トイワホー国における愛情 2章
その後のヤツデとビャクブの二人は警察からの事情聴取を終えるとシロガラシの家へと帰ることにした。先程は期せずしてツバキの遺体を見てしまってとてもじゃないが、現在はもう満腹のような状態になってしまったので、ヤツデとビャクブの二人はナズナの家に行く元気を失ってしまったのである。
それでも、ヤツデはツバキの死を悼んでいるし、ツバキは自分に対してなにかを相談しようとしていたのにも関わらず、自分はなにもできなかったので、内心ではその点でもがっくりときている。
ツバキは殺人というワードを聞いた時に動揺をしていたが、今となってはそのことを聞くこともできないので、ヤツデは推測するしかなくてなんとなくすっきりとしない気分である。
「それにしても、ヤツデは本当にツバキさんが自殺したと思うかい?さっきはアカネさんも言っていたけど、ツバキさんは昨日におれたちと会った時もあんなにもアスナロくんと一緒に幸せそうにしていたのにな。ヤツデは信じられるかい?」ビャクブはヤツデと共に歩きながら話を切り出した。
「ツバキさんは何者かによって殺害されたんだよ」ヤツデは淡白な口調で言った。
ビャクブはヤツデの言葉を聞き間違えたのかと思ったが、最前のセリフはビャクブの聞き間違いでもなければヤツデの言い間違いでもない。そのため、ビャクブは慌てふためいている。
「え?え?ヤツデはなんて言ったんだい?」ビャクブは改めて確認をした。
「言葉のとおりだよ。ぼくは『ツバキさんは何者かによって殺害されたんだよ』って言ったんだよ」相変わらず、ヤツデは穏やかな口調である。ビャクブはヤツデのセリフを受けて次のようにして聞いた。
「おれにはなんでそう断言できるのかはよくわからないけど、でも、ヤツデはさっきアカネさんには『ツバキさんは自殺したんだ』って言っていたじゃないか。それじゃあ、あれはなんだったんだい?一体」
「ああ、あれは可能性が一番に高いって言ったんだよ。現場はだって密室だったんだからね。ただし、ぼくの意見はそれとは違うだけだよ」ヤツデは涼しげな顔で言った。ビャクブは核心をついた。
「それじゃあ、ヤツデはなんでツバキさんが殺害されたって断言できるんだい?」
「普通は自殺をしようとしてバス・タオルを首に回そうとするとネックレスの場合もそうだけど、人は無意識の内に髪の毛をバス・タオルの外側に出すんだよ。でも、ツバキさんの髪の毛はバス・タオルの内側に入っていた。犯人にしてみれば、やるべきことはなるべく急いでやらないといけないから、犯人はおそらくわざわざ髪をバス・タオルの外側に出すなんてことはしなかったんだよ」ヤツデは理路整然と理屈を捏ねた。ヤツデは見ていないようでしっかりとツバキの遺体を観察していたのである。
「そうか。しかし、ヤツデはよくそんなところに気がついたな」ビャクブは感心をしている。
「ぼくのお父さんが刑事なのはビャクブも知っているよね?ぼくはお父さんと雑談をしていて縊死と絞殺の違いについて話をしたことがあったのを思い出したんだよ。まあ、だから、ぼくはそれを確認してみただけなんだよ。でも、ぼくにはツバキさんの自殺を疑う理由は他にもあるんだよ」
「ヤツデには他にも理由があるのかい?それはなんだい?一体」ビャクブは相槌を打って話を促した。
「現場は密室だったことについてだよ。ぼくの見たところでは全ての窓とドアが閉めっ切りになっていたけど、小春日和の昨今なら、一ヶ所くらいは窓が開いていても不思議じゃないとは思わない?犯人はたぶんツバキさんが自殺したということにするために故意に全ての窓を閉めたんじゃないかな?」
「なるほど。それは確かに大いに考えられそうだな」ビャクブは再び相槌を打った。
「それから、もう一つは予告殺人についてだよ。ぼくは思うんだけど、予告殺人は単なるフェイクなんだよ。犯人には元々予告殺人なんていう成功する確率の低い犯罪をやるつもりなんてさらさらなかったんだよ。ビャクブは試しにナズナさんの身に今日一日で危険が及ぶかどうかを見ていてごらんよ。愚案ながらも、ぼくの予想が正しければ、これ以上はきっともう今日はなにも起こらないと思うよ」
「ああ。ヤツデの言いたいことはよくわかったよ。実はツバキさんに対する予告殺人についてはツバキさんを殺害しようとしている人が知ってここぞとばかりに便乗犯になったなんていうのも考えにくいからな。それじゃあ、ツバキさんは何者かに殺害されたとしてそうすると密室の謎を解かないといけない訳だろう?ヤツデはそれについてなんらかの考えはあるのかい?」ビャクブは聞いた。
「うん。ぼくには密室の謎を解く上で考えられる事柄はいくつかあるよ。まあ、これは単なる推理小説の受け売りだけどね」ヤツデはそう言うといくつかの密室トリックの解法を上げて見せた。
まず、第一に、犯人は犯行を行なったあとで現場に留まっていて第一発見者の目を盗んでこっそりと現場をあとにするという可能性である。しかし、ヤツデは全ての部屋を確認したが、人の姿は認められなかったから、この可能性はほとんどあり得ないので、一つ目はペケである。
第二に、犯人は被害者から奪って持っていた鍵を死体に近寄る際にこっそり戻しておくということも考えられる。しかし、これについてはそれに該当しそうな人物はヤツデとビャクブの他にはいないから、おそらくは考えられない。ただし、この場合は推理をしている本人たちまでも容疑者に含めるかどうかはある意味では難しい問題である。とはいっても、これは第三者にとっての問題である。ヤツデとビャクブはお互いに嫌疑をかけるようなまねはしない。ヤツデとビャクブの両者は当然のことながらそのくらいの信頼関係は持ち合わせているのである。これは暗黙の了解というやつである。
第三に、被害者は犯人からの追撃を避けるために自分で部屋の鍵をかけたというようなケースも考えられるが、ツバキは首を吊っていたのだから、普通はあり得ない。ヤツデは最後に結論を下した。
「まあ、ぼくはそんな感じで少しくどくどと話してみたけど、今のところは密室の謎なんてぼくにもわからないね。皆目」ヤツデは謙遜気味ながらも残念そうにしている。
「なーんだ。結局はヤツデにもわからないのか。でも、密室と言えば、昨夜はモクレンさんっていう人が三日前に密室で自殺をしていたっていう話を聞いたけど、モクレンさんの自殺はツバキさんの事件とも関係があるのかな?」ビャクブは思いついたことを率直にヤツデに対して投げかけた。
「さあ?どうだろうね?一応はそっちの方の事件も調べてみようか」ヤツデはさらっと言った。
「調べるのはいいけど、おれたちは調べることが多すぎないかい?調べることはだってツバキさんの事件とモクレンさんっていう人の事件に加えて怪盗の事件もあるんだよ」ビャクブは危惧をしている。
「うん。そうだね。でも、怪盗の事件なら、解決の目処はすでについているよ」ヤツデは断定をした。
「なんだって?それは本当かい?ヤツデにはもう犯人がわかっているのかい?」ビャクブは聞いた。
「ううん。犯人はまだわかっていないけど、ぼくは犯人を割り出すいい方法を思いついたんだよ。それにはその下準備が必要だから、ビャクブは一緒にソテツさんのところに行ってくれる?」
「ああ。もちろんだよ。おれはヤツデについて行くよ」ビャクブは快い返事をした。
ヤツデとビャクブの二人はこうしてシロガラシの家へと帰って行った。ツバキは亡くなってしまったのだから、ビャクブはさすがにウォーキングくらいで文句を垂れるようなことはしなかった。
ビャクブはその際に怪盗を捕まえるための作戦をヤツデから聞いて『なんだ?そりゃ』と思った。しかし、ヤツデの奇行は今に始まったことではないので、深くはビャクブも追及をしなかった。ヤツデはビャクブに対してシロガラシの家に帰るまでにツバキがどんなにいい人だったかを訥々と話した。ヤツデはツバキと長年の知り合いではなかったが、これは袖が触れ合うも多生の縁というやつである。
その後のヤツデはシロガラシからデジタル・カメラを借りるとビャクブと一緒にソテツの家へと向かった。この作戦は果たして成功するだろうかとビャクブは半信半疑である。
ところが、一方のヤツデは『事件はこれにて終了した』という雰囲気を醸し出しているので、ビャクブは全権をヤツデに与えて自分はヤツデの手伝いをすることに決めている。
ヤツデとビャクブはソテツの家への道中ではどの事件のことについても触れなかった。人はいつも奮然としていたら、普通はすぐに疲れてしまうからである。心には緊張とゆとりの均衡が大切なのである。
ヤツデとビャクブの二人はやがて目的地であるソテツの自宅に到着した。ヤツデは早速にソテツの家のチャイムを鳴らすことにした。ソテツはすると間もなくして姿を現して言った。
「こんにちは」ソテツはヤツデとビャクブに対して挨拶をした。「今日はまたどんなご用事ですか?もしも、怪盗の件についてでしたら、ぼくは全面的に協力をしますよ」ソテツは陰気な口調で言った。
だが、陰気なのはあくまでもソテツの性格である。ソテツはヤツデとビャクブの二人を歓迎していない訳ではない。ソテツはむしろ新たに知人が増えて密かに喜んでいる。ただし、ソテツという男はそれを表に出すのが苦手なだけなのである。ヤツデはすでにそのことに気づいている。
「今日はソテツさんにお願いがあってお伺いさせてもらいました。ぼくたちは怪盗を捕まえるためにスイホウガンとチョウテンガンとランチュウの写真を撮らせてもらいたいんです」ヤツデは言った。少なからず、ソテツはヤツデの返答に対して驚いた。しかし、ソテツは気を取り直して聞いた。
「そうでしたか。それは別に構いませんが、その写真はなにかの役に立つのですか?」
「はい。その写真は大いに役に立ちます」ヤツデは自信を持って答えた。ヤツデの撮りたい写真の金魚は全て池にいるものなので、ソテツは昨日と同様にしてヤツデとビャクブの二人を庭へと案内をした。
ヤツデはそこでソテツとビャクブの協力の下で三匹の金魚を別々の水槽に入れ替えて一匹ずつデジ・カメで写真を撮った。ヤツデは首尾よく事が運んでとても満足そうである。
「どうもありがとうございました。この写真はきっと役立てます」ヤツデは全ての写真を撮り終わるとソテツに対して言った。しかし、ビャクブはそのまま立ち去ろうとするヤツデを呼び止めた。
「なあ。この際だから、おれたちは帰る前にソテツさんからモクレンさんっていう人を知っているかどうかを聞いてから帰らないでいいのかい?」ビャクブはヤツデに対して鋭い指摘を入れた。
「ああ。そうだね。ぼくはすっかりと度忘れしちゃっていたよ」ヤツデは了承をした。
なにか、ヤツデには作戦があったという訳ではなくて自分の思いどおりに事が運んだので、ヤツデは少し浮かれてしまっていたのである。ヤツデには鈍感な一面があるということである。
「いかがですか?」ヤツデはソテツに対して問いかけた。ソテツはそれに対して応えた。
「モクレンのことは知っているかも、なにも、ぼくの数少ない友人の一人でした」
「そうでしたか。それではモクレンさんが自殺をされた動機がなにかはわかりますか?そう言えば、遺書は見つかったのですか?」ビャクブは一度に二つのことを聞いた。ソテツは答えた。
「遺書は見つかりませんでしたが、自殺の理由を一言で言えば、おそらくは職を失ったからでしょう」
「でも、それなら『安心ワーク』の制度を利用できますよね?」ビャクブは口を挟んだ。
トイワホー国という国では失業者には『愛の伝道師』によって厳選されたアルバイトの仕事が無条件で与えられるのである。その制度こそは『安心ワーク』というものである。
『安心ワーク』はできるだけニートになる人を減らして本職にありつくまでの日銭を稼げるようにと配慮されたものである。トイワホー国にはもう一つそれに付随した政策がある。
それは『適正ワーク』と呼ばれるものである。『適正ワーク』は誰もが就きたい職業に就けるまで『愛の伝道師』が徹底的に世話をしてくれるという制度である。また、場合によっては生活保護も視野に入れるので、駅前やコンビニやスーパーなどではそのための募金活動も行われている。
とはいっても、そもそもはモクレンの就いていた職場は経営不振になってしまったので、モクレンは人員削減の対象になってしまったのである。トイワホー国の一般企業は慈悲の心を持っているので、モクレンの元の職場はしっかりとモクレンのために再就職先の世話をしてくれる予定にはなっていた。
「いや。それはモクレンにとってなんの意味もないことだったのです。モクレンは動物のフィギュアの造形師だったのですが、彼は異常なほどに職務熱心な男でした。そんなモクレンは仕事という唯一の生き甲斐を失ってしまって絶望をしてしまったのではないかと思われます」ソテツは推測をした。
「そうですか。それは直接に本人から聞いた話ですか?」ビャクブは問うた。
「答えは半分だけ『イエス』です。ですから、ぼくは自殺したいとまでは聞かされませんでした。遺書はない以上は友達だったぼくでさえも残念ながら自殺をした理由は推し量る他にありません」ソテツは答えた。だから、ソテツはモクレンのことをわかってあげられずに後悔をしているのである。
「他にはなにかで悩んでいるようなことがあるとか、聞いたことはありませんでしたか?」ヤツデは聞いた。ヤツデは念のためにモクレンの身の回りのことを少しは知っておこうと考えたのである。
「特にはありません。ヤツデさんとビャクブさんは色々と質問されているということはモクレンの自殺と怪盗の事件はなにかの繋がりがあるのですか?だとすれば、それは意外ですね」ソテツは言った。
「いいえ。今のところ、繋がりは全くありません。話は変わりますが、ぼくたちはソテツさんの義理のお姉さんに関してかなりショッキングな情報を持って来たんです」ヤツデは神妙な物言いをした。
「ショッキングな情報ですか?ツバキ義姉さんはどうかしたのですか?」ソテツは怪訝そうである。
「はい。申し上げにくいのですが、ツバキさんは自宅で首を吊って亡くなっているところが発見されました」ヤツデは慎重に言葉を選んだ。ソテツは一拍を置いたあとで驚きの声を上げた。
「なんですって!首を吊ってですか?つまり、義姉さんは自殺したということですか?」
「現場のツバキさんのお宅は密室でしたので、その可能性は高いと思われます。ただし、ヤツデの考えではそれはあり得ないということなのですがね。なあ?」ビャクブはヤツデの同意を求めた。
「うん。ぼくたちはそれで怪盗の事件の方ではなくてツバキさんの殺害事件とモクレンさんの自殺事件との関係性をぼく達は素人なりに調べているんです。もっとも、それは無駄なあがきかもしれませんが」ヤツデは言った。ビャクブはヤツデの相変わらずの謙虚さに感心をしている。
「そうですか。義姉さんは密室の家の中で亡くなっていたのにも関わらず、ヤツデさんは殺害事件だと断言できるのですか。すばらしい。ユリちゃんの言うとおり、さすがは殺人事件を解決したことのある人だけありますね」ソテツは褒め言葉を口にした。いつものとおり、ヤツデは謙遜してた。
