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平凡でつまらない毎日だった。
勉強も運動も並程度。ボッチではなかったが親友と呼べるような友人はいなくて、女子にモテたりも嫌われたりもせず、家は貧乏でも裕福でもない。生え際を少し気にし出したサラリーマンの父と、相応と言える程度の主婦の母との三人暮らしという一般家庭。
人生ってのは、しょっぱい。漫画やライトノベルみたいな華やかさはなんてなく、だからこそ刺激を求めていた。
何でも良いから、面白いことないかな。
異世界トリップでも転生でも良いから、と彼は常々思っていた。
「退屈そうだねぇ」
暗闇の中で、虹色に輝く長髪が存在感を放っていた。
真っ黒に塗り潰された空間に、そいつはフワフワと浮かんでいる。絶世の、が付くくらい整った中性的な顔立ち。アラビア風の衣装を纏う子供が真っ青な目を細め、口に煙管を咥えてこちらを見据えている。もうすでに寝て、夢の中にいるはずの自分にだ。
「うん、その認識で合ってるよ。ここは夢の中だ」
思考を読まれたようで、ギクリと体が強張る。
「そう驚かないでよ。ちょっと君の意識化に介入しているだけさ。僕らはこんな風に夢を渡って、君たちに声をかける存在なんだ」
本当に心を読んでいるのか、子供は煙を吐きながら笑い声を上げた。左頬、浅黒い肌の上に描かれた奇妙な刺青が歪み、不気味さを醸し出す。
だがその気味悪さに竦んでいる場合ではない。勇気を振り絞り、尋ねることにした。
「お前、誰だよ?」
「おやおやぁ? 目上に対して口の聞き方がなってねぇなぁ、君ー」
嘲りと呆れをない交ぜにした口振りで、子供は肩を竦める。
あまりの上から目線にムッとしたが、こちらが口を挟む前に子供が続けた。
「まぁ初対面だし、自己紹介してあげようか。初めまして、榎本浩介君。僕はナルア。ナルア・ヤークート・アスファルっていうんだ。日本やアメリカなんかを行き来してる暇人だけど……『神』と呼ばれ、崇められたりもするよ」
「……神、様?」
名前を言い当てられたことよりも先に、その単語に驚愕する。
「うん。神様」
あっけらかんとした調子で子供は、ナルアは頷いた。
神様……あまり現実では聞かない言葉だ。それに、外見的にあまり神様という感じでもない。
すると口先で刻み煙草を燃やしながら、ナルアは頷く。
「まぁ、確かに君の言うとおりだね。本来は君らが呼ぶような神じゃないんだけど、普通の生命体かと聞かれればそうでもない……。とりあえず、不可思議な力を持つ異形とでも思って貰えれば十分だよ。人間は、そういった存在を『神』と呼んでいるみたいだからね」
「俺の心を読むなよ……」
「君が分かりやすいだけだって。で、今回僕がどうして君の夢に介入したのかを答えようか」
ニッと、人を食ったような含みのある笑みが張り付く。常闇の中に浮かび上がるような色彩をした、神と名乗る人外は首に吊ったグロテスクな小箱を撫でながら浩介に告げる。
「君、今の平凡な人生がクソつまんねーんだろ? 今巷で流行ってる娯楽小説みたいな、愉快痛快で刺激的な人生送りたいんだろ?」
「……!! そう、だけど」
心の内の見事に当てられ、心臓を握られたような心地がした。
だが、目の前の子供の言うとおりだ。特別不遇なわけではなく、優遇もされていない、並程度の人生。周囲の街並みに溶け込んでしまうほどに存在感が薄い、空虚でつまらない毎日。
それから逃げ出したかった。
何度も小説や漫画を読んで思った。――――『この主人公みたいな生き方が出来たら』と。
幻想的なファンタジー世界に行って、仲間を作って冒険してみたい。出来れば優遇されたい。最初は不遇でも良いが、下克上してトップに立ちたい。最近需要のある、チートやハーレムを経験してみたい。胸糞悪い悪人を倒して、感謝とかされてみたい。とにかく、良い思いをしたい。
そう思っていると、唐突に笑い声が響いた。
笑い声の主は、目の前で浮かんでいる刺青の子供だ。腹を抱えて大爆笑し、空中でクルクル回転している。
「お前……!!」
「はっはぁ、ごめんごめん……けど、いいねいいねぇ! 存外欲望に忠実じゃない? 良い子ちゃん気取りのクソガキどもよか、好ましい反応だよ」
そんな君に朗報、と神は煙管を振る。
「僕が夢渡りをしてまでやって来たのは簡単な話。君の魂と肉体を、こことは違う世界に送ってあげようと思ってさっ。君らの言葉でいうと、『異世界トリップ』って奴になるかな」
「えっ……!?」
「もちろん、ちょっとした能力も付けてあげる! 全知全能じゃないから完全完璧なもんじゃないけど、ある程度までならチートなのをプレゼントするよ。ただし、副作用もあるから使いすぎには気をつけてね?」
語尾にハートマークか音符がつきそうな、そんな軽い調子だった。目の前にいる人外は、気楽に人一人を異世界に送れるほど桁違いの存在らしい。
カルチャーショックを覚えていると、奴は首を傾げた。口先で煙草を消費しながら、底の見えない暗い瞳が覗き込んでくる。
