トイワホー国における愛情 5章
結婚関係の話は今のヤマガキにとってはタブーなのである。忘れることなんかはできないが、ヤマガキはナズナとの離婚についてできるだけ考えないでおこうとしているのである。
竜田揚げはそうしている内に温まったので、ヤマガキはそれを取りに行って再びテレビの前に戻って来た。その時である。玄関のドアは開く音がした。モミジは家に帰って来た。
「やあ。おかえり。今日はどこまで散歩に行ってきたんだい?」ヤマガキはモミジが部屋に入ってくると呑気な口調で聞いた。ヤマガキの視線はそうしながらもテレビに釘づけになっている。
「おれは盗品の管理のためにコニャック湖の隣の林まで行ってきたよ」モミジは答えた。一瞬はモミジの答えの意味を計りかねたが、ヤマガキは意味がわかると落ち着きをなくした。
それでも、モミジは落ち着いて冷蔵庫の方へと行ってペットボトルに入ったグレープの炭酸を飲んでいるので、ヤマガキは仕方なく大人しくしてモミジが帰ってくるのを待つことにした。
モミジはやがてリビングに帰ってくるとヤマガキの傍に腰を下ろした。モミジの表情はとても険しいものなので、ヤマガキはどういうことなのかと不安に駆られてしまった。
「実は父さんには聞いてほしい話があるんだ」モミジは暗い表情のまま話を切り出した。
「うん。モミジはなんでも話してごらん。さっきは盗品がどうとかって言っていたね?」ヤマガキはテレビのスイッチを切りながら真剣な口調でモミジの話の先を促した。
「うん。実は今のコニャック村では怪盗がものを盗んでいるけど、その怪盗っていうのはおれのことなんだよ。おれはさっき盗品の金魚にエサをやりに行ったら、ヤツデさんとビャクブさんとソテツさんの三人は待ち伏せをしていておれの犯行はバレちゃったんだ」モミジは静かに言った。
「え?それは冗談じゃないよな?ええと、父さんは別に怒ったりしないけど、モミジはどうしてそんなことをしてしまったんだい?理由はもしかして遊び半分かな?」ヤマガキはやさしく聞いた。
モミジはそれを受けると一気に話をした。モミジは学校でのいじめについて包み隠さずに話してその腹いせとして人のものを盗んでいたのだということを明かしたのである。
モミジは話しながらも『これでは学校のいじめっ子と同じようなものだな』と自己嫌悪に陥った。モミジは同時に父のヤマガキに対してこの秘密を明かすことになって多少なりとも自暴自棄になっている。
「父さんはいじめがあったなんて気づかなかったよ。子供は苦しんでいるのにも関わらず、父さんはそれに気づかなかったなんてバカな親だな。ごめんな。でも、父さんはどうするべきだろう?モミジはやっぱり父さんから学校に抗議するのは嫌かな?」ヤマガキは聞いた。ヤマガキは頼りなさげである。
「ああ。そのことなら、問題はないんだよ。ヤツデさんは『愛の伝道師』だから、おれの学校の先生には相談してくれるって言ってくれたんだよ。問題はそれで解決するかどうか、おれにはちょっとわからないけどね。それより、父さんはどうしておれのことを怒らないの?」モミジは聞いた。
「それは父さんだってモミジが悪いことをしたのはわかっているよ。だけど、元々の原因は他に起因しているのなら、まずはそれを改善してからの方がいいと思ったんだよ。父さんの考えは間違っているかもしれないけど、そうか。まず、モミジは警察に行かないといけないな」ヤマガキは思い出したようにして言った。もっとも、できれば、ヤマガキにとってはモミジが警察に捕まるなんて避けたい事態である。それでも、ヤマガキは常識を持ち合わせているので、その葛藤には勝たなければならないと思っている。
「あの、そのことなんだけど、今のところ、ヤツデさんとソテツさんはおれが警察に行かなくてもいいって言ってくれているんだよ。もう一人の被害者のユリちゃんはもちろんなんて言うかはわからないんだけどね。ただ、おれとしてはどっちでもいいかなと思っているんだけど」モミジは言った。
「本当かい?まあ、被害者は許してくれるのならば、モミジはそれでもいいのかな?それじゃあ、こっちの件はユリちゃんの答え次第という訳だ。となると、問題はいじめの方か。モミジは今までつらい想いをしたんだろうね?父さんは本当に悪いことをしたよ。父さんは気づけなくてごめんな」
「いや。父さんは悪くないよ。この話は母さんにもした方がいいかな?」モミジは聞いた。
「うん。父さんはその方がいいと思う。母さんは学校の先生だから、そういうことについては知識もあるだろうからね。他にはなにか父さんにできることはないかな?」ヤマガキはやさしく聞いた。
「今のところは特にないよ。おれは少し部屋で休んでくるよ。父さんは話を聞いてくれてありがとう」モミジはそう言うと立ち上がって二階の自分の部屋に行くために階段を上がって行った。
ヤマガキはそれを見送ると悲しくなってしまった。ヤマガキは同時になにもできない自分を恥じた。それでも、ヤマガキはなにかモミジのためにできることを探そうと決心をした。
しかし、ヤマガキはナズナと離婚することになっているので、やがてはモミジとも別居することになってしまう。そうなると、ヤマガキはモミジのことを助けてあげることの制約ができてしまう訳である。
それでも、ヤマガキはモミジの力になれるのなら、モミジのことは全力で助けになってあげるつもりだが、ここはナズナを信じることも大切だなと思った。ヤマガキは少し冷めてしまった竜田揚げを食べながら『それにしても離婚する相手のことを信じるなんて少し変な話だな』と思った。
モミジと別れたあとの話である。ヤツデとビャクブとソテツの三人はバード・ウォッチングを終了として言葉数も少なくそのまま自転車で帰路に就くことにした。ヤツデはその際にはもちろんハム次郎を自転車の籠に入れた。ビャクブとソテツはそれぞれ洋服と金魚を持ち帰ることにした。
行きは浮き浮きしていたが、ヤツデとビャクブとソテツの三人の帰りは少し暗い雰囲気になってしまった。皆は当然のことながらモミジの境遇について同情しているのである。それでも、ビャクブはこれからのモミジは学校でいじめられることはなくなるだろうから、前途は洋々であることを持ち出して少しムードは解れた。ソテツはするとそれを皮切りにして明るい話題を持ち出すことにした。ソテツは格好よさそうだから、中学生の頃はソムリエを目指していたとか、実は習字の先生になろうと思ったのは高校生になってからだといったことを話したのである。ビャクブはその話を興味深く聞いていた。
ただし、ヤツデはあまり話には入れなかった。ヤツデの性格は基本的には内向的なので、ヤツデはつらいことがあると一人で塞ぎ込んでしまうのである。それでも、ビャクブとソテツは明るく振る舞っているので、ヤツデは大いに助かっている。去り際にはビャクブだけではなくてソテツもヤツデを気遣って励ましてくれた。ソテツは高が他人のことでそこまで落ち込むなんておかしいとは決して思ったりはしないのである。ソテツはやはりやさしいトイワホー国の国民なのである。
という訳なので、ヤツデとビャクブはソテツと別れてシロガラシの家へ帰って来た。ヤツデはこの頃にはビャクブとソテツのおかげで少しモミジの不運に関するショックから立ち直っていた。
「ヤツデは本当にあれでよかったと思っているのかい?」ビャクブは家に入ると口を開いた。ヤツデは『あれで?』と聞き返した。ヤツデはそうしながらハム次郎を持ってリビングへと入った。
「おれたちはモミジくんを警察に出頭させなかったことだよ」ビャクブは明快に答えた。
「ああ。ぼくはよかったと思うけど、ビャクブはどうなの?」ヤツデは聞いた。
「おれは正直に言ってモミジくんも罪をちゃんと償った方がいいと思ったんだけどな」
「ビャクブはそう思ったのにも関わらず、今まではどうしてぼくにそう言ってくれなかったの?」
「それはヤツデの判断に賭けたかったからだよ。ヤツデはどうしてモミジくんを警察へ連れて行かなかったんだい?モミジくんはかわいそうだから、理由はただ単にそれだけかい?」ビャクブは確認をした。
「ううん。それは違うよ。ぼくは犯罪者が出た場合はその人がいた環境が大いに影響するケースがあると思うんだよ。もしも、そういったケースなら、責任は犯罪者一人だけに全てを負わせるだけじゃ足りないと思うんだよ。それはどんなに数少ないケースだったとしても、犯罪者は犯罪者になる前に周りにいる人が手を差し伸べてあげたり、あるいはブレーキをかける手伝いをしてあげたりすることはできると思うんだよ。ぼくは他の人がどう言おうと他の国がどういう政策を取ろうと取るまいとその責任を皆が感じ取って今度は自分の身の回りだけでもそういうことが起こらないように目を光らせる必要があると思うんだよ。だから、ぼくはただ単に情に流されたんじゃなくてその責任を負ってハム次郎が取られたことも自分への戒めとしようと思ったんだよ。でも、これはしょせんぼく一人だけの持論にすぎないから、ソテツさんとユリちゃんは警察に怪盗の事件を届け出るというのなら、ぼくはそれを止めはしないよ」
「そういうことだったのかい?ヤツデはやっぱりそういう深い考えがあってモミジくんを警察に連れて行かないって言ったんじゃないかとおれは思ったんだよ」ビャクブは言った。ヤツデはすると黒い瞳でまんじりとビャクブのことを見つめた。ビャクブはすると少し動揺してしまった。
「いや。おれは冗談を言っている訳じゃないよ。ヤツデとは長年の付き合いだから、おれにはなんとなくわかったんだよ」ビャクブは気恥ずかしそうである。ヤツデはその気持ちを正面から受け止めた。
「ぼくの気持ちを察してくれてありがとう。ぼくは感謝をするよ」ヤツデは謝意を表した。
「いや。そんなことはいいんだよ。そうだ。それより、ヤツデは今日の昼食を食べていなかったよな?今日はデザートとしてミツバさん特製のカスタード・プリンが出たんだよ。それはまだ冷蔵庫に残っているはずだから、ヤツデは食べさせてもらわないかい?ミツバさんのプリンはすごくおいしいんだよ」ビャクブは重い空気を振り払うかのようにして提案をした。ヤツデは敏感にビャクブの意図を組んだ。
大抵の人はそうかもしれないが、深刻な話題はビャクブも苦手なのである。ヤツデとビャクブは意見が対立しそうになっても最後にはやはりわかり合えるのである。
「うん。それじゃあ、ぼくは頂くよ」ヤツデはそう言うと別の部屋にいるミツバの元へと行ってミツバに対してプリンを頂く旨と感謝の気持ちを伝えた。そのため、ミツバは好意的な返事を返した。
という訳なので、その後のヤツデは冷蔵庫から出したプリンを食卓に乗せて頬張り始めた。ビャクブは向かい側のイスに腰をかけた。ユリはすると間もなくヤツデとビャクブのところへと近づいて来た。
「どう?おばあちゃんのプリンはおいしい?」ユリはヤツデに対して聞いた。
「うん。プリンはとってもおいしいよ。それより、ユリちゃんには吉報があるんだよ。ユリちゃんの洋服は帰ってきたよ。ほら」ヤツデはそう言うとユリに対してビャクブの隣のイスにかけてあった洋服を指さした。現在のビャクブは鬼の首を取ったかのようにして誇らしげにしている。
「えー?」ユリは驚きの声を上げた。「私はとってもうれしいって言いたいけど、よく考えたら、着るのはちょっと気味が悪いかもしれない。でも、ヤツデさんとビャクブさんってやっぱりすごいのね。怪盗アスナロの正体は誰だったの?結局」ユリは興味津々でヤツデとビャクブに対して聞いた。
そのため、ヤツデとビャクブはモミジの犯行や動機について丁寧に話をした。ユリはやがてヤツデとビャクブの話が終わると考え深げにして独自の意見を主張した。
「私はモミジくんより年下なのにも関わらず、今回は偉そうなことを言わせてもらうけど、モミジくんは後学のためにも警察に名乗り出た方がいいと思う。モミジくんは私の洋服を盗んで使えなくしちゃったのは事実なんだし、でも、動機には私も同情するから、私達はモミジくんのことを自首扱いにはしてあげましょう。それじゃあ、ヤツデさんは嫌なの?」ユリは一応の確認をした。
「ううん。ぼくは嫌じゃないよ。それじゃあ、モミジくんの件はそういうことにしようね。ただ、モミジくんの自首はさらにいじめを煽るようなことにはならなければいいんだけどね。だから、ぼくとビャクブはモミジくんが警察に行く際は付き添ってあげてなるべく内密にしてもらうように言っておこうか。話は変わるけど、ぼくとビャクブは三時になったら、予定ではアスナロくんとコニャック公園で遊びに行くんだけど、この前はユリちゃんも遊ぶ約束をしていたから、ユリちゃんはもちろん一緒に行くよね?」ヤツデはやはりいつものとおりの気遣いを見せて聞いた。ヤツデはすでに頭を切り替えている。
「ええ。もちろんよ」ユリは頷いた。ユリはアスナロを元気づけたいのである。
ヤツデはやがてカスタード・プディングを食べ終えるとコニャック村の事件について考えたり、思索は息詰まると読書をしたりして三時まで気楽な気持ちで時間を過ごした。
一方のビャクブはユリの話し相手になった。その際にはツバキの死やモクレンの死についても話題に上がったが、ビャクブは大したことを推理していないので、ユリに対しては大きい顔をすることはできなかった。しかし、ビャクブはもちろんそれで落ち込むような玉ではない。
そのため、ユリは話題を変えてダウンロードやアカウントといったインターネットのことを聞いた。それは幸いにもビャクブにとって得意分野なので、今回はビャクブも滔々と話をすることができた。
いずれにしろ、ヤツデとビャクブはコニャック村において事件に翻弄されているばかりではなくて自分達なりにバカンスを楽しんでいる。人はどんな困難に直面したとしてもまさか食事もせずにトイレにもいかない訳にはいかないのだから、時には休憩を挟むことも大事なのである。
ヤツデとビャクブとユリの三人はやがて三時の15分前になるとコニャック公園へ足を運んだ。ヤツデはチコリーも誘ったのだが、チコリーはハロウィン・パーティーの簡単な飾り付けをするためにシロガラシとミツバと一緒にお留守番することになったのである。
ヨモギからは手ぶらでもいいと言われていたので、ビャクブは手ぶらだが、ヤツデは小袋を一つ持ってきている。その話はユリも聞いたので、ユリは特になにも持ってきてはいない。ヤツデとビャクブにとってはコニャック公園にくるのは二度目だが、ヤツデは子供の頃を思い出して気分がよくなった。
ヤツデとビャクブとユリの三人はすべり台やうんていやシーソーやブランコといった遊具のある場所において待っていると、ヨモギは間もなくアスナロの手を引いて歩きながら姿を現した。
「お待たせしてしまいました。どうもすみません」ヨモギは恐縮をしている。
現在はまだ三時の13分前だが、アスナロはヤツデとビャクブと遊ぶことが楽しみだったので、ヨモギのことは急かしてやって来たのである。ユリはアスナロに対して手を振っている。
「いいえ。ぼくたちは大して待っていませんよ。まずはなにをして遊ぼうか?」ヤツデはアスナロに対して聞いた。ヤツデの口調は相も変わらずにこの上なく柔和なものである。
「ぼくはブランコで遊ぶ」アスナロは元気よく答えた。今ではヤツデとビャクブと初めて会った時よりもヤツデとビャクブに対してアスナロも親近感を持っているので、アスナロの声は大きくなっている。
「それではこうしましょうか。これは別に強制ではありませんが、私はキャッチ・ボール用のゴム・ボールとフリスビーを持ってきているんです。アスナロの面倒は私一人でも大丈夫ですから、ヤツデさんとビャクブさんとユリちゃんはアスナロが遊具で遊び終わるまではそれらを使って待っていて下さいませんか?」ヨモギは提案をした。アスナロはじっとして父のヨモギの話を聞いている。
「わかりました。それではお言葉に甘えます」ビャクブは同意をした。
ヤツデとビャクブとユリの三人はこうして草原でキャッチ・ボールをして楽しむことになった。ヤツデは実を言うと左右どちらの手でもペンや箸や歯ブラシといったものを使えるのである。