「いえいえ。ぼくはそれほどではありません。ソテツさんはとにかく金魚の写真だけではなくて貴重なお話まで聞かせて下さってありがとうございました」ヤツデはそう言うとビャクブと共にソテツの家を辞去した。その際のヤツデとビャクブの二人はきちんとソテツに対してお悔やみの言葉を述べることを忘れはしなかった。ソテツはヤツデとビャクブの二人を見送ると肩を落として部屋の中へ入って行った。
ソテツは今までの平々凡々だった日常の歯車が急に狂いだしてしまってもはや平常心ではいられないのである。怪盗の出没はともかくソテツにとってモクレンの死は衝撃的な事件である。
ヤツデとビャクブの報告してくれた内容はその上でさらにソテツを驚かせるに足る事件である。これではリクライニング・シートのヘッド・レストに頭を乗せてのん気にしている場合ではない。とりあえずは現在の状況がわからないので、ソテツは兄のヨモギに対して電話をすることにした。
ミツバはヤツデとビャクブの二人がシロガラシの家に帰るとチャーハンを作って待っていてくれた。そのため、ヤツデとビャクブの二人はチコリーとユリと一緒に昼食を取ることにした。
しかし、ヤツデとビャクブの二人はチコリーとユリに対してソテツの家で金魚の写真を撮って来たことは話さなかった。しかし、その理由はヤツデとビャクブの二人とでは異なっている。
いくら、ヤツデでも、あれでは怪盗を見つけるのは無理なのではないだろうかとビャクブは思っているからである。一方のヤツデは怪盗を見つけるのは当然のことであってチコリーとユリを最後にびっくりさせようと思っているからである。ヤツデの発想はやはり子供っぽいのである。
「夕ご飯は昨日のお話のとおりにぼくがホット・ケーキを皆さんにこしらえますから、どうか、ミツバさんはその時には休んでいて下さいね」食卓のヤツデは台所にいるミツバに対して話しかけた。
「ええ。ええ。わかりました。どうもありがとうございます」ミツバはやさしく微笑んで言った。
「ねえ。ツバキさんの死体発見現場に遺書はなかったの?」ユリはヤツデとビャクブの二人に対して質問をした。ユリとミツバの二人はもうツバキの死についてチコリーから聞かされていたのである。
「ああ。確か、遺書はなかったと思うよ。ヤツデはちゃんと確認をしたかい?」ビャクブは聞いた。
「うん。確認はしたけど、ビャクブの言うとおり、ぼくの見た限りでは見やすいところには遺書はなかったよ。でも、仮に、ツバキさんは自殺だったとしても、遺書は見つからないっていうのはむしろ普通のことなんだよ。意外と言うべきか、数としては遺書を残して自殺する人よりも遺書を残さないで自殺する人の方が多いらしいからね」ヤツデは説明をした。これはヤツデが自分の父から聞いた話である。
「ふーん。そうなんだ。私は知らなかったな。全然」ユリは意外そうにして呟いた。
ちなみに、遺書を残す人の中でも、自殺する理由を明確に書き記す人は少ない。例えば、遺書にはただ単に誰々に対して息子の世話を頼むとしか書かれていない場合もある。だから、大抵の場合はモクレンの時と同様にして自殺した人はなぜ死を選んだのかは周りの人が推測をするしかないのである。
「それじゃあ、ツバキさんは自殺で間違いないのね。でも、ツバキさんはなにがつらくて自殺をしちゃったんだろう?」チコリーは素朴な疑問を口にした。ビャクブはそれに対して反応をした。
「ところがどっこい」ビャクブは言った。「ヤツデはツバキさんが自殺したとは思ってないんだよ」
「え?そうなの?ヤツデさんはどうしてそう思うの?」チコリーは驚いて聞き返した。
「理由はいくつもあるけど、主な理由はツバキさんの首に巻き付けられたバス・タオルに不自然な点があったからだよ。そのことはたぶん警察でも気がつくと思うけどね。警察の場合はそれだけじゃなくて失禁跡とかでも詳しく縊死か、あるいは自殺かの判断を行うんだろうしね」ヤツデは考え深げにしている。
「その失禁跡っていうのはなんなの?」チコリーは頑是なく聞いた。ビャクブは答えた。
「これはあんまり食事中に言うことではないんだけど、失禁っていうのはおしっこを漏らしちゃうことだよ。おそらくは首を吊る時にはその失禁っていうのをしちゃうんだろうな。察するに、人は自分で首を吊っていれば真下にその失禁の跡があるはずだから、警察はそれを確かめるっていうことじゃないかな?違うかい?」ビャクブは賢い相棒のヤツデに対して少しばかりの自信を持って聞いた。
「当たりだよ。ビャクブは中々鋭いね」ヤツデはビャクブのことを手放しで褒めた。縊死と自殺との見分け方はちなみに失禁跡だけではなくて他にも吉川線という判断の方法もある。吉川線とは被害者が首を締められている時に抵抗しようとして自分の爪で首に作ってしまう引っかき傷のことである。
しかし、ヤツデはうっかりしていてツバキの首に吉川線があったかどうかまでは確認をしなかったのである。話には出さなかったが、一応はヤツデにもその知識はあることにはあったのである。
「ところで」ヤツデは言った。「ビャクブはツバキさんの殺害事件とモクレンさんの自殺事件の二つの間にはどんな関係があると踏んでいるの?」ヤツデは質問をした。ビャクブは次のようにして答えた。
「おれはモクレンさんを殺害した犯人がツバキさんも殺害したんじゃないかと思うんだよ」
「そっか。ということは自殺ではなくてツバキさんは殺害されたっていうぼくの意見にはビャクブも同調をしてくれるんだね?」ヤツデは確かめるようにして一応は訊ねた。
「ああ。おれは同調するよ。でも、おれはさらに踏み込んでモクレンさんも何者かに殺害されたんじゃないかと思うんだよ。ツバキさんはだって密室の家の中で殺されていてモクレンさんも密室の中で亡くなっていたそうだろう?ということは手口が同じじゃないか。ヤツデはこれについてどう思う?」ビャクブはヤツデの顔色を窺うようにして聞いた。ビャクブは自分よりもヤツデの方が推理力が上であると自覚をしている。しかし、チコリーとユリはもっともらしいビャクブの意見に感心をしている。
「なるほど。ツバキさんとモクレンさんの連続殺人説だね。考え方は悪くないと思うよ。いや。もし、そうだったら、それはもちろん実際には悪くないなんてことはないんだけどね。そう言えば、ぼくには一つ気にかかっていることがあるんだけど、ビャクブは聞いてくれる?」ヤツデは表情を変えずに聞いた。チコリーとユリは耳をそばだてている。ビャクブは当たり前のようにして頷いた。
「もちろんだよ。ヤツデはおれには遠慮しないでなんでも話してくれて構わないよ」
「ありがとう。ツバキさんの様子は昨日にチコリーが『殺人事件』っていう言葉を言った時に一瞬だけ変わったんだよ。ぼくにはその理由が気になるんだよね」ヤツデは言った。ビャクブは応じた。
「そう言えば、ヤツデは『愛の伝道師』だって言ったら、ツバキさんはなにかについて『相談させてもらおうかしら?』っていうようなことも言っていたな。ん?」ビャクブはなにかに思い当った。
「え?ビャクブさんはどうかしたの?」ユリは怪訝そうにしてビャクブの話を促した。
「まさかとは思うけど、ツバキさんはモクレンさんを殺害した罪で良心の呵責に苛まれて自殺をしたっていうことはないかな?」ビャクブは言った。チコリーはビャクブの言葉について言下に否定をした。
「そんなことはないよ。ツバキさんはだってあんなにやさしい人だったんだもん。ツバキさんは殺人をするはずなんてないよ」チコリーは意見を述べた。ヤツデは違った面から補強をした。
「ぼくもそれは違うと思うよ。それなら、ツバキさんは『殺人』っていうワードに対して敏感に反応していたことの説明は確かにつくけど、ぼくたちはだって今のビャクブも同意してくれたようにしてツバキさんは自殺したんじゃなくてあくまでも他殺だと仮定して話を進めているんだからね。それに、ツバキさんは自殺したのだとすると、予告殺人はツバキさんの死とは無関係っていうことになっちゃうよ。もし、そうなら、殺人の予告は誰が新聞社に送りつけたりしたんだろう?事態はますます訳がわからなくなっちゃうよ」ヤツデは理詰めでビャクブの意見を覆して見せた。ビャクブは納得をさせられた。
「それはそうか。ごめんよ。おれは根も葉もないことを言っちゃったよ」ビャクブはチコリーに対して謝った。しかしながら、チコリーは意外にも寛容な態度でビャクブに対して応じた。
「ううん。私は別にいいよ。考えたら、この村では殺人事件が起きている以上はこの村の誰かが犯人っていう可能性もあるんだし、私はそれが誰であろうと覚悟しておかないといけないことだもの」チコリーは言った。チコリーという女の子はお転婆でもしっかりとしているところもあるのである。
「チコリーはなんて偉いんだろう。チコリーは人を疑わないやさしさも偉いけど、一方では現実を受け止められる強さもあるなんてね。ぼくにはとても12歳の女の子の発言とは思えないよ」ヤツデは諸手を上げて賛辞をした。ヤツデはチコリーのことを高く評価しているのである。
「えへへ」チコリーはヤツデからの賛美の言葉に照れている。「そんなことはないよ」
「話は変わるけど、おれは釣りの穴場を教えてもらおうと思っていたのにも関わらず、シロガラシさんはどうしたんだい?」ビャクブはユリに対して質問をした。それにはヤツデも興味を持った。
「おじいちゃんは釣りに行っているのよ。釣りはおじいちゃんの趣味だもの」ユリは答えた。
「ヤツデさんとビャクブさんはおじいちゃんのところに行きたい?」チコリーは無邪気に聞いた。
「チコリーはもしかしてシロガラシさんがどこで釣りをしているのかを教えてくれるのかい?」ビャクブは問うた。ビャクブはチコリーに対して期待に満ちたまなざしを向けた。
「うん。魚釣りにはおじいちゃんに連れられて一緒に行ったことがあるから、私は場所を知っているんだよ。その場所は今日も変えていないと思うしね」チコリーは難なく答えた。
「そうか。それは助かったよ。ああ。でも、道具はちゃんとあるのかな?」ビャクブは聞いた。
ミツバはやがてビャクブのその発言を聞きつけると反応した。ミツバはそもそもシロガラシからヤツデとビャクブも釣りに行きたいと言えばヤツデとビャクブの二人が釣りに行く手伝いをするように言いつかっていたのである。そのため、ミツバは早速に自分の役割を果たすことにした。
「釣りの道具なら、物置にはいくらでもありますのよ」ミツバはビャクブに対して口を挟んだ。
「そうですか。それはよかった。都会では中々釣りはできないですものね。ヤツデはもちろん一緒に行くよな?」ビャクブは問いかけた。ヤツデはおもしろそうにして言った。
「うん。ぼくは行くよ。魚釣りは今から楽しみだね。そこへはシロガラシさんのお家からだとどれくらいかかるの?」ヤツデはチコリーに対して質問を投げかけた。チコリーは応じた。
「場所はナズナさんのお家の先にある湖だから、歩くと、50分くらいはかかると思うよ。おじいちゃんは軽トラックで行っているけど、自転車はちょうど二台あるから、ヤツデさんとビャクブさんは自転車で行くといいよ。道はほとんど真っ直ぐ行けばいいだけだから、ヤツデさんとビャクブさんは道に迷う心配もいらないと思うよ」チコリーは淀みなく言った。チコリーはそもそもユリよりもシロガラシの家に遊びに来る回数が多いのである。そのため、チコリーはユリよりもコニャック村に関しての詳しい知識を持っているのである。その間のユリは正座をして皆の話を黙って聞いていた。
「そうなのかい?チコリーは手取り足取りありがとうな」ビャクブはお礼を言った。
「ううん。そのくらいはいいんだよ。私は役に立ててよかった」チコリーはうれしそうである。
ただし、動物のことは調べてきたが、魚のことは調べなかったので、それは手落ちだなとヤツデは思った。その代わり、ヤツデはシロガラシからは釣りの知識を学ばせてもらおうと思った。
選り好みすることは多々あるが、ヤツデはいつでも向上心があるのである。ただし、学校の勉強はヤツデも飛び切り好きという訳ではない。しかも、それはビャクブも同じである。
暮年の晴耕雨読の生活を夢見ているとおり、ヤツデは本を読んで知識をつけることが大好きである。ヤツデはそんな中ですぐに忘れてしまってもビャクブに対して話して聞かせることができればそれでいいと思っているのである。なぜなら、ビャクブはそれを喜んでくれるからである。
ヤツデとビャクブの二人はやがて昼食を終えるとミツバの協力を得て物々しい物置から釣り具を調達した。ミツバからは出発する前にシロガラシに対して渡してほしいと言われておむすびも持って行くことになったので、ビャクブはお気に入りのウエスト・ポーチにそのおむすびを入れることにした。
準備はこうして万端になると、チコリーの指示のとおり、ヤツデとビャクブの二人は自転車に乗って目的地へと進んで行った。ビャクブは自転車を持っていないので、サイクリングは久しぶりである。
自転車はシロガラシもミツバも滅多に使わないのだが、前回はチコリーが使っていなかった方のタイヤもチューブが破れてパンクをしているというようなことはなかった。
整備はされていなくてもサイクルのルーフに入っていたので、自転車は野ざらしにはなっていないために割ときれいだし、実際は泥よけ(フェンダー)もしっかりとついていた。
その後のヤツデとビャクブの二人は道中で畑・田んぼ・ブドウ園などを横目に見ながらシロガラシのいる湖までやって来た。コニャック湖は比較的に澄明であるが、実は様々な種類の魚が生息している。
例えば、ゲンゴロウブナ・キンブナ・ヤリタナゴ・カネヒラ・シロヒレタビラ・アカヒレタビラなどといった魚である。コニャック湖はとにかく名前を上げると切りがないほどに大きな湖なのである。
ヤツデとビャクブの二人は自転車から降りてしばらく湖の周りを歩いて行った。コニャック湖の隣には雑木林が生い茂っている。ヤツデとビャクブの二人は間もなくシロガラシの姿を認めた。
「釣果はどうですか?」ヤツデはシロガラシの背中に向かって呼びかけた。
「おお。ヤツデさんとビャクブさんのお二人はやはり来て下さったのじゃな。今のところの釣果は一匹ですが、調子はまずまずじゃないかのう」シロガラシはゆっくりと振り向いてから言った。
「それはいいですね。それはそうと、おれはミツバさんからおむすびを預かってきているんです。こちらはお渡ししておきますね」ビャクブはそう言うと早速にシロガラシに対しておむすびを手渡した。
「これはこれは」シロガラシは言った。「どうもありがとうございます」シロガラシはお礼を述べた。
「ぼくたちはミツバさんから許可を頂いてシロガラシさんのお家の物置から釣り具を拝借させてもらったのですが、シロガラシさんはそれでもよろしかったですか?」ヤツデは確認をした。ミツバのことはもちろん信用しているが、ヤツデは義理堅い男なのである。シロガラシは快諾をした。
「ええ。もちろんじゃよ。わしは大歓迎ですから、ヤツデさんとビャクブさんのお二人はわしと一緒に魚釣りをしましょう」シロガラシはうれしそうである。シロガラシは仲間が増えて明らかに喜んでいる。
