言えば長閑、悪く言えば辺鄙なところだった。
ファンタジーといえば石畳を思い浮かべるが、ここは地面を踏んで平らに慣らしただけで、少々でこぼこしている。木造で出来た家々が並ぶそこには畑が広がり、青々とした葉を茂らせ、瑞々しいトマトのようなものを実らせていた。牛や豚が放し飼いされているのか、向こう側で鳴き声が聞こえる。
人口は少なめで子供より老人のほうが多く、風景や匂いは田舎を思わせた。実際、田舎なんだろう。村人たちの服は麻を織った物で、クリスの洗練された旅服より野暮ったい感じが残っていた。
「おや、クリス嬢さん。そこの坊主どうしたんだい」
顎鬚を生やした老人が、クリスの姿を捉えるや否や問うてくる。
「ちょっとあちらで出会いまして……詳しいことは後で説明しますね」
「おぉ、そうかいそうかい」
「えっと宿は」
きょろ、とそれらしき建物を探してみる。だがどこも同じ大きさ、形の民家ばかりで看板を立てた宿らしきものは見当たらなかった。
首を傾げていると、クリスに声をかけた老人が浩介の脇腹を杖で突く。
「すまんなぁ坊主。こんな辺鄙な村に来る酔狂なもんはあんまり居らんでな。宿なんつぅ上等なもんはないんじゃよ」
「あ、そうなんですか……うわ。どうしよう、野宿とかしたことない」
「そうしょげなさるな。ワシの息子夫婦の家に、丁度空き部屋があるはずじゃけん。そこに泊まりんさい」
「え。……いいん、ですか?」
「構わん構わん、息子らもそのつもりで部屋を空けとるんだろうからの」
「折角のご好意ですし、お言葉に甘えたらどうですか?」
「あ、あぁ……じゃあそうしようかな。お願いします」
ずっと歩き回っていたため、気付けばもう空は朱色に染まりかけていた。夜が来るのもそう遅くないだろう。
浩介は、言われるままに民家へと向かった。
老人の息子夫婦は優しい人で、快く浩介を迎え入れてくれた。
夕飯には黒いパンに皮ごとふかしてバターを乗せた芋、豆類と根野菜をトマト風味のスープで煮た汁物、デザートに冷やして切った果物をご馳走になった。素材の味を生かした料理は苦味や酸味が残り癖がありながらも、素朴でどこか懐かしい気分になる味だった。
急に現れた浩介の分まで用意してもらい申し訳ないと思いながらも、散々歩き回って空腹になっていたため、ぺろりと平らげてしまった。そんな浩介を、奥さんは「見てて気持ち良い食べっぷりだねぇ」と笑った。
その後、一般的な民家には風呂がないらしく、湯を張った大きめの桶で体を洗うという初体験を終える。
風呂上りに甘酸っぱい果汁のジュースを貰い、喉を潤した後、二階の用意された部屋に入る。
広過ぎず狭すぎない部屋はあまりものがなく、小さなテーブルの他に藁を敷いてシーツを掛けたベッドがある。そのベッドにぼふん、と突っ伏すと思ったよりフカフカとしていた。
「あー、良い人たちばっかだなぁ」
貰った替えの服はさらりと肌触りが良く、風通しも良くて快適だ。田舎なりの良さを身を持って知る。
だからこそ、ここの人たちに甘えているわけにはいかない。自立できるようにし、恩返しをしよう。そして武器や装備を整えて首都を目指そう。浩介はそう考えながら、壁の燭台にある蝋燭の炎を見つめた。
「あ、そうだ。……ナルア、聞こえてるか?」
暗闇でゆらめく火を見つめて喋りかけると、その上にふわりと人を模った神の姿が浮かび上がる。
整いきった美貌を持つ神は、音もなく長髪を揺らせて周囲を見やる。
「おっ、この村まで来たのかい。予想通りの進み具合だね」
クスクスと笑う中性的な美神は、夢の中とは違い体が半ば透けていた。色鮮やかな踊り子風の衣装で飾る体の向こう側に、木の板張りの壁が見える。
「あぁ、今の姿は半現実的なものだから。こっちから接触は出来ても、君ら側からは触れられない。物理的なのも魔術的なのも無意味だよ」
「だから心を読むなよ……ってか予想通りって。お前、この村知ってるのか」
「僕を誰だと思ってんの? 一応は『神』として崇められてるんだ、知らないことなんてそうないさ。……まぁ、僕が送った異世界人たちが大抵この村に最初にくるから、っていうのもあるけどね」
ナルアは刺青を歪めながらシニカルに笑うと、くるりと回って浩介の目前に腰を下ろす。見つめ合うような状態になった。
どこまでも深い、青く暗い眼。夜の水面めいた深い瞳は、まるで奈落の底を覗き込んでいるような気分にさせる。ひたすらに美しいというのに、どうしてだか得体の知れない不安や恐怖が湧き上がる。