そのため、ヤツデは全く変わらないコントロールで、キャッチ・ボールは右投げでも左投げでもできるのである。そのことは知らなかったので、ユリは珍しそうにしている。ユリは言った。
「私はヤツデさんが左手でご飯を食べていたのは知っていたけど、本当の聞き手はどっちなの?」
「本当は右手だよ」ヤツデは答えた。ただし、どちらかと言うと、ヤツデには左手の方が使い勝手がいいこともある。ヤツデはちなみに練習をしていないので、ヤツデの足は完璧な右利きである。
「そうなんだ。でも、それじゃあ、ヤツデさんはどうして左手も使えるようになろうと思ったの?ヤツデさんは以前に右手をケガしちゃたの?」ユリは疑問を呈した。ビャクブはヤツデの代わりに答えた。
「実はヤツデが言うには理由なんてないそうだよ。ただ、ヤツデは左手を使う練習をしていたら、左手は使えるようになっただけらしいよ。まあ、ヤツデは変なことにチャレンジ精神を燃やす男なんだよ」
「ふーん。ヤツデさんは普通の人とは違ったものの考え方をするのね。両利きって便利なの?」
「ううん。両利きはあんまり便利ではないよ。ぼくはどちらか一方の手の骨が折れれば、その時は役に立つかもしれないけど、今のところはそういう災難にはあっていないしね。ああ。でも、強いていうなら、役立つ時は字を書いていて片方の手が疲れたら、その時はもう片方の手で字を書き続けられるっていうことくらいかな」ヤツデは言った。ヤツデは実際に自分の特技をあまり自慢には思っていないのである。
「あと、自分は『右利きです』って言って実際には左で字を書いたりすれば、ヤツデは筆跡を変えられるじゃないのかい?それってなにかの犯罪のトリックに使えないかい?」ビャクブは冗談で聞いた。
「さあ?それは頭のいい人が考えれば使えるかもしれないけど、ぼくは犯罪なんてものをやらされてもへまをしてその日の内に逮捕されるだけだよ」ヤツデは意見した。ビャクブはその意見に乗っかった。
「それはおれも同じような気がする。格好は悪いけど、おれはやたらと捕まる自信だけはあるよ」
「ところで」ユリは話に割って入った。「事件の捜査はどのくらい進んでいるの?ヤツデさんとビャクブさんは明日の朝に帰っちゃうんでしょう?それまでには解決できそうなの?」ユリは疑問を口にした。とはいっても、ビャクブからは先程に話を聞いているので、期待はあまり持てそうもないということはユリもわかっている。ビャクブの口からは案の定の言葉が飛び出した。ビャクブは弱音を吐いた。
「おれの場合はとんとダメだな。おれはどう考えてみても明日の朝までには解決できそうにない。ヤツデはどうなんだい?」ビャクブは聞いた。ユリは注意深くヤツデの言葉を待っている。
「ぼくも今の時点ではダメだよ。まあ、事件は明日の朝までに解決できなかったら、ぼくは事件をほったらかしにはしたくないから、シロガラシさんからは許可が出れば厚かましいけど、ぼくの場合はまた休みの日にお家に泊めさせてもらって捜査を進めるつもりだけどね」ヤツデは自分の意見を開陳した。
「おれもそうするよ。こういうことにはたぶんしぶとさが大事だからな」ビャクブは同意をした。
「ヤツデさんとビャクブさんはやる気が満々なのね。ヤツデさんとビャクブさんは怪盗の正体を暴いて勢いづいているものね。がんばってね」ユリは激励をした。ユリはチコリーに負けず劣らずにヤツデとビャクブの活躍を期待しているのである。ヤツデは素直な気持ちでユリのエールを受け止めた。
「うん。ありがとう。がんばるよ。そうだ。しばらくはビャクブとユリちゃんだけでキャッチ・ボールをしていてよ。ぼくは少しオカリナの演奏をしたいから」ヤツデはそう言うといそいそとビャクブとユリの二人から離れて行った。実はヤツデの持ってきていた小袋にはオカリナが入っていたのである。
という訳なので、ヤツデは木陰に腰を下ろすと爽やかな曲調の『リーフ・アンド・スカイ』という曲の演奏を始めた。ただし、ヤツデの演奏できる楽器はオカリナだけである。
一方のビャクブはこれからユリの学校で行われる運動会についての話をしながらキャッチ・ボールを続けた。オカリナの音色はもちろんビャクブとユリにも聞こえている。
ヨモギは間もなくしてアスナロと共にヤツデの元にやって来た。ヤツデはその間もオカリナを演奏し続けている。ヤツデは外でオカリナの演奏をすることが好きなのである。とはいっても、それは誰かに対して聞いてもらいたいからではなくてただ単に外の方が開放感もあって心地よいからである。
「こちらからはきれいな音色が聞こえてくると思ったら、ヤツデさんは演奏がお上手なんですね」ヨモギは褒めた。もっとも、ヨモギは楽器の演奏に関して造詣が深いという訳ではない。
「いいえ。とんでもないです。アスナロくんはもう遊具での遊びはいいの?」ヤツデは聞いた。
「うん。ぼくはもういいの」アスナロは小さな声で頷いた。ヨモギはうれしげにして解説をした。
「アスナロはやっぱりヤツデさんたちと遊ぶのを楽しみにしていて遊具で遊ぶのにも身が入らなかったみたいなんです。アスナロは人見知りをするのですが、ヤツデさんたちは例外なんですね」
「そうでしたか。それじゃあ、ぼくたちは一緒に遊ぼうね」ヤツデはやさしく微笑んで言った。
その後のヤツデとビャクブとユリとヨモギとアスナロの5人はアスナロを中心にしてフリスビーをして遊びを楽しんだ。フリスビー(フライング・ディスク)とは野外で投げ合う円盤のことである。
ヨモギはシャボン玉も持ってきていたので、最後にはシャボン玉を使って遊んだ。ヤツデとビャクブとユリとヨモギとアスナロの5人はそれを終えると少しコニャック公園の中を散歩することになった。
「ヤツデさんとビャクブさんは木登りできる?」ユリは手櫛をしながら言った。
「ああ。それくらいはできるんじゃないかな?おれとヤツデは小学生の頃にはよくやったからな。ケガはしなかったけど、ヤツデは木から落ちたことがあったっけな。お、なんか、飛んでいるな」ビャクブは話題を反らした。ヤツデは歩きながら木登りの思い出について懐かしく思った。
「ビャクブさんはわざと話題をそらしたでしょう?」ユリは鋭い指摘を入れながらも不服そうである。ユリは実を言うとヤツデとビャクブに対して登って見せてくれと言いたかったのである。
「いや。おれには別に悪気はなかったよ」ビャクブは努めて素知らぬ顔で言った。アスナロは先程にビャクブが話題にしたものを指差して『トンボ?』と聞いた。ヤツデはその昆虫を観察した。
「うん。これは赤トンボだな」ヨモギは立ち止まりながら答えた。アスナロは『飼える?』と再び父のヨモギに対して聞いた。アスナロはカブトムシを初めとして昆虫が好きなのである。ヨモギは応じた。
「虫籠では飼えるかもしれないけど、虫籠は持ってきていないから、今日は無理だな」
「赤トンボっていうのは名前じゃなくてアキアカネやナツアカネなんかをひっくるめて赤トンボっていうんだよ」ヤツデは先生風を吹かせながらアスナロに対して説明をした。これは読書によって得た知識である。ヤツデはアスナロと同様にして基本的に昆虫は好きなのである。ただし、上記のとおり、ヤツデの場合は気が小さいので、ムカデやクモやゴキブリといった昆虫は恐がってしまうのである。
ヤツデは『本当はアカネさんもトンボなんだよ』と言いたかったのだが、ヤツデのギャグはややもすると人には通じないことが多いので止めておいた。それは賢明な判断なのかもしれない。
また、ヤツデの言うとおり、赤トンボには約20種類が存在している。オスの色は成熟するにつれて黄色から赤色に代わって行くのである。夏の間のアキアカネは避暑のために高原や山に移動して秋になると山麓に降りてくる。だから、実は夏の高原にいるトンボは大抵がアキアカネなのである。
「これはなにアカネ?」アスナロは純真な質問をした。しかし、ヤツデはすまなそうにした。
「ごめんね。ぼくは見てわかるほどには詳しくないんだよ。でも、唐辛子のことは赤トンボともいうんだよ。まあ、ぼくの知っていることはせいぜいこのくらいかな」ヤツデは言った。
それでも、アスナロはヤツデの方を見て納得の意を表した。ヨモギとユリはヤツデの知識に対して感心をしている。一方のビャクブは大層にご機嫌である。なぜなら、ビャクブは密かにヤツデの雑学講座を楽しみにしているからである。ヤツデたちの一行はやがて再び歩き始めた。
アスナロは少し他の皆と歩いてから近くに咲いている植物を指して花の名を聞いた。アスナロの指した花には白色や淡紅色があって大型の頭状花が開いている。それは秋桜だった。
今回はヤツデではなくてユリがアスナロの問いに答えた。もっとも、ヤツデはユリに先を越されなければアスナロの問いには答えられていた。ユリは得意げにしている。
偶然とはいっても、ユリは自分の知っていることがあったので、内心では誇らしいのである。ユリは花輪の作り方を知らないと言っていたので、花にはてっきり疎いものかとビャクブは思っていたが、実際はそうでもなかったのである。ビャクブは素直に感心をした様子である。
人はなにも知らないということを知っていると知ろうとする気持ちが生まれてくるので、ヤツデはいつでも無知の知を大切にしているのである。それこそは向上心にも繋がるからである。
閑話休題である。こんなのどかな中では聞きにくかったが、ヨモギとアスナロにはどうしても聞いておかないといけない気になっていたことがあるので、ヤツデはがんばって聞いてみることにした。
「ところで」ヤツデは言った。「ヨモギさんとアスナロくんはツバキさんがどんなことを悩んでいたかをご存知ですか?それはもちろんツバキさんが自殺するような悩みではないんですよ。ぼくは三日前にコニャック公園でツバキさんとお会いした時になにかの悩みを抱えているっていうようなことを聞いたんです。それはひょっとしたら事件とは全く関係のない些細なことなのかもしれませんが、ヨモギさんはなにかしらのお心当たりはありませんか?」ヤツデは懇切丁寧な口調で伺いを立てた。
「ヤツデさんはどんなことでもいいとおっしゃるのなら、家内は家事をしていて食器の洗剤が肌に合わないらしくて手荒れがちょっと気になるとかって言っていましたが、これはどう考えても事件とは関係なさそうですよね?」ヨモギは歩きながらも考え考え言った。
「仮に、そうだとしても、現時点ではどんなものが手がかりになるのかはまだわかりませんから、そういったことでも結構ですよ。他にはなにかありませんでしたか?」ヤツデは質問をした。
「ええと、他にはなにもなかったと思います。私から見ると、家内は本当に幸せそうでしたから」
「アスナロくんにはなにか思い当ることはあるかい?」ビャクブは水を向けた。
「ぼくにはなにを悩んでいたのかはわからないけど、ママは何日か前に元気のなかった日があったかもしれない」アスナロはすぐに言った。実はヤツデとビャクブに対してヨモギやアカネにも協力するようにと言われていたので、アスナロは事件の手がかりになりそうなことを必死に考えていたのである。
「それは具体的にいつ頃かわかる?」ヤツデは聞いた。アスナロは精一杯に考え込んだ。
「それは驚きました。私には家内がそんなに落ち込んでいるようには見えなかったのですがね」ヨモギは口を挟んだ。ヨモギはアスナロに対して考える時間を与えたのである。
「ツバキさんはもしかするとヨモギさんが会社から家に帰ってきたら、その時点では平静を取り戻したのか、あるいは平静を装っていたのかもしれませんね」ヤツデはとりあえずの思いつきを口にした。
「その日は確か一週間よりも前じゃなかったかもしれない」アスナロは口を開いた。アスナロは先程からずっと黙って考え込んでいたのである。ヨモギはアスナロの意外な告白に驚いている。
「そっか。ぼくはとても参考になったよ。ありがとう」ヤツデはやさしい口振りで言った。
ツバキは数日前になんらかの理由で塞ぎ込んでいた。この事実はコニャック村の事件となにかしらの関係があるかもしれない。口には出さなかったが、ビャクブはなんとなくそんな気がしていた。
一方のヤツデはアスナロの教えてくれたこの事実によって大いに助かっていた。ヤツデはコニャック村の事件の裏に隠された真実を推理によって思い描いて徐々に完成形に近付けて行っているのだが、今のアスナロの教えてくれた事実はそれを裏付けることになったからである。
その後のヤツデとビャクブとユリの三人はヨモギとアスナロと別れてシロガラシの家へと続く帰途についた。とはいっても、ヤツデとビャクブとユリの三人はヨモギとアスナロとはすぐに再会することになる。なぜなら、予告のとおり、今夜はシロガラシの家で毎年恒例のハロウィン・パーティーが開かれるからである。ハロウィン・パーティーにはコニャック村の村民であるヨモギとアスナロもそれに出席することになっているのである。コニャック村の事件は解決の寸前なので、ヤツデはシロガラシの家へと帰りながらも上機嫌だった。ただし、ヤツデはビャクブとユリによってパーティーの話題を出されると少し気が重くなった。ヤツデはやはりあまりパーティーが好きではないのである。
ビャクブはもちろんそれには気づいているので、ヤツデのことは励ましてあげた。一方のユリは去年のパーティーの模様を話してヤツデのことを元気づけた。ヤツデはビャクブとユリに対して感謝をした。
ヤツデとビャクブとユリの三人はやがてシロガラシの家に着いた。家の中はチコリーとミツバによって簡単な飾りつけがなされていた。そのため、ビャクブは少し華やかな気持ちになることができた。
「おかえりなさい」チコリーは言った。「ヤツデさんとビャクブさんはトリック・オア・トリート?」チコリーはヤツデとビャクブとユリのことを元気よく出迎えに来た。現在のチコリーは魔女の帽子を被って仮装をしている。ビャクブは雰囲気に呑まれてますます華やいだ気分になった。
「ぼくはもちろんチコリーにはお菓子をあげるよ。チコリーには破茶滅茶な悪戯をされたら、ぼくたちは大変だもんね」ヤツデは本人とチコリーのどちらが子供なのかと疑うような対応をした。
「ありがとう。でも、それはちょっと言い過ぎよ」チコリーはヤツデに対してふくれて見せた。
昨日のヤツデとビャクブはちなみに電車でミラン町に行った時にハロウィンのために駄菓子屋でチコリーとユリへプレゼントするお菓子をちゃんと買い込んでいたのである。
「ビャクブさんはこれをつけてね」チコリーはそう言うとリビングにおいてビャクブに対してネジが頭に刺さったように見えるフランケンシュタインのかつら(ウィッグ)を手渡した。
「これはおれよりもカラタチさんの方がよく似合いそうだけど、おれはこれでいいでごわすか?」ビャクブは即興の演技をした。カラタチとはクリーブランド・ホテルでヤツデとビャクブが友達になった男性のことである。そのカラタチという男性はなんと二メートルを超える身長の男なのである。
「うん。ビャクブさんはうまいね。ヤツデさんはドラキュラの役ね」チコリーは囃し立てた。
「ぼくには変装の道具がないんだね。でも、ぼくはわかったざます」ヤツデは返答をした。
「え?そのしゃべり方はなんでごわす?」ビャクブはおどけた口調で言った。ヤツデの性格はなにぶん子供みたいなので、ヤツデはこのような下らないおふざけが大好きなのである。
「ふふふ」ユリは笑んだ。「ドラキュラって『ざます』なんて言うの?ヤツデさんはオカマのドラキュラみたい」ユリは容赦なく言った。しかしながら、ヤツデは一向に気にした様子を見せていない。
「ねえ。おばあちゃんは皆の料理を仕度しているんだけど、フランケンシュタインさんとドラキュラさんはお手伝いをしてくれない?本当はツバキさんがお手伝いしてくれていたんだけど、今年はもうできないから」チコリーは言葉を濁した。そのため、ビャクブは慌てて言い繕った。
「わかったでごわす。おれは手伝うでごわす。ドラキュラも手伝うでごわすか?」ビャクブは聞いた。
「うん。ぼくはもちろん手伝うざます。がんばるざます」ヤツデは張り切っている。
