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第3話 過去~浩一の場合

 そして清人が急須と湯飲み茶碗をセットにして戻り、自分の目の前で茶碗に急須の中身を注ぐのを見て、真澄は無意識に眉を顰めた。

「どうして緑茶でも紅茶でもなく、番茶なのか聞いても良い?」

「真澄ががぶ飲みしても、あまりカフェイン摂取しない様にだ」

「……お気遣い、どうもありがとう」

(何? そんなに私が怒る事確実な上、言いにくい話なわけ?)

 釈然としないまま差し出された茶碗を手に取り、横で同様に茶碗を手にしたまま黙りこくっている夫を横目で見ながら、真澄はゆっくりと時間をかけて茶碗の中身を飲み干した。しかしそれでも清人が無言のままの為、流石にイラッとしてきた真澄が催促しようとすると、その気配を察したのか、清人は手つかずの茶碗の中を見下ろしながら唐突に口を開いた。


「浩一が眼鏡をかけ始めたのがいつからか、真澄は覚えているか?」

「え? いつからって……」

 これまでの話とは脈絡の無さそうな質問に真澄は本気で戸惑ったが、清人が真剣な顔で自分を見つめてきたのを受けて、真澄も顔付きを改めて考え込んだ。

「確か、浩一が入学する時はしていなかったわよね? でも私の卒業式の時にはかけていたと思うし……」

 そこで記憶を探った真澄は、すぐに該当する時期を思い出す。

「そう言えば……、私が大学四年の夏のバカンス会、私の学生時代最後のバカンス会だからって皆で洞爺湖付近でキャンプに出掛けて大騒ぎした時、浩一が皆から『いつ眼鏡をかけるようになったのか』と追及されていた気がするわ。だから……、浩一が大学一年の年度末から二年の夏の時期にかけてかしら?」

「正解。もっと正確に言えば、二年の六月からだ」

「そうなの。でも、それがどうかしたの?」

 その素朴な真澄の疑問に、清人は苦々しい顔つきで吐き捨てるように話し出した。


「あいつは眼が悪くなって眼鏡をかけ始めたんじゃない。精神のバランスが取れなくなって、かけ始めたんだ」

「……何よ、それ?」

 一気に穏やかでなくなった内容と清人の表情に、真澄はそれでも平静を装いながら尋ねると、真澄が不穏な物を感じ始めたのが分かった清人は、なるべく穏当な話し方を心掛けながら説明を続けた。

「二年に進級して色々落ち着いた頃、複数の大学との合同コンパの話が舞い込んだんだ。俺と浩一が共に結構親しくしてる奴の、彼女から伝わった話だったんだが」

「それに出たの?」

「ああ。普段はその手の類にはあまり参加していなかったんだが、話を持ってきた奴が気のいい奴で、どうも話を聞いているとその『彼女』って女に良い様に転がされている感じがしたんだ。それで浩一が心配して『ちょっと実際の様子を見てみないか?』と言い出して……」

 そこで当時を思い出したのか清人が思わず溜め息を吐き出すと、真澄は小さく苦笑した。


「浩一らしいわね。その人、清人達と結構仲の良い友達だったのね? 浩一は人当たりは良いけど面には出さないだけで、人の好き嫌いは結構はっきりしてるから」

「そうなんだ。そいつとは今でも友人付き合いをしてる。そいつには殆ど責任は無いし、悪意が無かったのは分かっているから、何も知らせてないしな」

「悪意って……。その時、何があったの?」

 瞬時に笑いを抑えて真顔になった真澄から視線を逸らしながら、清人は静かに続けた。


「そいつと俺達を含めて五人出た。結果的には最悪だったな。要はその女は東成大ブランドの恋人が一人は欲しかったわけだ。会場に着いて早々、そいつをほったらかして俺に纏わり付いてたぞ」