という訳なので、ビャクブはヤツデと一緒にシロガラシの隣に腰をかけながら傍にあるポリエチレン製のバケツを覗き込んだ。そこでは体長が6センチほどの小魚が元気よく泳ぎ回っていた。
「シロガラシさんの釣った魚はなんという魚ですか?」ビャクブは聞いた。
「ゼニタナゴという種類の魚です」シロガラシは即答をした。ビャクブは納得をした。
「そうなんですか。タナゴは聞いたことがありますが、ゼニタナゴという魚は初耳です」
ゼニタナゴはコイ科の硬骨魚で体は金属光沢に輝いている。また、ゼニタナゴは水草や藻類を食べて大型のカラスガイやドブガイといった二枚貝の体内に産卵する習性がある。
「コニャック湖にはやっぱり色々とお魚がいるのですか?」ビャクブは再び聞いた。
「ええ。おそらくはあまりここまで来て釣りをする人が少ないせいもあるでしょうが、種類と個数は豊富です。ここはようするに釣りの穴場というやつじゃのう」シロガラシは愉快そうである。
「そうなんですか。それなら、釣り甲斐はありますね」ヤツデは返答をした。ヤツデとビャクブの二人は釣り糸の先っぽに繋いである釣り針に疑似餌を取りつけてからそれぞれ釣り糸を垂らした。
「ヤツデさんとビャクブさんはよく釣りをなさるのですか?」シロガラシは聞いた。シロガラシは早速にミツバの作ってくれたおむすびを食べ始めながら世間話をすることにしたのである。
「いいえ。おれは魚釣りをするのは久しぶりです。ヤツデはどうだい?」ビャクブは聞いた。
「ぼくも久しぶりだよ。シロガラシさんはどのくらい釣りを趣味にされているのですか?」ヤツデは聞いた。ヤツデはなんとなくシロガラシのさまになった釣り人の風格から『シロガラシはおそらく割とベテランなのではないだろうか』と思ったのである。当のシロガラシは目を細めて言った。
「そうじゃのう。釣りはもうかれこれ40年以上はやっていますかのう。自分で言うのもなんですが、わしはベテランの域に達しているかもわかりません。なんといっても、釣りはわしの唯一の趣味ですからのう。どうでしょう?わしはいくつかの釣りの知識をお教え致しましょうか?」シロガラシは聞いた。
「はい。シロガラシさんはぜひお聞かせ下さい。ぼくは興味があります」ヤツデは代表して答えた。
「わかりました。まずは漁師による釣りのことはコマーシャル・フィッシングと言って今のわしらのようにして娯楽性の釣りのことはスポーツ・フィシングと呼ぶのです」シロガラシは教えてくれた。
娯楽性の釣りには遊漁やリクリエーショナル・フィッシングといった別名も存在する。ヤツデはちなみにメモを持ってこなかったことを密かに悔やんでいる。シロガラシはエサの有無を確かめるため、一旦は釣り糸を引き上げた。ヤツデはそれを見るとシロガラシの猿まねをしてみた。ヤツデはやはり子供っぽいのである。しかしながら、ヤツデはすぐに釣り糸を垂れ直すことにした。ビャクブは相槌を打った。
「へえ。そうなんですか。おれは初めて聞きました。さすがはよくご存知ですね」
「いえいえ。実は釣りの方法には釣り竿を使わないで釣り糸を手に持ってする手釣りというものもあるのです。この方法ではワカサギなんかを釣るのですがのう。それから、魚釣りには釣り針を使わない方法もあるのじゃが、これはなにを釣る時の方法だかわかりますか?」シロガラシそう聞くと再び釣り糸を垂らした。今度はさすがのヤツデも猿まねをしなかった。ビャクブはそもそも注意力が散漫である。
「はい。ザリガニ釣りですよね?」ヤツデは即答した。ヤツデは小学生の頃に家の近くにあった池のある公園で針をつけないでスルメをエサにしてやったザリガニ釣りを思い出したのである。
「さすがはヤツデさんじゃのう。ヤツデさんは中々鋭いのう。ん?ヤツデさんはひょっとしてヒットしているのではありませんかのう?」シロガラシは聞いた。ヤツデの持つ釣り竿の浮きは少し沈んでいる。
「ああ。本当ですね。シロガラシさんのおっしゃるとおりみたいです」ヤツデはそう言いつつ釣り竿を引き上げた。ヤツデの釣り針にはすると5センチくらいの小さな魚が見事にヒットしていた。ヤツデは魚の口に引っかかった釣り針を取り外すことにした。ヤツデは動物を触れないが、魚には触れるのである。
「ええと、これはなんという魚ですか?」ヤツデは興味本位から聞いた。
「それはイサザと言う魚です。いや。それにしても、ヤツデさんは中々見事な腕前じゃのう」シロガラシは褒め称えた。魚の種類は見ただけでもわかるから、シロガラシはやはり魚にも詳しいのである。
「でも、観賞用にはあんまり向かなそうな魚だな」ビャクブは横槍を入れた。
「そうかな?まあ、でも、このイサザはあとでキャッチ・アンド・リリースしてしまいましょう」ヤツデは戸惑うことなく決断した。シロガラシは最初からそのつもりである。
イサザは灰褐色のハゼ科の魚である。料理すれば、イサザは美味と言われていてつくだに・煮つけ・すき焼きといった風にして料理にされる。イサザはちなみに冬の景物でもある。
イサザはあとで逃がすつもりだが、ヤツデはシロガラシに対して確認をして一旦はイサザをシロガラシのバケツに入れさせてもらうことにした。ヤツデはやがて再び釣り糸を垂れた。
「浮きの種類はどのくらいあるのですか?ぼくはさっきから気になっていたのですが、ぼくの使っている浮きとビャクブとシロガラシさんの使っている浮きの種類は違いますよね?」ヤツデは聞いた。
「ええ。そのとおりじゃよ。わしとビャクブさんの使っている浮きは棒浮きというものです。棒浮きはコニャック湖のようにして流れの緩い釣り場ではよく使われます」シロガラシは説明をした。ということは流れの速い河川では当たりがわかりにくいので、棒浮きは適さないのである。
「ヤツデさんの使っているのは棒浮きと球浮きの中間の性質を持つトウガラシ浮きというものじゃよ」シロガラシはさらに解説をした。トウガラシ浮きは見た目がトウガラシに似ているので、トウガラシ浮きと呼ばれるのである。球浮きは流れの速い釣り場でも使いやすいと言われている。浮きには水中浮きというものもある。水中浮きは少し仕かけの重さが増えるために遠くへと飛ばしやすいという代物である。
「おもりの種類にはガン玉や割れビシと呼ばれるものがあります。おや?今度はどうやらわしの方がヒットしたようじゃのう」シロガラシはそう言うと竿を引き上げた。今回のシロガラシは約6センチのイチモンジタナゴを釣った。イチモンジタナゴは体側に真一文字の縦条があるというコイ科の観賞魚である。
「うーん。おれの釣り竿には中々ヒットしませんね」ビャクブは不服そうである。
「まあまあ」シロガラシは宥めた。「釣りには忍耐力が大切です。でも、一応は魚をビャクブさんの釣り針の付近におびき寄せるために少しエサを撒きましょうかのう」シロガラシはそう言うとそのとおりにした。シロガラシはやはり『愛の国』トイワホー国の国民である。ビャクブは感謝をした。
「ありがとうございます。時に、これは遅かれ早かれわかることとはいっても、おれたちはツバキさんの事件について村長さんにも話した方がいいんじゃないかい?」ビャクブはヤツデに対して聞いた。
「うん。でも、ぼくはその前に一つシロガラシさんに聞いておきたいことがあるんだよ。ツバキさんの事件についてはそのあとでもいい?」ヤツデは伺いを立てるような口調で聞いた。
「ああ。おれは別にそれでもいいよ。ヤツデはなにを聞きたいんだい?一体」ビャクブは再び聞いた。
「それは怪盗に盗まれたソテツさんの金魚についてだよ」ヤツデはそう言うとソテツから撮らせてもらった三枚のフォト・グラフを全て取り出した。ヤツデはそしてそれらをシロガラシに対して見せた。
「シロガラシさんはもしかしてこの写真の金魚をどこかでお見かけしませんでしたか?」ヤツデは質問をした。シロガラシはヤツデの差し出した写真をまじまじと見たあとでちょっと申し訳なさそうにした。
「うーん。わしは見かけませんでしたのう。それにしても、ソテツさんは金魚を三匹も怪盗に盗まれてしまったのですか?それはまたお気の毒なことじゃのう」シロガラシは同情をしている。
「ああ。いいえ。ソテツさんの盗まれてしまったのはこの真ん中にある写真のスイホウガンという一匹だけです」ヤツデお気楽な口調で説明をした。ビャクブは思わず驚き入ってしまった。
「おいおい」ビャクブは言った」「ヤツデはちょっと待ってくれよ。まさかとは思うけど、ヤツデはひょっとしてそんなことを聞くためだけにソテツさんから写真を撮らせてもらったのかい?」ビャクブは半信半疑で聞いた。ビャクブは信じがたいという顔をしている。シロガラシはきょとんとしている。
「うん。そうだよ」ヤツデは平然とした顔で言って退けた。そのため、ビャクブは呆れたような顔をしている。シロガラシはそんなビャクブを横目に見ながら少し畏まって話に割って入った。
「それで?わしはすこぶる気になるのじゃが、ツバキさんの事件とはなんのことですかのう?一体」
「シロガラシさんはチコリーと行き違いになってしまってご存じないはずですよね?ツバキさんは何者かによって殺害されてしまったんです」ヤツデは冷静に言葉を紡いだ。シロガラシは驚いてしまった。
「なんですと?それでは予告殺人の対象者はツバキさんだったという訳ですか?」
「いや。予告殺人の対象者はナズナさんという方だったのですが、それはヤツデの考えではフェイクであって犯人は元々ツバキさんを狙っていたということです。ああ。でも、ツバキさんは密室の家の中で発見されたので、実は殺害されたっていうのもヤツデの推理によるものなんですけどね」ビャクブは解説をした。その間のヤツデは黙っていた。ヤツデは事件のあらましを頭の中で整理し直していたのである。
「そうでしたか。いやはや。これはまた心臓に悪い話じゃのう。まさか、わしはこのコニャック村でそんな残忍な事件が起きるとは思ってもいませんでした。わしはここにヤツデさんとビャクブさんを招待した時は事件に煩わせまいとしていたのじゃが、もしも、よろしければ、ヤツデさんとビャクブさんはまたクリーブランド・ホテルでの事件を解決して見せた手腕を発揮して下さいませんかのう?わしはこの村の村長としてお願いします。どうか、このとおりです」シロガラシはそう言うと慇懃に頭を下げた。
ここからはヤツデとビャクブに対するシロガラシの絶対的な信頼感を窺い知ることができる。現在のシロガラシは当然のことながら素面である。ビャクブはヤツデよりも先に口を開いた。
「シロガラシさんは頭を上げて下さい。ヤツデはきっとツバキさんの事件も怪盗の事件も解決してくれます」ビャクブは無責任な発言をした。この場だけはヤツデもそのセリフを受け入れて言った。
「ぼくはご希望に添えるかどうかはわかりませんが、やれるだけのことはやってみます」
「そうですか。どうもありがとうございます」シロガラシは再び深々と頭を下げた。
その後は各々に思うことがあって会話はしばらく途切れた。シロガラシは事件解決を心から願っていたのである。一方のヤツデは分不相応な頼みを受け入れてしまって悩んでいる。
とはいっても、シロガラシは別にヤツデが事件を解決できなくたってヤツデを責める訳がないので、本来なら、ヤツデは楽にしていればいいのだが、まじめすぎるから、そうは考えないのである。
ただし、ここには能天気な男もいる。そう言えば、最近は食べていないから、うな重を食べたいなとビャクブは考えている。ビャクブはヤツデに対して完全にゲタを預けている。
その頃のチコリーはシロガラシの家において二階で一人遊びをしていた。チコリーは明るい性格をしているので、人とお話しをすることは大好きなのだが、実は一人でいるのも嫌いではないのである。
チコリーはその点では一人では寂しくて傷つくのも怖いという面倒な葛藤を抱えているヤツデとは大違いである。もっとも、ヤツデは自分が大した人間ではないということを嫌というほどに自覚をしているのである。だから、ヤツデは問題に対して真っ向から向き合うことはできている。という訳なので、ヤツデは自分よりも強い意志を持っているという点に関して13歳も年下のチコリーのことを尊敬しているのである。人はどんな人に対しても敬意を払うことができるということはいいことである。
それはヤツデの相棒であるビャクブもできることだし、トイワホー国の国民の大半が大切にしていることでもある。他人をリスペクトできるということはその相手にやさしくできるということにも直結している。そうすれば、相手との距離感は不即不離の関係よりも一歩を踏み出せるのである。
今のチコリーはクラクフ市にあるアクアリウムでシロガラシに買ってもらった魚の図鑑を参与にしてイラストを描いている。チコリーは昔からお絵描きが好きなのである。
そのため、もしも、できあがったなら、チコリーはヤツデとビャクブの二人にも見てもらおうと思っている。チコリーはそしてそれを密かな楽しみにしている。
一方のミツバとユリの二人はシロガラシの家のリビング・ルームにいる。現在のミツバとユリはだべっている。出かけるのは決して嫌いではないが、どちらかと言うと、ミツバはインドア派なのである。
昔はおはじき・あやとり・お手玉といったものにも嗜んでいたが、中学に入ってからはバレー部に入ったので、どちらかと言うと、今のユリはバレー・ボールの方が好きである。
ただし、ユリは小学校6年生の時に始めたローラー・スケートにも凝っている。その靴は父親から誕生日プレゼントとしてユリが貰ったものである。そのため、今回は持ってきていないが、ユリはシロガラシとミツバにも滑っているところを見てもらったことがあるのである。
「それにしても、今夏にはマツブサさんは逮捕されて今秋にはモクレンさんとツバキさんの死に直面するなんてねえ。私とおじいちゃんは悪霊退散でもしてもらった方がいいかしら?」ミツバは問いかけた。
「おばあちゃんは迷信深いのね。そんなことはおばあちゃんとはなんの関係もないのよ。おばあちゃんの身のまわりではたまたま悪いことが続いちゃっただけよ」ユリは大人の対応をした。ユリは落ち着き払っている。マツブサとはシロガラシの親戚でヤツデによって麻薬密売の罪を暴かれた男のことである。
「ツバキさんはその上に何者かによって殺害されたのだとしたら、私は目も当てられないわね。まあ、今なら、コニャック村にはヤツデさんとビャクブさんが居合わせてくれたのは不幸中の幸いだったかもしれないけれど」ミツバは悲嘆に暮れている。それでも、ミツバはヤツデとビャクブのことは持ち上げた。
「あら」ミツバは言った。「私は暗い話をしているとまたユリに叱られちゃうわね。私達は明るい話をしましょうか。チコリーはヤツデさんとビャクブさんにすっかりと懐いているけど、ユリはどうかしら?ユリはヤツデさんとビャクブさんのお二人のことを気に入った?」ミツバは聞いた。
「ええ。ヤツデさんとビャクブさんは思ったほどには気取っていないし、というか、気取ったところは全くないものね。私は自然体なところが気に入った。ヤツデさんとビャクブさんは私の人生の伴侶としてもふさわしそう」ユリは急に突飛なことを言い出した。ミツバは身を丸くしている。
