トイワホー国における愛情 1章
トイワホー国は他国から『愛の国』とも呼ばれる。そのトイワホー国の政策は多岐に渡る。一例を上げるとするなら『親切スタンプ』や『幸せギフト』や『お悩みアドバイス』といったものがある。どれもこれも、それらは無差別の愛を広めるためのもので他者への思いやりに満ちた政策でもある。
無差別の愛を広めると言うと、トイワホー国にはまさしくそのものズバリを活動内容とする『愛の伝道師』なる公務員がいる。『愛の伝道師』は国民の幸福を願って日々の活動を続けている。
トイワホー国の国民はそのような政策と『愛の伝道師』の活躍によって揺り籠から墓場までと社会保障制度の充実が約束されている。トイワホー国はようするにやさしさの溢れる国だという訳である。
トイワホー国の国民幸福度はその甲斐があって『あなたは幸せですか?』という質問によるアンケート調査によると世界で第一位を誇る。トイワホー国は平和で過ごしやすい国でもある。
それだけでは留まらず、トイワホー国の国民は世界で最も親切で心のやさしい人が多いとも言われている。ややもすれば、初対面であっても、傾蓋は旧の如し振る舞いを心の底からできるのがトイワホー国の国民のいいところであり、この国の国民は皆が人類愛を保持しているのである。例えば、労働者にしても、人を蹴落としてでも、自分は昇進してやろうという野心を超えた邪悪な心を持った者・仕事熱心という領域を超えて家族と一緒にいる時間を軽視するような者・そんな人間はどこを見渡しても、トイワホー国ではそうそうお目にかかれるようなものではない。それこそはトイワホーの国の実態である。トイワホー国の人民はそんなに安穏と暮していていざ危機的状況に陥った時には対応ができるのかと、他国の人間は疑問を持つ場合もあるかもしれない。しかし、その心配はさほどにはいらないのである。
トイワホー国では当然のことながら犯罪発生率も世界最低を誇るのである。トイワホー国の国民は暴力や盗みなどの犯罪を肯定する下位文化を大多数の人が全面的に否定しているのである。近年はトイワホー国による無差別の愛を広めるという特色は他の多くの国々でも導入されている。ようはトイワホー国から始まった無差別の愛を広める運動は他国へも伝染して行ったという訳である。これはそしてそのトイワホー国における物語である。序言は以上である。
季節は秋である。家の窓からは清々しい外気が入り込んでいる。天気はしかも良好であり、今日は全く申し分のない気持ちのいい穏やかな一日の朝である。これこそはまさしく天高く馬の肥ゆる秋である。
『愛の伝道師』のヤツデは新幹線を経由して電車に乗って途中の駅で友人のビャクブと落ち合った。ヤツデとビャクブの二人はそして前述したようなすばらしい気候のコニャック村にやって来た。
コニャック村はプリマス県のニース市という土地に存在する。プリマス県は都心から離れた僻遠の地である。しかし、プリマス県にはそんなレッテルをものともしない大きな特徴がある。そのため、ここではそれを具体的に言うとするなら、まずは牧場があって酪農が盛んである。
それから、例年のとおり、地味はよく肥えていて今年も豊饒である。このプリマス県という土地にはそんな土地柄を生かした著名なリゾート・ホテルやら別荘地やらも混在している。コニャック村はそんなプリマス県にある。コニャック村は典型的な過疎地ではあるが、実は村民の間の親交が厚いことでも知られている。とはいっても、過干渉はせず、プライバシーは最大限に確保されている。
話は変わるが、ヤツデとビャクブの二人はコニャック村にやって来た訳だが、その理由は今年の夏にポンメルン県にあるクリーブランド・ホテルで起きたある事件と関係がある。
ヤツデとビャクブの二人はそこでチコリーという少女と出会った。チコリーはそしてひょんなことから事件におけるシロガラシという名の祖父の無実の証明をヤツデとビャクブの二人に対して依頼をした。
すると、捜査の素人にも関わらず、ヤツデとビャクブの二人は偶然にも見事にチコリーの希望に沿って見せたのである。その後のヤツデとビャクブの二人はシロガラシの希望にも応えることにもなった。
もっとも、そちらの場合はシロガラシの意図していた希望と真実はやや食い違ってはいたが、とにもかくにも、ヤツデとビャクブの二人はそういった事情があって感恩の気持ちとしてシロガラシの住む家に招待をされることになってその上におもてなしを受けることになったのである。つまり、ヤツデとビャクブの二人は以上のような理由でコニャック村を訪れたのである。
今のヤツデとビャクブはシロガラシによって家の中へと招かれてリビングにやって来た。ヤツデとビャクブの二人はそしてシロガラシによって促されるとロー・テーブルの前で腰を落ち着かせた。
チコリーの祖母のミツバはやがてヤツデとビャクブの二人のためにウーロン茶の入った二つのコップをテーブルに用意した。ミツバはちなみに白髪で上品な趣のあるおばあさんである。
「お久しぶりじゃのう。その節はお世話になりました。どうか、ヤツデさんとビャクブさんは肩肘を張らずにリラックスをして下さい」シロガラシはヤツデとビャクブの二人が少し落ち着いたのを見て口を開いた。シロガラシは74歳という年齢を感じさせないほどにまだまだ矍鑠な人物である。
「わかりました。この度はお宅へとご招待を頂いて本当にありがとうございます」ヤツデはシロガラシに対して丁重に応じた。ヤツデは真率なのである。ビャクブはその横で頭を下げて謝意を表している。
「ヤツデさんはお礼なんて言わないでよ。私達はクリーブランド・ホテルでお世話になったんだから、おもてなしは当然のことよ」チコリーは答えた。チコリーは小学6年生の元気一杯な少女である。
「おお。久しぶりだな。チコリーはあれから元気にしていたかい?」ビャクブは聞いた。
「うん。私は元気よ。おじいちゃんからは手紙で聞いているかもしれないけど、今は秋休みで小学校がお休みだから、私はおじいちゃんとおばあちゃんの家に泊まりに来ているのよ」チコリーはなんとなく得意げである。ただし、ここでは若干の説明が必要かもしれない。まずはトイワホー国には四季がある。トイワホー国にはそして春休み・夏休み・冬休みと並んで秋休みというものが存在する。これはトイワホー国の国民が四季折々の季節を堪能できるようにと配慮された政策であって『四季ホリデー』と呼ばれるものである。『四季ホリデー』は思いやりのあるトイワホー国らしい政策である。
シロガラシは筆まめなので、ヤツデとビャクブに対しては往復ハガキなどを使って文通で今日のヤツデとビャクブの二人の滞在の日取りを決めたり、その他の必要な話を連絡していたりしたのである。
チコリーはするとヤツデとビャクブの二人に対して隣にいた少女を紹介した。ヤツデとビャクブはちなみにその彼女についてはすでに先程から気づいていた。チコリーは彼女を自分より二つ年上のいとこのユリであると紹介をした。ユリは髪にリボンを付けていてすみれ色の瞳をしている。
ヤツデとビャクブはユリに対して自己紹介を行った。しかし、ヤツデとビャクブはユリもチコリーと一緒に自分たちを歓迎してくれることを知らなかった。なぜなら、ユリはチコリーからヤツデとビャクブの話を聞いて自分もヤツデとビャクブに会ってみたいと思ったので、このコニャック村には飛び入りでやって来ることになったからである。そのため、シロガラシはヤツデとビャクブに対して手紙で『ユリも自分の家を訪れている』ということを連絡できなかったのである。チコリーとユリはちなみに大の仲良しである。ユリはするとヤツデとビャクブの二人を次のようにして過剰評価した。
「ヤツデさんとビャクブさんのことはチコリーから聞いています。ヤツデさんとビャクブさんは難事件を名推理で解決した一方ならぬ頭脳の持ち主なんですってね。ヤツデさんとビャクブさんは今の私達が頭を悩ませている事件も解決してくれるのかしら?」ユリは聞いた。ヤツデはユリの発言に無反応である。
「いやー!ユリちゃんは一方ならぬ頭脳の持ち主だなんて褒め上手だな」ビャクブは過剰に照れた。
ユリは本をよく読むので、語彙は豊富なのである。ヤツデはちなみに右に同じである。ヤツデはユリの社交辞令にうつつを抜かしているビャクブを押し留めて言った。
「難事件とは尾ひれがついている気がするけど、あの事件は放っておいても、犯人は自首していたし、そうでなくても、警察は事件を解決していたと思うよ。だから、ぼくたちはちょっと首を突っ込んだだけだよ。まあ、ぼくはあの件に関してちょっと調子に乗りすぎたかなと思って今では少し反省をしているんだけどね。そんなことより、ユリちゃんはどんな事件で悩ませているの?」ヤツデは身を乗り出した。ビャクブは聞く体勢に入ったが、ユリはこの質問に答える前にシロガラシは話に割って入った。
「いやいや。ヤツデさんとビャクブさんはわざわざコニャック村にまで来て下さったのです。わしとしてはまた事件で早々にヤツデさんとビャクブさんを煩わせることはできません。もしも、お暇があれば、お話は追々お耳に入ることになるかもしれませんが、一旦はとりあえずユリもその話は置いておいてもいいかのう。とはいっても、わしにもヤツデさんとビャクブさんに頼りたい気持ちはもちろんあるがのう」シロガラシは穏やかな口調で言った。シロガラシはヤツデとビャクブに対して気を遣ってくれている。
「ええ。わかった。私は不注意だったみたいね」ユリは嫌な顔をせずに短く答えた。シロガラシはそんなユリの反応に満足してからヤツデとビャクブの二人に向き直ると言った。
「ヤツデさんとビャクブさんは朝の早くから家を出てきてお疲れでしょう。どうぞ。そのことはとにかくお気になさらず、ヤツデさんとビャクブさんはゆっくりと休んで下さい」
「そうですか。わかりました。話は変わるけど、シロガラシさんの手紙にあったとおり、ぼくたちは少し休んだら、チコリーは近くの動物園までぼくらを案内してくれるんだよね?」ヤツデはかねてから聞いていたことについてチコリーに対して再確認した。チコリーはするとうれしそうにした。
なぜなら、チコリーはこの一大イベントについて一週間も前から楽しみにしていたのである。チコリーはヤツデとビャクブの二人の案内人になる予定なのである。チコリーは首肯した。
「うん。そうだよ。もしも、よかったら、私はユリちゃんも一緒に連れて行ってもいいかしら?ユリちゃんは一緒に行きたいって言っているのよ」チコリーは言った。ユリは机に頬杖をついている。
「おれはもちろん構わないよ。ヤツデにも、問題はないだろう?」ビャクブは確認をした。
「うん。問題はないよ。それで?ぼくらの行く動物園はなんていう動物園なの?」ヤツデは聞いた。
「実は私も行くのは本当に久しぶりなんだけど、動物園の名前はアトランタ動物園っていうのよ。ここからは歩いて15分くらいの場所にあるの」チコリーは答えた。アトランタ町は芸能人のようにしてテレビで引っ張りダコのある宇宙飛行士の出身地として有名なので、ビャクブはアトランタ町の名を聞いたことがあった。ヤツデはちなみにメディアに接する機会が少ないので、そのことは全く知らなかった。
余暇の時のヤツデは読書しかしないのである。読書こそはようするにヤツデの最高のレクリエーションなのである。ヤツデはそもそも生粋の気難し屋なので、嫌いなことは一杯ある。
そのため、例えば、ヤツデは基本的にテレビやラジオが好きではないのである。つまり、ヤツデは虚無主義のような冷めた考え方を持っているのである。
「チコリーはくれぐれもヤツデさんとビャクブさんのお世話にならないように気をつけるのよ」ミツバは座卓の前に腰をかけながら言った。ミツバはなにぶん心配性なのである。
「大丈夫よ。おばあちゃんは心配しないで」チコリーは言った。ユリはすると大発見をした。
「あら」ユリはヤツデの髪を見て言った。「ヤツデさんには若白髪があるのね」
ヤツデはちなみにこのことを指摘されると少し喜ぶ。なぜなら、ヤツデはこの前髪に混じっている6本くらいの白髪をトレード・マークにしているからである。ヤツデは首肯をした。
「うん。そうなんだよ。ぼくはこれが気に入っているから、これはあえて抜かないでいるんだよ」ヤツデはうれしそうにして説明をした。その間のビャクブは口を挟まなかった。
「それはさておき」ヤツデは言った。「ぼくはこちらにお伺いさせてもらう途中で色んな景色を見て来ましたが、コニャック村はあたり一面に緑が生い茂っていてとってもいいところですね」ヤツデは問いかけた。その感想はビャクブも抱いたことだった。ミツバは穏やかに応えた。
「ええ。私達の住む田舎町は空気がきれいで都会のごみごみとした雑踏とは縁のない場所です。近所にはお店が少ないのは玉に傷ですが、そうはいっても、コニャック村は住めば都ですのよ」つくも髪のミツバは笑顔である。ヤツデはミツバの謙遜に対して愛想笑いを浮かべた。シロガラシは口を挟んだ。
「まあ、コニャック村は人口もそれほどには多くない村です。コニャック村はゴースト・タウンと言ってしまっても、それはもしかしたら過言ではないかもしれませんのう」シロガラシは自嘲するようにしてそう言うと豪快に笑った。コニャック村は廃村とまではいかないが、コニャック村には確かに幼稚園や保育園はおろか、実はお店の一件すらないのである。ビャクブは合いの手を入れた。
「とはいっても、シロガラシさんのお宅は広いですよね?シロガラシさんのお宅はおれの想像より遥かに大きかったので、おれはびっくりしちゃいましたよ」ビャクブは感心した様子で言った。