「って、結局はそのしゃべり方なのかい!」ビャクブは普段の口調に戻ってつっこみを入れた。
とりあえず、その後のヤツデとビャクブはミツバの手伝いをする前にチコリーとユリに対してお菓子をプレゼントした。ヤツデはクッキーをプレゼントした。一方のビャクブはキャンディーをプレゼントしたのである。チコリーとユリは当然のことながら無邪気に喜んだ。
クッキーとはちなみにビスケットよりも脂肪分が多いものを指すのである。飴とキャンディーは根本的に同じものを指していてキャラメルやドロップやヌガーといったものは飴の種類である。ヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人はやがて用事がすむとミツバのいるキッチンへと足を運んだ。ミツバはそこで料理をして忙しげに立ち働いていた。ヤツデはミツバの姿を見かけると話しかけた。
「ミツバさんはどんなものをお作りになる予定なのですか?ぼくとビャクブはお手伝いをしますよ」
「おやまあ」ミツバは言った。「ヤツデさんとビャクブさんはご親切にどうもありがとうございます。これからはジャック・ランタンを象ったカボチャのクッキーとお化けのスイート・ポテトを作る予定なんですよ」ミツバは流暢な口振りで答えた。ジャック・ランタンとはハロウィンでよく見かけるお化けのカボチャのことを指している。チコリーは甘い香りに誘われて勝手につまみ食いをしている。
「材料はなにを使うんですか?」ビャクブは興味本位で聞いた。今回の料理の材料は以下のようなものである。クッキーの方はホット・ケーキ・ミックスとバターとカボチャと砂糖と卵黄とココアである。一方のスイート・ポテトの方はサツマイモとグラニュー糖と牛乳とその他である。
「ヤツデさんとビャクブさんは衣類が汚れないようにそちらにあるエプロンをして下さいね。私は早速にお手伝いを頼んでもいいかしら?」ミツバはお願いをした。エプロンはちゃんとヤツデとビャクブの二人分があった。料理は不慣れだが、ビャクブは張り切っている。ヤツデは二つ返事で承諾をした。
「はい。ぼくたちでもできることなら、ミツバさんはなんなりとお申しつけ下さい」
ヤツデとビャクブはこうして手分けをしてミツバの手伝いをすることになった。一度は話に合ったとおり、シロガラシの家は大きいので、キッチンは必然的に大きいのである。そのため、ミツバとヤツデとビャクブの三人は同時に仕事をしていてもぶつかるようなことにはならないのである。
その間のチコリーとユリはもちろんぼうっとしていた訳ではなくて折り紙によって部屋の飾りつけの仕上げの仕事を担当していた。チコリーとユリはとても楽しそうである。
シロガラシはヤツデとビャクブとミツバの様子を見にきたので、ビャクブはシロガラシに対して怪盗の事件が解決した旨を話した。シロガラシはそれを受けると大喜びをしてヤツデとビャクブに対して賛辞の言葉を送ったが、怪盗の正体はモミジであることがわかるとわかりやすくがっくりと肩を落としてしまった。犯人はコニャック村にいるという可能性は重々承知していたが、シロガラシはやはり真相を聞くと残念無念なのである。シロガラシはそしてモミジの苦衷を察してあげることができなかったことを大いに悔やんだ。シロガラシは同じ村に住んでいればモミジのためになにかしらできることがあったのではないかと思ったのである。それはしかも犯行動機を鑑みるとなおさらである。
という訳なので、シロガラシは少し落ち込んでしまった。それでも、シロガラシはヤツデとビャクブに対して腰を低くして事件を解決してくれたお礼を丁寧に言うことを忘れはしなかった。
7時の少し前からは小降りだが、外では秋雨が降り出した。それでも、パーティーへのコニャック村の村民の出足は悪くなかった。シロガラシはやって来る人たちの足労に対して労いの言葉を述べた。
シロガラシの家には7時を5分ほど過ぎた頃にはシロガラシとミツバを含めてコニャック村の村民の全員(8人)が集合した。ハロウィン・パーティーはいよいよ開催される訳である。
ヤツデはリビングおいて一人ぼっちで座り込んでいた。ヤツデは早くも孤立しているのである。それでも、今まではソテツと世間話をしていたのだが、一旦は話に切りがつくと、ビャクブの性格はやさしいので、ビャクブはヤツデを気遣ってヤツデの元にやって来た。玄関の方からはするとその時『きゃー!』という黄色い悲鳴が聞こえてきた。それはもちろんヤツデとビャクブの元にも届いた。ヤツデは一人で寂しく座りながらも『なんだ?事件かな?』と言って疑問を呈した。ビャクブはヤツデの傍にやって来た。
「そうかもしれないな。おれたちは行ってみるかい?」ビャクブは聞いた。
「うん。そうだね。とりあえずは行ってみようか」ヤツデは返事をすると立ち上がってビャクブと共に悲鳴が聞こえた方へと早歩きで向かって行った。怪盗もといモミジと対決した時は少しの変化に踊らされて挙句の果てには失敗したが、まさか、今回はそんなことにはならないだろうとヤツデは思った。
悲鳴の原因は間もなく判明した。チコリーはなんとゾンビによって襲われていたのである。ヤツデはすぐさまゾンビとチコリーの間に割って入った。これは極めてシュールな光景である。
「チコリーはもう大丈夫だよ」ヤツデはヒーローの言いそうなセリフをさらりと言って退けた。
「ありがとう」チコリーは青い瞳をキラキラさせながら言った。「王子様」
「それで?ここではヤツデさんまで一緒になってなんの茶番をやっている訳なの?」ユリは白々しく聞いた。ユリはこの近くにいたのである。今のユリはリボンを取って黒猫のカチューシャをつけている。
「ははは」ヤツデは笑んだ。「ぼくはちょっと冗談が過ぎたみたいだね」ヤツデは楽天的に言った。
「へえ。あれは冗談だったのかい?おれはヤツデのことだから自分の世界観に入り込んできまじめにやっていたのかと思ったよ」ビャクブは自分の方こそ冗談らしきものを口にした。
「でも、その被りものは確かにちょっとリアルすぎて怖いみたい。チコリーはびっくりするのも無理はないと思う。私もびっくりしたもの」ユリは大人のようにしてその場を取り成した。
「それは本当だな。それで?このゾンビは誰なんだい?一体」ビャクブは聞いた。ヤマガキはすると意味があるのかないのかもよくわからない間を開けて被りものを取って顔を見せた。チコリーは本物のゾンビではなくてほっとしている。それはしかもヤツデも同じである。
「私です。ヤマガキですよ。私は驚かせようと思ってチコリーちゃんに襲いかかるまねをしてみたのですが、あれはちょっとやりすぎでしたわな。すまなかったね」ヤマガキはチコリーに対して謝った。
「ううん。そのことはいいんです。でも、その被りものは本当に怖いから、ヤマガキさんはもう被らないでもらえませんか?アスナロくんもきっと怖がると思いますよ。ダメですか?」チコリーは聞いた。
「いや。私は別にいいよ」ヤマガキはそう答えながらも少々がっかりしているように見受けられた。
チコリーはそれに気づくとやっぱり前言を撤回した。そのため、ヤマガキはその好意を素直に受け入れて少しの間だけゾンビのマスクをつけさせてもらうことにした。その後の結果は案の定だった。
アスナロはヤマガキのマスクを見て怖がったが、チコリーはアスナロを慰めたので、大事には至らなかった。しかし、ヤマガキの性格はやさしいので、ヤマガキは申し訳ない気持ちになってしまった。
ヤツデとビャクブはなにはともあれパーティーの会場に戻ることにした。アカネはするとヤツデとビャクブに対して話しかけてくれたので、一旦はヤツデも孤立せずにすんだ。
とはいっても、アカネは相も変わらずにハロウィンにはどうしてグレープ・フルーツやたこ焼きを食べないのかといった相当にとんちんかんなことを言っていたので、ビャクブはびっくりさせられてしまったが、ヤツデは構ってもらえているだけでもすごくうれしかった。
その後の話である。まず、パーティーは食事会が催された。コニャック村の村民は当然のことながら妻を亡くしたヨモギに対して大いに同情した。シロガラシとミツバは特にヨモギに対して親身に話を聞いて改めてお悔やみの言葉とパーティーへの参加の感謝の言葉を述べることになった。
チコリーは早速にアスナロに対して自分の描いた絵をプレゼントした。スケッチ・ブックから切り取った画用紙にはアオガメやクマノミやニシキアナゴといったものが描かれていた。
アスナロはそれを貰うと素直に喜んでチコリーに対してお礼を言った。アスナロはそして父のヨモギに対して額縁を買ってもらおうとしていたので、チコリーは『それはさすがにやりすぎだ』と思って止めに入った。しかし、アスナロはチコリーの絵を大事にしてくれることは明々白々である。
パーティーでは怪盗アスナロの一件も話題として持ち上がった。まず、モミジは洋服をダメにしてしまったことをユリに謝った。モミジの保護者のヤマガキはソテツに対して金魚のことを謝った。
しかし、トイワホー国の国民は寛大だから、ヤマガキとソテツはこれからもお互いにぎすぎすした関係にはならない。村長のシロガラシは被害者のソテツを宥めることにした。
シロガラシはその一方では加害者のモミジに対しては『過ちは誰もがするものだから、今後はしないようにしよう』とやさしく指摘をして困ったことがあれば、今度からは自分も力になると宣言をした。
ナズナは仕事から帰って来てパーティーに出席する前にモミジから怪盗の話といじめの話を聞いたのだが、モミジのことはやはりヤマガキと同様にしてナズナも怪盗のことについて怒りはしなかった。
ただし、ナズナはいじめの話を聞くと大いに怒った。そのため、結局は怒っているだけでパーティーに行く時間になってしまった。ヤマガキはそれを見ていてモミジをナズナに任せて本当に大丈夫だろうかと思ったが、ナズナはモミジのことをそこまで大事に思っているのだと思い直すことにした。
仮装をしている人は先に上げておいた他にはヨモギがゴブリンのマスクを着けている以外には特に見当たらなかった。現在のビャクブはユリとミツバの二人と話をしている。
「こんばんは」ヤツデはナズナの元へ近づいて行きながらそのナズナさんに対して話しかけた。今のナズナはたまたま一人だったので、ヤツデとしては話しかけやすかったのである。
「こんばんは」ナズナは応じた。「ヤツデさんはお元気そうね?」ナズナは微笑を浮かべて言った。
「はい。ぼくは元気です。ナズナさんは仮装をされていないのですね?」ヤツデは聞いた。
「私は仮装をしていなくてもバンシーには見えるでしょ?ヤツデさんはバンシーってご存じかしら?」
「はい。バンシーは家族の死を予告する妖精ですよね?ナズナさんは言われてみれるとそうかもしれません」ヤツデはきまじめな返答を返した。ナズナは妖精と言われて悪い気はしなかった。
「うふふ」ナズナは嫣然と微笑んだ。ヤツデさんには冗談が通用しないんだったわね。ヤツデさんはそのくせして冗談で切り返してくるなんておもしろい人ね。私はそういうタイプの人には会ったことがなかったわ」ナズナは愉快そうにしている。ヤツデはそのセリフを軽く受け流すようにして言った。
「まあ、それはよく言われますけどね。とりあえずは褒め言葉として受け取っておきます」
「ところで」ヤツデは言った。「折角のハロウィン・パーティーなのにも関わらず、恐縮ですが、ぼくはツバキさんの事件についていくつかのことをお尋ねさせてもらえませんか?ぼくとビャクブはなにぶん明日の朝に帰ってしまうものですから」ヤツデは胸中を明かした。ナズナは好意的である。
「それは一大事ね。ヤツデさんはもちろんなにを聞いてくれても構いませんよ」
「ありがとうございます。それではお気を悪くなさらないでお答え頂けるといいのですが、ナズナさんはモクレンさんが亡くなった10月10日の午後10時から11日の午前9時頃はなにをされていましたか?」ヤツデはメモ用紙を取り出してそのメモを見ながら聞いた。ヤツデは警察と違ってモクレンの死亡推定時刻はその二日間の内のいつかということまでしか特定できていないのである。
「それは難しい質問ね。私は正直に言って正確なことは覚えていないけど、10日は職場の学校から帰宅して読書でもして時間を過ごしてから床に就いたんじゃないかと思います。11日は普段のとおりに学校に行ったんじゃなかったかしら?ああ。私はモクレンさんが亡くなったっていうニュースを聞いた時がその日の夜だったから、間違いはないと思います」ナズナは全く気を害した様子もなく答えた。
「わかりました。ナズナさんは答えてくれてありがとうございます。ヤマガキさんはツバキさんが亡くなった日の午前8時から10時までの間に外出をされませんでしたか?」ヤツデは聞いた。
「さあ?私はあの人の行動なんて一々把握していません」ナズナはぶっきらぼうである。
「そうですか?あの日のナズナさんは予告殺人の対象にされてしまっていたので、ヤマガキさんはナズナさんを護衛していたとおっしゃっていましたが、ナズナさんからは確認を取れないのなら、それでは仕方ありませんね。ああ。ぼくはだからといってヤマガキさんがツバキさんを殺害した犯人だとは言いませんよ。ぼくもそこまで単純ではありません。それではまた立ち入ったことをお聞きしますが、ナズナさんはツバキさんとはいつ頃からの親友だったのですか?」ヤツデは慎重な態度で質問をした。
「ツバキとは中学校の同級生だったから、私とツバキはかれこれ20年間の付き合いになります」ナズナは答えた。ようはビャクブが想像したよりも少し長い付き合いである。ヤツデは得心をした。
「わかりました。質問は次で最後になります。ナズナさんは一年前に起きた放火事件についてなにかご存じのことはありますか?」ヤツデはあくまでも紳士的な口調で訊ねた。
「さあ?私には愉快犯のやることなんて興味もないから、私はなにも知りません。私はあの放火事件にはあまり興味もなかったのでね。私はお役に立てなくてごめんなさいね」ナズナは謝った。
「いいえ。大丈夫ですよ。ナズナさんはお話をお聞かせ下さってありがとうございました」ヤツデはそう言うと頭を下げて取り皿を持ったまま自分の席へと帰って行った。ナズナは無言でヤツデを見送った。
モミジの犯行はヤツデが見抜いたのだということはナズナも知っているが、ナズナの怒りの矛先はヤツデには向いていない。モミジは確かにヤツデによって不名誉な事態に陥ったが、ヤツデはそれと同時にいじめの問題を露見させてくれたので、ナズナはむしろヤツデに対して感謝をしているのである。
その後のヤツデは席に着いてスイート・ポテトを食べ始めた。ヤツデはそうしながらもコニャック村の事件についてまとめに入った。ヤツデは今日だけでも重要な手がかりは自分の元に集まったと密かに思っている。ヤツデは相も変わらずに孤立しているが、今は考え事があるので、今回は好都合である。
ヤマガキとナズナは離婚を決定してナズナがモミジを引き取ること・アスナロは母親のツバキが塞ぎ込んでいるところを発見したこと・それらはコニャック村の事件の全貌において重要なパーツだとヤツデは思っている。ヤツデはその後も考え事を続けた。ヤツデの集中力はとても高いのである。
ヤツデはすると先程のナズナとの会話でも重要なキーを手にしていたことに気づいた。今回は危なく見落とすところだったので、ヤツデは少しそのことに気づいた自分を褒めたくなった。
ヤツデはやがて自分の推理をさらに先へと進めようとした。しかし、それは阻まれた。なぜなら、アカネはヤツデの向かいの席に座って話しかけてきたからである。考え事は阻止されたとはいっても、機嫌は全く損ねなかったし、ヤツデはむしろ話しかけてもらえてうれしかった。
アカネはなんだかんだいってもビャクブの次にヤツデが一人ぼっちであることを気にかけてくれているのである。ただし、ポテトのトッピングにはソースやしょうゆを使ってみたら、どうだろうとか、アイス・クリームにはジンジャー・エールが合うのではないだろうかとか、アカネの会話の内容は相当に不気味である。アカネはそれでいてアイスのトッピングとしてチョコ・チップが好きなのである。