「……さっさと出なさいよ」

 思わずボソッと呟くと、清人が弾かれた様に顔を上げて盛大に真澄を怒鳴りつける。

「そのつもりだったさ! しかし結構広い会場で五人バラバラに引き離されたから、他の奴を探すのも一苦労だったんだ! 俺だけ勝手に引き揚げて、あんな胸糞悪い所に他の奴を残して行くのは気が引けるから、声をかけて適当に抜け出す旨の相談をして回っていたら、一時間程していつの間にか浩一が居なくなってるのに気付いたんだ」

「居なかったって……、どういう事?」

 最後は冷静な口調に戻った清人に真澄が訝しげな視線を向けると、清人は小さく歯軋りしてから真澄に告げた。


「それまでには浩一も、俺と一緒に乱闘騒ぎは何度か経験してたし、それなりに腕も立つから学生相手なら安心……、と言うかすっかり油断してた。その時、その店が入っていたビルの別のフロアの一室でやってた、違法ドラッグを使った乱交パーティーに引っ張り込まれてたんだ」

「清人!?」

 顔色を変えた真澄が反射的に右手を伸ばして清人の腕を掴むと、清人は落ち着かせるようにその腕を慎重に剥がしながら話を続ける。

「嫌な予感がしたから、俺に付きまとってた女を何食わぬ顔で会場の外に引っ張り出して、少し素直になりたくなる方法で締め上げたらあっさり吐いた。それでその女に案内させて、その部屋に踏み込んだら……」

「何だったの?」

 そこで口ごもった清人の表情を見て、真澄は嫌な予感を覚えつつも先を促すと、清人は感情の籠らない声で答えた。


「浩一と女が全裸で絡んでる撮影会の真っ最中だった、と言えば、どんな状態だったか想像がつくか? 正直、あまり詳細は口にしたくない」

「…………っ!?」

 驚きのあまり手で口を押さえ、蒼白な顔で固まった真澄から目を逸らした清人は、まるで独り言の様に続けた。

「恐らくコンパの会場で既に何か薬を盛られてたな。でなきゃあいつが女相手に不覚を取って、引きずり込まれる筈が無い。後から確認したら、そこら辺から浩一の記憶が曖昧だったしな。それに浩一の身元も分かってただろうから、柏木家だったら取りはぐれが無いと思って、後から脅迫のネタにするつもりで動画を撮ってやがったんだろう。入った瞬間それが分かったから、そこに男女合わせて七・八人居たが、問答無用で一人も逃がさず残らず殴り倒した。ついでにその場にあった得体の知れない薬を全員平等に飲ませてやったから、死人は出なかったらしいが、あの後何人か廃人になったかもしれん」

 そう冷たく言い放ち、酷薄そうな笑みを浮かべた清人に、真澄は正直恐怖感さえ覚えたが、勇気を振り絞って話の続きを促した。


「それ、で……?」

 蒼白な顔で尋ねてきた妻をチラリと横目で見てから、清人は膝の上で組んだ両手を見下ろしながら淡々と状況説明を続けた。

「次にしたのはお義父さんへの報告だ。事情を説明した上で、絶対に患者の情報が漏れない病院を大至急手配して貰ってから、次に俺と浩一が所属してるサークルのOBに連絡して協力を要請した」

「どうして大学のOBに? 警察に通報しなかったの?」

「あんな馬鹿どもの為に、浩一の経歴や柏木の名前に傷を付けられるか!!」

「清人……」

 今度こそ激昂して目の前のコーヒーテーブルを拳で叩きながら絶叫した清人に、真澄は全身を強張らせた。そして真澄を本気で怯えさせてしまったと認識した清人は、深呼吸して何とか気持ちを落ち着かせてから、再び口を開く。


「当時俺達が所属していた武道愛好会のメンバーは、揃いも揃って一癖も二癖もある人物ばかりで、その分、咄嗟の判断力と行動力は桁外れの人間ばかりだったんだ。それに加えて気性の良い浩一は皆に揃って弄られてて……、要するに上から俺以上に可愛がられてたからな。それで思わずその愛好会の創設者で、リーダー格の白鳥先輩に相談を持ちかけたんだが、それが結果的に上手くいった」