「ふふふ」ユリは笑んだ。「それはもちろん冗談だけどね。ヤツデさんは怪盗から来た暗号も解読しちゃったし、ヤツデさんとビャクブさんは本当に犯人を捕まえられそうだから、ヤツデさんとビャクブさんには私も期待をしているのよ」ユリは中学校二年生らしく普通の女の子らしくした。
「おやまあ」ミツバは言った。「ヤツデさんとビャクブさんはユリの信頼も勝ち得たのね。実は私もヤツデさんとビャクブさんのような気骨な方々にお会いできて本当に幸せだと思っているのよ」ミツバはしみじみと言った。もっとも、それはヤツデとビャクブの方もミツバの家族に出会えたことを同じように感じていることである。その後のミツバは以前に行ったことのある遺跡の話をした。
一方のユリはポルカというしがない中年の男の俳優の話をした。ポルカとはオーディションで23回も落選してようやく24回目で男優になることができたという成り上がりの男性である。ポルカは履歴書を書くのも大変だったのである。また『愛の国』トイワホー国は入社の際の面接も比較的に緩やかなので、これは珍事なのである。冷やかしにくる者はいないので、それでも、トイワホー国の社会は割とやって行けているのである。トイワホー国にはそもそも不良じみた人間はいないので、皆はまじめに仕事に取り組む人ばかりなのである。ドラマではとにかく端役しか演じたことはないが、ポルカは性格がとてもやさしいので、ユリはポルカのファンなのである。ミツバとユリは取り留めのない話をしていると家のチャイムが鳴った。ミツバは玄関の戸を開けた。訪問してきたのはナズナだった。一度は話に出たとおり、ナズナは予告殺人の対象になってしまったコニャック村の村民である。そのため、ミツバは驚いた。
「おやまあ」ミツバは言った。「ナズナさんはもう出歩いてもよろしいのですか?ナズナさんはお家にいらっしゃった方がよろしいのではありませんか?」ミツバは心配をしている。
そのため、室内のユリは当然のことながらミツバのセリフを聞いて意外に思っているし、ナズナの勇気ある行動についてはミツバと同様にして驚いている。ナズナは意外にも落ち着いていた。
「心配はご無用です。一応は表に警察官もきてくれていますし、私はミツバさんが私の命を狙っているだなんて思っていませんから」ナズナはあっけらかんとしている。ミツバはまだ少し心配そうである。それでも、ナズナはせっかく訪れてきてくれたのだから、ミツバはナズナを家に上げることにした。
「こちらはおすそわけです」ナズナは座卓の前に腰をかけると言った。ナズナは発泡スチロールの箱に入った鮮魚を差し出した。詳しく言うと、中にはアジやサバが入っている。
ナズナの実家の父親は漁師をしているので、ナズナは時々シロガラシの家におすそわけを持って来てくれることがあるのである。そのため、ミツバは魚を受け取ると丁寧にお礼を言った。
その後のミツバとナズナの二人はツバキの死について少々の話をした。ミツバはヤツデとビャクブからその話を聞いていたので、ナズナは少しだけミツバの情報収集の早さに驚いた。
「それで?ナズナさんは外出していて怖くないんですか?」ユリは聞いた。
「ええ。私にはもうツバキが死んでしまうということ以上の怖いことはないもの」ナズナは悲壮な気持ちで言った。それについてはませているユリも深く同情をした。
「ナズナさんはツバキさんと仲がよかったですものねえ」ミツバはそう言うとナズナのためにウーロン茶の入ったコップを座卓に置いた。ナズナはそれについてお辞儀をすると再び口を開いた。
「ええ。ツバキは私の親友でしたから、本当は私だって死んでしまっても構わないんです」
「おやまあ」ミツバは言った。「ナズナさんはそんなことをおっしゃってはいけませんよ」ミツバはやさしい口調で宥めた。ただし、ナズナの性格は勝ち気で負けん気が強いことは事実である。そのため、あるいは予告殺人の通告者にも食ってかかる可能性はなきにしもあらずである。普通の人なら、怖がるはずなのにも関わらず、ナズナはあっけらかんとしているところを見てもナズナの気の強さは窺える。
「でも、ナズナさんは安心をして大丈夫です。犯人はきっとヤツデさんとビャクブさんが捕まえてくれますから」ユリは丁寧な口調で言った。しかし、ナズナは不思議そうにした。そのため、ミツバとユリの二人はナズナに対して掻い摘んでヤツデとビャクブのこと・ツバキは自殺ではないかもしれないということを話した。ナズナはやがて最後まで話を聞くと顔をこわばらせた。ミツバはそれに気づいた。
「あら」ミツバは言った。「ナズナさんはご気分でも悪くなってしまいましたか?でも、ナズナさんにとっては確かにショッキングな話ですものねえ」ミツバはナズナの心中を推し量った。
「ええ。それは本当にそうです。ツバキは死んでしまっただけではなくてその上に誰かに殺されたなんて信じ難い話ですもの」ナズナはそう言うと項垂れてしまった。しばしは黙座の状態が続いた。
「あ、そうだ。ヤツデさんはハム次郎っていうぬいぐるみが好きでわざわざコニャック村にまで持って来ている子供っぽい人なんですよ」ユリは明るく言った。中学生の割にはやはり大人びているので、ユリは気を使ってなんとかしてじめじめしたムードを払拭しようとしたのである。
「あら」ナズナは言った。「そうなの。私は子供っぽい人も好きよ。世の中には色々な性格の人がいるものね。そう言えば、村長さんはどうされているのかしら?」ナズナはユリの努力の甲斐があって少し気持ちが解れて聞いた。ナズナはミツバとユリだけではなくてシロガラシとも懇意なのである。
「おじいちゃんなら、今はヤツデさんとビャクブさんと一緒に釣りに行っています」ユリはしゃきしゃきと答えた。ユリはナズナを相手にしても全く動じていない。その間のミツバは黙っていた。
「そうだったの」ナズナは了解をした。なんといっても、現在のナズナは夫のヤマガキとの仲がよくないので、夫婦円満のシロガラシとミツバのことは羨ましいのである。シロガラシとミツバの二人は実際に孫に囲まれて来年には結婚45年目のサファイア婚式を迎えることになっている。
付け足しておくと、結婚記念日には何年目かによって式の名前が変わる。例えば、一年目の紙婚式・6年目の鉄婚式・7年目の銅婚式・25年目の銀婚式といった按配である。
その後のユリは完全犯罪なんてありえないということを力説した。警察のことはもちろん信じてはいるが、ユリはようするによっぽどヤツデとビャクブのことを信頼しているということである。
ナズナはそれに対して最もだと頷いて少々仕事の愚痴をミツバによって聞いてもらうとだいぶ気持ちが楽になった。ミツバはナズナがお礼とお別れの言葉を口にすると言った。
「ナズナさんはわざわざ大変な時期に私達のところに来て下さってありがとうございます。泣きたい時は泣いてもいいのですよ。我慢はせず、もしも、言いたいことがあれば、私はいつでもナズナさんの相談に乗りますからね」ミツバは玄関の前でナズナを見送る間際に声をかけた。
「ありがとうございます。私はミツバさんのかけてくれたやさしい言葉を忘れません。それではさようなら」ナズナはそう言うとシロガラシの家を二人の警察官と共にあとにした。
ナズナは緊急事態に置かれても、外面は屈してはいないが、内心は予告殺人の対象にされて怖いだろうし、ツバキの死は相当なショックだっただろうから、ミツバはそんなナズナに対して深く同情をした。
ミツバはそしてトイワホー国の国民らしくナズナのために『自分はどんなことができるだろうか』と考えを巡らせるようになった。ミツバは思いやりがあるという訳である。
一方のユリはナズナのことを思うと少し自分まで気持ちがブルーになってしまった。ユリはそういう点でいつも天衣無縫なチコリーとはいとこ同士でも真逆な性格をしているのである。
あれからは約30分が経過したが、ヤツデとビャクブとシロガラシの三人の誰の釣り竿には動きは見られなかった。しかし、ビャクブは『自分も絶対に魚を釣り上げてみせるぞ』という熱意に燃えている。
ただし、ヤツデは今では気楽に本を読みながら釣りを続けている。とはいっても、シロガラシは脳溢血の怖さを説いていた時には読書を止めてヤツデもさすがにちゃんと耳を傾けていた。
シロガラシの父は脳溢血の後遺症で苦しんでいたのである。という訳なので、雰囲気はますます暗くなってしまったので、その後のシロガラシは明るいことをしゃべろうとしていた時である。シロガラシは傍の林から出てくる人影を見咎めた。ヤツデはシロガラシと同じくそれに気づいたが、ビャクブは躍起になって釣竿の浮きと睨めっこをしているので、その人影には気づかなかった。
「おや?君はもしかしてモミジくんじゃないかのう?」シロガラシは少年に対して声をかけた。
「おお。来た!ヒットしたぞ!」ビャクブはそれとほぼ同時に歓喜の声を上げた。
「こんにちは」モミジは村長に対してぼそぼそと言いながらシロガラシとヤツデとビャクブの元に近づいて来た。ビャクブはモミジには目をくれていないが、ヤツデはモミジが来た方向を目で追っている。
「こんにちは」シロガラシは挨拶を返した。「モミジくんは林の中を散歩していたのかのう?」
「はい。そうです。今日は天気もいいから、おれは気晴らしをしていました」モミジは答えた。
「ああ。すみません。わしは紹介が遅れたのう。こちらはナズナさんとヤマガキさんの一人息子のモミジくんじゃよ」シロガラシは紹介した。モミジはそれを受けてヤツデとビャクブに対してきちんとお辞儀をした。ヤツデは『はじめまして』と言うとモミジに対して愛想よく微笑んだ。
「はじめまして」ビャクブは挨拶をした。「ああ。それから、ヤツデはこれを見てくれよ。おれはついに魚を釣ったぞ」ビャクブはそう言うとうれしそうにして自分の釣った魚を皆に対して見せた。
「モツゴですね。別名はクチボソです。そう言えば、釣り人のことは太公望とも言いますよね」モミジは初めにコメントをした。モミジはとても落ち着いた話し方をするのである。
「へえ。そうなんだ。モミジくんはすごくもの知りなんだね」ヤツデは素直に感心をした。
「ええ。そうなんじゃよ。今は高校一年生なんじゃが、モミジくんはとびきり頭がいいのじゃよ。ですから、モミジくんは我々(コニャック村の村民)の期待の星なんじゃよ」シロガラシは同意をした。
「いやいや。そんなことは別にありませんよ」モミジは形式的に否定をした。
「そう言えば、モミジくんのお母さんは予告殺人の対象になっているのかい?」ビャクブは聞いた。
「はい。そうですよ。でも、おれには誰がそんなことを言い出したのかは知らないですけど、おれはそんなバカなまねはしないだろうと思っていますけどね」モミジは意外にも淡々とした口調で言った。
「おや?モミジくんはヤツデと同じ意見じゃないか。モミジくんはもうツバキさん殺害事件の話を聞いているのかい?」ビャクブは再び聞いてみた。今はさすがのビャクブも魚が釣れた喜びを噛み締めている場合ではなくて真剣な話をしておいた方がいいのかなと思っているのである。
「家の周りには警察官がいる訳ですから、おれはツバキさんが亡くなったということはもちろん聞いていますが、殺害されたということは聞いていません。それはどこからの情報ですか?」モミジは聞いた。
「ああ、それはそうか。ヤツデはツバキさんが殺害されたと考えているんだよ」ビャクブは胸を張って言った。ビャクブはすでにツバキの他殺説を信じ切っているのである。
「つまり、ヤツデさんは殺人の現場にいらっしゃっていたのですか?」モミジは当然の疑問を口にした。シロガラシの言うとおり、モミジはやはり賢いので、頭の回転は速いのである。
「ああ。ごめん。おれはまた説明を省きすぎたな。第一発見者はアカネさんだけど、おれとヤツデは偶然にも死体の第二と第三発見者になったんだよ。なあ?」ビャクブはヤツデに対して同意を求めた。
「うん。そうだよ。あ、そうだ。いきなりだけど、モミジくんはこの写真を見てくれる?」ヤツデはそう言うと例の写真の三枚の全てをモミジに対して見せた。ヤツデはそして低姿勢になって訊ねた。
「これはソテツさんの家から怪盗に盗まれちゃった金魚なんだけど、モミジくんはどこかで見たことはないかな?」ヤツデはモミジの表情を見つめている。しかし、モミジは残念そうにして答えた。
「いいえ。おれは見たことはありません」モミジはゆっくりと一通りの写真を見てから言った。ヤツデはモミジの答えを聞き終わると相も変わらずにやさしい口調で言った。
「そっか。それなら、モミジくんはそれでいいんだよ。失礼なことは承知で聞かせてもらうけど、モミジくんにはお母さんが予告殺人の対象になるような理由になにかの心当たりはあるかな?」
「おれの母さんは気の強いところもあるけど、おれには心当たりはありません」モミジは答えた。
「そっか。ぼくはモミジくんに立ち話をさせちゃってごめんね」ヤツデは謝った。モミジはすると別れの挨拶をして家の方へと帰って行った。シロガラシはその際にモミジに励ましの言葉をかけた。
その理由は当然のことながらモミジの母が生命の危機に立たされているからである。それはヤツデとビャクブも言おうとしたが、シロガラシには先を越されてしまったので、ヤツデとビャクブは別れの挨拶だけを言っておいた。モミジは礼儀正しくヤツデとビャクブに対しても返事をした。
ヤツデとビャクブとシロガラシの三人はその後も釣りを続けた。ヤツデとビャクブはやがて頃合いを見計らって釣りを切り上げると自転車で帰路に着いた。一方のシロガラシは軽トラックで帰路に着いた。
ミツバはヤツデとビャクブがシロガラシの家に帰ると庭いじりをしていた。そのため、ヤツデとビャクブの二人は暗くなるまで雑草取りをしたり、除草剤を撒いたりしてミツバの仕事を手伝った。
ヤツデはそうしながら凡百なことを考えた。しかし、その大半はコニャック村の事件のことではなくてとても下らないことだった。秋の日はつるべ落としである。日はやがて暮れて夕方になった。
現在は夕食の時間になったので、昨夜の宣言のとおり、ヤツデはホット・ケーキを作って皆に振る舞った。実はヤツデの料理を食べるのは初めてなので、ビャクブはこの時を楽しみにしていたのである。
今夜の食卓には当然のことながらシロガラシとミツバだけではなくてチコリーとユリも同席をしている。ホット・ケーキはチコリーの大好物なので、今夜のチコリーは大喜びをしている。
ユリの好きな食べ物はちなみにしゃぶしゃぶとお好み焼きである。ユリは女子中学生っぽくない食べ物が好きなのである。しかし、ホット・ケーキはユリだって嫌いな訳ではない。
「どうもありがとうございます。これはもちろん『温もりタッチ』の対象にさせてもらいます」シロガラシはヤツデの作ったホット・ケーキを頬張りながらヤツデに対して言った。
さて『温もりタッチ』というのは身体障害者や65歳以上の高齢者に親切にするとなんと一度だけで『親切スタンプ』を二つ押してもらえるというお得な制度のことである。