それでも、ヤツデはその話をおもしろがって聞いている。アカネは学校の図書館に間違って自分で買った本を返してしまったという話を聞いたら、ヤツデは大笑いをした。
アカネはそれを受けると少し拗ねてしまったので、ヤツデは謝った。しかし、ヤツデはとにかくアカネみたいにしておっちょこちょいな人は好きなので、内心ではアカネと出会えてうれしいのである。
食事会はやがて終わった。そのため、ハロウィン・パーティーの参加者はゲームをすることになった。ゲームの種類は三種類ある。一つ目は水を入れた大きめのたらいにリンゴを浮かべて手を使わずに口でくわえて取る『ダック・アップル』というゲームである。二つ目は小麦粉の山から5パンダ硬貨を落とさないようにして小麦粉を順番に削り取る『小麦粉切り』というゲームである。三つ目はブランデーが燃えている皿から干しブドウを取り出す『スナップ・ドラゴン』といったものである。
しかし、ヤツデはゲームが始まっても一人で皆から離れた場所に佇んでいた。ヨモギはするとヤツデの隣にやって来て腰を下した。ヨモギはつい先日に期せずして男やもめとなってしまった身である。
ヤツデはそんなヨモギを横目に見ながらヨモギがこの場に出席することにはかなりの抵抗があったのではないだろうかと推測をした。それは確かに普通に考えると当たり前かもしれない。
しかし、ヨモギはツバキの死を悲しんでいない訳ではないが、実際はヨモギにとってはそうでもなかった。遺族は世間一般の常識として喪に服しているべきである。
そのため、遺族のヨモギとアスナロはパーティーに参加しないでおこうかどうか、今年のパーティーはそもそも中止するべきかどうか、シロガラシからは昨日に聞かれていたが、ヨモギとしてはツバキも好きだった毎年の恒例の行事を中断することは本望ではないし、村民からはアスナロもかわいがられているので、ヨモギは家でじっとしているよりは気がまぎれるだろうと考えたのである。ただし、ゲームにはそんなヨモギでも参加する気にはどうしてもなれなかったのである。
アスナロはちなみに伯父のソテツやヤマガキと一緒に遊んでもらっている。モミジとアスナロは意外にも仲はいいのである。予想したとおり、アスナロは楽しそうなので、ヨモギは少し安堵をしている。
「ヤツデさんはゲームに参加なさらないのですか?」ヨモギは壁に寄りかかりながら聞いた。ヤツデはヨモギと同じようにして壁に寄りかかって手持ち無沙汰にして突っ立っている。
「はい。ぼくは参加しません。ヨモギさんには協調性のない人間だと思われるかもしれませんが、ぼくは皆でワイワイとやるのはどうも性に合わないんです。ぼくは孤独な性格なんです」ヤツデはやや気恥しげである。ヤツデは自分を卑下しがちな嫌いもあるのである。ヨモギは取り成した。
「そうでしたか。でも、私はヤツデさんには協調性がないなんて思いませんよ。私は他人を思いやる気持ちは人一倍に強い方だとお見受けしています」ヨモギの口調はやさしさの込もったものである。
ヤツデは『損得の感情なしで他人を褒められる人間はその人自身が称賛されるべきである』と内心では思った。ヤツデはそのセリフを口に出すことは野暮になるような気がしたので、結局は控えておいた。沈黙は金である。一方の雄弁は銀である。ヤツデは決しておしゃべりではないのである。
「ありがとうございます。でも、今はそれだけではなくてコニャック村で起きた事件について考えたいこともあるんです。実はもうちょっとで全ての謎は解けそうなんです」ヤツデは言った。
「そうなんですか?それは驚きました。それは私にとってみても大きなことです。それにしても、私の睨んだとおり、ヤツデさんはやっぱり思いやりのある方ですね。私にはよくわかりますよ。ヤツデさんは私達(コニャック村の村民)のために謎解きに挑んで悪を退治しようとしてくれているのですよね?」ヨモギの口調は相も変わらずにおっとりとしていてやさしいままである。
「まあ、その評価は少し美化されすぎているような気もしますが、ぼくはふざけ半分で事件について考えている訳ではないという点はそのとおりです」ヤツデは言った。ヨモギは理解を示すために頷いた。
ヤツデはツバキの死という言葉を意識して使わずに話をしていたが、それでも、ヨモギは考えまいとしていたツバキの死が頭をよぎってしまって悲しげな目つきでパーティー会場に目を移した。
ヨモギは気を使ってそれ以上はヤツデに対して話しかけたりはしなかった。ヤツデは鈍いところもあるが、今回はすぐにその意図を察した。しかし、それはそれで少しヤツデにとっては居心地が悪かった。それはヨモギに気を遣わせてしまっているからというのもあるが、実は誰かと一緒にいて沈黙が続くと『相手は自分のことを不快に思っているのではないだろうか』と気が小さいので、ヤツデは心配になってしまうのである。とはいっても、トイワホー国の国民のヨモギはもちろんそんなことを考えてはいない。
ヤツデはゲームが行われている前半にはゲームに参加せずに皆から離れたところにて一人で考え事をしていた。とはいっても、トイワホー国の国民はもちろん村八分を黙認しているはずもなくビャクブとチコリーとシロガラシを初めとして他にも何人もがヤツデに対してパーティーの参加を促したが、今は考え事があったので、ヤツデは誘い事態には大いに喜んだが、結局は応じることはなかった。
それでも、ヤツデはアカネとモミジとヤマガキの三人と一人ずつパーティーの後半には皆のところから離れた場所へと呼び出して話を交わした。ヤツデはそうしながらもヨモギを一人きりにさせてしまうことに罪悪感を覚えたので、話はすぐに終わらせた。ヤツデはやさしすぎるのである。理由はだからという訳でもないが、ヤツデはヨモギに対しても一つの質問をした。それはコニャック村の事件を解決するためにもっとも重要な質問だったが、ヨモギの答えはヤツデを納得させるものだった。
その後の事ヤツデは件を解決するためにシロガラシに対してお願いをして他の人たちに帰る前に話を聞いてもらえるようにと取り計らってもらった。パーティーはやがてお開きになると、ヤツデの要望のとおり、ヨモギとアスナロとナズナとヤマガキとモミジとソテツとアカネたちはイスに腰をかけてヤツデの前に集合をした。ビャクブはヤツデの口からはどんな話が飛び出すのかとドキドキしている。実はクリーブランド・ホテルの時もそうだったが、ビャクブはヤツデの手のほとんどの内を知らないのである。
ヤツデはそもそもビャクブやチコリーといった犯人である可能性の低い人物にも捜査によってわかったことを言わない理由は別に意地悪をしているからではないのである。
もしも、ヤツデは一々わかったことを報告していてあとになって『あれはやっぱり違かった』ということになると聞かされていた方はヤツデの嘘の情報に踊らされてしまうことになってそれはかわいそうだから、わかったことは一々ビャクブやチコリーたちにも報告をしないのである。
「ええと、まずはなにからお話をすればいいやら自分で申し出ておきながらなんですが、ぼくは大勢の人の前でお話することはかなり苦手なんです。ですから、とりあえずはコニャック村で起きた事件についてぼくのわかった限りのことをできるだけ手早くお話してしまいます」ヤツデは困惑しながらもそう言って話を切り出した。ソテツはするとざっくばらんな口調で聞いた。
「ぼくは単刀直入に聞きますが、ヤツデさんには義姉さんを殺害した犯人がわかっているのですか?」
「はい。そのつもりです」ヤツデは噛み締めるかのようにして言った。一同の中ではすると緊張の一瞬の間が空いた。ただし、おそらくはそうだろうなと思っていたので、ビャクブは動じなかった。動じなかった人はもう一人だけいる。それはチコリーである。チコリーはいつでもお気楽なのである。
「ヤツデさんはリラックスをしてがんばって!」チコリーはヤツデに対してエールを送った。
「うん。ありがとう。がんばるよ。それでは話を始めさせてもらいます。これはすでにこの場にいる何人かの方々にはお話していることですが、ツバキさんは自殺ではなくて他殺だとぼくが判断した理由から改めてお話しておきます。一点目はツバキさんの首に巻きつけられていた凶器が髪の外側に巻かれていたことです。もしも、今回の件は自殺なら、ツバキさんは無意識の内に髪の内側にロープを持って行く可能性が高いからです。二点目はツバキさんの家の中が閉めっ切りだったことです。事件の当日は小春日和の陽気の中でした。それなら、一カ所くらいはツバキさんも窓を開けていてもいいものだと思います。ところが、実際は全ての窓が閉まっていました。つまり、何者かは意図的に全ての窓を閉めっ切りにすることによってツバキさんが自殺であるということを印象づけようとしたのではないかと思われます。第三に、予告殺人は狂言だったということです。予告殺人は元々カムフラージュでした。実際はナズナさんではなくてツバキさんの命を狙っていたものだったと考えられるからです。ツバキさんは他殺だと考えられる理由は以上です。ですが、それでも、ネックはまだあります。これこそはツバキさん殺害事件をややこしいものにしていました。それはツバキさんの家が密室状態だったということです。ですから、ぼくはこの謎を解くことに試行錯誤をしましたが、答えはようやく出ました。犯人は鍵を使ってツバキさんの家を密室にしたのです」ヤツデは堂々と言った。シロガラシとミツバはきょとんとしている。
「なんですって?ヨモギは驚いて聞き返した。「それでは私とアカネのどちらかは犯人だとヤツデさんはおっしゃるのですか?」ヨモギの意見は無難な結論である、他の皆は一様にして驚いている。
「いいえ。話にはまだ続きがあります。ぼくは鍵を使ったと申し上げましたが、犯人は合鍵を使ったのです」ヤツデは断言をした。シロガラシとミツバは端の席にいて緊張しながらヤツデの話を聞いている。
「しかし、一度は申し上げたことですが、鍵は私と家内とアカネの三つ以外には存在しないはずです。それは間違いないと思うのですが」ヨモギは自信がなさそうである。ヤツデは切り替えした。
「いいえ。実はそれが存在したんです。ぼくはあえて過去形で申し上げましたが、その合鍵はたぶんもう処分されてしまっていると思われるからです。ひとまず、それは置いておいてお話を伺ったところによるとアカネさんは度々持ち物をどこかに忘れて行ってしまうことがあるそうです。そうですよね?」ヤツデはアカネに対して聞いた。皆の視線はアカネに集まった。アカネは気にせずに発言をした。
「ええ。まあ、それは確かに一度や二度じゃないけど、でも、ヤツデさんは私にこんなことを告白させたからには本当に事件は解決するんでしょうね?」アカネは疑わしげにして言った。とはいっても、このくらいはアカネにとっては恥さらしでもなんでもない。アカネはようするに神経が太いのである。
「うん。少なくとも、ぼくはそう思うよ。話は戻しますが、事実はそういうことですので、もし、犯人はアカネさんを尾行していれば、アカネさんは持ち物をどこかにおいて行ってしまう時が多々あるので、おそらくはアカネさんの置き去りにされた持ち物の中から鍵を取り出して鍵のメーカーと番号を控えることは容易だと考えられます。アカネさんはよく持ち物を置き忘れることを知っていた人間となると、おそらくはコニャック村の全員が該当することになると思います。なにしろ、コニャック村の村民は皆さんが懇意ですからね」ヤツデは慎重に言葉を切った。ビャクブは目から鱗が落ちる思いで話を聞いている。
ヤツデはビャクブとチコリーとユリとアカネと行った昨日の肝試しのあとでアカネの忘れて行ったナップザックを取りに行く間にふとそのことに思い至ったのである。とはいっても、ヤツデはそれ以前にも『白の推理』を使って密室には初めから巧妙な仕かけなどないという正攻法で仮定はしていた。
そのため、ヤツデはヨモギの家を調べさせてもらった時にその成果について『まずまずです』と言っていたが、実際はなんの証拠もなかったので、そのことはヨモギにも言えなかったのである。
「その可能性は確かに否定できませんが、犯行には本当に合鍵が使われたかどうかの証拠はあるのですか?ヤツデさんのおっしゃっていたとおり、犯人はその合鍵を処分してしまっていたら、ヤツデさんの推理は証明することがもはや不可能ですよね?」ヤマガキはヤツデが話を続ける前に当然の疑問を提示して口を挟んだ。モミジは父親のヤマガキの発言を黙って咀嚼している。
「はい。おっしゃるとおりです。現時点では証拠がない以上は単なるぼくの妄想にすぎない場合も考えられます。ですが、密室には穴があったということだけは頭に入れておいて頂きたかったんです。それにです。こちらは順を追って説明しないとまだ、お話しできませんが、仮に、犯人は今の方法を使っていなかったとしても、実は密室の謎を解く方法はもう一つあるんです。それはもう少しぼくのお話を聞いて頂けると説明させてもらうことになると思います。ですから、密室の件は忘れて頂いて話を先に進めさせてもらいます。ぼくは『白と黒の推理』というもので考え出しました。『黒の推理』とはこの人は黒だろうかというような疑念の推理です。『白の推理』とはこの人は白だろうというような信用の推理です。ツバキさんは遺書を残して亡くなりました。とはいっても、他殺には自発的な本物の遺書が存在する訳はありません。しかし、ぼくはツバキさんの偽物の遺書の内容の一節を信じてみることにしました。これはようするにぼくの言うところの『白の推理』です。ぼくは『自分にはモクレンさんの死について責任がある』という部分に着目しました。ぼくはなぜ信じるのかというと特に理由はありません。強いて言うなら、申しあげたとおり、『白の推理』とはなんでもかんでも信じることによって考えを進めるものだからです。つまり、ぼく独自の考え方という訳です」ヤツデは言った。ヨモギは結論を急いだ様子で勢い込んだ。
「ヤツデさんはやはり家内がモクレンさんを殺害したとおっしゃりたいのですか?」
「いいえ。自分には責任があるという言葉には直接に手を下したという意味合いだけとは限りません。あるいは自分のした行為によって結果的にモクレンさんが自殺してしまったというケースも十分に考えられます。今回の事件ではモクレンさんが自殺をした表向きの理由は職を失ったというものでした。ツバキさんはそういった状況に置かれていたモクレンさんを恐喝していたことによって追いつめてしまった結果的として死に追いやってしまったのです。トイワホー国では失業者に対する保護は『安心ワーク』を始めとして万全が期せられています。それにも関わらず、ヤマガキさんのお話では亡くなる前日のモクレンさんはびくびくしていたということでした。それは職を失ったからではなくてそれよって恐喝者にお金を払うことができなくなってなんらかの秘密が暴露されることを恐れていたからだと推測できます」ヤツデは言葉を切った。ツバキは恐喝をしていた。ヨモギはそのことを理解するために時間がかかった。しかしながら、ヨモギはようやく理解をすると、これは悪い夢なのではないだろうかと思った。あるいはヤツデが真実とかけ離れた話をしているのかもしれないとヨモギは思い込んでしまった。しかし、ヤツデには絶対的な自信があって言っている。今のヤツデはヨモギとツバキの寝室のクローゼットを調べた時のことを思い出している。あの部屋には高価なブランド品らしきものが多すぎるとは行かないまでも多かったこともこの推理を裏づけることになっている。つまり、ツバキは一目瞭然とは行かないまでもやや分不相応な買い物をしていたということである。その資金はどこからきているのか、問題はそこなのである。ヤツデはアカネに対して聞いたところによると、ツバキは別にお金持ちの娘という訳でもないという話が出いたが、ここではそのことも重要になってくる。ビャクブは遺産相続の金額の多寡の問題に焦点を当てて考えていたが、ヤツデはそうではなくてツバキの裕福さを気にしていたのである。