「何がどう上手くいったの?」

「偶々、医学部の六年に在学中の葛西先輩が、浩一と『兄弟は無理だが従兄弟程度には顔つきや雰囲気が似てるよな』と言われてたんだ。体格もちょうど同じ位で。その人が白鳥先輩から指示を受けて電話してから二十分で駆け付けてきて、部屋に飛び込んで来たと思ったら素早く脱がされてた浩一の服を着込んで、髪型も浩一と同じにして俺を引きずってコンパ会場に戻った」

「どうしてそんな事を?」

「俺も『浩一を運び出さないと』と抵抗したら『狼狽えるな! 柏木は他の奴らが運び出す。お前は俺と一緒にあいつのアリバイ作りだ! どうせ店内の照明はそれほど明るく無いだろう。俺を柏木として三十分は会場内を引っ張り回せ!』ってどやされてな。またこっそり会場に潜り込んで、一緒に居た友人達に不審がられない程度に何とか避けつつ、最後まで浩一と組んで回るふりをした。本当に……、浩一と何度も顔を合わせてたから、話しぶりとかを真似る事は容易かったかもしれないが、俺達の友人を目の前にしても浩一になりきってあんなに平然と会話するとは、あの時の葛西先輩の神経の太さには脱帽した。幾ら別れ際に、外で暗めの場所で会話したとはいえ……」

「アリバイ作りってどういう事?」

 まだ話の筋が読めなかった真澄が、動揺しながらも問いを発すると、清人はどこか疲れた様に詳細を説明した。


「俺達が会場を回っている間に、他の先輩達が前後して何人も例の部屋にやって来て、何処からか調達した台車に乗せて持ってきた清掃用具入れに、下着姿の浩一を入れて外に連れ出したんだ。それで各階やエレベーター内の監視カメラには、前後不覚状態の浩一の姿は残らなかった。残った人は室内や連中の身体を探ってビデオカメラや携帯の録画できるタイプの機器を全て回収、破壊して搬出。室内を軽く清掃して極力浩一や自分達が居た痕跡を消去。それから更に時間を置いて、俺達がコンパを終えて周囲に挨拶して立ち去った後に、連中を素っ裸にして着ていた服に火をつけた上で、警察に違法ドラッグで乱交パーティーをやっていると部屋の場所を警察に通報した」

「ちょっと待って! その間、その人達、清人に叩きのめされて意識を失ってたんでしょう? 火をつけたって、まさか焼け死んだりとかはしなかったでしょうね?」

 そこで慌てて口を挟んだ真澄に、清人ははっきりと不快な表情を見せた。

「……真澄、あんな連中を庇う気か?」

「そんなわけ無いでしょう!? 清人やその人達が罪に問われる事になるんじゃないの!?」

「安心しろ。ちゃんとスプリンクラーが作動する様に、火災報知器のほぼ真下で燃やしたそうだ」

「それなら良いんだけど……」

 何とも言い難い顔で真澄が軽く頷くのを見てから、清人は平然と話を続けた。


「それで意識不明の状態で警察に纏めてしょっぴかれた連中、意識が戻ってから俺からの暴行行為と浩一への薬物投与を吐いたんだが、俺と『浩一』が普通にコンパで愛想振り撒いてたのを、複数の大学の女子大生が何人も証言してくれたし、浩一に関する供述からするとその直後に平然と会場に戻れる筈も無いからな。現に俺が無理やり薬を飲ませた連中、丸一日はおかしかったらしくて、その後に事情聴取だったそうだし」

「…………」

 何とも言えず真澄は黙って話を聞いていたが、ここで清人はうっすらと笑いながら述べた。

「それで三日後、わざわざ大学に話を聞きに来た刑事に『彼女達の言う通りです。誰ですか、そんな与太話を吹聴している馬鹿は。名誉毀損で訴えますよ?』と俺と葛西先輩で笑って言ってやったら、すごすごと引き上げて行きやがった」

「え? どうしてその葛西さんって人が話を聞かれたの? 入れ替わりがばれたんじゃないの?」

 話の意味を捉え損ねた真澄が、本気で眉を顰めつつ問い質すと、清人は淡々と説明を続けた。


「その時、浩一は病院に二週間近く居る羽目になったからな。葛西先輩には急病って事にして大学を休んで貰って、そのまま浩一の身代わりをして貰ったんだ。急に浩一が姿を消したら疑われるだろうと、白鳥先輩の指示でな」