「そうですか?それなら、ぼくからも、ありがとうございます。でも、ぼくらはお世話になっているのですから、これくらいは当然のことですよ」いつものとおり、ヤツデは遠慮気味にして言った。
「ヤツデさんとビャクブさんはそれにしたって全くの善意から庭の雑草取りも手伝って下さったのですから、私はヤツデさんとビャクブさんがつくづく親切な方だと思うわ」ミツバは感激している。
「ねえ。今夜こそは肝試しに行こうよ」チコリーはヤツデとビャクブに対して楽しそうにして言った。ところが、シロガラシは言いにくそうにして次のようにして口を挟んだ。
「ああ。その話じゃがな。ヤツデさんとビャクブさんは確かに信頼できる人たちじゃが、わしの考えとしては小学生が夜中に出歩くというのはあんまり望ましくないことだと思うのじゃよ。だから、チコリーはわしらと一緒にお留守番をしている訳にはいかんかのう?」シロガラシは申し訳なさそうである。
「えー!そんなー!言い出しっぺは私なんだよ。ユリちゃんはいいのにも関わらず、私はなんでダメなの?ヤツデさんとビャクブさんはおじいちゃんに賛成なの?」チコリーはヤツデとビャクブの二人の判断を仰いだ。ヤツデは動じることなく自分で作ったホット・ケーキを口に運んでいる。
「ああ。おれはシロガラシさんの意見に従った方がいいと思うな。ほら、ことわざでは亀の甲より年の功って言うだろう?」ビャクブは意見した。一方のヤツデは相も変わらずに遠慮気味にして異を唱えた。
「いや。チコリーはしっかりしているし、チコリーにはビャクブとぼくがついていますから、シロガラシさんはなんの心配もいらないと思いますよ」ヤツデは軽い調子で言った。チコリーはするとうれしそうにして目を輝かせた。チコリーはこの上なく単純な性格をしているのである。
「うーん。そうかのう?それでは明日までに考えておこうかのう。まあ、急ぐ必要は別にないじゃろうから、チコリーはそれでもいいかのう?」シロガラシは確認をした。チコリーは納得をした。
「うん。私は今日じゃなくてもいいから、もちろんだよ。おじいちゃんとヤツデさんはありがとう」
「ううん。お礼はいいんだよ。夜の探検にはチコリーも行きたいものね。話は変わりますが、コニャック村では特にツバキさんと親しくしていた方はいましたか?」ヤツデはシロガラシに対して聞いた。
「ええ。ナズナさんとその旦那さんのヤマガキさんは夫婦ぐるみで付き合いがあったのじゃよ」シロガラシは返答した。コニャック村はやはり人と人との繋がりが厚いのだなとビャクブは思った。
「そうでしたか。それなら、ナズナさんには予告殺人についてもお話を聞こうと思っていたから、それはちょうどいいです。ぼくは明日にツバキさんの事件の関係者に話を聞きに行こうと思うんだけど、ビャクブは一緒に来てくれる?」ヤツデは尋ねた。ヤツデはいくらか頼りなさそうである。
「ああ。おれは構わないよ。おれたちは話を聞いてなにかを掴めるといいな」ビャクブはすでに乗り気である。ビャクブは『おれたち』と言っているが、事実上はヤツデに任せる気が満々である。
「あ、それは私も付いて行ってもいいかしら?事件については私も興味があるの」ユリは言った。
「うん。ぼくは別にいいよ。それじゃあ、ユリちゃんも一緒に行こうね。トイワホー国の国民なら、邪険にはされないだろうけど、ユリちゃんはやっぱりいた方がいいかもしれないものね」ヤツデは言った。
話はこうしてまとまった。ヤツデとビャクブの二人はやがて夕食がすむとシロガラシの家にあったオセロをして時を過ごした。ヤツデはビャクブと遊ぶ時間ができてとてもうれしそうである。
チコリーはそんな中でヤツデとビャクブの二人が対決していると二人の部屋にやって来て魚のイラストレーションを見せてくれたので、ヤツデとビャクブはそれを大いに持ち上げた。
その後のヤツデとビャクブの二人はそれぞれの床に就いた。ヤツデはふとんの中でコニャック村の事件について予め明日に聞いておきたいことを考えておくことにした。
一方のビャクブは今夜も中々眠れない時間を過ごしたが、今夜は夜道を徘徊するようなことはしなかった。ビャクブは明日のためにも体力を温存しておきたかったのである。
明くる日である。ヤツデとビャクブは目を覚まして着替えをすませてから一階へと降りて行った。よくは覚えてはいなかったが、ビャクブはその際に禍々しい夢を見たので、あれは予知夢ではないかとヤツデに対して話をした。それは結果的には大きく外れることにはならなかった。
という訳なので、ヤツデとビャクブの二人は一階に降りて来た。ヤツデとビャクブはすると前日と同じようにしてなにやらシロガラシが騒がしくしているのを目の当たりにすることになった。
ヤツデとビャクブにしてみれば、これはもはや既視体験というよりも昨日と全く同じ体験である。それには騒いでいるシロガラシも気づいているのだが、騒がずにはいられないのである。
「おはようございます。何事か、シロガラシさんにはまたあったご様子ですが、今日はどうされたのですか?一体」ヤツデはシロガラシさんに対して前日と同じようにして丁寧に挨拶をしてから聞いた。
「おはようございます。ヤツデさんとビャクブさんはとにかくこれを見て下さい」シロガラシはそう言うと近くにいたヤツデに対して紙を手渡した。これはまた昨日と同じようなやり取りである。
それはそうと、ヤツデはビャクブにも見えるようにして二つ折りになった紙を広げた。ビャクブは夢のこともあってなんとなくそれが不幸の手紙であることを直感した。
とはいっても、シロガラシは動揺をしているのだから、その可能性は確かに問題の紙を見るまでもなく大だし、問題の手紙は実際に不幸の手紙と言えばそうも言える代物である。
今は寝起きなので、ヤツデはまだ頭が完全には動き切っていなかった。ところが、ヤツデは手紙の内容を見ると少し目が覚めることになった。そこには以下のような文章が書き込まれていた。
私は10月30日の午後6時にFfGiCddImAcを頂戴する。これは悪戯などではないし、抵抗は無駄なことだということは忠告をしておくことにする。怪盗アスナロ(AaCeEeIm)
細かいことを言えば、今までとは少しだけ書いてあることは変わっているが、それでも、この予告状の差出人は今までの人物と同じだと考えてほぼ間違いなさそうである。
ビャクブは摩訶不思議な文面を見て驚いた。ヤツデとビャクブは遅かれ早かれこのままでは怪盗と直接対決をしなくてはならないからである。ただし、ビャクブはあまり不安ではない。
なぜなら、いつものとおり、ビャクブはヤツデに対して多大な期待をしているからである。一方のヤツデの本音は不安で一杯だが、今はまだそこまで考えるには至っていない。
「これは間違いなく今までと同じ怪盗からの予告状だな。怪盗は今日の午後6時にこの家からなにかを盗む気らしいな。ん?でも、この暗号文は過去に届いたものと種類が違うんじゃないかい?どうすれば、今度は解けるんだろう?一体」ビャクブは考え深げにして言った。一方のヤツデは違った観点を持った。
「怪盗は5日毎に犯行を繰り返しているから、怪盗からは予告状が来るとすれば、今日だとは思っていたけど、まさか、ぼくはまたシロガラシさんの家に届くとは思っていなかったよ。この予告状はポストに入っていたのですか?」ヤツデはシロガラシに対して聞いた。シロガラシはそれに対して頷いた。
「ええ。そのとおりです。わしは朝刊を取りに行ったら、その紙も一緒に入っていたのです」
「おれたちはとにかくこの予告状に書かれた暗号を午後6時までに解読できるかどうか、それこそは怪盗との勝負の鍵となるな。ヤツデは解けそうかい?」他力本願のビャクブは聞いた。
「ぼくにはまだなんとも言えないよ。ぼくは昨日に夕食を食べながら言ったよね。今日はツバキさんとモクレンさんの事件についても調べるつもりだったけど、それはこの暗号が解けるまでは少し延期にしようね。それから、今日の午後6時はこの家に必ずいないといけないね」ヤツデはそこで言葉を切った。
シロガラシはそんなヤツデとは対照的にすでにトースターで食パンをトーストにして落ち着いて食事をしている。シロガラシは意外と能天気なのである。というよりも、シロガラシはヤツデとビャクブに相談したら、自分の役目はもう終わったと思って安心しきってしまっているのである。
「そうだ。話は変わりますが、シロガラシさんは昨日のナズナさんの身に危険が及んだというようなお話を聞き及んではいませんか?」ヤツデはかなり重要な質問を発した。ビャクブは興味津々である。
「いや。そのような話は現時点でわしの聞いた限りでは聞いておりません。ツバキさんはあんなことになってしまったのにも関わらず、ナズナさんの身にもなにかがあったとしたら、それは大変なことです。ですが、まあ、わしは話を聞いていないということはたぶんなにもなかったのでしょう。わしとしてはむしろそう信じたい気持ちですがのう」シロガラシは切実な言葉を述べた。ヤツデは同調した。
「そうですね。ぼくはまだナズナさんにお会いしたことはありませんが、それは全くもってそのとおりですね」ヤツデは言った。ヤツデのこのセリフはビャクブの思っていることと全く同じことである。
他人だから、死者は出ても、自分とは関係ないという歪んだ考えの持ち主は少ないが、トイワホー国の国民にとっては特にそれが誰であろうと死者が出るということは苦しみなのである。
なぜなら、トイワホー国の国民の多くは赤の他人でさえも遥か昔からの知人のようにして受け入れる度量を持っているからである。だから、トイワホー国の国民は他者の死を悲しむことができるのである。
しかし、他人か、そうでないか、それは多大に偶然に左右されているところも多いので、本当はトイワホー国の国民のような人類とは皆が友人であるという考え方が正しいのかもしれない。
その後のヤツデとビャクブは朝食として、クリーム・パンとロール・パンを食すことにした。とりあえず、今はヤツデもビャクブも落ち着きを取り戻すことにしたのである、その間のヤツデとビャクブは怪盗の話をしなかった。怪盗の話はこれから否が応でもしなければならない話題だから、食事中はあえてしなかったのである。とはいっても、ヤツデとビャクブには特に取り急いで言うべきことはなかった。そのため、食事中はヤツデも少ししか怪盗のことを考えなかった。
ヤツデはそしてチコリーとユリにも予告状を見せてあげた。そうすると、ヤツデとビャクブはユリには関係者への事情聴取を少し延期する旨を伝えて自室で暗号解読に勤しむことにした。
チコリーとユリの話題はただ一つである。それはヤツデ&ビャクブVS怪盗アスナロの勝負の行方についてである。ただし、チコリーとユリはヤツデとビャクブの完勝で意見は一致している。
現在のヤツデとビャクブは暗号文の解読中である。まず、ヤツデは暗号文のアルファベットが50音に対応しているのではないかと考えた。しかし、ヤツデは素直にア行から順番にアがAaでイがAbでウがAcでエがAdでオがAeという風にして始めても意味のない言葉しかでき上がらなかった。
そのため、ヤツデは試しにア列から順にアがAaでカがAbでサがAcでタがAdでナがAeというようにして順番に対応させてみた。ヤツデは何事もチャレンジあるのみであると自分に言い聞かせた。
結局はこれも徒労に終わるかなとヤツデは思ったが、これは意外にも使える可能性が出てきた。人は暗号の解読に限らずに様々なチャレンジによってゴールへと近づけるものなのである。
ヤツデとビャクブはその後も共に試行錯誤を繰り返したが、ヤツデは間もなくして暗号を解いた。しかし、ヤツデは怪盗の標的がわかってうれしいような悲しいような気持になってしまった。
「苦労はしたけど、ぼくはようやくわかったよ」ヤツデは力なくビャクブに対して言った。
「それなら、ヤツデは早速に解き方を教えてくれないかい?」ビャクブは待ちきれないといった様子である。ビャクブには実際にもう少し時間が必要だったので、今は解読できていないのである。
「うん。それはいいけど、解き方はチコリーとユリちゃんも聞きたいだろうから、ぼくは一階できちんと話すね」ヤツデはそう言うとビャクブと一緒に階下へと降りた。ヤツデの足取りは少し重い。
ヤツデはやがてチコリーとユリも呼んでビャクブも含めた4人でリビングに腰をかけた。ヤツデは重苦しいムードにならないように気持ちを切り替えて至って軽い口調で次のようにして説明を始めた。
「まず、怪盗の盗もうとしているものはFfGiCddImAcなんだよ。このアルファベットはやっぱり50音表と対応しているんだよ。ただし、答えは素直に対応させただけだと出せないんだけどね。表を書くと、わかりやすいから、ぼくは表を実際に書いてみるね」ヤツデはそう言うと座卓の上に紙を置いてペンを構えた。ビャクブとチコリーとユリのギャラリーの三人は無言でそれを見つめている。
「まずはア列を順番にアルファベットに対応させてみるね」ヤツデはそう言うとアはAa・カはBb・サはCc・タはDd・ナはEeといったようにして順番に最後まで書き込んで行った。
「ア行にはAaから順に下に向かって小文字のアルファベットを対応させてみるね」ヤツデはそう言うとイはAb・ウはAc・エはAd・オはAeといったようにして紙に書き込んで行った。
「次はア行の他にもカ行やサ行にも同じようにして下に向かって小文字のアルファベットを対応させてみるね」ヤツデはそう言うとカはBbなので、キはBc・クはBd・ケはBe・コはBfと書いてサはCcなので、シはCd・スはCe・セはCf・ソはCgと書き込んだ。対応表はタ行より下も同じようにして書き込んで行くと完成した。チコリーはそれを見ると無邪気に喜んだ。
「すごーい!あとはFfGiCddImAcを完成した50音表に対応させればいいんだね」
「そうすると、Ffは『ハ』・Giは『ム』・Cddはなんだろう?」ビャクブは聞いた。
「前回の暗号では連続するアルファベットは濁音だったから、それは今回も同じだと思うよ」ヤツデは単純明快に答えた。ビャクブはそれを聞くと自分から照合を続けてみることにした。
「そうか。それなら、Cddは『ジ』・Imは『ロ』・Acは『ウ』っていうことだな。繋げてみると『ハムジロウ』か。え?ハム次郎?まさか、ハム次郎ってヤツデの持っているハム次郎のことかい?」
「うん。おそらくはそう考えてほぼ間違いないと思うよ」ヤツデは平板な口調で答えた。
ビャクブはそれを聞くと瞬間的に思うことがあった。それは怪盗が盗むものはしょぼいものばかりでなんだかせこすぎないだろうかというものである。それについてはヤツデも気がついている。しかし、ビャクブはそれを置いておいてもっと重要そうな事実を指摘した。
「ん?ちょっと待ってよ。ヤツデはこのコニャック村にハム次郎を持って来ているということを知っているのは一昨日の夕食の時にヤツデと一緒に居合わせた人たちだけだろう?つまり、該当者はおれとチコリーとユリちゃんとシロガラシさんとミツバさんだけのはずだよ。それじゃあ、まさかとは思うけど、怪盗アスナロはこの中にいるっていうことなのかい?」ビャクブは聞いた。