「ヨモギさんとツバキさんの寝室を拝見した時のお話です。クローゼットには高そうな品物がいくつも目につきましたが、それについてはヨモギさんに心当たりはありますか?」ヤツデは落ち着いている。
「クローゼットには私のものはあまり入っていないので、私はクローゼットを滅多に開けないのです。ですが、私は見てもそれが価値のあるものだと、断定はできなかったと思います」ヨモギは戸惑いながらもちゃんと答えた。アスナロは不安そうにして父のヨモギのことを見つめている。
「実はそれについては同感です。ぼくは高そうだなと思っただけであって本当にそうかどうか、それは価値のわかる人に確かめてみないとわかりません。ぼくなんかの意見は聞き入れられるかどうかはわかりませんが、問題の服やバッグは調べれば、おそらくはすぐにわかることです」ヤツデは言い切った。
「ああ。それと、家内は家計簿をつけてしっかりと家計をやりくりしてくれていたので、私はそんなことを露ほども思っていませんでした」ヨモギは完全に落胆してしまっている。
「はい。ヨモギさんのおっしゃりたいことはよくわかります。ツバキさんはブランド品の服やバッグもヨモギさんと一緒に外出する時はなるべく身につけないようにしていたのかもしれませんからね。ですが、そう考えると、ツバキさんは初めてぼくとお会いした時に『殺人』というワードに対して妙に敏感に反応されていたことにも説明がつくんです。間接的とはいっても、ツバキさんにはモクレンさんを死に追いやってしまったことについて責任があると、ツバキさんは考えていたのだと思います」ヤツデは言った。
ヨモギは『しかし』と言ったきりやや平静さを失った様子で絶句をしてしまった。ヨモギはまだこの事実を受け止めきれていないのである。しかしながら、ヨモギはできるだけ気を落ち着かせた。
「俄かには信じがたい話ですが、それでは何に対して家内はモクレンさんをゆすっていたというのですか?私の見た限りでは家内とモクレンさんは確かに懇意な間柄ではありましたが、家内とモクレンさんにはそのような秘密を知りえるほどの接点はなかったと思うのですが」ヨモギは自分の意見を主張した。
「ツバキさんは秘密をどうやって知りえたかはともかく一年前に起きた一連の空き家の放火事件の犯人はモクレンさんだったんです」ヤツデは皆がびっくりするようなことをなんでもないことのようにして言って退けた。シロガラシはそれを受けると誰よりも驚嘆してしまった。シロガラシは年賀状を送ってくれることもあってモクレンのことはすごく気に入っていたからである。
ミツバの驚きはもちろん並大抵のものではなかった。モクレンとは話したことはあるが、ユリは驚くよりもヤツデの話の続きが気になっている。チコリーは信じられないといった様子である。
「となると、モクレンさんは間違いなく自殺だったという訳ですか?モクレンさんとツバキは連続殺人犯によって殺害された訳ではないということになりますわな?」ヤマガキは少し間を開けてから鋭い指摘をした。それについてはビャクブにも異論はなく話を理解することができた。
「そういうことになります。ヤマガキさんのおっしゃるとおり、モクレンさんはゆすりに対するお金が払えなくなってしまって自らの罪が暴かれてしまうことを恐れて自殺をしてしまったということになります。モクレンさんの家からは近いとはいっても、カシ山での空き家の火事は山火事には至らずにすんだという事実は偶然にしてはでき過ぎています。モクレンさんはたぶん建物に火をつけて頃合いを見計らってから自分で消防車を呼んだのではないかと思われます。つまり、ツバキさんはその現場を見るかなにかをしてモクレンさんの犯行を見抜いてゆすりを働いていたのです。そうすると、放火事件の起こらなくなった理由は犯行がバレたからということにもなります。ツバキさんはモクレンさんが犯人であることを知っているのですから、もしも、モクレンさんはそれからも犯行を続けるようなら、おそらくはツバキさんも黙っているとは限りませんからね。仮に、そうではなくても、そんなことをすれば、モクレンさんは弱みを自分で増やしてしまって自分の首を自分で絞めてしまうことになります」ヤツデは言い切った。
「ヤツデさんのお話には確かに筋は通っていますが、それでは家内が恐喝をしていたという証拠はあるのですか?」ヨモギは聞いた。ヨモギにとっては当然のことながら妻のツバキが恐喝を働いていたということを信じたくはないので、ヨモギは決定的な証拠がないと信じることができないのである。
「ぼくはもちろん証拠があってツバキさんが恐喝を働いていたと考えるに思い至りました。モクレンさんはツバキさんに対してお金を支払う際には銀行での振り込みの可能性は低いでしょうから、証拠はもしかするとツバキさんがへそくりとして貯めていた現金にモクレンさんの指紋が残っているという可能性があります。ですが、この場にはそれ以前にナズナさんという証人がいます。そうですよね?」ヤツデは突然に指名をした。今度はどんな展開になるのか、シロガラシは固唾を呑んで見守っている。
「はあ?ヤツデさんはなんで私に話を振るの?」ナズナは素知らぬ顔をしている。現在のナズナは皆の注目を集めている。ヤツデは次の矢を放とうとしたが、ヤマガキはその前に援護射撃をした。
「ぼくにはヤツデさんがなんの根拠もなしに名指しをするとは思えない。君には本当に思い当ることはないのかい?」ヤマガキは皆を代表して聞いた。離婚届はまだ提出をしていないので、今のところのヤマガキはナズナの夫なのである。モミジはこの後の展開を予想して空恐ろしくなってしまっている。
「私には全く意味がわからない」ナズナは相も変わらずに知らん顔をしている。
「いいえ。意味はきちんとわかるはずです。生前のツバキさんとは残念ながらほんの少ししか言葉を交わすことはできませんでしたが、ぼくは色々な方から話を聞いてツバキさんの大体の人物像を掴むことはできました。ツバキさんはおそらくぼくの至った結論によると一人で恐喝という犯罪行為に手を染めるタイプではありません。となると、ツバキさんには共犯者が必要になります。ツバキさんはコニャック村において特に信用している人物と言うとアスナロくんを除けば、夫のヨモギさんか、あるいは親友のナズナさんのどちらかではないかとぼくは考えました。ぼくはそこでツバキさんの共犯者がナズナさんであると確信した理由を今から申し上げます。ぼくはナズナさんに先程『一年前に起きた放火事件についてなにかご存じのことはありますか?』とお尋ねしました。ナズナさんはすると『私には愉快犯のやることなんて興味もない』とおっしゃいました。話は変わりますが、このことは皆さんもご存じのことかと思います。コニャック村では怪盗が出没していました。この事件では僭越ながらぼくも関係をして解決もさせてもらいました。ぼくはその怪盗の動機について考えている時に初めに愉快犯ではないかと考えました。ところがです。それは掘り下げて考えてみると違いました。ここではその動機は本筋とは離れているので、明言はしません。話は元に戻します。ナズナさんの先程のセリフにはよくよく考えて見るとおかしな点が一つあります。放火の動機には怪盗の動機と同じで必ずしも愉快犯だけとは限りません。例えば、放火犯は火を見て楽しみたいからとか、もしくは社会への不満があるからといったようにして他にもあります。それにも関わらず、ナズナさんはどうして愉快犯と言い当てられたのでしょう?答えは放火の犯人であるモクレンさんから聞いていたからです。ナズナさんはモクレンさんが放火犯だとご存じだったことを裏づける事実はもう一つあります。モクレンさんはミツバさんに対して『ツバキさんとナズナさんは心を許してもいいのか、ぼくにはわからない』と言っていたそうです。すなわち、これはモクレンさんがナズナさんとツバキさんの二人を怖がっていたということになります。その理由はもちろんモクレンさんがナズナさんとツバキさんのお二人に恐喝をされていたからです。モクレンさんの口からはそれがミツバさんと一緒にいる時に本音として出てしまったのではないかと思われます」ヤツデはここで言葉を切った。
「だから?私は確かにモクレンさんの犯行を目撃したわよ。私はそしてツバキに話を持ちかけて二人でモクレンさんをゆすっていた。モクレンさんからはどうして放火をやったのかも聞きました。でも、私はモクレンさんをゆすっていたこととツバキが殺害されたということの二つにはどういう関係があるというの?一体」ナズナは問い質した。ナズナはしかも恐喝をしていたことを認めたのである。
「関係は大いにあります。ツバキさんは初めてぼくとお会いした時に『愛の伝道師』であるぼくに対して相談事があるというようなことをおっしゃっていました。それではツバキさんは『愛の伝道師』のぼくになにを相談されようとしていたのでしょうか?ぼくはここで『黒の推理』を使いました。つまり、ぼくは色々な可能性を考えてツバキさんの悩みの種になりそうなことを片っ端から考えて行ったのです。ツバキさんはゆすりを行ってしまって結果的にモクレンさんを死に追いやってしまったことをツバキさんの悩みと照らし合わせてみれば、答えは自ずと出てきます。ツバキさんは罪の告白をしようとしたのです。それに、モミジくんの証言では死の前日のツバキさんは元気そうにしていたそうです。ぼくは少し自惚れているかもしれませんが、あれはたぶんぼくと出会ってそれで万事が解決する訳ではないとはいっても、とりあえずは悩みを打ち明ける相手ができたからだったと考えることができます。少なくとも、ぼくは罪を告白するに当たってツバキさんの背中を押してあげることができたと思います」ヤツデは誰か質問を持った人はいないかどうかを確かめるために少しの間を置いた。しかし、結局は誰も口を挟まなかった。
「ツバキさんは恐喝してしまった罪を白日の下に照らそうと考えていた可能性はアスナロくんの話を聞いていてもわかります。アスナロくんのお話では数日前のツバキさんは塞ぎ込んでいました。数日前というのはおそらくモクレンさんが亡くなったということをツバキさんが知った日だと思います。つまり、ツバキさんはモクレンさんが亡くなったのは自分のせいだと思って悩んでいたんです。ここでは一つの問題が発生します。それはツバキさんに自首されることは共犯者であるナズナさんにとっては致命的だということです。ナズナさんにとっては直ちにツバキさんの口を塞がなくてはなりません。ナズナさんは悩みを持っているという話はどこからも出てこないので、ナズナさんにはやはりツバキさんと違って犯行を告白するつもりはなかったのだと思います。となると、ナズナさんにはツバキさんを殺害する動機があったということになります」ヤツデは順を追って丁寧に説明をした。アカネはポカンとしている。
「それじゃあ、今回の事件の犯人はナズナさんだったのか」ビャクブは唖然とした様子で言った。
「うふふ」ナズナは嘲笑をした。「バカらしい話ね。犯人は私なはずがないじゃない。私には予告殺人の対象になっていて警察官に警護されていたっていう鉄壁のアリバイがあるのよ。私は辛抱強くヤツデさんの話を聞いていてあげていたけど、結局は核心には行き当らなかったみたいね。ヤツデさんは私とツバキの脅迫の事実を暴いたことだけは褒めてあげるけどね」ナズナは高圧的な態度である。
ビャクブはそれを受けるとちゃんと反論をすることができるのだろうかとヤツデが心配になった。ヤツデの推理力は信じているが、ヤツデは気がやさしいということも十分に知っているので、ビャクブはヤツデがナズナによって言い負かされないかを心配したのである。ヤツデは落ち着き払っている。
「予告殺人にはどんな意味があったのかには嫌というほどにぼくも考えさせられました。ですが、ぼくはちゃんと答えを見つけることができました。第一に、予告殺人はツバキさんの殺害に対するカムフラージュという意味があったと思います。まずは皆の目をナズナさんに向ける。しかし、ナズナさんは殺害されない。となると、捜査する側は後手に回ってなおかつ煙に巻かれたような状態になってしまいます。ところが、予告殺人にはそれだけではなくて第二の意義があったのだと思います。もしも、ナズナさんとツバキさんはモクレンさんのことを脅迫していたことに気づく人が出てきたとしても、つまり、ナズナさんには動機があるということがバレたとしても、ナズナさんは自ら予告殺人の対象になることによって疑われずにすむための布石だったのです。ですら、ナズナさんは普通に考えると犯人ではないということになります。ぼくもナズナさんは実際にツバキさんを殺害していないと思います。ですが、ナズナさんはツバキさん殺害事件の犯人です。どういうことかというと、ナズナさんはあくまでも首謀者であってこの事件にはナズナさんの他にもツバキさんを殺害した共犯者がいたとぼくは考えています。そう考えると、事件の当日は予告殺人の対象になったのにも関わらず、ナズナさんは自由に出歩いていたことにも説明が行きます。ああ。このお話はご存じない方もいらっしゃるかもしれませんが、ナズナさんは予告殺人の対象になった日にシロガラシさんの家を訪ねてミツバさんと会っているんです。つまり、ナズナさんには自分が殺される訳はないという裏づけがあったから、ナズナさんはそんなことができたのです。もしも、そうでなければ、そんなにも軽率な行動はいくらしっかり者のナズナさんでも取れなかったのではないかと思います」ヤツデは到って冷静である。シロガラシはむしろヤツデよりも緊張をしている。
「ここまでの説明はよくわかったけど、それじゃあ、そのナズナさんの共犯者っていうのは誰なの?」アカネは他の皆の疑問を代弁した。一同はヤツデの次の言葉を粛然として待った。
「犯人としての条件はナズナさんのために決死の覚悟で犯行を行うことができた人物です。その人物とはモミジくんただ一人だけです。つまり、ナズナさんの共犯者はモミジくんです」ヤツデは指名をした。この場はそれを受けると電撃が走ったかのような衝撃が訪れた。
「なんだって?」ビャクブは言った。「犯人はモミジくんなのかい?」ビャクブは驚いてしまって思わず聞き返した。ユリは思わず『そんな』と言ったきり絶句をした。モミジは怪盗アスナロとして犯行を行っていたが、ユリも実はモミジが殺人にまで手を染めていたとは信じられないのである。
シロガラシは当然のことながら驚愕して口を半開きにして固まってしまっている。チコリーとミツバは驚きよりもショックを受けている。とはいっても、モミジの父親であるヤマガキは一番に驚いている。アカネは再びきょとんとしている。ヨモギは閉口をしている。ヤツデはこの場にいる人たちが少し落ち着きを取り戻したのを見て再び口を開こうとした。しかし、ナズナは先を越した。
「ヤツデさんはよくもそんなふざけたことをさらりと言えるものね。ヤツデさんは理由もなくそんなことを言っているのなら、モミジは名誉棄損で訴えられるのよ。その覚悟はできているの?」
「はい。ですが、その心配はないと無用です。なにしろ、ぼくにはきちんとした証拠があります。ツバキさん殺害事件の前の日の夜のはなしです。ヤマガキさんは家のテーブルでロープを発見したそうです。その時のヤマガキさんは絵の具のついたままの手で触ってしまってロープには色が移ってしまったそうです。そうでしたよね?間違いはありませんよね?」ヤツデはヤマガキに対して重々しく確認をした。もしも、この事実は間違っていたら、状況は一転してしまってモミジが犯人であるという可能性は低くなってしまうからである。しかしながら、ビャクブは不可解な点に気づいた。
「ええ。ヤツデさんのおっしゃるとおりです。間違いはありません」ヤマガキはかろうじて答えた。ヤマガキはもはやパニック状態である。ヤツデはそんなヤマガキに対して微笑みかけた。
