1. 俯いた同居人
「起きろ、この寝坊助」
いつからか、マリスは机に突っ伏して寝てしまっていたようだった。
耳元で聞き慣れた少女の声がしたかと思えば、テーブルに垂れたマリスの長い髪の毛が無遠慮に引っ張られた。
「いたっ」
実に親切心の欠片もない起こし方である。
痛みで多少覚醒したとはいえ、まだ寝ている状態と大差ない意識を働かせて少しでも文句を言ってやろうかと思ったが、見上げた先に彼女のふくれっ面があったのでやめておく。
この程度の怒り顔であればまだ愛らしいのだが、この状態から更にもう一段階怒りを積もらせてしまえば、一度見ただけで数日は脳裏にこびり付くほどの恐ろしい形相が表れるということを過去の経験から学んでいた。
「まーた机で寝ちゃって。夜更かしするのはまだしも、寝る時はベッドに入ってこいって何度言えば分かるわけ」
「分かってる、分かってる……」
この同居人とマリスが共に住んでいるのは、小さな山の奥にぽつんと佇む小屋。一人で住むには少々広く、二人で住むには少々狭いという絶妙な古小屋ではあるが、二人で暮らし始めてそろそろ一年は経つであろう今ではすっかり慣れたものだ。
ベッドが一つしかなく、就寝時に多少窮屈なのが一番困った点であったが、それも慣れによって解決された。
少々話している内に意識も冴えてきて、シャティがよそ行きの装いをしていることに気がついた。
「今日、山下りるの?」
「うん、絵本も描き溜まってきたし、また子供たちに読んでくる。食料の備蓄ももうすぐ無くなりそうだから、ついでに貰ってくるね」
「ありがと。気をつけなさいね」
シャティはベッドの脇にある台に置いてあった紙の束を抱えて、外に出て行った。
この山を下りた先には小さな村がある。
マリスよりもずっと前から村の人々と交流のあるシャティは、普段は村から離れたこの小屋の中で生活して絵本を描いているが、定期的に山を下りて村まで赴き、そこの子供たちに完成した絵本の数々を読みに行っている。
絵本といっても、複数枚の紙の端に穴を開け、その穴に紐を通して括って束ねたものに絵や文を書き連ねた簡易的なものであるが、その簡易さなんて気にならないほどシャティが描く絵本は素晴らしい。
マリスもそれはもう何度も何度も読んでいるし、シャティと会って間もない頃に初めてそれを見た時の感動は未だに忘れられない。
マリスだけでなく、村の子供たちにはもちろん大人からも好評で、毎日これでもかというほど褒められているらしい。絵本を披露しに村へ下りてから帰ってきた夜はいつも上機嫌で、就寝直前まで鼻歌を歌っている。
その鼻歌に関してはどうやら本人は無意識らしく、「今日も随分好評だったのね?」と遠回しに指摘すると、ハッとしたかと思えば少し頬を染めて、歌うのをやめてしまう。しかし数分後にはまた無意識に鼻歌が再開されているので、そこがなんとも愛らしい。
それにしても、今日は小屋で一人か。そう思い少し退屈さを覚えたマリスは、座っている椅子の背もたれに体重をかけ、そのまま伸びをする。これももう慣れてはいるが、暇なのである。
この小屋に他の人間がやってくることはないので、シャティがいない日は、テーブルの下に置いてある大きな木箱に詰め込まれた彼女の絵本を読み漁るか、寝るかの二択しかない。シャティと一緒に山を下りるということができれば暇をすることもないのだろうが、それはとある事情により不可能だった。
さっき起こされたばかりでまだ眠気は多少残っているが、今はなんだか二度寝に耽る気分ではない。
「また読みましょうか」
テーブルに視線を落とせば、昨日の夜遅くまでじっくり読み込んでいたシャティの絵本が散らばっている。
彼女の絵本は数ページで終わる短いものから、100ページ程もある超大作まで様々だ。私がここに来るよりも前からこの小屋で過ごして絵本を描き続けているシャティは、木箱の中にそれはそれは大量の作品を溜め込んでいる。
読み始めてから1年程度経つ今でも、まだ読み切れていない絵本は山ほどあるのだ。
木箱の蓋を開け、数枚の絵本を取り出す。
「……やっぱり、綺麗」
どれもこれも、彼女の描く絵は綺麗だし、彼女が書く文には不思議な魅力を感じた。