「うーん。ようはそういうことになるのかな?いや。でも、待てよ。それは早計か。それ以外の人も知っているっていう可能性はあるのかな?チコリーか、ユリちゃんはひょっとしてぼくがハム次郎を持って来ているっていうことを誰かに話したりした?」ヤツデは少し険しい顔で聞いた。
「あの、ごめんなさい。私は昨日にナズナさんがお家にきてくれた時『ヤツデさんはハム次郎っていうぬいぐるみが好きな子供っぽいところのある人なんです』っていうようなことを話しちゃったの。ダメだったかしら?」ユリは申し訳なさそうした。ナズナの来訪については初耳だったので、ナズナは予告殺人の対象になっているのにも関わらず、それは大した度胸の持ち主だなとビャクブは思った。
「ううん。ユリちゃんはダメじゃないよ。ユリちゃんにはこんなことになるなんて想像がつく訳ないものね。でも、そうなると、ぼくはハム次郎を持って来ているっていうことは意外とこのコニャック村では有名になっちゃっている可能性があるね。仮に、そうだとすれば、ぼくたちは容疑者を絞り込むのは難しくなりそうだねと言いたいところだけど、実はもうぼくには犯人の目星がついているんだよ」ヤツデの思いがけない発言をした。そのため、ビャクブとチコリーとユリの三人はびっくりしてしまった。今回ばかりはヤツデにも冗談を言っているつもりはない。ビャクブは代表して次のようにして聞き返した。
「なんだって?それは本当かい?それじゃあ、怪盗アスナロの正体は誰なんだい?一体、」
「あのね。ただ、ぼくにもまだ絶対にそうだっていう確信はないから、ぼくたちは今日の午後6時に怪盗アスナロが実際に現れた時に顔を拝ませてもらおうよ」ヤツデは弱気な提案をした。
「ヤツデはそんなに悠長なことを言っていてもいいのかい?おれたちは怪盗アスナロの手玉に取られなければいいけどな」ビャクブは不吉なことを言った。とはいっても、ビャクブは冗談半分である。
「ぼくはもちろん怪盗との対決に絶対に勝てるとは思っていないよ。でも、ぼくには一つの作戦があるからね。さてと、それじゃあ、とりあえずはハム次郎をクローゼットの中にでも隠したら、ぼくたちは聞き込みに行こうか。ぼくたちは昨日に話していたとおりにユリちゃんも一緒に行ってくれるんだよね?」ヤツデはユリに対して確認をした。ヤツデはどんな時でも他者への配慮を欠かさないのである。
「ええ。聞き込みには私もついて行かせてもらう。邪魔はしないから、ヤツデさんとビャクブさんは安心して」ユリは答えた。チコリーはヤツデとビャクブだけではなくてユリのことも頼もしそうにして見つめている。という訳なので、ヤツデとビャクブとユリの三人は聞き込みのための簡単な準備をすませることにした。チコリーとシロガラシとミツバの三人はお留守番である。
ビャクブはすっかりと張り切っている。ビャクブは今回の企画によってツバキ殺害事件におけるなんらかの手がかりをつかむことがきるだろうと楽天的な予感を抱いているのである。
とはいっても、それはヤツデとユリも同じである。そうでなければ、少しはヤツデだって常識を持っているので、ヤツデはこれから話を聞かせてもらうことになるコニャック村の村民に対してわざわざ貴重な時間を割いてもらうことはしないのである。ユリはちなみに本当の傍観希望者である。
まず、その後のヤツデとビャクブとユリの三人はヨモギとアスナロの親子の元へと足を運んだ。ヤツデとビャクブとユリの三人はツバキが亡くなってからヨモギとアスナロに会うのは初めてである。
そのため、ヤツデとビャクブとユリのその道程は少し気づまりなものだった。なぜなら、ヤツデとビャクブとユリの三人は大切な家族を亡くしたヨモギとアスナロについてそれぞれ思いを馳せていたからである。ヤツデとビャクブはバックを持っているが、ユリは手ぶらのまま徒歩でヨモギの家までやって来たのである。という訳なので、ヤツデはヨモギの家のチャイムを鳴らした。ヨモギはすると顔を出した。
「ユリちゃんとあなた方はヤツデさんとビャクブさんでしたね」ヨモギは言った。
「はい。そのとおりです。ぼくはヤツデです。こっちはビャクブです。お話は警察から伺っているかもしれませんが、ぼくとビャクブはツバキさんがお亡くなりになってしまった現場を偶然にも目の当たりにしました。ぼくたちはツバキさんのあんなにも無残な亡骸を見てあまりに悲しくなって言葉もありませんでした。ぼくたちも今回の事件では深く心を痛めています。この度は本当にご愁傷さまでした」ヤツデは悲しそうにして言った。ヤツデの言霊にはしっかりとした温情の念が込められている。
「ご心中お察しします」ビャクブはそう言うとお辞儀をした。ユリはビャクブに倣った。
「ありがとうございます。家内の突然の死は私にとって未だに信じられないほどのショックです」ヨモギは俯いて言った。ヨモギの言葉にはやはり生気は感じられなかった。
「実はツバキさんの事件についてヨモギさんからは少々お話をお聞きしたくてお伺いをさせてもらったのですが、ぼくたちはご迷惑ですか?もしも、ご迷惑なら、ぼくたちは潔く回れ右をして帰宅をしますので、どうか、ヨモギさんは遠慮せずにおっしゃって下さい」ヤツデは誠意を見せた。
「いや。ヤツデさんとビャクブさんは迷惑なんかではありません。確か、ヤツデさんとビャクブさんは一昨日にチコリーちゃんから聞いた話では殺人事件を解決なさったことがあるというらしいではありませんか。私は家内の無念を晴らすためにも犯人を捕まえるためにも藁にもすがりたい想いです。もしも、私の話はなにかの役に立つのだとしてヤツデさんとビャクブさんが今回の事件を解決に導いて犯人を見つけて下さるのでしたら、私としてはこれほどにうれしいことはありません。どうぞ、皆さんは中へお入り下さい」ヨモギはそう言うとヤツデとビャクブとユリの三人を家の中に招き入れてやがてリビングに腰をかけるようにと勧めた。ヤツデとビャクブとユリの三人は無言でそれに従った。リビングにはアスナロがいた。アスナロは『ヤッちゃんとビャッくん』と悲しげにして言った。ビャクブは『アスナロくん』と返事をした。しかし、ビャクブはあとに続ける言葉が思い浮かばずに沈黙をした。
「アスナロくんはお母さんがあんなことになってしまって苦しいね。ぼくにも気持ちは痛いほどにわかるよ。なにか、ぼくにもできることがあったら、アスナロくんはなんでも言ってね。ぼくはいつでも力になるよ」ヤツデは声のトーンを落として言った。しかし、ヤツデの言葉は途中から擦れていた。
ビャクブとユリとヨモギはそれに気づいたので、ビャクブはヤツデの方に顔を向けると思わず目を見張った。ヤツデの瞳からは今にも涙の滴が零れ落ちそうになっていたのである。
ヤツデには人並み外れてセンチメンタルな一面があるので、ヤツデはアスナロの立場になってこの事態を捉えて心からツバキの死を悲しんでいるのである。アスナロはするとヤツデの近くまで来て泣いてしまった。しかし、ヤツデは自分のせいでアスナロは泣いたのかと思って少し申し訳なく思った。ビャクブとユリは言葉を発することができなかった。ヨモギはやがてそれを見た静かに言った。
「私は一昨日に家内から聞きました。アスナロはコニャック公園でヤツデさんとビャクブさんにお世話になったそうですね。それにしても、付き合いはたった一日しかないヤツデさんにそこまで感じ入って頂けるなんて家内も天国で喜んでいるでしょう」ヨモギは穏やかに言った。
「ええと、それでは早速に本題に入りますが、おれたちはツバキさんが何者かによって殺害されたものと考えています。ツバキさんは当然のことながら何者かによって殺害されたものとして先程からヨモギさんもお話をされていましたが、なにか、それには根拠がおありなんですか?」ビャクブはヤツデの代わりに話を切り出した。ビャクブは聞き込みが得意ではないが、今はそれどころではないのである。
「根拠は家内には自殺する動機がない点です。私は仕事に励みながらも家内とアスナロには随分と尽くしてきたつもりです。私は家内とアスナロになにかの異変があれば気づかないはずはないと思うのです。私の目には実際に家内がなにかに思い悩んでいたようには映りませんでした」ヨモギは悔しさを滲ませている。ヨモギの言うとおり、ヨモギとツバキは特に仲がよくてお互いを尊重できる夫婦だったのである。いわゆる、ヨモギとツバキの二人は比翼連理の仲だったのである。それについてはビャクブも納得した。
ヨモギはツバキを殺害したというのなら、話は別だが、今のところはそんなことで欺瞞をするとは思えないし、なによりも、ヨモギとツバキは気が合いそうだとビャクブは直感で思ったのである。
「ですが、実はその考えを覆す代物が私と家内の寝室にある鏡台から出てきてしまったのです」ヨモギは厳かに言った。一応はアスナロもヤツデとユリの間に座って話を聞いている。
「まさか、遺書ですか?」ビャクブは鋭い指摘を入れた。ヨモギは静かに頷いた。
「ええ。そのとおりです。遺書は警察に持って行かれてしまってここにはありませんが、内容はモクレンさんの死について自分には責任がある。家内はその償いを自分の死を持って引き換えとさせて頂きたいというものでした。私にとっては信じがたい内容です」ヨモギは相も変わらずに悲しげである。
「つまり、それはツバキさんがモクレンさんを殺害したということですか?しかしですよ。モクレンさんは密室の部屋の中で亡くなっていたんですよね?よしんば、ありえたとしても、ツバキさんはどうやって密室の部屋にいるモクレンさんを殺害したんでしょう?それなら、ツバキさんは殺害されたと考えるのと同じ謎が残ります」ビャクブは論理的に話した。ユリは素直に感心をしている。
「ええ。そのとおりです。しかし、私は誰がなんと言おうが、私には家内がモクレンさんを殺害して自殺をしたとは露ほども信じられません」ヨモギは突然に声を大にして悲痛な叫びを上げた。
「わかりました。ツバキさんはやはり自殺ではなくて他殺だという前提の上で話を進めた方がよさそうですね。ヨモギさんは最近になってコニャック村で不審な人物を見かけたりはしませんでしたか?」ビャクブは聞いた。これはビャクブのオリジナルな質問ではなくて予めヤツデと話し合っていた質問である。
「さあ?私の記憶の限りではそういった人物に心当たりはありません。これは私に限ったことではありませんが、私はコニャック村の村民とは全員と顔見知りなので、もしも、普段では見かけない顔があれば目立つはずですから、それは間違いないと思います」ヨモギは自信を持って断言をした。一応は付け足しておくと、宅配業者はともかく押し売りと呼ばれるような人もコニャック村には滅多に来ないのである。
「そうでしたか。まあ、犯人はコニャック村の村民でないのなら、おれたちの出る幕ではないんですけどね。おれたちにはさすがにそこまでの壮大な捜索は無理です」ビャクブは説明をした。
「ビャクブさんとヤツデさんはすると村民の中に家内を殺害した犯人がいるとお考えなのですか?」
「いや。今のセリフは決してそういう意味ではありません。もしも、犯人は村民の中にいなければそれを証明するのも重要なことですからね。ええと、これは先程も言いましたが、お家の中はツバキさんの遺体が発見された時には密室状態だった訳です。なにか、ヨモギさんには犯人が逃亡できる方法にお心当たりはありますか?」ビャクブは聞いた。ヤツデはちなみにビャクブの手際のよさに感心をしている。
「いいえ。私には犯人がどんな方法で逃げ去ったのかはとんと見当もつきません。しかし、犯人は現に逃亡をしている以上はなにかしらのうまい方法があるのでしょう。話は一通りすんだら、一応はヤツデさんとビャクブさんも改めてこの家から脱出できそうなところがないかどうかを確かめて頂けませんか?」ヨモギは聞いた。今はまだ涙目のままだが、ヤツデはアスナロの世話をユリに任せると頷いた。
「はい。わかりました。ぼくたちのことを信じて下さって本当にありがとうございます。話は前後してしまうのですが、ツバキさんの遺書らしきものは直筆でしたか?」ヤツデは聞いた。
「いえ。ワープロ打ちのものでした。家内はパソコンを使いこなせたので、それに関しては残念ながら矛盾はありません」ヨモギは悲嘆に暮れている。それにはビャクブもがっかりした。
しかし、もしも、ツバキは何者かによって殺害されたのであれば、犯人はツバキがパソコンを使えたという事実を知りえた者に絞られるとヤツデは気がついた。
「ところで」ヤツデは言った。「なにか、ツバキさんはお仕事をされていたのですか?」
「いえ。家内は専業主婦でした」ヨモギは簡潔に答えた。ヤツデは次の質問に移った。
「ツバキさんはバス・タオルで首を吊っていましたが、あれはこちらのお宅のものですか?」
「はい。そうですが、なにか、それは重要なことなのですか?」ヨモギは不思議そうにしている。
「もしも、ヨモギさんのお家のものでないなら、バス・タオルは犯人が持ち込んだ可能性もある訳ですから、ぼくはお聞きしたのです。でも、それはどうやら空振りのようですね。もしも、犯人はいるのだと仮定をしたら、そのくらいは注意を払ったということになります。あるいはまだツバキさんを訪ねた時点では殺意はなくて訪ねたあとになって殺意を覚えたので、犯人はたまたま近くにあったバス・タオルを凶器に使ったという可能性もありますね。ああ。それから、警察からはすでに口止めされているかもしれませんが、ヨモギさんは凶器がバス・タオルであることを誰かに話しましたか?」ヤツデは聞いた。これはとても重要なことである。ユリはビャクブだけではなくてヤツデの聞き込みの仕方にも関心をしている。
「いいえ。私はとにかく混乱をしていましたが、凶器については昨日にソテツから電話をもらった時も話しませんでした。私はやっぱりその方がいいのでしょうか?」ヨモギは不安そうにしている。
「はい。ぼくはその方がいいと思います。ヨモギさんにはこれからもそうして下さると助かります」ヤツデは言った。凶器はバス・タオルだということは基本的に犯人にしか知りえない事実だからである。
「わかりました。この約束は家内のためにも絶対に守ります」ヨモギは宣言をした。
「ぼくのお願いを聞いてくれてありがとうございます。恩に切ります」ヤツデは謝意を表した。
「ところで」ヤツデは言った。「これはすでにアカネさんにも聞いたことなのですが、こちらのお宅には鍵はいくつありますか?」ヤツデは聞いた。もっとも、ヤツデはアカネを信用していない訳ではない。
「まずは普段から私が持ち歩いているのが一つと家内が持っていたのが一つとアカネが持っているのが一つで合計は三つです。ヤツデさんとビャクブさんのお二人はアカネと会っているそうですが、アカネの素性はご存知ですか?」ヨモギは問いかけた。ヤツデは淀みなく受け答えをした。
「はい。存じ上げております。アカネさんはヨモギさんのいとこに当たるそうですね?」
「そのとおりです」ヨモギは首肯をした。ビャクブは遅ればせながら一つ前の返答に反応をした。
「ツバキさんの鍵っていうのはツバキさんの遺体の傍の床にあったあの鍵のことですよね?」