「もしも、その色の移ってしまったロープはツバキさんの首に巻き付けられていたものと同じであったとしたら、どうでしょう?ナズナさんにはお話に出たようにして鉄壁のアリバイがあって犯行は不可能でした。仮に、ヤマガキさんは自分でうっかりと絵の具をつけてしまったのなら、そのロープは犯行には利用しなかったでしょうし、そのことにはあとで気づいたのだとしても口に出すのは警察がそれに気づいた時点でも遅くなかったでしょう。それに、ヤマガキさんはむしろそんなことを口走れば、犯人はヤマガキさんとモミジくんの二人のどちらかだと絞り込めてしまいます。ですから、犯人はヤマガキさんなら、ヤマガキさんはそんなことを口にしない方が自然です。つまりは以上の理由からその絵の具のついたロープを使えたのはヤマガキさんの家に住むモミジくんだけということになるのです。その確認は警察で簡単にできると思います。それはたぶん拒否されないはずです」ヤツデは言った。
ヤツデの推理は完了したので、ヤツデのことは賞賛するべきだが、ビャクブはあまりにも明かされた真実が予想外だったためにただ茫然としていることしかできなかった。
これは最初からわかっていたこととはいっても、コニャック村の事件は解決されたとしても被害者遺族であるヨモギやアスナロの傷は癒える訳ではない。ヤツデの辿り着いた結論はむしろ真相がわかる前よりも残酷なものかもしれない。それでも、ヤツデは勇気を出して話をしたのである。
それに、実はまだヤツデとモミジにしかわかっていない裏に隠された本当の真実も存在する。コニャック村の村民はそのことを知った時の驚きは今以上のものになることは間違いない。
しばらくは沈黙が場を支配した。モミジの表情には変化は見られないが、ナズナはヤツデに対して明らかに敵対心の籠もったような目つきを向けている。ただし、ヤツデはナズナと目を合わせてはいない。
ヤツデの言ったことは事実なのかどうか、仮に、それは事実なら、モミジはそこまでして母のナズナを救おうとする本当の動機はなんなのかとヨモギは混乱した頭で考えを巡らせている。
ヨモギは混乱しながらもモミジにはおそらく母のナズナを守るためになにかしらの深い理由があったのではないだろうかとすでにそこまで思考を巡らせている。
一方のアカネは唖然としている。モミジは成人していないので、まさか、アカネは子供が殺人犯だったなんて思いもしなかったのである。それはビャクブも右に同じである。
ヤツデはというとなにかを祈るようにして目を閉じて身動き一つしていない。とりあえず、ヤツデは話を休めることにしているのである。ソテツはそんな中で沈黙を破った。
「しかし」ソテツは言った。「ヤツデさんはなにかの勘違いをされてはいませんか?ヤツデさん先程からは『凶器はロープだ』とおっしゃっていますが、実際には犯行に使われたのは確かバス・タオルのはずではありませんでしたか?」ソテツは何気ない口振りで疑問に思ったことをそのまま口に出した。
「ソテツさんはついにボロを出してしまいましたね?」ヤツデは瞳を開けるとすぐさま反応をした。
「なんですって?」ソテツはやや不機嫌そうにして聞き返した。
「犯行にはバス・タオルが使われたという事実を知っている人物は限られています。その人物とはツバキさんの遺体の第一発見者であるアカネさんと第二発見者のぼくとビャクブとバス・タオルが家のものであるかどうかを聞かれたヨモギさんです。それ以外は警察関係者のみです。ぼくはきちんと先程に確認をしましたが、ヨモギさんとアカネさんは誰にもこのことを話していないとおっしゃっていました。ぼくとビャクブも当然のことながら話してはいません。凶器のことはもちろん警察の方が話していたとも考えられません。となると、それ以外の人間は基本的にツバキさんが殺害される時に使われた凶器がなんなのかを知らないはずです。ですが、ただ一人の例外は犯人だけです」ヤツデはソテツを見据えた。
「そして」ヤツデは言った。「その例外の人物はモミジくんではなくてソテツさんでした。つまり、ツバキさん殺害事件の犯人はソテツさんだったということです」ヤツデは理路整然と事実を突きつけた。
ソテツの顔色は見る見る内に青ざめて行った。よく考えてみると、仮に、絵の具の件は真実であったとしても天下の警察が今まで全くそんなことを言ってこなかったというのは明らかに不可解である。
だが、今のソテツにはそんな矛盾についても冷静に分析できる心理状態ではないのである。ヨモギはそんな実の弟のソテツを見ながら追い打ちをかけるようにして口を開いた。
「おい。それは本当なのか?あの凶行はソテツのやったことだったのか?」ヨモギの声は少し衝撃の大きさ故に震えている。この場の者は一様にしてソテツの口から漏れる言葉を待った。
「ああ。そのとおりだよ。ぼくはツバキ義姉さんを殺した真犯人だ」ソテツは達観した様子で言った。
ソテツはヤツデからツバキの死の報せを聞いた時に頭を抱えてしまっていたが、あれは義理の姉の死の報せを聞いたからではなかったのである。つまり、ツバキは自殺ではなくて他殺だということを早くもヤツデによって見抜かれてしまったから、ソテツは実を言うと頭を抱えていたのである。
ヨモギは実弟の口から飛び出した驚愕の事実を受け止めるのに時間がかかった。だが、その間は誰も口を挟まなかった。というより、この場の者は空気が重すぎて誰も口を挟めなかった。
「おれには全く信じられない話だ。なぜだ?ソテツはなぜそんなことをしたんだ?ソテツにはなぜそんなことができたんだ?ツバキとはソテツも仲がよかっただろう?」ヨモギは悲しげな口調で口を開いた。
「ぼくはモクレンの死という友人の身に起こった悲劇を押し殺してでもナズナへの真実の愛を証明したかったんだ。ナズナのためなら、ぼくは全てを投げ打ってもいいと思った。だから、ぼくはナズナの窮地を救ったんだ。例え、ぼくの愛はそれが殺人という形を取っていたとしてもだ」ソテツは言った。
「私達は事件のほとぼりが冷めた頃に入籍するつもりだったのよ」ナズナは口を挟んだ。
「しかし、これはおかしな話だ。ぼくとナズナの関係は決して表沙汰にはしなかったはずだ。ぼくは罠にかかったのは偶然なのですか?それとも、ヤツデさんは元々ぼくが犯人だと知っていたのですか?」ソテツは不思議そうにしている。ヤツデはコニャック村の村民でさえも知らなかった事実を知っていたことは確かに不思議なので、シロガラシとミツバはヤツデの言葉に注意深く耳を傾けている。
「はい。ぼくは知っていました。ぼくは離婚をしたら、モミジくんはナズナさんがお引き取りになるということをヤマガキさんから聞いていました。ですから、ソテツさんの愛情はナズナさんの子供のモミジくんにまで及んでいることを信じて嘘の証拠を示すようなことをしてしまいました。そうすれば、ソテツさんはおそらくぼくの嘘の推理の決定的な間違いを指摘してモミジくんを庇うだろうと思ったからです。今回は真実を明るみに出すためとはいっても、ぼくは騙すようなことをしてしまってどうもすみませんでした。ですが、実はソテツさんとナズナさんのお二人には関係性があるという事実を知ったのは推理によるものではありません。それはビャクブのお手柄です。そうだよね?」ヤツデはビャクブが話やすいようにして軽い口調で話を振った。ビャクブは唯一の見せ場を貰って話を始めた。
「ああ。ツバキさんの殺害される日の前夜のことです。これはいつものことなんですが、おれは中々寝つけないで外をブラブラしていたんです。そしたら、ソテツさんの家には誰か女性が入って行くところが見えたんです。その時はそれが誰なのか、おれにはわかりませんでしたが、おれはナズナさんとお会いした時になって昨夜に見かけた女性が目の前にいる女性だったということに思い至りました」ビャクブは落ち着いた口調で言った。ヤツデはこのことを警察に通報しようかと迷った。
しかし、ヤツデはビャクブとも相談をして事件とはなんら関係がなければ、その行為はプライバシーの侵害になってしまうので、結局は止めておいたのである。ソテツは吐息をついた。
「なるほど」ソテツは言った。「実は思わぬ場所に落とし穴があった訳だ。ぼくはそもそも遺書まで用意をしたのにも関わらず、ヤツデさんにはあんなにもあっさりとあんなにも早く義姉さんが自殺したという偽装工作が破られるというのも大きな誤算でした」ソテツは肩を落としている。一方のヨモギはまだ呆然としている。共犯のナズナは余計なことを口走らないようにとだんまりを決め込んでいる。
「モクレンさんはソテツさんと会う約束をしてから自殺しました。それはたぶんソテツさんへのSOSだったと思われます。ソテツさんはそれついてお気づきにはならなかったのですか?ソテツさんはそれに気づいていれば、今回の悲劇は初めから起きなかったはずです」ヤツデは真剣な口調で問い質した。
「ぼくは残念ながら気づきませんでした。恋は盲目と言いますからね。ですが、ぼくも内心ではモクレンのことをわかってあげられなかったことは後悔しています。それで?ヤツデさんはいつからぼくを疑い始めていたのですか?一体」ソテツは質問をした。ソテツはヤツデの推理に対して白旗を上げている。
「疑惑のきっかけは金魚の写真を取りに行かせてもらった時です」ヤツデは答えた。
「あの時のぼくはなにかを言ったり、あるいはやったりしましたか?」ソテツは聞いた。
「いいえ。その逆です。あの時のソテツさんはツバキさんがいつ頃に亡くなったのかを聞かなかったんです。ソテツさんは予告殺人のニュースを知らなかったとしても、それくらいは聞いてもよさそうな状況でした。おそらくはソテツさんもご存じだったのだと思いますが、仮に、ソテツさんは予告殺人のニュースを知っていたならば、予告殺人の対象者はツバキさんだったのかどうかを普通に考えると確認しようと思うはずです。それにも関わらず、ソテツさんはそうしませんでした。ぼくはそこに少し違和感を覚えたんです。ソテツさんはひょっとしてツバキさんが亡くなる時間を予想していたか、あるいはなんらかの理由で知っているのではないだろうかとぼくは考えたんです。とはいっても、ソテツさんはもちろん単に聞き忘れたということも十分に考えられます。ですが、ソテツさんは怪しいと思い始めたのはその時が初めでした」ヤツデは気取らずに言った。ヤマガキとモミジはヤツデの慧眼に対して大いに感心をしている。
結局は終わってみるとヨモギが靴磨きを玄関に置きっぱなしにしていたことやアカネがツバキにテレビ番組の録画を予約してもらっていたことの二つには深い意味はなかった。ようは謎を解くためには得られた情報について大事なものとそうでないものを選りわけることが重要になってくるという訳である。
「そうでしたか。それはまたぼくの凡ミスですね。ぼくの完敗です」ソテツはそう言うと突然に傍にいたビャクブに掴みかかろうとした。しかしながら、ヤツデはポケットから取り出したソテツの右手を蹴っ飛ばした。その時である。ソテツの手からはなにかが飛び出して床に転がった。
チコリーは思わず『きゃー!』と悲鳴を上げた。ナズナはするとソテツの元から飛び出したものを拾い上げた。しかし、ナズナの行為はそこまでだった。ヨモギはナズナの手から拳銃をもぎ取った。
「悪足掻きはもうよしましょうよ。ゲーム・オーバーです」ヨモギは最後通牒を言い渡した。ナズナは力が抜け落ちたようにして頽れた。ソテツはヤマガキとヤツデの手に寄って取り押さえられている。
「シロガラシさんは警察を呼んで下さいませんか?」ヤツデはクールに言った。シロガラシはまだ今一目まぐるしい状況の把握ができていないが、とりあえずはヤツデのお願いを聞き入れた。
「ええ。わかりました。わしはすぐにそうさせてもらいます」シロガラシはそう言うと大急ぎで電話のところへと向かった。チコリーとユリは怯えてしまってミツバのところで寄り添っている。
とりあえず、ビャクブは父親のヨモギと一緒にシロガラシが警察を呼んでいる間にはアスナロの傍へと行ってアスナロに寄り添ってあげることにした。アスナロはヨモギとビャクブにくっついている。
今回の自分はあんまり役に立っていないみたいなので、それくらいの気使いはしておいた方がいいのではないだろうかとビャクブは少し引け目を感じているのである。
一方のアカネは手持ち無沙汰で突っ立っている。アカネはツバキが拾い上げようとしたものが拳銃であることに気づくとぎょっとしたが、結局は丸く収まるだろうと思って一人だけ余裕である。
現在はまだ家に帰った者はいないので、今もシロガラシの家にいる顔ぶれは先程までと変わらないままである。警察はまだ到着をしていないが、ソテツとナズナの二人はヨモギの提案によってこれ以上はよからぬことを企めないようにするために個室に隔離されることになった。とはいっても、ソテツはヤツデとヤマガキによって取り押さえられていたのだが、そのソテツには反抗しようという素振りはなかった。
そのため、ソテツには逃亡の恐れはないだろうとヤツデは思ったが、念には念を入れておいた方がいいので、ヤツデは先程のヨモギの提案に対して反論をしなかったのである。
一方のナズナは今回の事件のもう一人の犯人である。抵抗はしなかったが、ナズナの態度は強気で未だに事件が解決してしまったことに対しても未練がましい心境のままである。
「そう言えば、拳銃はどうなったのかしら?今は誰が持っているの?」アカネは聞いた。
「銃はまだ私が持っているよ。だが、アカネちゃんはそうびくびくすることもないだろう。この銃は本物に似せて作られているが、これはおもちゃのモデル・ガンだ。これは銃口もしっかりと塞がれている。とはいっても、そのことは私もナズナさんから奪い取るまでは気づかなかったけどね」ヨモギは先程よりもゆとりのある表情で言った。アカネはその話を聞いて安堵の表情を浮かべた。
「ヤツデさんはどうしてソテツさんが拳銃を持っていることに気づいたの?」ユリは聞いた。
「いや。ぼくはソテツさんが拳銃を持っているなんて知らなかったよ。ぼくは知っていたら、拳銃は暴発の危険があるから、あんなことはしなかったよ。まあ、結局は偽物なんだから、暴発はするはずなかったけどね。ぼくはとにかくまさか拳銃が出てくるとは予想していなかったよ。ぼくはせいぜい刃物かなと思っていたんだよ」ヤツデはしみじみと答えた。この場にはビャクブとヨモギとヤマガキという頼れる大人の男が自分の他にもに三人もいるので、ヤツデは現在も余裕の表情である。
結局のところは腕に自信がないので、ヤツデは他人任せだったのである。つまり、もし、ヤツデは自分がピンチになってしまったとしても、誰かしらは自分を助けてくれるだろうと楽観をしていたという訳である。とはいっても、それは確かに事実である。ビャクブはそんなヤツデの胸中を察した。
「それじゃあ、ヤツデさんはどうしていきなりソテツさんがビャクブさんを襲うなんていうことに気がづいたの?ヤツデさんにはまるで予知能力があるみたいだったよ」チコリーは言った。
「ぼくにはもちろん予知能力はないよ。ただ、ソテツさんは妙にそわそわしていたから、ぼくはソテツさんがこれからなにかをする気なんじゃないかなと思ったんだよ」ヤツデは少し自信なさげである。
だが、今回は時節に合わせて格好よく言うと一葉が落ちて天下の秋を知るである。ヤツデは予兆を見逃さなかったという訳である。ユリはさっきまでのヤツデの覇気はどこへ行ったのだろうと思っている。
「でも、ソテツさんはなんでおれに襲いかかろうとしたんだい?」ビャクブは聞いた。
「ソテツさんはたぶんたまたま近くにいたビャクブを人質にとってナズナさんと一緒に逃げ果せる気だったんだと思うよ。そうですよね?」ヤツデはソテツとナズナのいる個室に近づいて行ってからソテツに対して話しかけた。ヤツデたちの一同はソテツのいる個室の隣の部屋にいるのである。
「ええ。おっしゃるとおりです」ソテツからは力のない返事が返って来た。