シロガラシの家の敷地はなんと330平米もある。この数字はちなみに坪に直すと100坪である。つまり、一坪とは約三・三平米なのである。シロガラシの家はなにぶん築40年を超えているが、最近は改築をしたばかりなので、内装はとてもきれいなのである。シロガラシは取り成した。
「いえいえ。それほどでもありません。手紙で書いたとおり、ヤツデさんとビャクブさんの滞在される最後の日はこの家でコニャック村の村民総出のハロウィン・パーティーを催すつもりですので、ヤツデさんとビャクブさんはぜひとも期待をしておいて下さい。とりあえず、ヤツデさんとビャクブさんのお部屋は二階に用意させてもらっております。ですから、ヤツデさんとビャクブさんは荷物を置きに行くついでに見てきてもらってもよろしいですかのう?」シロガラシは円満な物腰で聞いた。
「はい。わかりました」ヤツデは代表して返事をした。ヤツデとビャクブの二人はこうして自分たちの部屋を拝見することになった。その後のヤツデとビャクブの二人はシロガラシに対して申し分ないという旨を伝えることになった。その時のシロガラシとミツバは心から安堵していた。
ヤツデとビャクブの二人は一階に戻ると、しばらくはシロガラシとミツバと一緒に雑談を交わすことにした。シロガラシはゲート・ボールに挑戦してみたいと思っていることやミツバは随筆を読むのが好きであるといった話題が出たが、ヤツデとビャクブの二人は主に聞き役に徹した。
ヤツデとビャクブの二人は割と聞き上手な一面もある。なお『愛の伝道師』の仕事には老人の話し相手を務めることも含まれているので、ヤツデは気分よく話を聞かせてもらったし、『愛の伝道師』ではないが、それはビャクブも同じだった。ただし、ビャクブは動物園に行くのが楽しみなので、ビャクブの方は少しだけそわそわとしていた。チコリーとユリの二人はその際には刺繍の刺し方であるステッチについて本を見て勉強をしていた。チコリーとユリの二人はミツバの影響で裁縫や編み物が大好きなのである。
その後のヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人はシロガラシとミツバに見送られてアトランタ動物園へと向かって行くことになった。全員の入園料はちなみにシロガラシのおごりである。
今のヤツデたちの一行はアトランタ動物園のウサギとの触れ合い広場にきている。チコリーはとても大喜びで他の小さな子供たちと同様にしてウサギの耳をなでたり、抱きかかえて膝の上に乗せたりして戯れている。今回のレジャー・タイムはチコリーにとってひな祭りにも匹敵する行事なのである。
ユリの性格はチコリーよりも落ち着いているが、それでも、ユリはチコリーと同じくらいに楽しそうにしている。ユリはすでにヤツデとビャクブに対して好印象を持ってくれている。ビャクブはチコリーと同じくウサギとの触れ合いを楽しんでいるが、なぜか、ヤツデにはウサギが寄りつかずにやっと捕まえて膝の上に乗せようとしても、結局はすんでのところで逃げられてしまう始末である。
「まあ、仕方ないよ。なにしろ、ぼくは猛獣使いじゃないからね。ぼくはたぶんハム次郎と練習しているとその内にウサギとも仲良くなれるかもしれないものね」ヤツデは少し残念そうにしながらも諦めの境地で呟いた。ヤツデの腕からは確かに現在もウサギが飛び出して行ってしまっている。
ハム次郎というのはちなみにヤツデの飼っているハムスターではなくてビャクブからヤツデへとプレゼントされた全長およそ30センチのハムスターのぬいぐるみのことである。ユリはヤツデのそばでウサギの背中を撫でて楽しそうにしていたが、チコリーは『ハム次郎はぬいぐるみである』という真相を明かした。ユリはすると堪え切れずに失笑した。ビャクブは愉快そうにしている。
「断言はできないけど、ヤツデさんはウサギのことを怖がっているから、ウサギは逃げちゃうんじゃないかしら?」ユリは一向に気を害した様子もないヤツデに向かって指摘をした。
「それは確かにそうかもしれないな。ユリちゃんの言うとおりだよ」ビャクブは頷いた。
「ビャクブさんにはウサギと同じ匂いがするから、ウサギはビャクブさんにはよく懐くんじゃないかしら?」ユリは言った。冗談とはいっても、ビャクブはユリの毒舌に対して頭を掻いて受け流した。
「ユリちゃんの言うとおりなのかな?」ヤツデはやさしく微笑みながら言った。ヤツデは人の話を聞いていないようできちんと聞いているのである。ビャクブはあえて子供じみた反論はしなかった。
ヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人は動物に触れ合いながら山海のどちらの方がいいかについて少し話をした。チコリーは山には蚊が多いからという理由で海に一票を入れた。ユリは海水浴に行っても場所によっては人が多いからという理由で山に一票を入れた。
ビャクブは海が好きだからという理由で海に一票を投じた。ビャクブの場合は仕事柄である。ヤツデは山では昆虫採集ができて子供の頃を思い出せるからという理由で山に一票を投じた。
ただし、ヤツデはスズメバチ・ムカデ・ゲジゲジといったものを見ると、硬直してしまうのである。なぜなら、カブトムシとクワガタは好きなのだが、ヤツデはそういった類の虫には恐怖してしまうのである。だから、ヤツデはゴキブリを発見すると逃げ回っているタイプの人間なのである。
その後のヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人はウサギとの触れ合い広場を出ると、今度はナマケモノの展示されている場所までやって来た。ビャクブはチコリーの子守をしつつも今ではすっかりと動物園でエンジョイをしている。現在のヤツデはトレーナーの上に膝の上あたりまである灰色のパーカーを着ている。ヤツデは歩く度にその上着のフードから垂れ下がる紐をブラブラさせている。
今のチコリーはちなみに頭に王冠型の髪飾り(ティアラ)をつけている。それはユリに貸してもらったものである。ユリは割とオシャレが好きなのである。チコリーはそんなユリを慕っている。
「ナマケモノはずっと木にぶら下がっていて一日に4時間しか目を覚ましていないんだよ。でも、ナマケモノは一週間に一度だけ木から降りてくることがあるんだけど、実はそれもただ単に用を足しに行くだけなんだよ」ヤツデはビャクブとチコリーユリの三人に対して得意げにして説明を述べた。
「へえ。名前のとおり、ナマケモノは生粋の怠け者なんだな」ビャクブは感想を述べた。
「そんなにも、ナマケモノはのんびりとしていて自由奔放だから、ぼくはナマケモノに深い魅力を感じてこの圧倒的な平和さ加減には尊敬をするよ」ヤツデはナマケモノを尊敬する動物として認許した。
「相変わらず、ヤツデは妙なことに感心するんだな」ビャクブは冷やかすようにして言った。
「でも、ナマケモノってあんまりぱっとしないから、私はおもしろくなーい。私はポニーが好きなの。ねえ。私達は早く次に行きましょう。私達はもうすぐウマが見られるんだよ」チコリーは急かした。ヤツデはこうして敬愛するナマケモノに別れを告げてビャクブとチコリーとユリの三人の後に続いて歩いて行った。ヤツデは完璧主義者だから、動物の解説文は全て読みたいのだが、今回は妥協をしている。
「あれはなにかしら?足は細いし、格好も違うから、あの動物はウマではないわよね?」ユリは小さく呟いた。ヤツデはするとユリの疑問に対して看板の説明書きを見ないで当然の如く答えた。
「あれはプロングホーンっていうんだよ。プロングホーンは全ての生き物の中でチーターに次いで二番目に足が速い動物だよ。でも、世界最速で走れるチーターはプロングホーンと違って最高速度を出せるのはたったの20秒だけなんだよ。それはちょうど完全無欠な人がいないのと同じだね」ヤツデは一人で納得をしている。ここではプラス・アルファとして挙げておくと、チーターの最高速度は時速110キロ・メートルであり、プロングホーンの最高速度は時速86キロ・メートルなのだが、そこまではさすがのヤツデも覚えてはいないのである。ユリは初めて見たプロングホーンをしげしげと観察している。
「プロングホーンはこんなに足が細いのにも関わらず、足は速いなんて意外ね。それにしても、ヤツデさんは物知りなのね」ユリはヤツデのうんちくに感心をした。しかし、ヤツデはやんわりと否定をした。
「ううん。ぼくは物知りではないんだよ。実はシロガラシさんから手紙でチコリーに動物園を案内してくれるっていう話を聞いてから、ぼくは動物に関する本を読んでからここにきただけなんだよ」
ヤツデは無類の読書家なのである。ただし、ヤツデの自宅には本が5冊しかない。ヤツデはいつも図書館から借りて本を読んでいるのである。ヤツデは少しばかりけちん坊なのである。
ヤツデはどんな本を読むのかと言うと不可能犯罪のミステリーもハンド・ボールやドッジ・ボールといったスポーツの解説書もクリオネやクラゲといった海の生き物の雑学本といったものも読むのである。つまり、読み物はなんでもござれなので、ヤツデは意外と最初から知識は豊富なのである。ビャクブはそしてそんなヤツデから豆知識を聞くのを密かな楽しみにしている。
その後のヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人はウマを見てからコイにエサをやって売店で食べ物や飲み物を買ってベンチに腰をかけていた。ヤツデはフライド・ポテトとチュロスを買ってブランチとした。一方のビャクブはフランクフルト・ソーセージと焼きそばを購入してブランチとした。
ヤツデとビャクブの二人はこの時のためにコニャック村にくる前に駅弁を買ったり、キオスクでおにぎりを買ったりはしなかったのである。動物園では普段とは違った雰囲気で食事ができるからである。
「見てよ。ハトぽっぽがいるよ。エサを上げようよ」ヤツデはそう言うと少し自分の食べていたポテトをちぎってハトにエサを上げた。ハトはうれしそうにしてそれを食べに来ている。
「私はヤツデさんってもっと知的なイメージの人だと思っていたんだけど、なーんか、ヤツデさんは意外と子供みたいね」ユリはヤツデを横目に見ながら言った。今のユリはポップ・コーンの入った器を持っているが、ハトにはさすがにポップ・コーンを上げてはいない。ビャクブはユリに対して笑って応えた。
「それは確かに言えているよ。でも、ユリちゃんはユリちゃんで逆にだいぶませているとおれは思うけどな。まあ、チコリーはあどけなくていいけど」ビャクブはユリとチコリーの二人を持ち上げた。
「ところで」ビャクブは言った。「チコリーとユリちゃんはトイワホー国の国鳥を知っているかい?」
「ぼくは知っているよ」ヤツデはすかさずに答えた。ヤツデはやはり子供みたいである。
「ああ。そうか。ヤツデは確かにわかるかもしれないな。でも、今は悪いけど、ヤツデは答えないでくれるかい?」ビャクブは聞いた。ヤツデはそれについて渋々と承知をした。
そのため、チコリーは残念そうにしているヤツデに対してやさしく憐れみの目を向けた。それでも、今のチコリーは寝物語を聞いているかのようにしてとてもご満悦の体である。なぜなら、チコリーは自分のお小遣いを使って買ったクレープとラムネを手にしているからである。
「うーん。私はわからないな。ユリちゃんはわかる?」チコリーは話を振った。
「ビャクブさんはこのタイミングで質問をするっていうことはヤツデさんがエサやりに夢中になっているハトじゃないかしら?」ユリは答えた。ユリは論理的に物事を考えることができるのである。
「正解だよ。ユリちゃんは名推理だな」ビャクブはもぐもぐとフランクフルトを食べてから言った。ユリはするとストローで一口のコーラを飲んでから満更でもなさそうにした。
「私はそれほどでもないと思うけど、トイワホー国の通貨単位はパンダよね?そのパンダは動物のパンダとはなにかの関係があるのかしら?」ユリは聞いた。ユリは知的な探求が好きなのである。
「それはわからないな。ヤツデは知っているかい?」ビャクブは聞いてみた。
「その答えは残ながらぼくにもわからないよ。ん?」ヤツデは言葉をつまらせた。
ヤツデは隣のベンチに座っているショート・カットできれいな赤色の瞳をした女性に対して目を止めている。彼女は名をアカネと言う。現在のアカネは奇妙な行動を取っている。
「ぼくの考え違いでなければ、ハトはアイス・クリームを食べないのではありませんか?アイス・クリームは上げているそばから溶け始めていますし」ヤツデは気安く話しかけた。トイワホー国の国民にはやさしい人ばかりなので、その点については小胆なヤツデでも安心することができるのである。
ヤツデの言うとおり、アカネはなんと破天荒なことにもアイスをハトに上げていたのである。これはちなみに蛇足だが、アイス・クリームとソフト・クリームの違いは空気の含有量と製造温度によって決められる。ソフト・クリームの方が空気は多くてアイスの方は冷たいのである。
「え?そうなの?私は全く知らなかった。ハトってアイスを食べそうな顔をしているのに」アカネは頬を赤らめてはにかみながら答えた。アカネはヤツデの方をちらっと見てから俯いてしまった。
「そ、それじゃあ、あなたは見なかったことにしてくれる?」アカネは恥ずかしそうにして聞いた。
「わかりました。ぼくはなにも見ていません。でも、あなたはそんなにも傍目から見てもわかるほどに恥ずかしがらなくても大丈夫ですよ」ヤツデは微笑を浮かべながらやさしい口調で言った。
「わ、私は別に恥ずかしがってなんかいないけど、っていうか、あなたは笑わないでよ」アカネはそれだけ言うとこの場を立ち去ってしまった。アカネには恥ずかしがり屋さんという一面があるのである。