「でも、浩一が入院した事なんて、これまで一度も無かった筈……」

 真澄が怪訝に思って呟くと、清人が付け加える。

「その事実を知ってるのは、お前の家族ではお義父さんだけだ。お前も含めて『サークルの先輩のマンションに泊まり込んでの、突発的な合宿に参加する』と言う事にして、玲二に翌朝早くに当面の浩一の着替えと、教科書等をその先輩のマンションに持って来て貰った。玲二は不審そうな顔をしてたが、俺が何とか丸め込んだんだ。そして葛西先輩に浩一の服を来て大学に通って貰った」

「合宿……、確かにあったわね。そんな事が」

「その時、微妙に印象が変わってもそれを誤魔化す為に葛西先輩に眼鏡をかけて貰って、身長が俺より若干低い位だったから、俺と並んだ時に違和感が無い様に浩一の背丈に合わせて五センチ位のシークレットブーツを履いて貰ったが、何とか最後まで周囲を誤魔化せた」

 真顔でそんな説明を受けた真澄は、心底呆れかえった表情を見せた。


「だから眼鏡をかけ始めて、ほとぼりが冷めた後もそのままなの? ……私だったら無理よ、そんな入れ替わりなんて。随分神経の太い人なのね、その葛西さんって人」

「俺もあの人には負けると思う。幾らサークル内で浩一の話し方や立ち居振る舞いを良く知っていたからって、あそこまでなりきるとはな。役者になっても成功したぞ」

「そう言えば医学部って言ってたわね……。それで、どうして浩一はそんなに退院できなかったの? 違法ドラッグとか言ってたけど、何か酷い後遺症でも出たわけ?」

 心配そうに真澄が話題を変えた瞬間、僅かに清人の顔が強張った。しかしすぐに平静を装いながら真澄の質問に答える。


「入院した当初は幻覚、幻聴、頭痛、嘔吐、痙攣等だったが……、それが治まってから、より深刻な症状が出た」

「何? でも深刻な症状って言っても、今は別に平気なんでしょう? 普通に生活してるし、人並み以上に仕事もしてるもの」

「……身体的な問題じゃなくて、精神面でな」

「清人?」

 何故か急に声を潜めた清人に、真澄は小首を傾げた。そんな真澄から視線を逸らして床を見下ろしながら、清人は言葉を継いだ。


「女性の医師や看護師の、診察や処置を一切拒否した」

「え?」

「その前に病室で錯乱して、女性スタッフ相手に乱闘騒ぎになってな。お義父さんが当事者に金を払って口止めしたが」

「……ちょっと待って、清人。それって」

 そこまで聞いて察しがついた真澄は、蒼白な顔になりながらも反射的に両手で清人の腕を掴み、半ば強引に自分の方に体を向けさせた。それで諦めたように清人は真澄の顔を正面から見ながら、決定的な一言を放つ。

「行為の最中、中途半端に意識が有ったのがまずかったんだろうな。簡単に言えば女性に対する極端な嫌悪症と拒否反応、それに付随する性交不能症」

「……冗談、でしょう?」

 呆然としながら、半ば震える声で真澄は清人に問いかけたが、清人は小さく首を振って否定した。そして殊更言いにくそうに話を続ける。


「取り敢えず治療スタッフを全員男性にして、表面上は落ち着いたから、精神安定剤の類を服用しながら自宅療養しつつ経過観察って事になったんだ。そしてほぼ二週間ぶりに自宅に帰ったんだが……」

「どうしたの、清人?」

 急に不自然に言葉を途切れさせた清人を真澄が不審そうに見やると、清人は小さく息を吐き出してからある事を口にした。

「帰った早々、真澄、お前が絡んだらしいな」

「私? 絡んだって、一体何の事……」

 そう言いつつも当時の事を思い返してみた真澄は、すぐに該当する事に思い至って顔色を変えた。


「合宿……。思い出したわ。ええ、確かに急に外泊したと思ったらそれから梨の礫の挙句、ひょっこり帰ってきて挨拶もそこそこに自室に引き上げようとするから、ムカついて廊下で引き止めたのよ……」