「あれ? なんか行きたそうだからチャンスあげたんだけど、いらない?」
「っ……いや、行きたい!! けど、どんな世界なんだ?」
「んー。僕が何回か送った世界は、君たちに馴染みのあるファンタジーだね。ちょっとした重火器はあるけど、基本的に剣と魔法が主流のところかな。メジャーなドラゴンとかいるぜ?」
「何回か……?」
「うん。この話は何も君限定じゃない」
と前置きをして、キセルを咥えた唇をシニカルに歪める。
「ほら……いるだろ? 現実じゃ何の取り得も無いヒキニートが異世界で無双して、ハーレム最強ウハウハしてんの。同じことしたいと思ってる奴らにこうして声をかけてんだよ。生死問わずね」
最初の方で分かっていたが、この神様、相当の毒舌家らしい。その予備軍になるかもしれない浩介へ、歯に衣どころか猛毒を塗りつけた言葉の刃が容赦なく突き刺さる。
「おいおーい。痛がってるのは良いけど、他に質問は? あるなら今の内に頼むぜ? 後で答えんの面倒くさいから」
「…………っそいつらにも、チート能力やったのか?」
「勿論。出来るだけ要望に沿ったのをプレゼントしてるよ。病気や事故で死んだ奴には、新しい肉体も与えてるかな」
「チートの対価とか、ある?」
「さっきも言ったけど、能力を使うと副作用が出るよ。それ以外はないかな」
「…………」
大きな代償もなくチート能力をもらった状態で、異世界に送ってもらえる。かなり……魅力的な話だ。
だが、気になることがあった。
「帰りたい、って思った時はどうなんだ?」
「え?」
浩介がぽつりと発した一言に、ナルアは目を瞬かせる。
異世界、なんて今まで何の関与もしなかった世界に一人で行くのだ。途中でホームシックを起こすことが予想できた。その時、ちゃんと元の世界に戻れるのか、と不安になったのだ。
そんな浩介の言葉に、刺青の子供は一瞬だけ、動揺を見せた。まさかそんなことを言うとは思っていなかった、と思考の読めない人外の戸惑いが、その時はありありと伝わってきた。
が、奴はすぐに微笑を貼り付け直して、答える。
「その世界に一箇所だけ、元の世界に帰る『門』を作ってあるよ。戻りたくなったら、そこに向かって門を潜りな。ただし、自分で門を探すように」
僕は場所を教えてあげないから。オーロラ色に輝く髪を揺らせ、悪戯っぽく釘を刺すナルア。その用意周到さに脱帽する。
「完全完璧じゃないとか言っときながら、お前……万能じゃん」
「そう……? 君らの創作する神々が、無能なだけだと思うぜ?」
首を捻りながら答えるナルアに、確かにと浩介は頷く。
小説に登場するような神様は、とにかくドジで自分勝手な印象が強かった。自身の失態で主人公が死に、それに怒った主人公に詫びる形で第二の人生とチート能力を与える。もしくは世界を救って欲しいだのと言って、主人公に能力を押し付け無理矢理に異世界に送る。……浩介が読んだものでは、大体こんなパターンだ。
目の前のナルアは、それとは違う。傲慢な印象はあるが、小説の神様よりずっと有能な感じがしたし、強引さがない。無理難題を強いず、こちらの質問に答え、受けて側に選択させる。異世界へ送る理由も、こちらがそれを望んでいるから、というものだ。
本物の神様による異世界召喚・転生というのは、こんななのだろうか。
「さて、それじゃもう一度聞くけど……行くかい?」
「あぁ。……えっと、チート能力は」
「あ、別に今決める必要はないから。先に向こうに行ってから、考えても良いんだよ?」
「あ、いいの?」
どこまでも親切仕様なので、呆気に取られる。
「いきなり言われて思いつく人間って、あんまりいないからねー。相談したい時は、蝋燭に火を点けて話しかけてきなよ。気分が良ければ応じるから」
スパスパ煙を吸っていた人外は、唐突に「あぁ、その前に」と思い出したように呟くと、キャラメル色の指先を指揮棒のように振る。
刹那、浩介の胸元にチリッと小さな痛みが走った。
「痛ぅっ……何だ?」
シャツを捲って確認すると胸元、鎖骨の下くらいの位置に痣みたいなものが出来ていた。痣は、子供の左頬に彫られたものと同じ奇妙な幾何学系だ。
「あっちに行った後、把握しやすいように僕の紋章をつけさせてもらうよ。これには特別な力とか副作用とかないから、安心しな」
そう付け加えた後、ナルアはブツブツと何かを口ずさむ。漆黒の舌を躍らせながら発するそれは、ファンタジーにある魔法の呪文っぽいが、何を言っているのか、どこの言葉なのかさっぱりだ。
だが呪文が進むごとに、ざわりと、何かが起きているのが分かった。夢の中であっても、世界が変わっていくのを肌で、目で、耳で、ひしひしと感じる。浩介の体が、ここではない何処かに送られていく。そんな感覚がある。
脳内がぼやけながらも、ナルアの方を向く。
微笑を絶やさない性分なのか、黒人風の子供は夜の水面みたいな目を細め、笑みを浮かべたままだ。
「そんじゃ、異世界を楽しんで来てね」
――――僕も愉しませてもらうから。
可憐な声に陰湿さが混じった呟きが聞こえた。
「え……? ど――――」
どういう意味だよ、と尋ねる前に、浩介の意識は飛んだ。