ヤツデはそれを察することができた。なぜなら、ヤツデは神経質かつ繊細だからである。ヤツデは傷を逆なでしないようになにも言わずにアカネを見送ることにした。それでも、ヤツデはティッシュを取り出すとアカネの落として行ったアイス・クリームを地面からきれいに拭き取ってあげた。
「あの女性は中々のチャーミングな御仁だね」ヤツデはしみじみとした口調で言った。
「ヤツデはひょっとしてあの女性に一目惚れしたのかい?」ビャクブは冷やかした。
「ううん。それは違うよ。それに、ぼくはそれと似たようなセリフをクリーブランド・ホテルで聞いたことがあるよ。それはイチハツさんがバニラさんのことを指してエノキさんに対して言ったセリフの受け売りでしょう?」ヤツデは聞いた。イチハツとエノキとはヤツデとビャクブの共通の友人である。
「さあ?そうだったかい?」ビャクブはなんとなくとぼけておいた。
「ぼくはなんでもテキパキとこなしちゃう人よりも、少しはおっちょこちょいな人の方がどっちかというと好感が持てるんだよ。だから、ぼくは初めて会った時にオレンジ・ジュースをぼくに零したチコリーには怒りを覚えるどころか、この子はお転婆な女の子なんだなと思って感心したくらいだよ」ヤツデは言った。ビャクブは納得をしてはいるものの、ヤツデの偏屈ぶりには閉口をしている。
「チコリーは変な褒められ方ね」ユリは苦笑をしている。一方のチコリーは恐縮そうにしている。チコリーは自分の粗相についてお詫びとしてハンカチを刺繍したので、ヤツデはこの機会にちゃんとそれを使っていると主張してそのハンケチをポケットから出した。チコリーはすると当然のことながら喜んだ。
ヤツデは確かに年百年中と言っていいくらいにチコリーからもらったハンカチを持ち歩いているのである。チコリーの粗相はともかくそのハンカチーフを持っているとクリーブランド・ホテルでの思い出が脳裏によぎるので、ヤツデは重宝しているのである。ということは色々な人と知り合いになれたこともあってビャクブだけではなくてヤツデにとっても、今夏の旅行は大切な思い出になったという訳である。
その後のヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人は食事を終えるとホワイト・タイガーが展示されている場所までやって来た。ホワイト・タイガーは檻ではなくて大きなガラス張りの部屋に5匹も入っていた。ホワイト・タイガーはオスもメスも両方いて眠っているものや歩きまわっているものもいた。ヤツデは野放図なホワイト・タイガーを見ると少し羨ましく思った。もっとも、動物園にいる大抵の動物はのんびりと過ごしているので、切りつめて言うと、ヤツデにはその全部が羨ましいのである。
「ホワイト・タイガーってカッコいい」チコリーはうっとりしたようにして言った。
「ホワイト・タイガーはチコリーと同じで目の色がブルーできれいだな。そうだ。チコリーはハム次郎を欲しそうにしていたから、もしも、売店ではホワイト・タイガーのぬいぐるみがあったら、チコリーはハム次郎の代りにホワイト・タイガーのぬいぐるみは欲しいかい?」ビャクブは聞いた。
「うん。私はもちろんほしいよ。ホワイト・タイガーのぬいぐるみはきっとかわいいもの。ビャクブさんはひょっとして買ってくれるの?」チコリーは探りを入れた。ビャクブは応じた。
「ああ。おれはアトランタ動物園を案内してくれたお礼としてプレゼントするよ」ビャクブは太っ腹な発言をした。金遣いは荒くないが、ビャクブはヤツデとは違ってケチではないのである。
「うれしい。ビャクブさんはヤツデさんと同じくらいにやさしいね。ありがとう」チコリーは無邪気に喜んだ。ビャクブはそれを受けると満足そうな顔をしている。一方のユリはもっと知的である。
「ヤツデさんはホワイト・タイガーの豆知識をなにか教えてくれない?」ユリは懇願をした。
「残念だけど、ホワイト・タイガーの豆知識は持ち合わせていないよ。ごめんね。」ヤツデは首を左右に振って答えた。付け焼き刃ではさすがにフォローできないこともあるのである。
「でも、説明書きはきちんとあるよ。ホワイト・タイガーの鼻先と足の裏はピンク色をしています。ルーブ国では昔から神の化身と信じられていて姿を見た人には幸運が訪れるという伝説がありますって書かれているよ」ヤツデは説明書きの文章を声に出して読んだ。ヤツデはユリの方を見た。
「ふーん。そうなんだ」ユリはヤツデが読み終わると納得したようにして頷いた。
「ホワイト・タイガーはアイス・クリームを食べるかどうかは書いてないのね」アカネは独り言を呟いている。アカネはいつの間にかヤツデの隣に来ていたのである。アカネはちなみにアイス・クリームをすでに半分ほど食べ終わってしまっている。ヤツデはアカネを見ると少しうれしそうにした。
「あなたは先程もお会いした女性ですね?説明には確かにホワイト・タイガーはアイス・クリームを食べるかどうかは書いていませんね。残念ですね」ヤツデは真顔で言った。
「いやいや。そんなこと、普通は書いてある訳ないじゃないか。ヤツデは大丈夫かい?」ビャクブは冷静なつっこみを入れた。ビャクブはそしてアカネに対しても冗談半分で言った。
「それに、あなたはなんとしても動物にアイス・クリームを食べさせたいみたいですね?」
「だって」アカネは言った。「私はアイス・クリームが好きだから、私の好きなものは動物にも食べさせてあげたいと思っただけよ」アカネは未だに自分のアイス・クリームを手に持ちながら恥ずかしげにして答えた。アカネは本気で動物にアイス・クリームを食べさせるつもりなのである。
「うん。うん。ぼくにもその気持ちはよくわかります」ヤツデは納得の表情を見せた。
その後はアカネが先に前に進んで行ってしまうと、ヤツデはアカネに対してお辞儀をした。チコリーはそれを見ると自分もお辞儀をした。チコリーは長上に対して礼を失しないようにしているのである。
「ヤツデはどうやら今の女性と気が合うみたいだな」ビャクブは解説を加えた。
「そうかな?そうだといいね」ヤツデは曖昧模糊な答え方をした。
その後のヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人は様々な動物を見て周った。ヤツデたちの一行はようするにゾウやサイやキリンやコアラやカバなどを見たのである。そのため、ビャクブは大満足の体である。ビャクブは割と動物が好きなのである。ヤツデは同じく人並みに動物が好きである。
ヤツデたちの一行はやがて園内のレストランで軽い昼食を終えた。ビャクブはするとチコリーに対してホワイト・タイガーのぬいぐるみを買ってあげた。一方のヤツデはユリに対してアルパカのぬいぐるみを買ってあげた。そのため、チコリーとユリは純粋に大喜びをした。
ヤツデは最後にシロガラシとミツバに対しておみやげとしてベビー・カステラを購入するとビャクブとチコリーとユリの三人と共に帰途に着いた。ヤツデは十分に動物園を楽しむことができた。
ヤツデたちの一行はシロガラシの家へと帰還した。ミツバはヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人をあたたかく迎い入れてくれた。ビャクブとチコリーとユリの三人はまだ元気だが、アトランタ動物園ではけっこう歩き回ったので、ヤツデは少しばかり足が疲れてしまっている。
ミツバは蚤の市で買った随筆を読んでヤツデとビャクブとチコリーとユリのことを待っていた。ミツバは斜め読みによってはしょることなく熟読するのが好みなのである。
チコリーは早速にミツバに対してビャクブに買ってもらったぬいぐるみを見せたので、ミツバは恐縮そうにした。ヤツデはやがてそれが一段落するとミツバに対しておみやげを渡した。
「ヤツデさんはお気づかいをありごとうございます。ヤツデさんとビャクブさんはチコリーとユリの面倒を見るので忙しくなければよかったのですが、お二人はアトランタ動物園では楽しめたかしら?」ミツバは柔らかい物腰で聞いた。ヤツデとビャクブとチコリーとユリとミツバの5人はリビングのロー・テーブルを囲んで腰を下ろしている。ヤツデはきっちりと好意的な返答をした。
「チコリーとユリちゃんは面倒を見る必要がないくらいにしっかりしていましたよ。それに、ぼくとビャクブはアトランタ動物園では十分に楽しめました。これらは一重にミツバさんやシロガラシさんたちのおかげです。どうもありがとうございました」ヤツデはお礼を言った。ミツバは相好を崩した。
「あらあら」ミツバは言った。「ヤツデさんはお礼なんておっしゃらなくてもいいんですのよ。ヤツデさんとビャクブさんはとにかく楽しんでもらえたようでよかったわ。ヤツデさんとビャクブさんは5日後にお帰りになられる予定です。ヤツデさんとビャクブさんはこれからも存分に休暇を楽しんでいって下さいね」ミツバは気遣った。チコリーはミツバの傍でホワイト・ちがーのぬいぐるみを愛でている。
「はい。わかりました。ミツバさんは今後もよろしくお願いします」ビャクブは答えた。
「言い忘れていたけど、私のおじいちゃんはこのコニャック村の村長なのよ」チコリーは誇らしげにして言った。しかし、忘れていたということはそれほどに自慢にしている訳ではないのである。
「へえ。そうなんだ。そう言われてみると、シロガラシさんはそんな貫禄の持ち主だもんね。そのシロガラシさんの姿は見当たらないけど、今は外出しちゃっているのかな?」ヤツデは聞いた。
「ええ。今のおじいちゃんは釣りに行ってしまっているのですよ」ミツバは答えた。シロガラシはようするに悠々自適の生活を自分なりに楽しんでいるということである。
「シロガラシさんは釣りか。釣りはヤツデもしたくないかい?」ビャクブは問いかけた。
「うん。ぼくも釣りをしてみたい。なんだか、釣りは楽しそうだものね」ヤツデは答えた。
「それなら、おれたちはシロガラシさんが帰って来たら、シロガラシさんからはいいポイントでも教えてもらって近い内に釣りをしに行かないかい?」ビャクブは提案をした。ヤツデは喜んで応じた。
「うん。それはいい考えだね。そうしようね。話は変わるけど、ユリちゃんはアトランタ動物園に行く前にユリちゃんを悩ませている事件があるって言っていたけど、あれはなんのことなの?」
答えようか、答えまいか、ユリは迷った。シロガラシからはあまりヤツデを厄介事に巻き込まないようにと言われていたからである。そのため、ユリは少し迷ったが、ヤツデは聞いてくれるというのなら、その場合は別にいいだろうと思って事情を説明することにした。ユリは即断即決ができるのである。
「実は最近のコニャック村には怪盗が出没しているの」ユリは妙なことを言った。
「こんなど田舎に怪盗だって?」ビャクブはそう言い終わると失言だったかもしれないと思って自分の言葉にうろたえてしまった。ビャクブはヤツデにも負けないくらいに善良な人間なのである。
「いやいや。住んでいる方から聞けば、ど田舎はちょっと失礼な言い方だったかもしれません。すみません」ビャクブはミツバに対して訂正とお詫びをした。ミツバは穏やかな口調で取り繕った。
「いいえ。ビャクブさんはお気になさらなくてもいいんですよ。コニャック村は実際に『ど』がつくほどの田舎ですものね」ミツバはあくまでも穏やかである。ヤツデは言葉を続けた。
「怪盗はえてして近代都市にしか現れないような固定観念があるのも事実だものね。とりあえずは話を元に戻すけど、ユリちゃんは怪盗になにかを取られちゃったんだね?でも、怪盗というからには予告状みたいなものもあるのかな?」ヤツデはそう聞いてからナイスな判断だなと内心で自画自賛した。
「ええ。ヤツデさんはちょっと待っていてくれるかしら?私はその予告状を取ってくるから」ユリは切り返した。そのため、ユリは颯爽と立ち上がって自分のカバンの中から予告状を取り出してヤツデの元へと帰って来た。ユリは身のこなしが軽いのである。チコリーは黙って成り行きを見ている。
「これはその予告状なの」ユリはヤツデに対して予告状を差し出しながら言った。
ヤツデはその予告状を受け取るとビャクブもその予告状を横から覗き込んだ。ビャクブは寺宝でも拝観するような心境である。犯罪とはいっても、ビャクブにとっては怪盗には神聖なイメージがある。
対岸の火事とはいっても、ヤツデはユリという被害者がいる以上は真剣な態度でこの文書を読ませてもらうことにしている。つまり、ヤツデはまじめな性格をしているのである。
部外者のチコリーはヤツデとビャクブの二人が問題を解決してくれのではないかと思って期待に満ちた目でヤツデとビャクブの二人を見ている。予告状には以下のような文章が書き込まれていた。
私は10月20日の午後6時に8162OUUU4を頂戴する。これはゆめゆめ悪戯などとは思わぬようにとだけは忠告しておくことにする。怪盗アスナロ(1315ACEI4)
以上の文書の文字はミミズのぬたくったような筆跡である。しかし、これは本格的に捜査をされた時のことを考えて間違いなく筆跡で犯人を特定されないようにするための工夫である。
ユリは初めてこの予告状を見た時には悪戯だと思ったのである。もしも、予告状は本物なら、ユリは悪戯ではないとは書かないのではないだろうかと必要以上に勘ぐってしまったのである。
ユリはちなみにチコリーにも意見を求めるとチコリーも悪戯説に同意したので、これは悪戯だと結局は確信してしまったのである。ビャクブはこの怪文書に対して次のようにしてコメントをした。