「真澄」

 手を清人の腕から離し、自分の膝の上で強く握りしめながら真澄が呻くように言い出すと、清人はその手を軽く上から押さえながら気遣わしげに声をかける。しかし真澄は弾かれた様に顔を上げ、清人に興奮気味に訴えた。


「だって! 電話一本でいきなり何日も続けて外泊なんて、絶対私には許して貰えないもの! しかも自分で連絡すらしないで、清人が電話してくるなんて! 『男の子同士仲が良いわね』ってお母様は笑ってたけど、浩一が私を除け者にして、清人を独り占めしてるって思ったら悔しくて!」

「真澄、少し落ち着け」

「それで、私に目も合わせないで仏頂面で引き上げようとするから、『自分勝手な振る舞いは止めなさい』とか『この家の長男の自覚は有るの?』とか文句を並べながら腕を掴んで引き寄せようとしたら……。力一杯廊下の壁に突き飛ばされて、『俺に触るな!』って凄い剣幕で怒鳴られてっ……」

「もういい、これ以上喋るな」

 とうとう我慢できずに泣き出してしまった真澄の身体を引き寄せた清人は、軽くその背中を叩いきながら宥めた。その間も清人の肩に頭を乗せた真澄が、告白を続ける。


「あんなに険しい顔の浩一を見たのは、後にも先にもその時一度きりで……。驚いている間に浩一が部屋に入って。だって、その時、浩一がどういう心境だったかなんて、私、全然知らなくて」

「ああ、分かってる。浩一もそれは良く分かってるから。だからその直後、俺に電話してきた」

「電話って……、何て?」

 清人の肩から顔を上げないまま真澄が尋ねると、清人は静かに告げた。

「『もう少しで姉さんを殴り倒すところだった。姉さんを傷付けたり心配をかけさせるのは死んでもごめんだから、どこが知り合いが一人も居ない所に行って、ひっそり暮らす事にする』って大泣きしながら。あいつ、お前の事が大好きだからな」

「…………っう」

 これ以上声を発したら大泣きするのは分かりきっていた為、清人をこれ以上困らせたくなかった真澄は、何とか声を出すのを堪えた。すると清人が微妙に話題を変えてくる。


「変に思い詰めて自殺されても困るし、取り敢えずその日は話を聞くだけ聞いて何とか落ち着かせて、次の日に浩一を呼び出してそこに清香を連れて出向いたんだ。その日に俺も家に帰ったから、親父と香澄さんには随分不審がられたがな」

「清香、ちゃん? どうして?」

「今思えば、浩一のあんな状態を目の当たりにして、俺も普通の精神状態じゃなかったんだな。成人女性が無理なら子供はどうか試してやろうって事でな。それで浩一が幼女趣味に走ったら、それはそれでかなり問題だったんだが」

 それを聞いた真澄は無言で頭を上げ、手で涙を拭ってから真顔で清人に問いかけた。


「……ひょっとして、今、笑うところだったの?」

 困惑を露わにしたその表情に、清人は些か気まずそうに真澄から視線を逸らした。

「いや……、別に笑わなくてもいい。それだけ俺も当時、切羽詰まってたって事だけ分かって貰えれば。それで駅で浩一と合流して遊びに出掛けようとしたら、清香が不思議そうに浩一を見上げて『どうして手を繋がないの?』と言ったんだ」

 それを聞いた真澄は、納得して頷く。

「そうね、清香ちゃんにしてみれば不思議だったでしょうね。皆で集まると誰が清香ちゃんと手を繋ぐかで毎回揉めてて、浩一も例に漏れず皆と張り合ってたし」

「やっぱり浩一は、清香でも触れるのはきつかったらしくてな。『ごめんね、清香ちゃん。俺、ちょっと今手を繋げないんだ』と泣きそうな笑顔で説明したんだ。そうしたら清香の奴、勘違いして……」