「あの時は緊急事態だったとはいっても、ぼくはキックなんてしてすみませんでした。おケガはありませんでしたか?」ヤツデは殺人犯のソテツに対してやさしく問いかけた。
「ええ。ケガは特にありません」ソテツはそっけなく答えた。ヤツデは別にキック・ボクシングの経験者でもないので、ヤツデのキックには大した威力はなかったのである。
「ぼくはソテツさんに申し上げておきたいことがあります。ぼくにもソテツさんがナズナさんを愛する気持ちはよくわかりました。ソテツさんは『恋は盲目だ』とおっしゃいましたよね?ですが、ソテツさんは改めて周りをよくご覧になって下さい。この世には誰とも繋がっていない人はいません。ソテツさんの殺害したツバキさんにはツバキさんを愛するヨモギさんとアスナロくんがいます。ソテツさんは最後にビャクブのことを人質に取ろうとされましたが、ビャクブには家族がいます。ビャクブはそしてぼくにとっての恩人なんです。そのことはどれほどにソテツさんがナズナさんを愛していようとも決して壊してはいけないかけがえのない絆なんです。ナズナさんのことは全てを投げ打ってでも守ろうとされたソテツさんなら、その絆の大切さはおわかりになれるはずです。ぼくは人間が別の人間に愛情を注ぐということはものすごく尊いことだと思っています。ですが、人はそれだからといってその過程で第三者を傷つけたりましてや殺めたりするようなことがあってはなりません。愛情は大切ですが、その愛情は一人の人間だけに対して持ち続けていればいいというものではありません。ぼくたちは一人の人間に対して大きな愛情を持っていたとしてもそれ以外の人間に対しても愛情を持ち続けなければならないものなんです。なぜなら、人間は自分と自分の愛する人だけで生きていける訳ではないからです。ソテツさんはそれを今すぐに理解しようとするのが難しくても、愛情は自分だけではなくて他人も抱くということやその世界を包む愛情もかけがえがないほどに大切だということに気づいてください。どうか、ソテツさんは他の人の抱く愛情にも気を配れるようになって下さい」ヤツデはそう言って話を結んだ。ヤツデはさすがに『愛の伝道師』だけあって口上を述べることはうまいのである。ビャクブはそれを受けると思わず感動をしてしまった。
「一応は言っておくけど、私はヤツデさんの説教なんて聞きたくないので、あしからず」ナズナは冷ややかに噛みついてきた。ナズナはあまりにも冷淡なので、チコリーは少し恐怖を覚えた。
「わかりました。ですが、ぼくは説教をしたつもりはありませんよ」ヤツデは少し悲しげである。
「私には一つ気にかかっていることがあるのですが、家の中は密室だった件については本当に合鍵を使ったのですか?」ヤマガキは話に割って入ってきた。ソテツはそれに対してドア越しに答えた。
「ええ。ぼくは合鍵を使いました。ぼくは小説に出てくるような巧妙なトリックは使っていません。ただし、ぼくは先程のヤツデさんのお話に出てきた方法ではなくてもう一つの方法でスペア・キーを入手しました」ソテツは観念したようにして自供をした。しかし、アカネはあまり興味がなさそうである。
「ソテツはどんな方法を使ったんだ?ソテツはアカネのキーから番号とメーカーを書きとめたんじゃないのなら」ヨモギは言葉を切った。「まさか」ヨモギは思い当たる節があって動きが止まった。
「ヨモギさんのお察しのとおりだと思います。ナズナさんはツバキさんの親友です。一方のソテツさんはヨモギさんの弟さんです。ナズナさんとソテツさんはこの立場を利用すれば家に遊びにきた時にでも鍵の番号とメーカーを控えておくことはそれほどに難しいことではないはずです」ヤツデは淡々とした口調で話を継いだ。ヨモギはツバキが殺される三日前にツバキから聞いた話を思い出していた。それはツバキが買い物をしている間にナズナによって留守番をしてもらっていたという話である。これこそはツバキの生命に対して警鐘を鳴らす不吉な前兆だったのだろうとヨモギは確信をした。つまり、その時のナズナはツバキの持っている家の鍵を勝手に見つけ出して必要な情報をゲットしていたのである。なんにしても、ソテツの言っていたとおり、密室は大それたトリックなどというものではなかったのである。
「ヤツデさんはやはりそこまで見越していましたか。スペア・キーはその方法を使って手に入れはしましたが、ぼくは家に入る際には正面から兄さんの仕事関係のことで話があると言って義姉さんに鍵を開けてもらいました。その時には疑惑の目で見られるようなことは全くありませんでした。ぼくはそしてリビングへと案内されて義姉さんが飲み物を出してくれると言って奥へ引っ込んだ際に静かに脱衣所に行って洗濯物を入れる籠の中から適当なバス・タオルを一つ拝借しました。ぼくはこの日のために予め兄貴の家の内部事情をできるだけ収集していたのです。ですから、ぼくはこの作業で手間取ることはありませんでした。やがては義姉さんが返ってくると、ぼくにはその向こう側にある新聞紙が目に入ったので、ぼくは予告殺人について言及した上で見せてもらえませんかと聞いたのです。ぼくはそうして義姉さんの注意をそらしました。そのあとのことは触れたくありませんし、皆さんは誰も聞きたくもないでしょう。ぼくは義姉さんの遺体の傍に鍵を置きましたが、それは捜査を攪乱させるためでした。それ以外には特に深い意味はありません。ぼくはそして用意しておいた偽造の遺書を残して兄貴の家をあとにして合鍵を使って施錠をしたという訳です。先程はヤツデさんもおっしゃっていましたが、ぼくは犯行のために用意した兄貴の家のキーはとっくに捨ててしまいました」ソテツはそっけなく話し終えた。
「ぼくは最後にもう一つソテツさんにお聞きしたいことがあるのですが、ソテツさんは怪盗による事件の被害を警察に届け出るように進言されませんでした。それは犯人に対する同情心によるものだったのですか?それとも、ソテツさんは自らの罪の意識がそうさせたのですか?」ヤツデは真剣に質問をした。
「それは両方です。モミジくんには同情もしましたが、ぼくには後ろ暗いところがあったから、ぼくはそうせざるを得なかったというところもあったと思います」ソテツはしばし思考の間を開けてから比較的に穏やかな口調で答えた。モミジは複雑な思いで黙ってソテツの話を聞いていた。
「そうでしたか。わかりました」ヤツデはほんの少し表情を穏やかにして最後に言った。その答えはソテツの心が完全に悪に染まってはいないということを意味するからである。
その後はシロガラシの家にやってきた警察官に対してソテツとナズナの身柄を預けると、ヤツデとビャクブの二人はいよいよコニャック村の村民たちとお別れをすることになった。
「私にとっては家内がモクレンさんを脅迫していたなんて思いもよらないことでした。まさか、犯人は弟のソテツだったということも予想外でした。私は家族がそんなことをしているのにも関わらず、そんなことには全く気づかなかったなんてとんだ愚か者です。これからはもっと家族のことを気にかけて二度とそんなことが起きないようにしていこうと思います。しかし、おそらくは犯人を捕まえることができたことに関しては家内も浮かばれると思います」ヨモギはヤツデとビャクブに対して慎重な態度で言った。
「ヤッちゃんとビャッくんは犯人を捕まえてくれてありがとう」アスナロは改めてお礼を言った。
アスナロはもちろん自分をかわいがってくれていた叔父のソテツが犯人だったことはショックだし、少しは母のツバキが悪いことをしていたということも理解をしている。
しかし、なによりも、アスナロはヤツデとビャクブが自分たちのために死力を尽くしてくれたということもちゃんと理解しているので、今はアスナロも素直にお礼の言葉が言えるのである。
「それにしても、私はよくバッグを置き忘れる。あの私のエピソードは必要だったのかしら?結局は違う方法が使われていたじゃない」アカネは場違いにも少し頬を膨らませている。
「うん。それは確かにそうだね。ごめんね。ぼくは皆を説得するために必要だと思ったんだけど、あれはよく考えてみると必要なかったかもしれないね。ぼくは間が抜けているね」ヤツデは本当に申し訳なさそうである。ヨモギとアスナロはヤツデの茶目っ気のある笑顔を見て少し心が和んだ。
「ふふふ」アカネは微笑んだ。「そんなことは別にいいのよ。私はその程度でへそを曲げる程に心が狭くないし、そのエピソードのことはそもそも恥だとは思ってないしね。でも、私はヤツデさんとビャクブさんのことをちょっと見くびっていたみたいね。ヤツデさんとビャクブさんは本当に事件を解決しちゃうなんて最高のコンビね」アカネは褒め称えた。その意見は全く以ってヨモギも同じである。
「いやー」ビャクブは言った。「今回の事件では大したことをしていないから、おれは単なるトラの威を借るキツネだよ」ビャクブは謙遜をした。ヤツデはすかさずにビャクブのフォローをした。
「そんなことはないよ。今回の事件はビャクブがいなければ解決できなかったよ」ヤツデは言った。
「ぼくはヤッちゃんみたいなやさしい『愛の伝道師』になる」アスナロは恥ずかしげにして言った。
「そっか。でも、ぼくは人の目標になれるような器じゃないよ。ぼくなんかよりもっと世の中にはやさしくてもっと立派な人は一杯いるよ。ぼくはたくさんそういう人たちにアスナロくんが巡り合えていつの日にかお母さんを失った心の傷も和らいでいくことをお祈りするよ」ヤツデは言った。
「ヤツデさんとビャクブさんにはお二人には本当にお世話になりました。ありがとうございました。それではそろそろ私達はお暇をします。さようなら」ヨモギはそう言うとお辞儀をした。ヨモギはそしてシロガラシとミツバにも挨拶をしてアスナロとアカネと共に家に帰って行った。チコリーとユリはヨモギとアスナロとアカネの三人を外まで見送った。今回の事件はヨモギの家族にとって大きな打撃である。
なぜなら、母親のツバキは亡くなったからである。あろうことか、ツバキはその上に悪事を働いていたのである。しかし、ヤツデはツバキに対して悪いレッテルばかりを張らないでほしいと思った。
なにしろ、ツバキは自分の悪事に対して深く後悔をして反省の色を見せていたからである。犯罪はやらないに越したことはないが、人は失敗をしてしまう生き物である。
ヤツデはもちろんツバキの行いによってモクレンが亡くなってしまったことを軽視している訳ではない。面識はなかったとはいっても、ヤツデはモクレンの死を悼んでいる。しかし、反省の色は加害者にも見えるのなら、それは決して軽視をしてはいけないとヤツデはいつも思っているのである。
ヤマガキはヨモギとアスナロとアカネの次にヤツデとビャクブの元へとやって来た。ヤマガキの後ろにはモミジが控えている。事件は解決しても、ヤマガキの表情は妻のナズナが犯行に加担していたこともあって暗いままである。そうなると、モミジの心境はもちろんヤマガキと似たり寄ったりである。
つまり、ナズナは殺人事件を計画していた。その責任は家族である自分たちにもあるとヤマガキとモミジの二人は考えているのである。ヤマガキとモミジは義理堅いのである。
「私は夫婦として長年一緒にいながらナズナの暴挙に気づけませんでした。それは私の落ち度です。話はモミジから聞きましたが、私はしかもモミジの苦衷に気づけませんでした。私には反省しなければならないことがたくさんあります。しかし、これからはモミジと一緒に新しい気持ちでゼロからやり直して行きたいと思います」ヤマガキは決心を口にした。ナズナは今回の事件によってモミジの親権をヤマガキに任せることになる可能性は大いにありうる。ヤマガキはやさしい性格の持ち主だから、モミジの意見はもちろん尊重するが、自分には親としての資格がないとさすがのナズナでも考えることはあるのである。
「おれたちは陰ながら応援をしています」ビャクブは元気づけるようにして言った。
「ぼくは『愛の伝道師』として一つだけ助言をさせて下さい。ぼくはモミジくんの心の傷を癒すためには家族の方の助けも肝要だと思います。ですから、ヤマガキさんはモミジくんの話をよく聞いてあげてぜひ心の支えになってあげて下さい」ヤツデはヤマガキに対して心からの励ましの言葉を述べた。
「わかりました。私はなにがあっても絶対にモミジを見捨てるようなことはしません」ヤマガキは力強く頷いた。モミジはヤマガキにとって6歳の時に養子縁組をして親権が発生した継子である。しかし、ヤマガキはモミジに対して今まで実子と変わらぬ愛情を注いできた。
最前の言葉はそしてヤマガキにとってはこれからも今までと変わらぬ愛情を注いで行くことを誓った言葉だったのである。実はヤマガキとナズナとの精神的な隔たりがナズナの浮気からきていたのだと知っても、ヤマガキはあまり怒りを感じなかった。それよりも、ヤマガキは離婚の原因が自分の落ち度によるものではないと知って安堵すらしている。ヤマガキはようするにトイワホー国の国民らしく根っからのお人好しなのである。もっとも、それは自らも自覚していることである。
「今回は事件を解決に導くためとはいっても、モミジくんは不名誉な指名を許してくれてありがとう。ぼくはハロウィンのゲームをやっている最中にも言ったけど、明日は怪盗の件についてぼくとビャクブも帰る前に一緒に警察に行くからね」ヤツデはモミジを安心させるようにして穏やかに言った。
「はい。覚悟はもうできています。おれは抵抗したり騒いだりはしません」モミジは頷いた。今のモミジの顔は決心に満ちている。モミジはヤツデのやさしさに触れてすでに自分の行ったことについて心から反省をしているのである。モミジは少し前までは警察に出頭しても出頭しなくてもどちらでもいいと思っていたのが、今のモミジは潔く警察に行くべきだと心から決心をしているのである。
今回はモミジには学んだこともある。それは苦しい時は人に頼ってもいいということである。モミジはいじめのことを話すと大して親しい間柄ではなかったのにも関わらず、ヤツデとビャクブは話を親身になって聞いてくれたし、父のヤマガキはその上で真剣に話を聞いてくれたからである。
「うん。モミジくんはさすがに賢明だね。これからは苦労することもあるけど、人には誰にでも必ず明るい未来はやってくるものだよ。ぼくは少し照れくさいけど、これはモミジくんへのぼくからの餞の言葉だよ」ヤツデは言った。ヤマガキはヤツデの懐の深さに感銘を受けている。
「ありがとうございます。ヤツデさんとビャクブさんのお二人はツバキさんの事件を解決できたことはおれだけではないだろうと思いますけど、それはものすごいことだと思います。おれは生意気ですけど、ヤツデさんは『照れくさい』なんて言わないでいつでも胸を張って生きて下さい」モミジは言った。
モミジはヤツデと同じく照れくさそうである。ヤツデとビャクブは明日になると帰ってしまうということを聞いた時にはもはや殺人事件の解決について断崖絶壁に立たされているなとモミジは考えていた。
ところが、ヤツデとビャクブはそこから土壇場で大逆転をしたので、そのことはモミジにとっても目の覚めるようなとんでもない偉業として目に映ったのである。ビャクブは口を挟んだ。
「モミジくんはいいことを言うな。モミジくんの言葉はおれもよくヤツデに言うんだよ。少しはモミジくんのおかげでヤツデも自信がついたんじゃないのかい?」ビャクブはヤツデに対して真剣に聞いた。
「うん。モミジくんの言葉は骨身にしみたよ。そうそう。このお話はシロガラシさんからも言われるかもしれませんが、ヤマガキさんの梯子は忘れずにお持ち帰りになって下さいね」ヤツデは思い出したようにして言った。この話はパーティーの途中でヤツデとヤマガキの間で交わされていたのである。
「はい。わかりました。そうさせてもらいます」ヤマガキは重々しく頷いた。梯子というワードはモミジ
の犯行を象徴するものだからである。モミジは梯子を犯行に使ったということは家からシロガラシの家に
くる途中にヤマガキとナズナに対して話しておいたのである。また、ヤマガキはモミジのやってしまった