「これはなんだい?頂戴するものは暗号になっているじゃないか。これじゃあ、解答はなにを盗むんだかわからないな。それで?ユリちゃんは結果的になにを盗まれたんだい?」ビャクブは質問をした。
「いや。ぼくは少しなにが盗まれたのかを考えてみたいから、ユリちゃんはまだ言わないでくれる?ビャクブも一緒に考えてみない?ぼくたちは次に誰かに予告状が届いた時に暗号を予め解読できるようにしておこうよ」ヤツデは楽観的な提案をした。しかし、ビャクブは逡巡している。
「うーん。どうしようかな。おれにはあんまり自信はないんだけどな。ああ。話は変わるけど、ユリちゃんはこのことで警察に被害届を出したのかい?」ビャクブにしては中々鋭い指摘である。
「いいえ。これは小さい事件だし、事件はヤツデさんとビャクブさんが解決してくれるんじゃないかと思って被害届はまだ出していないの」ユリは期待感を抱いている。ヤツデはやや恥ずかしそうにした。
「そっか。ぼくは前評判むなしく迷宮入りしないようにがんばるよ。それはともかく一つ気になっていたんだけど、確か、ユリちゃんは『私達が頭を悩ませている事件』って言っていたよね?ということは他にも被害者がいるっていうことだよね?他にはどんな人が被害にあったの?その被害者はひょっとしてチコリーがそうなの?」ヤツデは聞いた。しかし、もし、そうなら、チコリーはすでに言ってあるはずかとヤツデは気づいた。ヤツデ完璧な人間ではないので、時々は間の抜けたことを言ってしまうのである。
「ううん。私は被害にはあってないよ。もう一人の被害者はここから5分くらいで行けるお家に住んでいるソテツさんっていうお兄さんなの」チコリーは答えた。ヤツデはそれを聞き終えると注意を促した。
「ソテツさんはなにを盗まれたかはまだ言わないでね。チコリーはソテツさんと知り合いなの?」
「うん。私のおじいちゃんはコニャック村の村長だし、この村にはそもそも数えるくらいしか住民がいないから、私はこの村に住んでいるほとんどの人と知り合いよ。それはユリちゃんも同じだよね?」
「ええ。そうよ。ヤツデさんとビャクブさんはソテツさんからも予告状を見せてもらいたいの?」ユリは聞いた。なにしろ、ヤツデは話に乗ってきそうなので、ユリは喜ばしいのである。
「うん。もしも、よければ、チコリーとユリちゃんはあとでその予告状を一緒に見せてもらいに行ってくれる?」ヤツデは明快に聞いた。ヤツデはその方がソテツにとっても話がわかりやすいだろうと思ったのである。ビャクブはちなみに当然の如く自分もヤツデについて行くつもりである。
「ええ。もちろんよ」ユリは答えた。異論は当然のことながらチコリーにもなかった。
「でも、私はソテツさんのお家に行く前にコニャック公園に遊びに行きたいんだけど、それはダメかしら?」チコリーは聞いた。それに関してはチコリーにはある考えがあるので、実はお祭り気分だったのである。ユリはちなみにそのことをまだ知らない。ビャクブは口を挟まずに話を聞いている。
「ううん。ダメじゃないよ。それじゃあ、ぼくたちは公園で遊んでからソテツさんのお家を訪問させてもらおうね。ビャクブはもちろんそれでもいいよね?」ヤツデは寛容な態度で聞いた。
「ああ。もちろんだよ。この家にはちなみにサッカー・ボールはありますか?」ビャクブはミツバに対して聞いた。ミツバは傍で口を挟まずに皆の話を聞いていたのである。ミツバは慎ましやかなのである。
「ええ。サッカー・ボールなら、おそらくは以前に息子が使っていたものがありますよ。空気は抜けてしまっているかもしれませんが、入れ直せば、おそらくはそのサッカー・ボールもまだ使えるはずです」ミツバが言った。ビャクブはするとうれしそうな顔をした。ヤツデは次のようにして付言をした。
「小中高はずっとサッカーをやっていたから、ビャクブはリフティングがうまいんだよ」
「それじゃあ。ビャクブさんはやって見せてくれる?」チコリーはワクワクして聞いた。
「ああ。もちろんだよ」ビャクブは頷いた。ビャクブのポジションはフォアードだったのだが、どちらかと言うと、ビャクブはシュートよりもアシストの達人だったのである。
「リフティングはヤツデさんもできるの?」ユリは質問をした。ヤツデは少し複雑に答えた。
「うん。できるにはできるけど、まあ、ぼくは100回くらい挑戦して一番に多くできた回数が20回なら、それは奇跡的っていうところかな。いずれにしても、ぼくはビャクブの足元にも及ばないよ」いつものとおり、ヤツデは謙遜をした。ビャクブはヤツデに持ち上げられて照れくさそうにしている。
もっとも、実は20回という回数でさえも、ヤツデの自己ベストなので、それは単なる過去の栄光なのである。ヤツデはようするに残念ながらビャクブと違って運動神経は発達していないのである。
「話は戻させてもらうけど、ユリちゃんはなにかを怪盗に盗まれちゃった時に家にはいなかったの?」ヤツデは聞いた。しかし、まさか、鉢合わせはしていないのではないかとヤツデは思っている。そこまでの大胆不敵な怪盗だったら、それはさすがのヤツデも驚きである。
「ええ。私はおじいちゃんとおばあちゃんとチコリーと一緒に電車に乗ってお買物に行っていたから、家には誰もいなかったの。それに、おじいちゃんは『この村には悪い人はいない』って言って外出する時でも家には鍵をかけたりはしないから、盗むのは簡単だったと思う」ユリは明瞭に答えた。
「ちょっと待てよ。ユリちゃんには予告状がきていたのにも関わらず、皆は全く用心をしていなかったのかい?」ビャクブは聞いた。ビャクブは耳に入ってくるものをちゃんと吟味しているのである。
「ええ。予告状には意味のわからない言葉が書かれていたし、私達はてっきり質の悪い悪戯だと思っていたの」ユリは再び明快に答えた。隣にいるチコリーはじっとしてその話を聞いている。
「そっか。わかったよ。ユリちゃんは色々とお話を聞かせてくれてありがとう。それじゃあ、ぼくは二階の部屋で暗号を解読してくるよ。ビャクブはその間に答えを教えてもらってもいいよ」ヤツデは気を使った。ヤツデはノー・ヒントで暗号の解読に挑戦することにこだわっている。
「ああ。ヤツデはそれでもいいのかい?悪いな」ビャクブは申し訳なさそうにして頷いた。
「ううん。ビャクブは気にしなくていいんだよ」ヤツデは無理を言わずにビャクブの方針には反対をしないのである。ビャクブはそんなヤツデの心遣いに普段から感謝をしている。
「それじゃあ、おれは答えを確認したら、おれもヤツデと一緒に考えるよ」ビャクブは前向きである。
「うん。わかった」ヤツデはそう言うと決意を込めて立ち上がった。
ヤツデは念のために白紙と筆記用具として鉛筆と消しゴムをミツバから借りることにした。ヤツデはそして借りたものを持って階段を上がって二階へと行ってしまった。ビャクブは早速に聞いた。
「それで?結局のところ、ユリちゃんは何を盗まれちゃったんだい?ヤツデはもういないから、ユリちゃんは教えてくれてもいいだろう?」ビャクブは利いた風な態度は取らないのである。
「ええ。もちろんよ。私は一着のお洋服を盗まれたの。あのお洋服はとっても気に入っていたのにも関わらず、私は盗まれちゃって悔しい」ユリは答えた。ビャクブはすると俄然としてやる気を出した。
「よし。それなら、おれはヤツデと一緒にユリちゃんの仇を取るよ。それじゃあ、おれも早速に暗号を解読しに二階に行ってくるよ。しばらくしたら、おれはヤツデと一緒に降りてくるから、チコリーとユリちゃんはコニャック公園に行くまで一階で待っていてくれるかい?」ビャクブは聞いた。チコリーとユリは順番に頷いた。ビャクブはこうしてヤツデに続いて戦地へと赴いて行った。とはいっても、ビャクブにとっては割と気楽なので、実際は戦地というほどに大げさには捉えてはいない。
自分でも言っていたとおり、ユリにはもちろん同情をしてはいるのだが、ビャクブにはヤツデという相棒がいるので、ビャクブは自分よりもヤツデに期待する気持ちが大半を占めている。
チコリーはおめおめヤツデとビャクブが敗残して帰ってくるとは思っていない。ヤツデとビャクブの実力は未知数なので、一方のユリにとっては現時点ではお手並み拝見といった具合である。
その後のチコリーはユリとおしゃべりをして時間を潰した。ビタミンCのこと・父に連れて行ってもらった劇場のこと・学校の図工の時間に使ったアクリル絵の具のこと・なにしろ、チコリーはおしゃべりなので、ユリに対しては以上のようなことを話したのである。チコリーのことは妹のようにしてかわいがっているので、ユリは静かにその話を聞いてあげていた。チコリーとユリは一人っ子である。
チコリーほどには多弁ではないが、実はユリもお話しをするのは嫌いではないのである。だから、ユリは自分の学校の制服についてチコリーに対して話をしたし、ミツバはそれを影ながら見守っていた。
ヤツデとビャクブの二人はしばらくすると階下へと降りて来た。いつものとおり、ヤツデは平気な顔で落ち着いているが、ビャクブはうれしそうである。ヤツデは拝顔といった感じである。ヤツデは謙虚なのである。とはいっても、それはビャクブが謙虚ではないという訳では決してない。
「どう?暗号は解読できた?」ユリはヤツデとビャクブを目ざとく発見すると期待感に満ちて聞いた。
「いやー!おれはもう少し時間が必要だったんだけど、ヤツデはどうやら解けたみたいだよ」ビャクブは答えた。つまり、ヤツデには先を越された形なのだが、ビャクブは全く悔しそうではない。例え、ビャクブは勝負事に負けてもすねたりしないでさばさばとしている性格なのである。
とはいっても、この場合はヤツデの方が先に問題に取り組んでいたので、この結果はそのわずかな差が生み出したとヤツデは考えている。チコリーはするとビャクブの言葉を聞いてうれしそうにした。
「それなら、どうすると、暗号は解けるのか、ヤツデさんは教えてくれる?」チコリーは切願をした。
「うん。もちろんだよ。でも、ぼくはソテツさんからも予告状を見せてもらって確認をしたら、解き方は教えてあげるね。ユリちゃんの盗まれたものはちなみにお洋服でしょう?」ヤツデは質問をした。
「ええ。そのとおりよ。ヤツデさんってやっぱりすごいのね」ユリはすっかりと感心をしている。
「それじゃあ、ぼくたちはコニャック公園に行こうか。チコリーは案内をしてくれる?」ヤツデは問いかけた。ヤツデは頭の切り替えが早いのである。もっとも、それは人間関係を除いてのことである。
「うん。もちろんだよ。私達はすぐに行きましょう」チコリーは元気よく応じた。
ビャクブはこうしてミツバからサッカー・ボールを受け取るとヤツデとチコリーとユリの三人と共にコニャック公園まで歩いて行った。その際のヤツデはしきりにビャクブの運動神経を持ち上げるので、ビャクブは部屋のガラクタを整理したという風にして話題をそらさなくてはならなかった。
ビャクブはこの話を敬遠していると気づいたので、その話はさすがにもうヤツデも止めたが、ヤツデは本当にビャクブのことを尊敬しているのである。ヤツデはどんな時でも気配りができるのである。
ヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人はコニャック公園にやってくると、まずは芝生があたり一面に広がる遊び場へと足を運んだ。そこにはするとすでにストレートのロング・ヘアをした母親と小さな息子の二人組が遊びに来ていた。母親の方は名をツバキと言ってキュロット・スカートを履いている。息子の方は名をアスナロと言ってミート・ボールとコロッケが大好きな落ち着きのある男の子である。
「ツバキさんとアスナロくんだ。こんにちは」チコリーは二人に対して挨拶をした。
「こんにちは」ツバキはチコリーとユリに対して挨拶をした。「アスナロも『こんにちは』って挨拶するのよ」ツバキは促した。チコリーとユリはツバキだけではなくてアスナロとも話をしたことがあるのである。アスナロは恥ずかしそうにして『こんにちは』と小さな声で挨拶をした。
「アスナロくんだって?アスナロは怪盗の名前じゃないか」ビャクブは驚いたようにして言った。
「こちらの方たちは?」ツバキはヤツデとビャクブの二人を指して聞いた。
「こっちはヤツデさんです。こっちはビャクブさんです。ヤツデさんとビャクブさんはチコリーがポンメルン県で知り合いになった人たちです。今はそしてコニャック村に滞在中なんです」ユリはヤツデとビャクブの二人のことを紹介してくれた。ヤツデはツバキとアスナロに対して微笑んだ。
「はじめまして」ヤツデは言った。「アスナロくんはいくつなの?」ヤツデは聞いた。アスナロはまた小さな声で『6歳』と答えた。アスナロは照れ屋さんなのである。ヤツデは頷いてから言った。
「そっか。アスナロくんは幼稚園生ですか?それとも、今は小学校の一年生ですか?」
「アスナロは一年生です。アスナロは今年になって小学校に入学しました」ツバキは答えた。
「なあ。それよりも、怪盗の名前はアスナロくんと同じじゃないか」ビャクブはヤツデに対して大がかりな言葉を投げかけた。しかし、温順な人柄のヤツデは動じていない。ヤツデは一度だけ頷いた。
「うん。そうだね。でも、ビャクブはだからといってアスナロくんを疑っているの?」
「まさか、さすがのおれも小学校一年生の子を疑ったりはしないよ。しかしだよ。これは単なる偶然なのかな?」一応は質問をしたが、偶然のはずはないだろうなとビャクブは内心では確信をしていた。
「さあ?今のところはなんとも言えないね」ヤツデは中立的な立場で答えた。
「あの、怪盗っていうのはユリちゃんとソテツくんのところに現れたっていう怪盗のことですか?」ツバキはちょっと不安そうにしている。ソテツはツバキの義理の弟なのである。