 そこで額を押さえて深い溜め息を吐いた清人を見て、真澄は怪訝そうに尋ねた。


「どうしたの?」

「それが……、『うん、分かった。手が痛くて握れないのね? じゃあ清香が掴んであげる!』って、満面の笑みで浩一の右手を両手でがっちり握り込みやがったんだ」

「え? まさか浩一が反射的に、子供の清香ちゃんを殴ったなんて事は無かったでしょうね!?」

 瞬時に顔色を変えた真澄を落ち着かせるように、清人は事の次第を説明した。

「握られた瞬間真っ青になって、浩一は反射的に左手を清香の肩にかけて、右手を強引に引き抜きざま殴る体勢になった。もう俺も反射的に『浩一! 清香に傷を付けたらボコるぞ!!』と叫んだら不自然に固まってバランスを崩した挙げ句、腕を引っ張られて前のめりになった清香を抱き止める形で仰向けに倒れ込んだんだ」

「……それで、どうなったの?」

 そこで再び溜め息を吐いた清人に、真澄が恐る恐るといった感じでその結末を尋ねると、清人は苦笑いの表情でそれを告げた。


「浩一の上になった清香が、馬乗り状態のまま驚いた顔で浩一の顔をペチペチ叩いて、『浩一お兄ちゃん、どうしたの? 大丈夫?』って声をかけた。もうフォローのしようも無くて生きた心地がしないまま黙って見てたら、浩一が手を伸ばして清香の頭を撫でながら『ああ、やっぱり清香ちゃんには、嫌われたくないな』って泣き笑いの表情で言って、何事も無かったかの様に立ち上がった。それから一日中、顔色が相当悪かったがずっと清香と手を繋いで過ごしたんだ」

「平気だったの?」

「もう本当にギリギリで踏みとどまっている感じで、見ているこっちは終始冷や汗ものだったがな。その時の事もあってあいつは清香に恩義を感じてて、あれからそれまで以上に清香を可愛がる様になったんだ」

「そうだったの……」

 これまで知らなかった弟と従妹の交流を知った真澄は、清香に感謝しつつ泣きそうになるのを再び必死に堪えた。そんな中、清人の説明が続く。


「それで多少の自信は付いたみたいで、翌日から先輩と入れ替わって大学に戻ったんだが、すり替わりの日がどちらも土日を挟んでた事もあって、周囲に怪しまれずに済んだ。そして浩一の精神安定の為に、眼鏡もそのままかける事にしたんだ」

「どういう意味?」

「一年のうちに、五月蝿くアプローチしてくる女どもの一掃の為に、俺と浩一が恋人同士って言うしょうもない噂を流したんだが、それにもかかわらず二年になってもしつこく秋波を送ってくる雌犬がポロポロ居てな。浩一は当初そんな視線を意識するだけで吐き気すら覚えてたから、眼鏡のレンズで意図的に視界に制限をかけて、視線が遮断されてるって自己暗示をかけたんだ。だから今でも伊達眼鏡のあれを外していない」

 それを聞いて、真澄は再び心配顔になった。


「じゃあ今でも女性と接する事は苦痛なの?」

「いや、普通に接する分には大丈夫だ。職場でも取引先でも、女性に普通に対応しているだろう?」

「それはそうね」

 仕事中の浩一の姿を思い浮かべつつ真澄は素直に頷いたが、ここで清人は苦々しい顔つきになった。

「ただ……、あの一件以来、女性を見る目が厳しくなってな。仕事に徹して恋愛感情なんて挟まない女性に対しては友好的な態度を示すが、自分に媚びを売ってくる女性は精神的に切り捨ててる。傍目には分からない様にしてるが」