「ええ。そのとおりです。私にはなんの狙いがあってそうしたのかは知りませんが、私は犯人が故意に落として行ったものではないかと考えています」ヨモギは言った。ビャクブは頷いた。
「あるいは犯人がなんらかの方法を使ってツバキさんのすぐ横に鍵を外部から投げ込んだのかもしれませんね。おれはその可能性も考えて、お家の中を調べさせてもらうことにします」ビャクブは言った。
「実はすでにこれもアカネさんから聞いていることなので、ぼくは再確認という意味でお聞きをさせてもらいますが、ヨモギさんはツバキさんとはいつ最後にお会いされましたか?」ヤツデは質問を続けた。
「いつもは会社に行くために家を出るのは7時半頃ですので、私は一昨日もおおよそ同じ頃に家を出ました。ですから、私は家内を最後に見たのも7時半頃ということになります」ヨモギは答えた。
「それではツバキさんの死亡推定時刻である8時から10時頃の間のほとんどヨモギさんは会社にいらっしゃったということですね?」ヤツデは確認をした。ヨモギはそれを肯定した。
「ええ。それは間違いありません。通勤には一時間かかるので、正確には8時半からですが」
「とはいっても、今のところ、ぼくたちはこのことをヨモギさんの会社に行ってわざわざ確かめたりする予定はありません。当然のことですが、それは警察に任せます。話は変わりますが、ナズナさんには予告殺人の通知がきていたのはヨモギさんもご存じですよね?」ヤツデは確認をした。
「ええ。そうらしいですね。ですが、結局は私が話を聞いた限りではナズナさんに危害が及ぶようなことはなかったらしいですけどね。まあ、それには私もほっとしました」ヨモギは返答した。
「そのナズナさんとはヨモギさんとツバキさんはどのようなご関係なのですか?」ヤツデは聞いた。
「ナズナさんと家内は私が結婚する以前からの懇意な間柄だったということです。なんでも、家内とナズナさんは高校の同級生でそれ以来の友人という風にして家内からは聞かされていました。私は近くに住んでいることもあって自然とナズナさんとは親友の夫という立場で仲良くさせてもらっています」
「そうですか。つまり、ヨモギさんの一家はナズナさんと仲良しという訳ですね。それではヨモギさんとツバキさんはモクレンさんとはどういったご関係だったのですか?」ヤツデは聞いた。
「そうですね。同じ村に住む者ですから、擦れ違ったら、モクレンさんとは私も家内も必ず挨拶をしましたし、なにかあれば、私達は助け合えるような間柄だったんじゃないかと思います。そう言えば、モクレンさんは去年も今年もカシ山で採ったカブトムシをアスナロのためにプレゼントして下さいました。モクレンさんはそんなこともあってとてもいい方だったと私は思っています。しかし、ヤツデさんはこのような質問をされるということはこういうことですか?つまり、ヤツデさんとビャクブさんのお二人はモクレンさんが自殺したこと・家内は何者かによって殺害されたこと・なにか、その二つには繋がりがあるとお考えなのですか?」ヨモギは半信半疑ながらも気づいたことを聞いた。
「ぼくには正直に言って繋がりがあるかどうかの確信はありませんが、一応はその可能性も考えて捜査を進めて行こうと思っています。それでは警察は調べずみだと思いますが、ぼくたちも密室の謎を解くために少しお家の中を拝見させて頂いてもよろしいですか?」ヤツデは実直に申し出た。
「ええ。もちろんです。ヤツデさんとビャクブさんはご自由にご覧になって下さい」ヨモギは協力的な姿勢を見せた。という訳なので、ヤツデとビャクブは腰を上げると、まずは一階から順に窓やドアやその他にも外部と繋がりのある隙間を詳細にチェックして行くことにした。
ビャクブはやはり張り切っている。その間のヨモギは見られていると集中できないだろうと思ってヤツデとビャクブから目を反らして新聞の折り込みチラシを眺めていた。アスナロはすでに泣き止んでいたので、現在はユリと少し話を交わしている。ヤツデとビャクブはその間もヨモギの家を検めている。
「ここはツバキさんの遺体を発見した時には確かに閉まっていたかい?」ビャクブはキッチンにある小さな窓を指して聞いた。しかし、ビャクブはあまり期待をしてはいない。
「うん。ぼくは間違いなく閉まっていたと思うよ」ヤツデは残念そうにして答えた。
「そうか。もしも、この窓は少しでも開いていればなんらかのトリックを使って鍵のあった位置まで鍵を投げ入れられそうなんだけどな」ビャクブは頭を掻きながら言った。ヤツデとビャクブはその後も調査を進めて行った。ところが、ヤツデとビャクブには特に目ぼしい発見のないまま時間だけが過ぎ去って行くだけだった。アスナロとユリはそれを寂しそうにして見つめている。
もしも、犯人はなんらかの小細工をしたなら、逃亡する際には窓か、あるいはドアに傷でもその痕跡を残して行くんじゃないかとビャクブはてっきり思っていたのだが、それらしいものは全く見当たらなかったのである。という訳なので、ヤツデはビャクブの愚痴を素直に聞いてから次のようにして言った。
「ぼくたちは諦めずに二階も見せてもらおうよ。ユリちゃんとアスナロくんはついて来る?」
「私は行きたいけど、アスナロくんはどうする?」ユリは穏やかに聞いた。アスナロは『行きたい』と短く答えた。ヤツデとビャクブはもちろんそれを歓迎した。ヤツデとビャクブとユリとアスナロの4人はこうしてヨモギから許可を得るとヨモギを一人だけ一階に残して二階へと上がって行った。
ビャクブはハンターのように目を光らせているが、ヤツデは普通である。ヤツデとビャクブとユリとアスナロの4人は最初に向かった部屋には偶然にもアカネがいた。アカネはレポートを作成しているところだった。アカネの通っているキャンパスはここから15分ほどのところにあるのである。
これは蛇足だが、大学については数種の学部や大学院などを持つ総合大学はユニバーシティーと言って単一の学部しかない単科大学はカレッジと呼び分けられるのである。
「こんにちは」とりあえず、ヤツデは入室させてもらうとアカネに対して挨拶をした。
「こんにちは」アカネは挨拶を返した。「ええと、名前はなんて言うんだったかしら?」アカネは記憶の糸を手繰るようにして聞いた。これは少しばかり失礼な聞き方だが、ヤツデとビャクブは特に反感を抱かなかった。ヤツデとビャクブは寛容なのである。一方のアカネは鈍感なのである。
「おれはビャクブです。こっちはヤツデですよ」ビャクブはアカネに対して名乗り出た。
「ヤツデさんとビャクブさんの年はいくつなの?」アカネは平然と聞いた。
「ぼくは今月に25歳になりました。ビャクブは同じく25歳です」ヤツデは言った。
「そう。私は20歳よ。だから、あなたたちは敬語なんて使わなくてもいいのよ。私は敬語って堅苦しいから、ホントは嫌いなの。世の中にはなんで敬語なんていうものがあるのかしらね?」アカネは残念そうにしている。この惑星(天地)の言語は世界共通なので、敬語はどこへ行っても存在するのである。
「わかったよ。アカネさんにはもう敬語は使わないよ」ヤツデは柔軟に対応して見せた。
「それで?ヤツデさんとビャクブさんはこの家になにをしに来たの?」アカネはとりあえず『さん』づけには特に気にした様子もなく聞いた。アカネは相も変わらずにフランクなのである。
「おれたちはツバキさん殺害事件の密室トリックの謎を解きにきたんだ」ビャクブは誇らしげである。
「え?ツバキさんはやっぱり何者かによって殺害されたの?でも、ヤツデさんとビャクブさんはツバキさんの遺体を発見した時には『ツバキさんは自殺だ』って言っていたじゃない」アカネは指摘をした。
「うん。ぼくは言っていたよ。でも、ぼくはその可能性が高いと言っただけであって実際にはツバキさんは何者かによって殺害されたんじゃないかと思っていたんだよ」ヤツデは平然と説明をした。
「ふーん。ヤツデさんは自信満々なのね。そういうからにはなにかしらの根拠はあるんでしょうね?だけど、それは事実だったとしても、あなたたちには密室の謎なんて解けるのかしら?」アカネはやや挑発的な発言をした。しかしながら、ヤツデはアカネのそのセリフを気にも留めなかった。
「私はきっと解けると思います。ヤツデさんとビャクブさんはだって殺人事件を解決したこともあるんですよ」ユリはすかさず口を挟んだ。ヤツデはそれを受けると照れくさくて恥ずかしい思いをした。
「ふーん。そうなんだ。それなら、どうぞ。ヤツデさんとビャクブさんは私の部屋も自由に調べていいわよ」アカネは申し出た。アカネはすでにヤツデとビャクブのことを腕利きの探偵と勘違いしているのである。アカネは単純な性格をしているのである。ヤツデはアカネのその勘違いを逆手に取った。
「うん。わかった。アカネさんは協力してくれてありがとう。でも、ぼくは一つだけその前にアカネさんに聞いてもいい?」ヤツデは申し出た。ヤツデの性格は元々粗雑ではないが、ヤツデはここでも低姿勢である。ユリとアスナロは大人しくして会話を聞いている。ビャクブはむしろ一番に暇そうである。
「なんでも、どうぞ」アカネは快く聞き入れた。アカネはざっくばらんである。ヤツデは言った。
「ツバキさんの亡くなった日(一昨日)のことだけど、なにか、家の中では普段と変わったところはなかった?アカネさんの気づいたことなら、例え、それはどんな些細なことでもいいんだよ」
「そうね。うーん。ああ。あったわよ。ただし、あれは全く重要なことには思えないけどね。確か、玄関には私が外出する時に靴磨きのセットが置かれていたの」アカネは整然と答えた。
「それはヨモギさんか、もしくはツバキさんが出しておいたのかな?」ヤツデ話を合わせた。
「ええ。私は朝寝坊だから、確かなことは言えないけど、おそらくはそうだと思う」
「ありがとう。ぼくはそれだけ聞かせてくれれば満足だよ」ヤツデはそう言うとアカネの好意に甘えてビャクブと共に部屋を調べ始めた。ユリとアスナロはそれを見学していた。
ヤツデとビャクブはやがてアカネの部屋を一通り調べ終わると続いてアスナロの部屋を調べることにした。ヤツデはそして部屋に入ってから少しも経たない内にうれしそうな声を上げた。
「これはもしかしてあれじゃないかな!」ヤツデは珍しく落ち着きをなくしている。
そのため、ユリは事件解決のヒントを発見したのかと思って期待をした。という訳なので、ビャクブとユリとアスナロの三人は早速にヤツデの元へと近づいて行った。
「どうしたんだい?なにか、ヤツデは大発見でもしたのかい?」ビャクブは代表して聞いた。
「ううん。違うよ。これはアスナロくんのものだよね?」ヤツデは聞いた。ヤツデは三段になっている収納ケースの上に飾ってあるものを指差している。それはマントをしたヒーローの指人形である。アスナロは無言で小さく頷いた。ヤツデはするとうれしそうにした。
「ぼくもこのヒーローが好きでいくつかの指人形を持っているんだよ。ぼくはアスナロくんと好みが合うね」ヤツデ嬉々として言った。アスナロはうれしそうな顔をした。そのヒーローはトイワホー国において長く愛され続けている国民的な人気キャラクターなのである。
「ダメだ。こりゃ」ビャクブは額に手の平を当てながら不服そうにして言った。「ヤツデはいきなりうれしそうな声を上げるから、なにか、ヤツデは重大な発見でもしたのかと思っちゃったじゃないか」
「ヤツデさんはホントに子供みたいなところがあるのね」ユリは呆れている。
「ところで」ユリは唐突に言った。「私達はヤツデさんのためにも今夜の肝試しにアカネさんを誘ってあげない?」ユリはビャクブに対して提案をした。アスナロは不思議そうにしている。
「ああ。そうだな。それは名案だよ」ビャクブはすぐさまユリの案に賛成をした。
すると、ビャクブとユリの憎まれ口には一向に気を害した様子のなかったものの、今の会話の内容にはさすがのヤツデでも頭の中ではクエスチョン・マークが踊ることになった。
「ビャクブとユリちゃんはなんのことを言っているの?」ヤツデは不思議そうにしている。
「ヤツデはアカネさんに気があるみたいだから、ユリちゃんはアカネさんも肝試しに誘ってあげようって言っていたんじゃないか」ビャクブはなんとなくしたり顔で説明をしている。
「なにか、ビャクブとユリちゃんは勘違いをしているみたいだから、一応は言っておくけどね。ぼくは確かに『おっちょこちょいな人に好感は持てる』とは言ったけど、アカネさんには別に一目惚れした訳じゃないんだよ」ヤツデはいかにも自明のことだと言わんばかりの口調で言った。
「へえ。そうだったのかい?それは知らなかったよ。それじゃあ、おれたちはアカネさんのことを誘わなくてもいいのかい?」ビャクブはふざけ半分で聞いた。ユリはヤツデの反応を待っている。
「うーん。でも、ぼくたちはせっかくだから、アカネさんからは都合を聞いて誘ってみようよ。それよりも、ぼくたちはもうアスナロくんの部屋を見終わったんだから、今は次の部屋も見せてもらおう」ヤツデはそう言うとビャクブとユリの疑わしい視線を避けるようにして廊下へと出た。ヤツデは念には念を入れて廊下の窓も調べた。その後のヤツデとビャクブとユリとアスナロの4人はヨモギとツバキの寝室を調べさせてもらうことにした。ヤツデはしかも抜け目なくウォーク・イン・クローゼットの中も見てみることにした。しかし、クローゼットの中にはブランドものの洋服やバックがあるだけで部屋自体には特に異常は見られなかった。それなのにも関わらず、ヤツデはしばらくこの部屋から出ようとはしなかった。それに関してはなにも言わずにビャクブとユリとアスナロの他の三人も見守っていた。
なぜなら、ヤツデはツバキの事件に関してなにかに気づいたのではないかと思ったので、ビャクブとユリとアスナロの三人はそっとしておいたのである。その予想はしかも外れてはいない。ヤツデはなんとこの部屋(ヨモギとツバキの寝室)において重要な手がかりを得ることに成功したのである。
ヤツデとビャクブとユリとアスナロの4人はやがて他の部屋も全て調べ終わるとアカネの部屋に帰って来た。アカネは相も変わらずにレポートを作成していた。
「今夜のぼくたちは肝試しに行く予定なんだけど、もしも、よかったら、アカネさんは一緒に肝試しに行かない?」ヤツデは先程までのやり取りもなんのそのでしれっとして聞いた。
「肝試しなら、私はぜひとも行きたい。場所はどこへ行くつもりなの?」アカネは質問をした。
「場所はカシ山よ。肝試しには私も行くし、実はおじいちゃんの許しが出ればチコリーも一緒に行く予定なんだけど、アカネさんはそれでもいいかしら?」ユリは心配そうにして聞いた。ユリは今日がアカネと初めて話した日なのである。ユリはさりげなくため口を利いているが、アカネは気づいていない。
「ええ。私は別に構わないわよ。それなら、私にはちょっとした用意が必要ね」アカネはそう言うと唇を舐めてから準備に取りかかる仕草に入った。アスナロは不思議そうにしている。
「アカネさんはそんなに気負った様子でなにを用意するの?」ヤツデはのん気な口調で聞いた。