「ええ。そうなんです。怪盗の名前はアスナロって言うんですけど、アスナロくんとはたぶんなんの関係もないと思います」ユリは万障のないことを説明した。それについてはチコリーも同意見である。
「そうなの。でも、それはよかった」ツバキは安堵したようにして言った。
「もしも、よかったら、アスナロくんはぼく達とも一緒に遊ぼうよ」ヤツデは提案をした。
「お兄ちゃんたちは『遊んでくれる』って言ってくれているけど、アスナロはどうする?」ツバキは聞いた。アスナロはちょっと間をおいてから『遊ぶ!』と元気よく答えた。アスナロはそしてヤツデに対して持っていたゴム・ボールを投げた。ヤツデはちゃんとアスナロからボールを受け取った。
「アスナロくんは上手だね」ヤツデはそう言うとボールをアスナロの手前でバウンドするようにしてそっと投げ返した。ヤツデはかなり楽しそうである。ビャクブはアスナロに対して親しみを込めて言った。
「おれのことはビャッくんでいいよ。ヤツデのことはヤッちゃんって呼んでくれていいよ」
「ビャッくんとヤッちゃん」アスナロは確かめるようにして言った。
ビャクブはクリーブランド・ホテルでイチハツにつけてもらった渾名を気に入っていたのである。ビャクブはイチハツと会う以前にも一つのニック・ネームを持っていた。
ところが、そのビャクブの渾名は『寝ぼ助』と言うものである。ビャクブは寝つきが悪いせいでよく寝坊をして学校では遅刻の常習犯だったからである。しかし、ビャクブにとってみると、それは不本意だったので、ビャクブはあまりそれを好いてはいなかったのである。
「私とユリちゃんは皆に花飾りを作ってあげようよ」チコリーは提案をした。
「私は花飾りの作り方なんて知らないんだけど」ユリは言葉を濁してしまった。ところが、チコリーはなんでもないという風にしている。チコリーは困っている人を見るとそれと反比例してむしろ元気になるのである。それはもちろん心がないからではなくて自分は明るくなってその人を慰めるためである。
「作り方は私が教えるから、ユリちゃんは大丈夫だよ。よかったら、花飾り作りはツバキさんも手伝ってくれませんか?」チコリーはツバキのことを見上げながら無邪気な声音で聞いた。
「ええ。私は喜んで手伝わせてもらうね」ツバキは同意をした。ツバキはもちろんトイワホー国の国民なので、アスナロの面倒をヤツデとビャクブに見てもらうことには抵抗はないのである。このトイワホー国は飛花落葉と嘆かれることはないのである。ヤツデたちの一行はこうして一旦は二組にわかれることになった。ビャクブは評判のとおりのリフティングの技術をヤツデとアスナロに対して見せつけた。アスナロはそれを見てゴム・ボールでそれらしくまねてみた。ヤツデはもちろんそのアスナロを褒めてあげた。
女性陣のチコリーたちはやがて花飾りを完成させて男性陣のヤツデたちの元にやって来た。チコリーは早速にヤツデとビャクブに対して花飾りを手渡した。ヤツデは幸福感に満ちている。
「きれいな花飾りだね。これはなんていう花でできているの?」ヤツデは聞いた。
「それはレンゲソウでできているのよ」チコリーは得意げにして答えた。
「はい。どうぞ」ユリはそう言うとアスナロに対して花飾りを手渡した。アスナロはうれしそうにして自分の頭の上に花飾りを乗っけた。実はチコリーのある考えとは花輪作りのことだったのである。
ビャクブはやがてチコリーとユリのリクエストに応えてリフティングを披露した。チコリーとユリの二人は暖かな日差しの下で黄色い声を上げてビャクブも悪い気はしなかった。
今日のビャクブはスポーティーなズックを履いている。ズックとスニーカーの意味するものは同じであってどちらもゴム底の運動靴である。ついでに言うと、シューズは運動靴だけではなくてハイ・ヒールや草履や上履きといったものを含めた靴全般のことを指すのである。
「私達とは今日に初めてお会いしたばかりなのにも関わらず、ヤツデさんとビャクブさんはアスナロの面倒を見て下さってありがとうございます。ヤツデさんとビャクブさんはとても親切な方ですね」ツバキは心からの謝意を表した。アスナロはうれしそうな顔をしている。ヤツデは大度に応えた。
「いいえ。そんなことはありません。ツバキさんはお礼なんておっしゃらなくもいいんですよ」
「ツバキさんの言うとおり、ヤツデさんとビャクブさんはとっても親切な人なんですよ。ヤツデさんの方は特に『愛の伝道師』なんだもの」チコリーは自分のことのようにして胸を張っている。
「あら」ツバキは言った。「そうだったんですか?」ツバキは少し意外そうにして聞き返した。
「はい。なにか、ツバキさんは困っていることや悩み事があれば、ぼくはお聞きしますので、もしも、よろしければ、なんなりと、おっしゃって下さい。とはいっても、実質は今日も含めて4日間しか、ぼくはこちらにはいないんですけどね」ヤツデは日溜まりにおいて少しだけ残念そうにしている。
「それなら、私は悩み事を相談させてもらおうかしら?」ツバキは乗り気になったようである。
「ツバキさんはぜひヤツデさんにはなんでも相談して下さい。ヤツデさんとビャクブさんはだって殺人事件も解決したことがあるんですよ」相変わらず、チコリーは誇らしげにしている。
「え?殺人事件を解決された?」ツバキは驚き入って聞き返した。もっとも、今のツバキは自分が逼迫している訳ではない。ビャクブは単純に照れくさそうにして頭を掻いている。
「どうかされましたか?」ヤツデは聞いた。ヤツデは『殺人事件』という単語が出た時のツバキの顔色がわずかに変わるのを見逃さなかったのである。しかし、ツバキは顔を横に振って答えた。
「いいえ。なんでもありません。私はただ少しびっくりしてしまっただけです」ツバキは途方に暮れている。ツバキはなにかを隠しているとヤツデは反射的に判断をしたが、ここではそれには触れなかった。
「まあ、普通は確かにそんなことを聞かされたら、その時は誰でもびっくりしてしまいますよね?それで?ツバキさんの悩み事はここでは差し支えのある内容ですか?」ヤツデは一応の確認をした。
「はい。でも、それはまた今度の機会にお願いできますか?なんと言うか、その悩み事を打ち明けるには心の整理みたいなものも必要なんです」ツバキはあっさりと答えた。ツバキの顔色はすでに元のように戻っている。ヤツデは一瞬だけ考えを巡らせていたが、ビャクブの方は無心だった。
「わかりました。それじゃあ、ぼくたちはそろそろ帰ろうか」ヤツデは提案をした。
「そうだな」ビャクブは同調をした。チコリーとユリにも異議なしである。
「バイバイ。ぼくたちはまた会おうね」ヤツデはアスナロに対してやさしい口調で言った。
「うん。ヤッちゃんとビャッくんは元気でね」アスナロは少し砕けた感じで言った。ビャクブは『親のしつけがいいから、こういう利巧な子が育つのだな』と内心でツバキに対して敬意を払った。ヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人はこうしてツバキとアスナロに別れの挨拶をして帰途に着いた。
アスナロはヤツデとビャクブとたくさん遊んでもらったので、ツバキとは少しサッカーのパスをして遊ぶと帰宅することにした。ツバキは右手に日傘を持って左手でアスナロの手を繋いだ。
ツバキはそしてアスナロからアトランタ動物園で見たサバンナ・モンキーの話を聞きながらも『愛の伝道師』のヤツデに対して話そうとしている相談について考えた。あのセリフは咄嗟に口をついて出てしまったのだが、自分でも言っていたとおり、ツバキはまだヤツデにその話を打ち明ける心の準備ができていないのである。そのツバキの相談とは夫のヨモギにも息子のアスナロにもまだ話していない内容なのである。ツバキはその上にその秘事を話せば自分自身でさえも不利になってしまう事柄なのである。
ヤツデは性格が子供みたいなので、実はよく人見知りをしてしまうが、子供に対してなら、そんなことはない。そのため、ヤツデにとってはアスナロとの謁見は実に有意義なものだった。
子供には確かに人見知りをしないが、ヤツデは誰に対しても貴人に接するようにしていつも会話を交わすので、ヤツデにとっては年下のアスナロとて謁見という言葉が妥当なのである。
チコリーは本願を成就したし、ユリは花輪の作り方を知れたので、チコリーとユリの二人はヤツデと同じく大満足である。ビャクブはシロガラシの家に帰る途中で歩いて微風に吹かれながら疑問を呈した。
「おれたちはまだ聞いていなかったけど、ソテツさんっていう人には今からでも会えるのかい?」
「ええ。会えると思う。ソテツさんは習字の先生をやっているんだけど、今は秋休みを取っているって聞いたものね。だから、私達は運がよければ、ソテツさんはお家にいるかもね」ユリは代表して答えた。
「ソテツさんは家族と暮らしているのかい?それとも、ソテツさんは一人暮らしかい?」ビャクブは重ねて質問をした。ビャクブは聞きながらも『自分は探偵みたいだな』と思っている。
「一人暮らしだよ。でも、ソテツさんはコニャック村にお兄さんがいるの」チコリーは答えた。
「そうなんだ。ソテツさんはきっと兄弟仲がいいんだね。それじゃあ、チコリーはソテツさんの家まで案内してくれる?ぼくたちはこのまま直接に行った方が早いのかな?」ヤツデは一応の確認をした。
「ううん。ソテツさんのお家はここからだとおじいちゃんのお家の向こう側になるから、一回は帰ってからまた行きましょう」チコリーは元気よく答えた。そのため、その話にはビャクブも納得をした。
という訳なので、ヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人はシロガラシの家で一息をついてからソテツの家まで歩いて訪れることになった。ヤツデとビャクブの二人はいよいよ怪盗の予告状の二通目を目にすることになるのである。暗号はすでに解けているし、今はビャクブというアドバイザーもいるので、現在のヤツデはあまり心配をしてはいない。当のビャクブはしかもチコリーからロイヤル・ボックスの話を聞いたり、テレビで見たばかりのハザード・マップの説明をしたりしていて緊張感は全くないので、とりあえずはソテツの家に着くまでヤツデもリラックスをすることにした。
ヤツデはやがてソテツの家の前に立ってインターホンのチャイムを鳴らした。すると、ソテツは間もなくして本人がドアを開けて顔を出した。ソテツはヤツデとビャクブの顔を見るとちょっと怪訝そうな顔をした。とはいっても、ソテツはもちろんトイワホー国の国民だから、まさか、ヤツデとビャクブの二人のことは強盗かなんかだとは思っていない。ソテツは少し警戒心の強い性格をしているのである。
「村長さんの家のお孫さんはお揃いでぼくに何事かのご用ですか?」ソテツはヤツデとビャクブの二人に対して表敬の印としてお辞儀をしてチコリーとユリの顔を見ると少々ぶっきらぼうな口調で言った。それでも、ソテツは明らかに無常な人間ではない。チコリーは臆することなく口を開いた。
「あのね。私達はソテツさんに怪盗から届いた予告状をヤツデさんとビャクブさんに見せてほしいの」チコリーは張本人たちを指さして言った。チコリーはツバキと話をする時もそうだったが、相手は大人がでもやはり全く怯んではいない。チコリーはフレンドリーなのである。
「予告状ですか?それは別に構いませんよ。立ち話もなんです。どうぞ。お入り下さい」ソテツは陰気に言った。口調はぶっきらぼうでも、ソテツはちゃんとフレンドリーな精神を持っているのである。
ヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人はやがてしっかりと挨拶をしてソテツの家に上げてもらうことになった。家の中では別に秘密裏にすることなんかないので、ソテツは割とオープンなのである。
「大きな水槽ですね。金魚もたくさんいますね。エドニシキとサクラニシキとタンチョウとオランダシシガシラ」ヤツデはソテツに部屋に通してもらう途中で大きな水槽を見つけると突然に金魚の名前を羅列し出した。ビャクブはそれを聞くとヤツデの意外な一面を知って驚いている。
「え?ええと、あなたはビャクブさんでしたか?」いくらか、ソテツは狼狽した様子で聞いた。
「いいえ。ぼくはヤツデです」ヤツデは訂正した。ヤツデはもちろん気を害してはいない。
「ああ。そうでしたか。どうもすみません。それで?ヤツデさんには金魚の種類がわかるんですか?」ソテツは興味深げにして聞いた。ヤツデは百般の知識を持っているということは知っていたが、金魚のことについてはビャクブも初めて聞いたので、ビャクブはびっくりしたのである。ヤツデはやがて答えた。
「はい。わかります。ぼくの父は金魚好きで色々と飼っていたので、一通り、金魚の名前は覚えてしまったんです」ヤツデは言った。チコリーとユリの二人はそうしている間も水槽を眺めている。
「これは驚きましたね。このコニャック村には金魚についてそれほどに詳しい人なんていませんが、ヤツデさんはどちらからいらっしゃっているのですか?」ソテツは賓客に対して聞いた。
「ぼくはポンメルン県のティラナ市というところから来ています」ヤツデは心中を表白した。
「ヤツデさんとビャクブさんははチコリーちゃんとユリちゃんとはどんなご関係なんですか?」ソテツは問うた。ソテツは俄かにヤツデとビャクブの素性が気になり出したのである。