ことをまるで自分の犯した罪のようにして重く捉えている。ヤマガキとモミジの二人はこうしてヤツデと
ビャクブに別れの言葉を述べてシロガラシとミツバに対しても挨拶をしたあとで家へと帰って行った。チ
コリーとユリは今回もヤマガキとモミジの二人のことを外まで見送った。今回の事件はヨモギの家族だけ
ではなくてヤマガキの家族にも将来に禍根を残すことになってしまったが、ヤマガキはモミジのことを思
いやって本当に守ってくれるかもしれないとビャクブは密かに思った。
という訳なので、シロガラシはお客の全員を返してしまうと少し安堵をした。これ以上は驚愕の事実が飛び出してくると心臓発作を起こすのではないかとシロガラシは本気で懸念していたのである。ヤツデは少し落ち着きを取り戻すと、まずはミツバに対してお礼を言った。事件の解決の際にはミツバとモクレンのやり取りはとても重要な役目を果たしたから、ヤツデはそのことについてお礼を言ったのである。少しは自分も情報の提供に一役を買ったので、チコリーはそれを聞くと満足そうにした。元はと言えば、一応はモクレンの証言をミツバから引き出した張本人はチコリーだったからである。
今宵は残念ながらほとんどなにもしていないが、ビャクブはどっと疲れが出た。ビャクブはいつもヤツデの保護者のような気持ちでいるので、実はヤツデが謎解きをしている際にはミスをしないかどうかをまるでサーカスの軽業師の仕事を見ているかのようにして緊張しながら見守っているである。
「結局はまたしてもヤツデさんとビャクブさんの手を煩わすことになってしまいましたが、ヤツデさんとビャクブさんはコニャック村で起きた事件を解決して下さってありがとうございます。わしにとっては全く予想外の結末じゃったが、わしは村長としても感謝しております」シロガラシはやさしいもの言いである。今のシロガラシとミツバとチコリーとユリとヤツデとビャクブの6人はリビングで寛いでいる。
「いいえ。シロガラシさんは特別にお礼なんていいんですよ。ぼくは自分のやりたいようにやっただけです。それに、ぼくたちはたまたま今回も事件を解決できる機会に恵まれただけです」ヤツデはとても鷹揚である。ビャクブは黙ってヤツデの『ぼくたち』発言を感動的に聞き入れていた。
「そうはいっても、ヤツデさんの推理にはハラハラさせられたわ。私はビャクブさんの渋い働きもすばらしかったと思います」ミツバはヤツデとビャクブの二人を手放しで褒め称えた。
「そう言えば、私にはさっきからずっと気になっていたことがあるの。ヤツデさんは皆がパーティーのゲームをやっている時に一人ずつ事情聴取みたいなことをしていたけど、あれはなにを話していたの?」ユリは興味津々で聞いた。ヤツデはそれを受けると包み隠さずに種を明かすことにした。
「あれはね、まずはアカネさんには荷物を置き忘れることは度々あるのかどうかを確認させてもらったんだよ。一度は話に出たけど、アカネさんからは『けっこうある』っていう答えが返ってきたんだよ。それから、アカネさんにはもう一つツバキさんの殺害に使われた凶器がバス・タオルであることを誰かに話したかどうかを聞いたんだけど、アカネさんはそもそも凶器が何だったかすらも覚えていないって言っていたんだよ。まあ、ぼくにとっては好都合なんだけどね。次に、ヤマガキさんには『ぼくはこれからヤマガキさんがロープに絵の具をつけてしまった云々の話をすることになるだろうけど、ヤマガキさんは話を合わせてもらえませんか?』ってお願いをしたんだよ。ヤマガキさんは幸いにも快諾をしてくれたんだけどね。最後に、モミジくんにはやっぱり怪盗の件で警察に出頭してもらわないといけなくなっちゃったっていうこととツバキさん殺害事件の犯人として嘘の指名をさせてもらってもいいかどうかを聞いていたんだよ。知ってのとおり、ぼくはモミジくんからも了解をしてもらえたんだけどね」
ヤツデはコニャック村の事件を解決するに当たって謎解きを開始する前にヨモギに対して重要な質問をしていたが、あれはツバキを殺害する際に使われた凶器がバス・タオルであるということをヨモギが誰にも話していないかどうかを聞いていたのである。知ってのとおり、ヨモギは誰にも話していなかったので、ヤツデは満足ができた。それはヨモギのファイン・プレーである。
「ふーん。ヤツデさんは色々と下準備をしていたんだね。でも、私にはもう一つ重要なことがあるような気がするんだけど、もしも、ソテツさんはヤツデさんが仕かけた罠に乗ってこなかったら、ヤツデさんはどうするつもりだったの?」チコリーは興味深げにして聞いた。それについてはビャクブも不思議そうである。ビャクブとチコリーは完全にヤツデの推理を最後まで秘中の秘にされたままだったのである。
「その時は格好が悪いけど、ぼくは開き直って『ソテツさんはなぜぼくの嘘を看破していながらそれを指摘されないのですか?』って直接にソテツさんに聞くつもりだったんだよ。これだと、ぼくの力では絶対的な証拠は上がらないけど、とりあえずは共同正犯のナズナさんの罪を暴けただけでも収穫だし、ソテツさんとナズナさんの二人の関係についてはビャクブの証言があるから、あとは警察がなんとかしてくれるはずだからね」ヤツデは順を追って丁寧に答えた。ヤツデの話は区切りがついた。
「そう言えば、実はおれからも一つ言いたいことがあるんだよ。チコリーとユリちゃんはくれぐれもナズナさんみたいな利己主義者になったら、ダメだぞ」ビャクブは重々しく戒めた。
「利己主義者ってなんのこと?」チコリーは聞き返した。ユリはちなみにちゃんと理解をしている。
ビャクブはそれを受けると『魔性の女』や『悪女』いったワードを思い浮かべたが、それは少し言い過ぎのような気がした。なぜなら、更生することはナズナだって可能だからである。人はやさしい心を取り戻すためにどんなに時間がかかるとしても更生のチャンスを奪うことをしてはいけないのである。
「利己主義者はようするに自分本位な人っていう意味だよ。ナズナさんはだってヤツデに追いつめられて行っても全く応えてないどころか、結局は攻撃的な態度を一貫していただろう?チコリーとユリちゃんはナズナさんが本当に親友の殺害教唆を反省するかどうかはわかったもんじゃないとは思わないかい?」ビャクブは問いかけた。シロガラシとミツバは口を挟むことなく話を聞いている。
「私はトイワホー国の国民の一人としてヤツデさんとビャクブさんみたいなやさしい大人になるよ。私はだってクリーブランド・ホテルで二人と会った時からそう思っていたんだもの。そうすれば、私もれっきとしたやさしい女性だもんね」チコリーは自信を持って言った。
「ナズナさんはそう考えるといい反面教師ね。私もヤツデさんとビャクブさんを目標にして大人になろうかな」ユリは言った。シロガラシとミツバはそれを聞いて穏やかな気持ちになれた。
「ぼくたちの株はなんだかコニャック村ではうなぎ上りに上がっているみたいだね。ビャクブはともかくとしても、ぼくはそれほどに大した人間じゃないんだけどね」ヤツデは照れくさそうである。
「今回はおれだって碌なことをしていないよ」ビャクブは当然の如く謙虚である。
「ぼくはそんなことはないと思うよ。なにより、ビャクブは今回もぼくの心の支えになってくれていたからね。ナズナさんは本当に反省をするかどうかはトイワホー国のいくつかの政策を信じようね。ああ。それと、これからは人のぬくもりに接する機会ができるかもしれないから、ナズナさんはその時に反省をしてくれる可能性も考えられるね」ヤツデは真剣な顔つきに戻って言った。
「それはそうだな。でも、トイワホー国の政策と言えば、ヤツデはおれをソテツさんから守ってくれたんだから『犯罪ストップ』の対象になって粗品をもらえるんじゃないかい?」ビャクブは聞いた。
「それはそうかもしれないけど、ぼくは遠慮をしておくよ。ぼくはビャクブを守れただけでもう満足だからね」ヤツデは気さくに言った。しかし、ヤツデはそもそもビャクブを守る時の手段が気に食わないのである。ヤツデはようするにキックという暴力を振るってしまったことについて深く反省をしているのである。説明はあえて要しないかもしれないが『犯罪ストップ』とは犯罪を未然に防いだ者が警察から表彰される他にもトイワホー国から粗品を贈呈されるという制度のことである。
『犯罪ストップ』ではちなみに受賞者の要望に応えてケース・バイ・ケースで貰える商品は違ってくるのである。例えば、景品には酢やみりんといった調味料や靴下と手袋やギフト券といったものもある。
その後のシロガラシの家ではヨモギとヤマガキを初めとした今回の事件における間接的な被害者のことが話題に上った。その際にはシロガラシとミツバは彼等の力になるという宣言も聞けた。
チコリーとユリはコニャック村に住んでいる訳ではないが、二人は今回の事件で傷ついた人たちに対してコニャック村を訪れる際には少しでも気が楽になるようにやさしくしてあげるということを約した。
ビャクブは専らそういったシロガラシたちの話を聞いていたが、ヤツデは一人で離れたところに行って読書をしていた。自分は事件を解決したことによって多くの人たちに衝撃を当たることになったが、それは正しかったのかどうか、ヤツデは読書をしながらそんなことを考えていた。結局はそれでよかったのかもしないとヤツデは思った。なにしろ、ヤツデは悪をのさばらせておく訳にもいかないからである。しかし、ヤツデはその悪に対してどう対処していくかも問題である。
ヤツデはやがてビャクブと一緒に自分たちの部屋へと戻って眠ることになった。ヤツデはそして眠れるまで考え事を続けた。ヤツデは相も変わらずに多感なのである。ビャクブはちなみに多感ではなくても寝つきは今宵も悪かった。しかしながら、ヤツデとビャクブは会話を交わすことはなかった。
悪人に対しては飴と鞭で接することが最善なのか、あるいはやさしさだけか、もしくは厳しさだけで接することが最善なのかを考えたが、結局は飴と鞭がいいのかもしれないとヤツデは思った。自分の意見は正しいと思っている悪人に対して真っ向から反論するのも必要だし、一方ではその悪人に対してやさしさを追求するなら、その悪人には愛情を感じてその大切さをわかってもらう必要もあるからである。
翌日のヤツデとビャクブの帰宅時である。ヤツデとビャクブの二人はシロガラシとミツバにお礼を言ってチコリーとユリに最寄り駅まで見送ってもらうことになった。ヤツデたちの一行はその途中でモミジのところへと寄った。ヤツデとビャクブとモミジは駅でチコリーとユリとお別れをした。
ユリはこの時『困った時は頼りにしたいから』と言ってヤツデとビャクブのスマホの電話番号を聞いてきたので、ヤツデとビャクブは素直に番号を教えてあげた。その後のヤツデとビャクブの二人はモミジに付き添って警察まで行った。モミジの父親のヤマガキは警察署へと一緒に付き添おうとしていたのだが、ヤツデは『愛の伝道師』として自分が責任を持ってモミジのことを見守ると言ったので、結局は恐縮しながらもその好意に甘えてヤツデとビャクブの二人に対してモミジをお任せすることにしたのである。
そのため、ヤマガキはもちろんヤツデとビャクブの二人のことも信頼しているが、理由はもう一つあった。モミジには内気なところもあるので、モミジは父親がいると恥ずかしいかもしれないとヤマガキは考えたのである。ヤツデとビャクブは警察署では懸命に事を荒立てないでほしいという旨を伝えた。トイワホー国のやさしい警察官はすると親身に話を聞いてくれたので、モミジは学校の人間には知られないように処分が下されることになった。トイワホー国では誰もがやさしい人間味に溢れているのである。
ヤツデとビャクブはすぐにお役ごめんとなった。モミジはヤツデとビャクブの二人の去り際には深々とお辞儀をして精一杯の感謝の気持ちを伝えた。ヤツデとビャクブはそれに応えてモミジを勇気づけることにした。もっとも、そのくらいの親切はヤツデとビャクブの二人にとっては当たり前のことである。
ここでは少しモミジの将来を先取りしてしまう。まず、モミジは16歳なので、トイワホー国ではギリギリで少年法の対象となった。他国では14歳までが少年法の対象になるところもあるが、トイワホー国では少年による凶悪な事件は起きた試しがないので、実は16歳までが少年法の対象となるのである。次に、モミジは二ヵ月ほど鑑別所に入ることになった。とはいっても、通学はできるようにするため、入所するのは土曜日と日曜日だけである。モミジの所属する科学部は幸いにも土日がオフだったのである。
という訳なので、その後のモミジは家庭裁判所で審判を受けることになった。この裁判はもちろん土日だけで行われた。モミジはそこで鑑別所での振る舞いを高く評価された。モミジには元々盗癖がある訳ではないし、モミジは不良少年という訳でもないからである。なによりも、モミジはトイワホー国の国民としてやさしい心を持っている。そのため、モミジは鑑別所でもお行儀がよかったのである。
それについてはヤツデとビャクブもよくわかっている。モミジはそういう経緯もあってやがて判決によって少年院に入らずに父親のヤマガキの元へと帰ることができた。
モミジは先生に告げ口をするようなことをしたら、いじめはエスカレートして行くのではないかと恐れていたが、その後は学校においてモミジに対するいじめは完全になくなった。
ヤツデは上司に対してモミジへのいじめについて話したので、モミジの通っているカシミール高校の先生には厳重注意が下されたのである。いじめっ子は先生や親にきつく注意されればそれが本当に悪いことだということを十分に承知することができるだけの分別を持ち合わせているのである。
そのため、モミジは幸いにもいじめをしていた子から心からの謝罪の言葉を受けることができた。愛情はまだ不完全ではあるが、それはトイワホー国のいいところの一つである。
モミジは一方で窃盗について深く反省をしてそれからの生涯においてもう二度と罪を重ねるようなことはしなかった。怪盗の事件はモミジの最初で最後の犯罪だったのである。
モミジはしかも弱い立場の人間の気持ちもよくわかるようになっていた。モミジはそしてヤツデとビャクブを目標の人物として密かに尊敬するようになっていた。
ヤツデとビャクブの二人は帰りの新幹線の中で今回の旅における珍プレーと好プレーについて話し合っていた。ヤツデは時々テーブルに乗せたハム次郎にも話しかけている。
ヤツデとビャクブの傍には4歳の女の子がいたが、彼女はハム次郎を欲しがって母親に駄々をこね始めた。ヤツデはここで重要な選択に迫られた。ヤツデは果たしてハム次郎を少女に対して上げるか、あるいは上げまいかという選択である。ヤツデは試行錯誤の末に上げないことにした。その代り、ヤツデは女の子に対して持っていたマシュマロを上げることにした。ビャクブはついでに自分もグミをあげることにした。ビャクブは親切なのである。女の子はそうすると静かになって丁寧にお礼を言った。彼女は心から満足をしている。彼女の母親は申し訳なさそうにしているが、ヤツデはもっと申し訳なさそうにしている。ビャクブは後々ヤツデがハム次郎を上げなかったことを後悔しないように次のようにして慰めた。
「ヤツデは大切なものを上げようとする心だけでも立派だよ。それに、ハム次郎はおれとヤツデの友情の証だから、ヤツデはハム次郎をこれまで以上に大事にしてくれればそれでいいんだよ」
ヤツデはそれを聞くととてもうれしい気持ちになった。ヤツデは幾度となくビャクブのやさしい言葉によって救われてきているのである。ビャクブはまさしくヤツデの知友なのである。
ただし、もしも、ヤツデはこの時にマシュマロを持っていなければ、ハム次郎は間違いなく例の女の子の手に渡っていた。なぜなら、ヤツデはそれほどに仁義のある男だからである。
ビャクブはヤツデのそんなところも気に入っている。ヤツデとビャクブの二人はなにはともあれこのようにしてそれぞれの平穏な日常へと帰って行った。