「そんなことは決まっているじゃない。絆創膏や懐中電灯よ。ああ。でも、肝試しには懐中電灯よりもアロマ・キャンドルの方が感じは出るわね。それから、私はスマホを持っていって着信がきたら、皆はびっくりするっていうのもいいわね」アカネは完全に自分の世界に入ってしまっている。
「うん。それは確かにおもしろそうだね」ヤツデは調子を合わせた。ビャクブは冷静な指摘をした。
「あの、おれは水を指すようで悪いんだけど、今はそれを言っちゃったら、おれたちはあんまりびっくりしないんじゃないかな?それに、アカネさんにはスマホに着信がくる予定でもあるのかい?」
「え?そ、その、まあ、それはなんとかなるわよ」アカネはしどろもどろである。
「うん。アカネさんはきっとなんとかするんだよ」ヤツデはアカネの加勢をした。
「そういうものかな?それで?待ち合わせ場所と待ち合わせ時間はどうする?」ビャクブは聞いた。
「カシ山まではシロガラシさんのお家とヨモギさんのお家とではどっちの方が近いの?」ヤツデユリに対して聞いた。ユリは少し考え込む仕草をした。アスナロはじっとして話を聞いている。
「カシ山は私のおじいちゃんの家からの方が近いと思う」ユリは答えを導き出した。
「そっか。それじゃあ、待ち合わせ場所はシロガラシさんのお家にしようね。時間は午後7時っていうことでどうかな?」ヤツデはアカネに対して聞いた。アカネは作業をしながらも同意の印に頷いた。
「それじゃあ、肝試しの話はこれで決まりだね。そうだ。アカネさんは最後にこれを見てくれる?」ヤツデはそう言うと例の三枚の金魚の写真をアカネに対して見せた。アスナロはその写真を見ようとした。
「この写真はなんなの?」アカネは写真を見ると不思議そうにして訊ねた。
「これはソテツさんのお家の池から怪盗に盗まれちゃった金魚なんだけど、アカネさんはどこかで見たことはある?」ヤツデは問いかけた。しかし、アカネは色よい返事をできなかった。それはアスナロも同じだった。ビャクブは見るからに落胆をしているが、ヤツデは平然としている。
「そっか。それなら、アカネさんはそれでいいんだよ。どうもありがとう」ヤツデはお礼を言った。
ヤツデとビャクブとユリとアスナロの4人はこうして話がすむとアカネの部屋を出た。アカネからは末梢的な話しか聞けなかったが、ヤツデは大いに満足をしている。
この時のビャクブはしかも自分がツバキの事件を追っているということを忘れてしまっている始末である。だから、ビャクブはアカネの部屋を出て行きながら少し首を横に傾げて『ヤツデがアカネさんと気が合うっていうことだけは確かだな』と見当違いなことを考えてしまっている。
ヤツデは密室トリックの謎に対してなにかヨモギとツバキの寝室でインスピレーションを得たと信じているので、ユリはご機嫌である。ただし、アスナロは当然のことながらまだツバキの死という不安材料からは離れられないでいるが、少しはヤツデとビャクブとユリが一緒にいると気は楽なのである。
という訳なので、ヤツデとビャクブとユリとアスナロは階下へと降りて行った。ビャクブは今頃になって自分がなにも手がかりを得ていないことに気づいた。もっとも、他力本願のビャクブはそれを気にしなかった。ヨモギはやがて興奮した様子でヤツデとビャクブとユリとアスナロの元へと近づいてきた。
「私はすごい発見をしたんです。ヤツデさんとビャクブさんはこちらを見て下さい」ヨモギはそう言うとテレビの画面を指さした。そこには録画された番組が6つほどリストになっている。ヨモギはその中でもヤツデとビャクブの二人に対して注目を求めたのはツバキが命を落とした日(10月29日)のドラマである。ビャクブは興味津々である。一方のヤツデは泰然自若としている。
「この番組は家内が好きでよく見ていたものなんです。番組の開始する時刻は家内が死んだ日の午後7時からだったはずです。普通はこれから自殺する人間が未来の番組予約をするでしょうか?これは家内の他殺説を強力に後押しするものになるはずです」ヨモギは相も変わらずにエキサイトしている。
「それは確かにそうなりますね」ビャクブはヨモギの意見に感心しながら頷いた。
「いや。それだけですと、断言はまだできません。毎週録画なら、録画はオートでなされているものかもしれませんし、アカネさんはツバキさんにお願いして録ってもらったという可能性も捨てきれません」ヤツデはヨモギに対して申し訳ないと思いながらも冷静に考えたことを口にした。
「あ、おっしゃるとおりです。録画は毎週されていたのかを見てみます」ヨモギはそう言うとリモコンを操作し始めた。ビャクブとユリはその間にこのことをアカネに聞いてくることにした。
という訳なので、ビャクブとユリは早速に行動を開始したが、アスナロはリビングで腰を下ろした。一方のヤツデは立ったまま目を閉じて腰に手を当てて沈思黙考をすることにした。
「録画は今週だけなされていたようです」ヨモギはヤツデに対して歓喜の声を上げた。ビャクブはやがてユリと共に階段を降りて来た。しかし、ビャクブとユリの二人のもたらした情報は吉報ではなかった。実際にはツバキに勧められてアカネがそのドラマを見てみたいという気になったので、アカネは昨日の家を出る前にツバキに対して録画の予約をお願いしていたというのが事実だった。
「そんな」ヨモギは悲壮感に充ちている。「それでは録画をしたのは家内が自分で見るためではなかったのですか?」ヨモギはそう言うと肩を落としてしまった。ヨモギは同時に勝手にエキサイティングしていた自分が恥ずかしくなった。ビャクブはヨモギのことを気の毒に思った。
「ヨモギさんは気落ちなさらないで下さい。それでも、状況は元に戻っただけでツバキさんが自殺したと決まった訳ではありません。ぼくは憎むべき犯人は存在すると思います」ヤツデは意見を出した。
「ところで」ヤツデは話題を変えた。「実はアカネさんから伺ったのですが、ヨモギさんは昨日に靴磨きを出して出社されましたか?」ヤツデは聞いた。ヤツデはすでに頭を切り替えている。
「いえ。出したのは家内です。家に帰ったら、私は忘れずに靴を磨けるようにと家内にお願いをしておいたのです。実際はそれどころではなくなってしまったのですがね。そうだ。どうでしたか?なにか、密室の謎を解くための成果は得られましたか?」ヨモギはそう聞くとヤツデに対して期待に満ちたまなざしを向けた。ユリはヤツデのことを見上げている。ヤツデは関心の的になりながらも口を開いた。
「まずまずです」ヤツデは返答した。ビャクブは少し意外に思った。
「私はどんな成果が得られたかを聞いてもいいですか?」ヨモギは質問をした。
「本当はお話して差し上げたいのですが、ぼくの思う考えは全く見当違いかも知れませんので、現時点ではお話できません。どうもすみません。ですから、どうか、ぼくにはあまり期待をお持ちにはならないで下さい」ヤツデはヨモギのことを煙に巻いた。ヨモギは重箱の隅を突くようなことはしなかった。
「ところで」ヤツデは言った。「ツバキさんの事件とは無関係だと思いますが、ヨモギさんはこの写真の金魚をどこかで見た覚えはありませんか?」ヤツデはアカネの時と同様にしてヨモギに対して三枚の金魚の写真を見せた。ビャクブは『またこれか』と内心では呆れている。
「私は残念ながら見た覚えはありません。私はご期待に添えずに申し訳ありません」ヨモギは謝った。
「いいえ。どうか、ヨモギさんはお気になさらないで下さい。さてと、ぼくたちはそろそろお暇するとしようか。ヨモギさんは好意的にぼくたちの素人捜査に協力して下さってありがとうございました。ぼくたちはもしかしたらまたお話をお伺いに来ることになるかもしれませんが、ヨモギさんはその時もなにとぞよろしくお願い致します」ヤツデはぺこりと頭を下げた。ビャクブは同じく隣でお辞儀をした。
「もちろんです。ヤツデさんとビャクブさんは私達のために尽力して下さっているのですから、私は邪険になんかにはできる訳がありません。こちらこそです。ヤツデさんとビャクブさんはよしなにお願いします」ヨモギは丁寧にお辞儀をした。その間のユリはきちんと大人しくしていた。
「ヤッちゃんとビャッくんはまた遊ぼう」アスナロは不意に久しぶりに口を開いた。アスナロは恥ずかしそうにしている。いつものとおり、ヤツデはブレることなく穏やかである。
「うん。そうだね。ぼくたちはまた遊ぼうね」ヤツデはやさしい言葉つきで返答した。
「おれたちはまた遊べる時が楽しみだな。今度はサッカーだけじゃなくてキャッチ・ボールもしよう」ビャクブは話を合わせて提案をした。アスナロはそれを受けるとこくりと頷いた。
「アスナロくんとは私も一緒に遊んでもいい?」ユリは聞いた。アスナロは再び頷いた。
ヨモギはそのやり取りを見て胸が熱くなった。ツバキの死はアスナロから見ると母親の死である。アスナロのその傷はすぐには癒すことはできないが、少なくとも、ヤツデとビャクブとユリの三人はその傷を広げないようにしてくれたのである。なぜなら、心の傷の特効薬は人のやさしさだからである。ヤツデはヨモギに対しても無理をしないようにと伝えた。ヤツデは精神的なストレスが溜まった時に最もしてはいけないのが無理をすることだと知っているのである。ヤツデは鬱病になってしまって苦しんだことがあるからである。つまり、お休みする期間というのはそれほどにも大切であるということである。
ヨモギはとにかく思いやりのある言葉をかけてもらえてうれしく思ったし、ヤツデとビャクブに対してはますます好印象を持つことになった。それはアスナロも同じである。
ヤツデとビャクブとユリの三人はこうしてヨモギ宅を辞去した。結局はヤツデにはそこそこの収穫があったが、ビャクブは大した手がかりを得られなかった。
ただし、少しでも、自分はヨモギとアスナロの心を楽にすることができたのなら、ビャクブはそれでいいと思った。ビャクブは当然の如く人の気持ちをわかってあげることはできるのである。
一方のユリはアスナロと遊ぶ約束をしたとおりにヨモギとアスナロが守り神の加護を受けられるように祈っている。ユリはそれだけではなくて自分もなにかの役に立ちたいと思っている。
「それで?予定のとおり、次は予告殺人の対象になったナズナさんっていう人に会いに行くんだよな?でも、三人だと、自転車は二台しかないから、おれたちは自転車を使う訳にもいかないし、ナズナさんの家まではやっぱり歩いて行くのかい?」ビャクブは外にでるなり自転車の止めてある場所まで行ってヤツデに対して疑問を呈した。ヤツデはなんらかの策を講じようとしたが、ユリはその前に口を挟んだ。
「ああ。それなら、私はお留守番をしていてもいいよ。ヨモギさんの家でじゃヤツデさんとビャクブさんの聞き込みを聞けただけでも十分におもしろかったし、私はためになったから」ユリは提案をした。
「ユリちゃんはそんなに気を使ってくれなくてもいいんだよ」ヤツデは本心から言った。
「ううん。私は別にいいのよ。本当に」ユリは気を使ってくれて譲らなかった。
「それなら、わかったよ。ユリちゃんには気を使わせちゃってごめんね。それじゃあ、ぼくとビャクブは自転車を貸してもらうために一度は帰らないといけないから、ぼくたちは歩きながら話そうね」ヤツデはそう言うと一旦はシロガラシの家に帰るためにビャクブとユリの二人と共に歩き始めることにした。
「今日は何の日だか覚えている?」ヤツデは早速にビャクブに対して話を切り出した。
「さあ?なんだっだかな?ヤツデの誕生日は23日だったよな」ビャクブは呟いた。
「それはうれしいね。ビャクブはきちんとぼくの誕生日を覚えていてくれたんだね。でも、それは置いといて10月30日の今日は『贈り物デー』だよ」ヤツデは教え諭すようにして言った。
「そっか。そう言えば、そうだったかな。おれはすっかりと忘れていたよ」ビャクブは思い出したというよりも気づかされた。ユリはちなみに言われなくてもわかっていた。さて『贈り物デー』とは全く見ず知らずの人に贈り物を送ろうというトイワホー国の一年に一度の行事である。
トイワホー国の国民は贈り物を送るか、否かは任意であって決して強制ではない。それでも、トイワホー国の国民は皆がやさしい心の持ち主なので、この制度は多くの人たちに利用されている。トイワホー国の国民はこれによって人と人との繋がりの大事さを再確認することができるのである。
「ぼくたちはせっかくお話を聞かせてもらうんだから、ナズナさんとヤマガキさんに対してはなにかの贈り物をしようよ。ぼくとビャクブの二人で贈り物をすればちょうどいいでしょう?」ヤツデは言った。
「ああ。それは確かに実にいい思いつきだな」ビャクブは手放しで賛同をした。
「ナズナさんにはモミジくん以外にもお子さんはいるの?」ヤツデはユリに対して聞いた。
「いいえ。子供はいないわよ。でも、ナズナさんとヤマガキさんは関係が冷え切っているらしいから、接する時は注意した方がいいよ」ユリは相も変わらずにませた考え方を口にした。
「そうなのか。わかったよ。でも、それじゃあ、モミジくんは大変だな」ビャクブは同情をした。
「ところで」ビャクブは言った。「贈り物にはなにを持って行ったら、ナズナさんとヤマガキさんは喜ぶだろう?ヤツデにはなにかの考えはあるのかい?」ビャクブは質問をした。
「コニャック村は田舎なんだから、野菜はどうだろう?コニャック村にはどこかに無人の野菜販売所があるんじゃないかな?ユリちゃんは知らない?」ヤツデは問いかけた。ユリは淀みなく答えた。
「それなら、販売所はぴったりの場所にあるわよ。無人の野菜販売所はナズナさんの家に行く途中にあるから、ヤツデさんとビャクブさんはそれを利用するといいと思う。ナズナさんとヤマガキさんはきっと喜ぶと思うよ」ユリは提案をした。そのため、ヤツデは大いに助かった。
「ユリちゃんは教えてくれてどうもありがとう。それじゃあ、ビャクブもそれを利用するっていうことでいい?」ヤツデは確認をした。ビャクブは快い返事を返したので、この話は決着した。
その後のユリはヤツデとビャクブに対してコニャック村にツバキを殺害した犯人がいる可能性はどのくらいかと聞くと、ビャクブは答えられなかったが、ヤツデは割と高いと即答をした。
ビャクブとユリはそれを聞くとびっくりしてしまった。ヤツデは『怪盗の目星はついている』と言っていたが、実はすでに殺人事件の犯人に対しても、それは同様なのである。
しかし、確信はヤツデにもなかったので、ヤツデはユリとビャクブにせがまれてもその名を挙げるようなまねはしなかった。とはいっても、それは別にヤツデが意地悪だからではない。
ヤツデはその名を口にすることによってユリとビャクブがその人を色眼鏡で見るようなことにならないようにと一応の配慮をしたのである。ただし、まさか、ビャクブとユリはその人物のことを差別するとはヤツデも思ってはいない。ヤツデはそもそも全てのコニャック村の村民と会っていないが、犯人はコニャック村の村民の全員と会わなくてもわかるのである。もっとも、事件の全貌はヤツデにしても見当がつかないので、これから会うことになるヤマガキとナズナとの会見は非常に重要なものになってくる。