「おれとヤツデはポンメルン県にあるクリーブランド・ホテルという場所でチコリーと知り合いになったんです。詳しい事情を話すと、実は少し長くなるんですが、今のおれたちはとにかくそれから色々あってシロガラシさんのお家に招待させてもらっているんです」ビャクブはできるだけ手短に答えた。
「そうでしたか」ソテツはそう言うと一度は言葉を切った。ソテツはやがて水槽に見とれているチコリーとユリを一瞥するとそのままそこを動かずに講義のようにしてしゃべり出した。
「皆さんは金魚がストレスに敏感な生き物だということをご存じですか?例えば、水槽を叩いたり、水をかき回したり、頻繁に水を替えたりすると、金魚は病気になってしまうんです」ソテツは言った。
「金魚の飼育には気を使ってあげないといけないんですね?」ヤツデは合いの手を入れた。
「そういうことです。金魚は一人ぼっちになることを嫌うんです。金魚は皆でエサを食べたり、皆で集まって泳いだりするのですが、これは祖先のフナから受け継いだ性質なんです。逆に言えば、集団から離れている金魚には要注意なんです。それはひょっとすると病気の可能性があるのかもしれませんからね」ソテツは説明をした。ビャクブは感心をした。普段はそれほどに口数が多くはないのだが、ソテツという男は金魚のことになると人が変わったようにして饒舌になる性分なのである。
「そうなんですか。ぼくはソテツさんのおかげで勉強になりました。ソテツさんは金魚にお詳しいんですね。チコリーとユリちゃんはどの金魚が好きかな?」ヤツデは興味本位から聞いた。
「私はこの真ん丸いのが好きだよ」決断力のあるチコリーは迷わずに答えた。
「それはピンポンパールって言うんだよ」ヤツデはすかさずに説明をした。
ピンポンパールとパールスケルトンはちなみに同じ金魚だが、ピンポンパールは真ん丸に近いものを言うのである。一方のパールスケルトンはラグビーのボールみたいなものを言うのである。
「そうなんだ。かわいい名前だね」チコリーはとても楽しそうにしている。
「私はこの子が好きかな。名前はなんて言うのかしら?」ユリは聞いた。ユリの指名した金魚は黒色で卵のようとも形容できるし、あるいは小判に尾びれがついたようでもあるぽっちゃりした体形をしているとも形容できる。チコリーは件の金魚を青色の瞳を輝かせて目で追っている。
「それはランチュウだよ」ヤツデはごく控えめな態度で言った。それでも、ソテツはヤツデの金魚に対する知恵に感心している。ソテツはやがて思い出したようにして言った。
「すみませんね。ぼくは立ち話もなんですからと言っておいて結局は立ち話をさせてしまいました」
「いや。それは構いませんよ。おれたちはきれいな水槽も見せてもらったのですからね」ビャクブは水槽を見ていた顔を上げて取り成すようにして言った。ビャクブはヤツデと同じく品行方正なのである。
「恐縮です。どうぞ。それでは中へお入り下さい」ソテツは促した。ヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人は招き入れられて部屋の奥へと入って行った。ソテツの家は平屋ではなくて二階建てである。
そのため、ヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人は階段を通過して室内へと足を踏み入れた。ソテツは今まで暇つぶしとしてヘッド・ホンでサウンド・トラックを聴いていたので、ヤツデたちの案内された隣の部屋にはそのための道具が出しっぱなしになっている。しかし、ソテツは音楽を聴くことは意外と少ないのである。チコリーはきょろきょろしているが、ユリはお行儀よく正座をしている。
「こちらはその予告状です」ソテツはヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人が座卓の前に腰をかけるとそう言いながら予告状を持ってやって来た。お客を前にすれば、ソテツは行動が敏速なのである。
「ありがとうございます。拝見します」ヤツデはそう言うと文書を受け取った。
そのため、ビャクブはヤツデの持っている予告状を覗き込むことにした。この予告状はもしかしたらユリに届いたものと大差ないのかもしれないが、一応はビャクブにも興味はあるのである。
チコリーとユリは黙って成り行きを見つめている。チコリーとユリの二人はソテツに届いた予告状を見たことはないが、今はヤツデとビャクブに完全にお任せしているのである。予告状は決して愉快なものではないが、ソテツはユリと同様にして予告状をちゃんと保管をしていたので、その紙は折れていたり、汚れていたりはしていない。予告状には以下のような内容の文章が記載されていた。
私は10月25日の午後6時に210228IOIO4を頂戴する。これはゆめゆめ悪戯などとは思わぬようにとだけは忠告しておくことにする。怪盗アスナロ(1315ACEI4)
最初の予告状はユリの元にきたものであってなおかつユリの手紙に記述された犯行日は10月20日だったので、犯行の間は5日あった訳である。また、怪盗は午後6時に犯行に及んでいることは変わっていない。そのことから、怪盗は几帳面な性格をしているとも考えられる。
相変わらず、筆跡は下手っぴだが、それはユリに届いたものと同じである。使われている暗号はユリのものと同じなので、この怪盗は同一犯と考えてまず間違いないなとビャクブは思った。
一方のヤツデは違った観点から予告状を眺めている。怪盗はなぜアスナロを自称しているのか、ヤツデにはそれについてなんの理由もないとは考えられないのである。
「ソテツさんはなにを盗まれちゃったのか、ヤツデさんはわかる?」チコリーは聞いた。
「ええと、ちょっと待ってね」ヤツデはそう言うと持参したメモを取り出した。
ヤツデはそしてそのメモを見ながら考え込む仕草をしていた。その間はヤツデの集中力を削がないようにと他の皆は沈黙して待っていた。チコリーは特に期待感で一杯である。
いくら、ヤツデは気弱で風声鶴唳をしがちといえども、今回ばかりは謎を解いてしまうのも時間の問題である。それについてはビャクブもヤツデを信頼している。ヤツデはやがてチコリーに対して言った。
「わかったよ。ソテツさんは金魚を取られてしまったのですね?」ヤツデは落ち着いた口調である。
「ええ。おっしゃるとおりです。ヤツデさんにはその暗号が解けたのですか?」ソテツは驚いたように聞いた。とはいっても、ソテツはそもそも暗号を解こうとすらしてはいないのである。
「はい。ぼくにはなんとかして解けました。ぼくとしては昨日に家でやったクロス・ワードもやりがいはありましたが、この暗号も中々解き応えはありました」ヤツデは遠慮気味である。ビャクブはヤツデの活躍に自信も誇らしくなった。ユリはご満悦の体でソテツに対して言った。
「ヤツデさんとビャクブさんは難解な殺人事件を解決に導いた傑物なのよ」
「傑物はあまりにも言い過ぎだよ」ビャクブはユリの褒め言葉に照れている。
「そうだったのですか。それはお見それしました。金魚はもう残念ながら取られてしまいましたが、もしも、よろしければ、ヤツデさんは暗号の解読法を教えて下さいませんか?」ソテツは聞いた。
「はい。もちろんです。まず、ぼくは最初に暗号を解くとっかかりにしたことがあるんです。それは『1315ACEI4』というのが『アスナロ』という意味だということです。それではできるだけ簡潔に説明をさせてもらいます。この暗号文はそもそも三つにわかれているんです。ソテツさんに届いた予告状で言いますと、一つ目は『210228』です。二つ目は『IOIO』です。残っている『4』は三つ目です。便宜上の観点から三つ目を先に見てみます。この『4』という数字は怪盗が盗むものの文字数を指しているんです」ヤツデは説明を始めた。ここまではビャクブもちゃんと理解をしている。
「つまり、この暗号は4文字ということね」ユリは相槌を打った。
「うん。そういうことだよ。次は一つ目を見てみます。これは子音を指しているんです。ですから『2』はカ行を指しています。『10』はワ行を指しています。『22』は『2』が連続しているから、おそらくは濁音のガ行を指しています。最後に『8』はヤ行を指しているんです。二つ目は・・・・」ヤツデは言いかけた。ヤツデは紙に字を書きながらゆっくりとしゃべっていたので、ビャクブは先を読めたのである。
「ああ。わかったぞ。一つ目は子音を指しているって言うのなら、次の二つ目は母音を指しているってヤツデは言いたいんじゃないのかい?」ビャクブは遠慮がちにして口を挟んだ。ヤツデは答えた。
「正解だよ。ビャクブは鋭いね。だから『I』はイ列を指していて『O』はオ列を指しているんだよ。これを初めから組み合わせます。カ行のイ列は『キ』です。ワ行のオ列は『ン』です。ガ行のイ列は『ギ』です。ヤ行のオ列は『ヨ』です。並べると『キンギヨ』となります。これらの暗号はユリちゃんに届いた手紙も同じ要領で解読できました」ヤツデは話し終えた。ソテツは納得をしている。
「すごーい。ヤツデさんはやっぱり私が見込んだだけあるね」相変わらず、チコリーは誇らしげにしている。ヤツデは驕り高ぶったりせずにあくまでも不変である。ビャクブは感心をしている。
「いやはや。これはまた驚きました。さすがは殺人事件を解決したことのある人だけあってすばらしい推理能力ですね」ソテツは賛辞の言葉を述べた。しかし、謙虚なヤツデは低姿勢のままである。
「いいえ。ぼくはそれほどではありません。ソテツさんはこの件を警察には届けられたのですか?」ヤツデは割と重要な質問をした、そのため、ビャクブは耳を澄ませている。
「いや。ぼくは届けてはいません。盗難の被害は確かに惜しいことではありましたが、ぼくは大事にするほどのことではないと判断したからです。犯人はそもそもこの村にいるのだとしたら、それはそれで嫌ですけどね」ソテツは言った。ソテツはコニャック村の村民としてこの土地に愛着があるのである。
「そうですか。その気持ちは確かにぼくにもわかります。ソテツさんは金魚を盗まれてしまった時にお宅にはいらっしゃったのですか?」ヤツデは続けて質問をした。ビャクブは黙って聞いている。
「いいえ。ぼくは習字を教えに行っていたので、その時は留守でした」ソテツは簡潔に答えた。
「ソテツさんはシロガラシさんみたいにして家には鍵をかけていなかったのですか?」ビャクブは口を挟んだ。一応は気になったので、ビャクブは自分も質問をさせてもらったのである。
「いいえ。鍵はちゃんとかけて家を出ました。予告状には確かに意味のわからない暗号が書き込まれていたので、ぼくは悪質な悪戯ではないかとは思ったのですが、一応は用心したのです。しかし、それでは肩すかしを食わせることはできませんでした。盗まれた金魚は外にある池の中の金魚だったのです」ソテツは言った。なお、実は第一の犯行があったことについてはたまたま予告状を受け取った時点ではソテツには情報が入っていなかったのである。それでも、結局は金魚が盗まれたことについて同じくコニャック村に住む兄のヨモギと電話をしていたら、ソテツは怪盗の第一の犯行を知ることになったのである。
とはいっても、仮に、怪盗アスナロは本気でも、第一の犯行の被害は一着の洋服だけだったので、家には鍵をかけたし、ソテツは仕事を休むほどのことではないと考えたはずである。
「ソテツさんのお家のお庭には池があるんですか?もしも、よろしければ、ソテツさんはそのお庭をぼくに拝見させて下さいませんか?」ヤツデはお願いした。ヤツデは『ぼくに』といったが、正確には『ぼくたちに』である。ソテツは事件の解決に役に立つかもしれないと考えて二つ返事で承諾をした。
「それは構いませんよ。どうぞ。こちらへ」ソテツはそう言うと一度は玄関から外に出て4人を庭へと案内した。ソテツはやはりトイワホー国の国民らしく親切なところがあるのである。
ソテツの案内してくれた庭の池のそばには物置があって梯子が立てかけられていた。マウンテン・バイクの横にあるラックには金魚のエサやカルキ抜きなどが取り揃えられている。
初対面の人には人見知りをしてしまってつい無作法な振舞いをしてしまうこともあるが、ヤツデとビャクブにはそろそろ親近感を覚えてきたので、ソテツは礼儀正しくリポートしてくれた。
「金魚が盗まれたのはこの池です」ソテツはまるで服喪の期間みたいな口調である。
「ソテツさんはなんと言う種類の金魚が盗まれてしまったんですか?」ビャクブは興味本位で聞いた。
「スイホウガンという金魚です。ぼくは4匹のスイホウガンは飼っているのですが、盗まれてしまったのはその内の一匹です」ソテツは名残惜しそうにして言った。スイホウガンはこぶとりじいさんのようなユーモラスな風貌をした金魚である。スイホウガンは目の下に大きな水泡を持っているのである。
「まあ、でも、犯人はきっとヤツデが捕まえて見せますから、ソテツさんはご安心下さい」ビャクブは無責任な発言をした。ヤツデは当然のことながらいきなりに飛び出した言葉に対して抗議をした。
「いやいや。ビャクブはちょっと待ってよ。ビャクブは適当なことをソテツさんに言わないでね」
「え?それじゃあ、ヤツデは犯人を捕まえる気はないのかい?」ビャクブは開き直って聞いた。
「ううん。そりゃあ、努力だけはしてみるよ。でも、ぼくは本当にソテツさんの金魚を取り戻せるかどうかは別問題だよ」ヤツデは言い張った。ところが、ソテツはうれしそうにして言った。
「ありがとうございます。でも、スイホウガンはとってもデリケートな金魚なんです。スイホウガンは取り扱いに不慣れな怪盗の手に渡って水泡が割れていなければいいのですがね」
「もしも、水泡は割れちゃうともう戻らないの?」チコリーは素朴な疑問をぶつけた。