毎度のことだが、これを読んでいると、時間を忘れて没頭してしまう──。
窓の外からカラスの鳴き声が聞こえた。
「──あ」
顔を上げて窓の外を見ると、空がすっかり橙色に染まりきっていた。そういえば、ご飯も何も食べていなかった。また絵本に没頭してしまっていたらしい。
マリスの集中力が異常なのか、シャティの絵本に魅力がありすぎるのか。シャティの絵本以外でこれほど集中力が高まったことはないので、考える間もなく後者であると言える。
「そろそろ帰ってくるわね」
いくら小さい山とはいえ、日が沈みきった中で暗い山道を歩くのは危険なため、シャティが山を下りた日はいつも夕方には帰ってきている。
集中が切れた途端、今まで何も食べていなかった分の空腹感が襲ってきたので、その辺に置いてあった残り少ない木の実を摘んでシャティの帰りを待つことにした。
それから数十分は経ったであろう。黄昏時で、外はもう薄暗い。いつもシャティが帰ってきている時間帯はとうに過ぎていた。
何かあったのだろうか。人気者な彼女のことだから、村の子供たちに帰るのを引き止められるようなことがあっても不思議では無い。
しかし、今までそのようなことは一度もなかった。
ふと、外が気になった。
席を立ち、今朝シャティが出ていった扉の取っ手に手をかける。扉を開けてすぐ、ほんのりと冷たい空気を感じると同時に、窓からだと死角になって見えていなかったあるものが目に入る。
この小屋の周囲は平地になっている。何か植えようと思えば植えられるし、置こうと思えば置くことができるが、手入れが面倒なので特に何もしておらず、ただただがらんとしている。
その中に唯一あるものは、シャティがこの小屋に住み始める前からあったという、山を下りる道の手前に設置された木造の二人がけの簡素なベンチだ。
そこに、マリスが今まで帰りを待っていた彼女が俯いて座っていた。
「帰って来てるじゃない。そこにいないで声ぐらいかけなさいよ」
小屋の中で帰りが遅いことを心配していた少女がすぐ近くにいたと知り、少々拍子抜けした気分だった。
しかし、マリスが声をかけても、彼女は俯いているだけで、何の反応も示さない。いつもは上機嫌で帰ってきているというのに、何があったのだろうか。珍しく絵本が不評を買ったのであろうか。
それだけはありえないと思うけれど。
とりあえずいつもの調子ではないということだけは分かるので、どう事情を聞き出して元気づけてやろうかと考えながら、俯いた同居人の目の前まで足を進めた。
目の前まで来て、彼女の足元に村から貰ってきたであろう食料の入った紙袋が置かれていること、そして、彼女の膝の上に見知らぬ本が乗っていることに気がついた。
「なに、これ?」
彼女が作っているような簡易的な絵本ではなく、街の書店で並んでいるような普通の本だ。
表紙には特に絵も文字も書かれておらず、ただ赤一色に染められただけの簡素なデザインである。
シャティが何も反応を示さないので、勝手に本を手に取って、開いてみようかと思ったその時。
バタン、と音を立てて彼女が横に倒れた。
「……シャティ?」
ベンチの上に横になったシャティは、何も反応をしない。目を瞑ったまま、まるで寝ているような、いや、もっと言ってしまえば──。
何か嫌なものを感じ取った瞬間、手に力を入れることを忘れ、持っていた本が地面に落ちた。
「ちょっと」
俯いて顔が見えていなかったのでこの瞬間まで気づかなかったが、体が倒れて彼女の顔が見えるようになった今、あることに気がつく。
彼女の目は力なく閉じていて、そして、今までに見たことの無いほど血色の無い顔色になっていた。
あまり状況が理解できなかった。もしくは、理解したくなかったのかもしれない。
ゆっくりと、彼女の頬に触れてみた。とても冷たかった。ゆっくりと、彼女の腹に触れてみた。少しも動いていなかった。
息をしていない。
「待ってよ」
何も考えられず、縋るような気持ちでそう呟いた。
声をかけても、目の前まで来ても、何も反応を示さないのは当然だった。
彼女はもう、息絶えていた。
初投稿で至らぬ点も多々あるかと思いますが、これからマイペースに更新していきます。
アドバイス等ありましたら頂けると大変助かります。
よろしくお願い致します。