美しくも、恐ろしい。愛らしくも、おぞましい。およそ相反する感情がない交ぜになり、妙に胸騒ぎを起こすのだ。
「ところで、この部屋の匂いはどう?」
「匂い?」
声をかけられハッと我に返った後、妙な質問に眉をひそめる。だが、意味深な発言が気になり、すん、と鼻で空気を嗅ぐ。
「……? なんだ? ちょっと、鉄臭い……」
「それと、なまぐさーい感じしない?」
「まぁ、確かに……けどそんな気になるほどじゃないだろ」
「ふぅん?」
ニヤニヤとした笑みから一転、つまらないとばかりにナルアは肩を竦めた。それから夢の時とは違う、ガラス細工の煙管を取り出して煙草を吸い始める。薄い唇から吐き出された煙はすぐに霧散し、ヤニの臭いはしなかった。半現実の状態では、こちら側に影響を与えないようだ。
「にしても汚い部屋だよね。壁や床に染みがあんじゃん。前より増えてるし」
「お前、言葉を選べよ……確かに染みは目立つけど」
だが比較的綺麗な部屋だと浩介は思う。あまり使うことのない空き部屋だろうに埃は見られず、掃き掃除も拭き掃除もされているのが分かる。部屋の角などに多い蜘蛛の巣も取り除かれ、ベッドの藁やシーツも真新しい。窓だって綺麗に拭かれて、曇り一つない。チラホラと見える黒っぽい染みに目を瞑れば、簡素ながらに素敵な部屋だ。
「染みなんて生活してたら嫌でもついちまうもんだろ。俺んちの母さんも、シンクの汚れとか、風呂場の垢とか、染みには苦労してるみたいだったしな」
「君の母さんのシミは、顔のだろ」
「言うな。それは言ってやるな」
母が知れば、怒髪天を突くレベルである。
「人間は不便だねー。どんなに頑張っても、最終的には醜くなる。まぁ死んで皮も肉も腐って骨になりゃ、顔の美醜なんて関係ないか。虚しいねぇ」
「そういうお前はどうなんだよ」
「僕より可愛い人間なんて、どの世界にも存在しねぇよ。男の姿でも女の姿でも、全て総じて等しく美しいのが、この僕だからね」
ふふんっ、と胸を張って偉そうにしながら、ナルアはドヤ顔で言い切った。
この神様、ナルシストだ。
「すっげー自信だな……ある意味尊敬するわ」
「事実だし。まぁ、僕より美形な奴は探せばいるけどさ、そいつらは大抵僕と同じ人外だ。だから僕より美しい人間はいない。魔術でズルすれば別だけど」
「へー、あっそ」
どうでもよくなり、ベッドに横たわる。
歩き疲れたせいか、ひどく眠い。瞼が段々と落ちていく。
「おや。神のこと呼んどいて、もう寝るのかよ? なんて自分勝手で図々しい人間だ。普通なら天罰モノだぞ」
「んー……チート能力のこと話そうかと思ったけど……今日はいいや。明日にする。この世界のこと……くわしく……聞きたいし」
「ふーん。そういや、扉に細工した?」
「……? 細工……?」
「この部屋、鍵がついてないんだよ。何もせず寝るとか、無用心だぜ?」
「えー……? 大丈夫、だろ……」
うとうとと、まどろみながら返す。既に夢の中に片足突っ込んでいる。
「ありゃりゃ、こりゃ駄目だね」
そう独り言を呟いた後、半透明の神がぼやけた視界から消えた。
◇◇◇
歩く度ぎしぎしと鳴る古い階段を、出来るだけ音を立てぬようにして上っていく。それから足音を消し、そっと扉を開けた。
燭台の灯りを消し忘れたのか、蝋燭の炎が室内をぼんやりと照らす。ベッドまで近づくと、寝息が聞こえた。よく眠っている。睡眠薬が効いているようだ。
彼は懐から短剣を取り出し、念のため眠っている彼の胸元を確認する。
捲った上衣で隠れていた鎖国の下、心臓付近には奇妙な痣がある。直線がジグザグと移動し、その線で四角や三角を作った幾何学的な模様だ。
それは忌々しい異世界人である、確固たる証拠。
「…………」
異世界人を殺すのは、これで五度目になる。
だが後ろ暗さはない。異世界人は初め、この少年と大体同じ反応をする。その迷い子のような危うさに何度騙されたことだろう。しばらくすれば奴らは本性を晒し、自分や他の者たちから大事な物を奪っていった。
出来るだけ早く、犠牲が出る前に、仕留める。それが双方にとって良い結果なのだ。だから彼は迷わなかった。
彼は幾度と異世界人の血を吸った短剣を、心臓に向かって振り下ろす。
――――出来るだけ苦しまないよう、引導を渡そう。
身勝手だと分かってはいるが、それが彼の本心だ。