「うん。スイホウガンの水泡は残念ながら戻らないんだよ。時に、池では上から見て楽しめる金魚を飼っているんです。こちらはそのスイホウガンです。こっちはチョウテンガンです」ソテツは指をさして説明をした。チョウテンガンはアカデメキンが突然変異してできた品種で目が上を向くようにして大きく出ているのが特徴である。池には他にもユリ一押しのランチュウの姿も見受けられる。
「へえ。スイホウガンとチョウテンガンは珍しい金魚ね」ユリは感想を述べた。ソテツは言った。
「チョウテンガンは視神経が壊れてしまっていてほとんど目が見えていないんだよ」
「へえ。そうなんだ」ユリは短く答えた。玄関の方ではするとチャイムが鳴るのが聞こえた。
「来客のようですね。ぼくはちょっと失礼します」ソテツはそう言うと玄関の方へ向って行った。ヤツデはその間にうしろで手を組んで池以外の庭を観察していた。ビャクブはなんとなくそれに倣った。
一方のチコリーとユリの二人は池の金魚を見てどの金魚が一番かわいいかと品定めをしている。しかしながら、金魚はどれもかわいいとチコリーは言ったので、ユリはそれに同意をして決着がついた。
その後は間もなくしてソテツは一人の男性を引き連れて庭に戻って来た。その男性はスーツ姿でスーツ・ケースを手にしている。ヨモギはデスク・ワークをするホワイト・カラーなのである。
「それではヤツデさんとビャクブさんに紹介します。彼はちょうど仕事が終わって会社から帰って来てここに寄ったそうなんですが、ぼくの兄貴のヨモギです」ソテツは紳士的な態度で言った。
「はじめまして」ヤツデは挨拶をした。「ぼくはヤツデです」ヤツデは慇懃にお辞儀をした。
「はじめまして」ビャクブは言った。「おれはビャクブです」ビャクブはそう言うとヨモギに対して手を差し出した。ヨモギはビャクブの手を握り返すと挨拶をした。ヨモギはソテツに向き直ると言った。
「へえ。非社交的なソテツにしては二人も友達を家に招待しているなんて珍しいんじゃないか?」ヨモギは冗談を交えて言った。ソテツは少しまごついてから次のようにして説明をした。
「いや。彼等は少し友達っていうのとも違うんだ。ほら、怪盗から予告状が届いたっていう件は兄貴にも話しただろう?ヤツデさんとビャクブさんはその予告状の暗号を解読して下さったんだよ」
「ヤツデさんとビャクブさんは殺人事件を解決したこともあるんだよ」チコリーはあどけなく言った。
「そうなのかい?それはお見逸れしました」ヨモギは弟のソテツと同じセリフを爽やかに言った。ソテツはするともうちょっと詳しくこの件について解説をした。つまり、ヤツデとビャクブは犯人探しをしてくれるということ・できれば、ヤツデとビャクブはソテツの金魚も取り戻してくれるということ・ソテツはヨモギに対してそういった話をしたのである。ヨモギは納得をした様子である。
「ソテツはそれで金魚が盗まれた池をヤツデさんとビャクブさんに見せていたという訳か。不躾なお願いではありますが、犯人は捕まえられそうですか?」ヨモギは聞いた。
「今はまだなんとも言えませんが、やれるだけのことはやってみます」ヤツデは断言をした。
「それは頼もしい限りです」ヨモギは感心をしている。ソテツは決して不作法ではないが、どちらかと言うと、人当たりはヨモギの方がいい方なのである。とはいっても、親切なのはどちらも同じである。
その後のヤツデとビャクブの二人はしばしヨモギと雑談を交わした。ヨモギはヤツデとビャクブに対して弁舌も豊かに話をしてくれた。例えば、動物は嫌いではないのだが、ソテツはマムシやコブラを見ると貧血を起こしてしまうとか、コニャック村では一番に近くにあるレストランはカバー・チャージを取るところであるといったようなことを話したのである。チコリーは珍しく大人しくしていた。
トイワホー国では珍しいことではないが、ヨモギは早くもヤツデとビャクブに対して気を許しているのである。ただし、ヨモギは一方的にしゃべるのではなくてちゃんとヤツデとビャクブの意見も聞いてくれた。ヨモギにはヤツデとビャクブの方もいい印象を持つことになった。
ヤツデとビャクブの二人は間もなくソテツに対して深謝の言葉を口にしてヨモギに対して挨拶をしてチコリーとユリと共にソテツの家を辞した。チコリーはようやく解放されて晴々としている。
ヨモギとソテツからはこんなにも親切にしてもらったら、自分は怪盗を見つけるためにもうんと努力をしないといけないなとヤツデは決心をした。その気持ちはビャクブも同じである。
唐突だが、習字と書道は少しだけ意味が違っている。習字は手本のとおりの書き順で手本をまねて書くことを言うのである。一方の書道とはただ手本のとおりに書くのではなくてそこに個性を出しながら自分を表現するのである。いわば、書道というものは一種の芸術なのである。
ソテツは習字の方を教えているのである。ヨモギはちなみに絵本作りの仕事に携わっている。ヨモギは先に住居を構えていて『コニャック村の地価は安いから、コニャック村に住むのはどうだろうか』と勧められたので、ソテツは結果的に快諾をしてこのコニャック村に住むことになったのである。
ヨモギとソテツの二人はしかも電車で通勤しているのだが、職場はなにぶんコニャック村と同じく田舎なので、ラッシュ・アワーには遭遇しなくてすんでいるのである。
ここはヤツデとビャクブとチコリーとユリの4人を見送ったあとのソテツの家である。ソテツは自分の家の中のカーペットの上に腰をかけている。一方のヨモギはツイードの背広を脱いでリクライニング・シートに腰をかけてすっかりとリラックスをしている。この場にいるのはヨモギとソテツの二人である。
「それで?仕事の方はどうだ?」ヨモギはやおらソテツに対して話を切り出した。
「うん。仕事はまずまずっていうところだよ。アスナロくんは元気かな?」ソテツは聞いた。
「ああ。アスナロはうれしいことにもすくすくと健康に成長してくれているよ。アスナロとはハロウィン・パーティーでも会えるだろうが、ソテツはまたアスナロと会ってあげてくれ」ヨモギはゆったりと寛ぎながら言った。一度は話に出たが、ヨモギはツバキの旦那さんなので、つまりはアスナロの父親なのである。ソテツはそしてトライフルをご馳走したり、象牙の飾り物をプレゼントしたりして甥のアスナロのことをかわいがっているのである。魚心あれば、水心というとおり、そうなると、叔父のソテツには今ではすっかりとアスナロの方も懐いているのである。
「それで?ソテツは結婚をしないのか?ソテツも今年で34歳だ。おれはソテツもそろそろ身を固めてもよさそうなものだと思うけどな。実家の母さんもソテツの結婚の報告を心待ちにしているぞ」ヨモギは指摘をした。ところが、この話題は色々と事情があって今のソテツにとって最も触れてほしくないものなのである。という訳なので、ソテツは何事もなかったかのようにして聞き流すことにした。
「まあ、ぼちぼちね。なにか、兄貴のところでは変わったことはあったかい?」ソテツは聞いた。
「細かいことを言えば、ツバキは新しいタイマーを欲しがっているとか、おれは車検に行ってきたばかりだとか、いくつもあるけど、今のところ、大きな変化はないよ。ソテツの方はどうだ?」
「ぼくの方にも特に変わったことはないよ。人は毎日を平穏無事でいられることがなによりじゃないかな?」ソテツは言った。本来なら、実態はともかくソテツも平和主義者なのである。
「それは確かにそうだな。モクレンくんの件はともかくごたごたはめったに起こらないのがコニャック村の長所だ。いや。トイワホー国の長所だ。おれはこのままの調子でこれからも平和に暮らしたいよ」
「それは全くだね。ぼくも同意見だよ」ソテツは些か暗い口調ながらも首肯をした。
普通はトラブルに巻き込まれたいという稀有な人は少ないはずだが、今のヨモギは揉め事を敬遠しているのである。ヨモギは妻子を大事にしているからである。ようはヨモギも平和主義者なのである。
ヨモギとソテツはその後もアイス・ティーを飲みながら二人で雑談を交わしていた。ヤツデも推測していたとおり、ソテツとヨモギの兄弟はやはりとても仲がいいのである。
ただし、現在のソテツはモクレンの件によって傷心している。そればかりか、運命は残酷なことにも『平和に暮らしたい』というヨモギの願望を無残にも打ち砕くことになる。
時計の針は少し進んでヤツデとビャクブの夕食の席である。食卓には釣りから帰ってきていたシロガラシもついている。チコリーとユリはもちろん一緒だが、ミツバだけは今も料理中である。
ただし、シロガラシの家の食卓は6人がけなので、席は今も一つ余っている。今晩の食事のメニューは肉ジャガ・出し巻き卵・ドレッシングのかかったサラダ・シャケといったものである。
夕飯はとても豪勢なので、初めは仏像でも見るみたいにしてヤツデとビャクブはびっくりしてしまって料理を直視していた。ヤツデはミツバが腕をふるって作った肉ジャガを頬張りながら言った。
「ぼくは肉ジャガが大好きなんです。ミツバさんはとてもお料理上手だね?」ヤツデはビャクブに話を振った。ヤツデはジャガイモを使った料理の全般が好物なのである。
「ああ。本当だな。おれはこんなにもおいしい肉ジャガを初めて食べたよ」ビャクブは同意をした。
「肉ジャガはおばあちゃんの得意料理なんじゃよ」シロガラシは同調をした。
「あらあら」ミツバは言った。「ヤツデさんとビャクブさんは手放しで褒めて下さってありがとうございます」ミツバはうれしそうである。口調は不束ですがといわんばかりだが、ミツバは料理が本当に上手なのである。チコリーとユリは祖母の手料理を黙々と口に運んでいる。
「そうだ。ぼくはホット・ケーキ・ミックスを持ってきているんです。よかったら、明日か、明後日にでも、ぼくはホット・ケーキを作らせてもらえませんか?」ヤツデは思い出したことを聞いた。
「ヤツデさんはホット・ケーキを作ってくれるの?ホット・ケーキは大好きだよ」チコリーは楽しげである。シロガラシはすると朗らかな口調で次のような反応を見せた。
「それはわしにも食べさせて下さるのですか?それではぜひともホット・ケーキを作って下さい」
「はい。シロガラシさんはもちろん召し上がって下さい。ホット・ケーキ・ミックスは余分に持って来ているから、ぼくはユリちゃんがいることを手紙で聞いていなかったけど、量は十分に足りると思うよ」ヤツデはやさしい口振りで言った。しかし、ヤツデの料理の腕前はミツバと違って未熟である。
「ありがとう」ユリはヤツデに対してお礼を言った。ホット・ケーキはユリも楽しみにしている。
「ああ。そうだ。持ってきていると言えば、ヤツデはすごいものを持ってきているんだけど、ユリちゃんはヤツデがなにを持ってきていると思う?」ビャクブはユリに対して話を振った。
「さあ?なにかしら?すごいものといったら、ヤツデさんはショット・ガンとか、あるいはマシン・ガンでも持ってきているの?」ユリは冗談を言った。チコリーはそれを聞くと不思議そうにしている。トイワホー国のみならず、この惑星(天地)における全ての国においては一般人による銃器の所持は法律で禁止されている。それなのにも関わらず、ユリはなぜその存在を知っているのかというと単純におもちゃとしてなら、ショット・ガンやマシン・ガンは存在するからである。ユリの父親は音と光の出る銃のおもちゃが好きだったので、ユリは女の子なのにも関わらず、ユリには自分のお古を与えていたのである。
「わはは」シロガラシは豪快に笑った。「それは確かにすごいのう」シロガラシは愉快そうである。
「それで?本当はなにをヤツデさんは持ってきているの?」チコリーは問いかけた。
「まさかとは思うだろうけど、これは本当の話だよ。なぜか、ヤツデはハム次郎をここに連れて来ているんだよ」ビャクブは答えた。ヤツデは真実を暴露されても平然とした顔で食事を続けている。
「ハム次郎ってアトランタ動物園でヤツデさんがウサギとの触れ合いの練習にするって言っていたぬいぐるみのこと?」ユリは質問をした。シロガラシはそれを遮って笑顔を浮かべて陽気に切り返した。
「それはまた大した冗談じゃのう。さすが、ヤツデさんは冗談がうまいですのう」
「いいえ。そんなことはありませんよ」ヤツデは少し照れている。しかし、本当はヤツデには冗談のつもりはなかったのである。それでも、ヤツデはそれを秘しておくことにした。
「そうだ。今夜は肝試しに行きましょうよ」チコリーは肝心なことを思い出した様子で発言をした。会話は少し途切れていたのだが、チコリーはしばらくするとヤツデとビャクブに対して提案をした。
「どこか、肝試しには適当な場所があるの?」ヤツデは一応の確認をした。
「ええ。この近くにはカシ山っていう山があるんだけど、そこはどうかな?」チコリーは提案をした。
コニャック村の隣に位置するカシという村は山地である。チコリーの言うカシ山とは垰の近辺まで行かなければ、遭難の危険もないし、クマの出没の危険もないとされている山のことである。
「今なら、最近はカシ山の麓で自殺者が出ているだけにスリルは満点ね」ユリはチコリーに調子を合わせて悪戯っぽく言った。ただし、ユリは人命を軽々しく思っている訳ではない。
「え?この近くでは自殺者が出ているんですか?」ヤツデは驚いた様子で聞いた。
「ええ。カシ山の麓とはいっても、区分から言えば、その方はコニャック村の村民だったのですが、カシ山の麓では二日前にモクレンさんという方が自宅で首を吊っているのが発見されたのですよ」ミツバは言った。モクレンはもちろん知らない人だが、ヤツデは心を痛めた。となると、シロガラシとミツバはそれ以上に心を痛めている。シロガラシは続いてよくわかるように説明をした。