「そうなの?」

「ああ。あれ以降、それまで以上に女性に対して丁重な態度を取る様になったのは、その裏返しだ。嫌悪してるのがバレない様にな」

「あの……、それじゃあ、その他の事は……」

 控え目に真澄が言葉を濁しながら尋ねると、清人は益々顔を顰めながら問い返した。


「周囲から色々言われても、お義父さんが浩一にこれまで見合いの一つもさせなかったのはどうしてだと思う?」

「それじゃあ……」

「正直なところ、俺にも分からん。男同士でも気軽に踏み込んで良い所とそうでない所があるだろう。主治医も信頼は置ける分、口は固いしな」

「……そう」

 そこで黙り込んでしまった真澄を見ながら、清人はつい愚痴を零した。


「あれから、だいぶ落ち着いた頃を見計らって、浩一にあれこれ女性を見繕って近付けさせてみたんだが、相手が浩一に好意を持った途端アウトでな。ほとほと困ってたんだ。そうして六年も過ぎて、自分から惚れた女ができたと思ったら『あれ』だろう? その時の俺の絶望的な気持ちが分かるか?」

 その状況の清人の心境を推し量った真澄は、盛大な溜め息を吐いた。

「……分かり過ぎる位分かるわ。どう考えてもお父様やお祖父様が結婚相手に認める筈はないし、今でも怪しいなら当時結婚しても、普通に夫婦生活が営めるかどうか分からないし。何より相手がどう考えるか分からないもの」

「お前でもそう思うだろう? おまけに知り合いに同伴して貰って店に出向いて件の女を実際に見てみたら、頭は切れるみたいで会話にそつは無かったが、綺麗に笑っていながら目が全然笑って無い人形みたいな薄気味悪い女で。こんなのに浩一を任せられるかと、憤慨して帰って来たんだ」

「薄気味悪いって……、清人」

 流石に真澄は顔を顰めて窘めたが、清人は憮然として続けた。


「それが初対面での本当の印象だったんだから仕方ないだろう。そして浩一に色々彼女の欠点をあげつらった後に最後にそう言ったら、『それは分かってる。彼女は笑ってるんじゃなくて、笑ってみせているだけだ。だから本当に笑ったら、きっともっと素敵だと思う』と真顔でぬかしやがった。それで、もうこいつには何を言っても駄目だと、完全に諦めたんだ」

 そう言って深い溜め息を吐いた清人の左手の上に、真澄は自分の右手を重ねながら囁く。

「全然知らなかったわ。浩一の我が儘で、清人には随分苦労かけたみたいね」

「ああ、全くだ」

「だから……、結婚してすぐに子供を作ろうって言い出したの?」

 真澄が静かに問い掛けてきた、一見脈絡のなさそうな内容を、清人は床を見下ろしながら軽く笑って否定した。


「もともと真澄との子供だったらすぐにでも欲しかったし、初産で真澄に高齢出産をさせたくなかったからだが?」

 うそぶく様な口調で清人がそう述べると、真澄は重ねていた清人の手を軽く握り締めながら、幾分低めの声で問い掛ける。

「……少しは、気が楽になってるかしら?」

「さあ、どうかな?」

 主語を抜かしても十分伝わった内容に、清人は曖昧に言葉を濁してから顔付きを改め、居住まいを正してから真澄に申し出た。


「それで真澄。今回洗いざらい事情を説明したのは、さっきも言ったがお前に全面的に協力して欲しいからだ。色々あってあの二人の事はこれまで殆ど放置状態だったが、いい加減傍観してるのも飽き飽きしたから、この際強制手段を取ろうと思う。早速今日から始めるつもりだ」

「協力って……、それは構わないけど、強制手段ってどんな事? お願いだから、あまり無茶な事はしないで頂戴」

 今までの話の内容が内容だけに、どんな無茶な事を言い出すのかと真澄は内心戦々恐々としながら尋ねたが、清人はいつも通りのどこか面白がっている風情の笑みを浮かべながら話を続けた。


「大丈夫だ、安心しろ真澄。ここは先達のやり方を倣う事にする」

 それを聞いた真澄が、不思議そうに首を捻る。

「先達って……、誰の?」

「お義父さんだ」

「お父様? どういう事?」

「熱海」

「…………」

 端的に清人が口にした地名に、心当たりのある真澄の顔が僅かに引き攣る。その反応見た清人は半ば苦笑いしながら、自分の頭の中に思い描いていた計画のあらましを真澄に語って聞かせたのだった。


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