「現場は密室だったそうじゃから、自殺という結果には間違いはないそうですがのう」
「密室ですか」ヤツデは考え深げにしてシロガラシのセリフを復誦した。しかし、本当はヤツデにもなにかの考えがある訳ではなかった。ビャクブはそんなヤツデとは真逆にして落ち着かなそうである。
「それで?チコリーとユリちゃんはそんな物騒なところに行く気なのかい?なんというか、おれはあんまり気が進まないな」ビャクブは不安そうな顔をしながら及び腰になっている。
ビャクブには臆病者な一面があるので、実はヤツデもそうなのだが、ビャクブはあまり遊園地のお化け屋敷が好きではないのである。ヤツデはどうしてお化け屋敷が嫌いなのかというと『お金を払って恐怖を買うなんて言語道断だ』というケチな理由からである。
「まあ、肝試しは今夜じゃなくてもいいんだから、この話はまた今度にしようよ」ヤツデは気楽な口調で言った。それに関して言えば、チコリーはビャクブに心の準備をしてもらうためにも同意をした。
やがては夕食を終えると、ヤツデは読書を始めた。一方のビャクブはヤツデから貸してもらったクロス・ワードを解いた。その後のヤツデは寝所に入って静かな夜の中に鳴く虫の声を聞きながら眠りに就いた。一方のビャクブは寝つきが悪い。ビャクブはふとんに入ってから一時間が経っても眠りにつけなかったので、とりあえずは寝所から出てブラブラと外を歩いてみたりした。これはよくあることである。
一度は今日に通ったことのある道を歩いてビャクブはソテツの家のあたりまで行って帰って来た。その後のビャクブはふとんに戻るとぐっすりと安眠することができた。
この時点ではまだ気づいてはいないが、ビャクブはこの夜の散歩によってある一つの秘密を知ることになった。それはとても重要なことである。この夜はそしてコニャック村の事件前夜となる。
翌日である。今日は前日と同じく気候は良好である。ことわざの決まり文句を借りるのなら、今日は柿が赤くなると医者が青くなるような快適さである。空にはイワシ雲が浮かんでいる。
気温は低からず、高からず、陽気は適度にポカポカしている。ヤツデとビャクブの二人はそんな穏やかな気候の中で目を覚まして着替えを終えた。ビャクブは寝癖を櫛で梳かした。ヤツデとビャクブの二人はやがて階下へと降りて行った。ヤツデとビャクブの耳にはするとシロガラシの騒ぎ声が耳に入ってきた。シロガラシはミツバに対して話しかけていたのである。チコリーとユリはまだ寝ている。
「おはようございます。どうかされたのですか?」ヤツデはシロガラシに対して問いかけた。
「おお。おはようございます。大変なんです。ヤツデさんとビャクブさんはとにかくこれを見て下さるかのう?」シロガラシはそう言うとある箇所を指差してヤツデに対して新聞を手渡した。
ミツバは真剣な顔をしてその様子を眺めている。その内容はまさしく真剣にならざるを得ないような内容なのである。しかし、ヤツデとビャクブはまだ当然のことながらそれには気づいていない。
となると、シロガラシはもちろん真剣である。シロガラシにとってはしかもコニャック村の村長になってからこれほどの衝撃を受けたのは初めての出来事なのである。
ヤツデはビャクブにも読めるようにとテーブルに『ゼブラ新聞』を広げた。シロガラシの指差したのはプリマス県の地域面の記事である。そこには以下のような記事が掲載されていた。
当社には10月28日に予告殺人の知らせが届いた。内容は10月29日にプリマス県のニース市にあるコニャック村に住む女性を殺害するというものである。悪戯である可能性も否定はできないが、ニース警察署は10月29日(当日)に女性の家を警備する意向であることを示した。
ビャクブは記事を読み終えると一気に目が覚めてしまった。ビャクブは有名なレーサーが事故にあったのではないだろうかくらいのレベルでいたのである。ビャクブは勘違いではないことを確かめるために二度も記事を読んだ。一方のヤツデはビャクブよりもびっくりした。
ヤツデは大型スーパーでショッピング・カートが盗難にあったのではないだろうかくらいのレベルでいたのである。ヤツデはよく変な考え方をするのである。シロガラシはヤツデとビャクブの驚きの反応を見て朝っぱらから驚かせてしまって少し申し訳なく思ったが、ヤツデとビャクブにはとにかく目を通してもらえたので、一旦は落ち着くことにしている。ミツバは動揺していてもそれを表には出していない。
「このコニャック村で予告殺人だって?」ビャクブは早速に驚きの声を上げた。
「それに」ヤツデは言った。「10月29日は今日だよ。このコニャック村にはそれほどに住民はいないんですよね?ぼくの知っている女性はミツバさんとツバキさんです。あと、他には何人の女性がいらっしゃるのですか?」ヤツデは聞いた。ヤツデはすでに頭を必死になって回転させている。
「ヤツデさんとビャクブさんはもうツバキさんとはお知り合いになったのですかのう?女性はあとナズナさんとアカネさんの二人がおるだけです。アカネさんは事情があってツバキさんの家で一緒に暮らしております」シロガラシは答えた。一度は頷くと、ヤツデはミツバに向き直って聞いた。
「まさかとは思いますが、ミツバさんには殺人予告が来たという報告は聞いていませんよね?」
「ええ。私のところへはそのような報告は来ていません」ミツバはこともなげに答えた。
「つまり、予告殺人の対象者は昨日にコニャック公園で会ったツバキさんとナズナさんっていう人とアカネさんっていう人の三人の内の誰かっていう訳だな」ビャクブは少しアレンジして話をまとめた。
「よし!ぼくたちはツバキさんか、もしくはナズナさんのところへ行こうよ」ヤツデは提案をした。
「え?ぼく『たち』っていうことはおれも行くのかい?」ビャクブは素っ頓狂な声で聞き返した。
「ビャクブは嫌なの?」ヤツデは質問をした。ビャクブは素朴な疑問を提示した。
「いや。おれは別に嫌じゃないけど、よく考えてみれば、おれたちは行ったところできっと警察に門前払いをさせられるだけだよ。それはたぶん間違いないと思うけど、ヤツデはそれでもいいのかい?」
「うん。ぼくは元々警察と一緒に警護をするつもりなんて毛頭ないよ。ただ、ぼくたちは遠くからでも様子を窺っていれば、なにか、ぼくは役に立つ発見でもできるかもしれないと思っただけだよ」
「そうかい?それなら、おれは付き合うよ」ビャクブは意外にもあっさりと妥協をした。
「それじゃあ、話は決まったのなら、ヤツデさんとビャクブさんは朝食を召し上がって下さい」ミツバはそう言ってヤツデとビャクブを日常的な世界へと引き戻した。今日の朝食はパンである。
チコリーとユリはワン・テンポ遅れて目を覚ましたので、ヤツデとビャクブとシロガラシとチコリーとユリの5人は朝食を食べ始めた。ミツバはすでに朝食を食べ終えている。ミツバは早起きなのである。
ヤツデは三種類ある中からクロワッサンを選んだ。一方のビャクブはチャバタを選択した。チャバタというのは平べったく四角い形をしていて表面はカリカリと香ばしく中はもちもちした触感のパンのことである。このチャバタはユリも好きなので、ユリはチャバタを今日の朝食として選択している。
「ヤツデは物好きだから『予告殺人の対象者の家に行きたい』なんて言っているんだけど、チコリーとユリちゃんのどちらかは家を案内してくれないかい?」ビャクブは持ちかけた。
「私はおばあちゃんと編み物をしたいから、チコリーは代わりに行ってくれない?」ユリは聞いた。
「うん。私は別にいいよ」チコリーは頷いた。チコリーはシナモン・ロールを食べている。
「ああ。でも、もしも、殺人者は本当に現れるんだったら、チコリーは危険な目に合っちゃう可能性もあるのかしら?」ユリは不安そうにしている。しかし、ヤツデはなんでもないといった風にして応えた。
「ああ、それなら、心配はいらないよ。なにしろ、こっちには最強のビャクブがいるんだからね」
「おいおい。その冗談はよしてくれよ。ユリちゃんは真に受けちゃうじゃないか」ビャクブはまじめな顔で言った。今夏のヤツデはクリーブランド・ホテルでも同じことを言っていたのである。
「うん。ビャクブのことは信頼しているけど、今のセリフはもちろん冗談だよ。ぼくたちは遠くで見ているだけですし、チコリーには案内をしてもらったら、チコリーはすぐにシロガラシさんのお家に引き返してもらってもいいですから、おそらくはチコリーに危険が及ぶようなことにはならないと思います」ヤツデはシロガラシの判断を仰いだ。シロガラシは意外にも寛容だった。
「ええ。わかっとります。わしはヤツデさんがコニャック村の非常事態に立ち上がってくれるなんて感謝感激しとるのです。わしはヤツデさんとビャクブさんのことを信用していますから、どうか、ヤツデさんとビャクブさんはチコリーのことをよろしくお願いします」シロガラシはゆっくりと言った。シロガラシは心から言葉を紡いでいる。シロガラシとは同意見だったので、ミツバは口を挟まなかった。
「いえいえ。こちらこそ」ヤツデは謙遜して見せた。それはビャクブも同意見である。
その後のヤツデたちは予告殺人について少し話をした。ユリは予告殺人の成功率が0パーセントだと言ってビャクブもそれに同調したが、チコリーは相手を物の怪かなにかと勘違いしているので、実は怯えているだけである。それでも、ヤツデとビャクブは一緒なら、チコリーは付いて来てくれるのである。
予告殺人の成功の確率についてはヤツデも限りなくゼロに近いだろうと言った。怪盗アスナロは確かに予告状を出して盗みに成功したが、それとこれとは全く別次元の話だからである。
とはいっても、犯人はどんな手を使うつもりなのか、ヤツデは少し空恐ろしい気持ちも抱いている。犯人にはこれからの殺人を宣言する以上はなんらかの作戦があるはずだからである。
ヤツデとビャクブの二人はやがて朝食が終わるとチコリーに連れられてシロガラシの家を出立した。チコリーはちなみに自転車を押して進めているし、ヤツデはショルダー・バッグを持っている。ビャクブはというとなんの武器も持たずに手ぶらの状態である。ビャクブはなにも考えていないのである。
ヤツデは先程も言っていたとおり、親しい人間でも、どう言われるかはわからないのだから、とりあえずはナズナに対して見ず知らずの自分が面会謝絶になることを覚悟の上である。
朝のヤツデはあまり、食欲がないが、ビャクブはそうではないので、満腹状態のビャクブはご満悦である。ビャクブは不如意なことなんて一切ないみたいにして堂々と歩きながら話を始めた。
「なあ。事件はいつ起こるのかはわからないんだから、今日は恐ろしく退屈な一日になるんじゃないかい?極端なことを言えば、おれたちはこれから見張っていても犯行が行われるのは夜かもしれないだろう?」ビャクブはヤツデに対して最もなことを言った。チコリーはその話に耳を澄ませている。
「ビャクブは心配しなくていいよ。ぼくは二冊の文庫本を持ってきているから、ぼくたちは近くでベンチでも見つけて二人で読んで気長に待っていようよ」ヤツデは気楽である。ヤツデはビャクブの不平不満もなんのそのである。文庫本とは小型で携帯して読むのに便利な廉価本のことである。
一方の単行本は大抵がハード・カバーになっていて基本的にこの単行本が出版されたあとである程度の時期を経て文庫本になるのである。ビャクブは予告殺人よりも自分のことに頭を使っている。
「おれはあんまり本を読まないんだけど、まあ、なにもないよりはましか。それに、おれも久しぶりに小説で活字を目にするのもいいかもしれないな」とりあえず、ビャクブは曖昧な感じで納得をした。
ビャクブの計画性のなさはいつものことである。よっぽどのことはでない限り、ビャクブは行き当たりばったりで物事に対処するという癖があるのである。ビャクブは面倒くさがりなのである。
「ぼくはさっきも言ったとおりに案内が終わったら、チコリーはもちろんシロガラシさんのお家に帰っていていいんだよ」ヤツデは言った。ヤツデにとってはきめの細やかな配慮ができるのはいつものことである。チコリーは子供ながらにヤツデのやさしさを十二分に理解をしている。
「うん。わかった。ヤツデさんは気を使ってくれてありがとう。おじいちゃんのお家からはコニャック公園で会ったツバキさんのお家の方が近いんだよ」チコリーは言った。
「そう言えば、そのツバキさんのお家は歩いてどのぐらいなんだい?」ビャクブは聞き返した。
「ええと、ツバキさんのお家までは20分くらいだよ」チコリーは答えた。
「もう一人のナズナさんっていう人のお家まではどのくらいかかるんだい?」ビャクブは聞いた。
「ツバキさんのお家からはさらに20分くらい行ったところだよ」チコリーは再び答えた。
「え?ナズナさんの家まではそんなにもかかるのかい?それじゃあ、往復では一時間と20分もかかるじゃないか。おれは足が棒になっちゃうよ。おれたちはやっぱり予告殺人の見張りなんて止めにしないかい?」ビャクブはヤツデに対して泣きを入れた。ビャクブは意外と根性がないのである。
「ビャクブは元気を出してよ。たまにはウォーキングも悪くないよ。それに、これはちょっと不謹慎に聞こえちゃうかもしれないけど、予告殺人の対象者はツバキさんか、もしくはアカネさんのどちらかなのかもしれないよ。まあ、ビャクブには無理にとは言わないから、そうでなければ、ぼくは一人で行くことにするよ。だから、ビャクブはいつでも辞退してくれてもいいからね。チコリーは時間のかかることを見越して自転車を持ってきたんだよね?ぼくは目的地に着いたら『親切スタンプ』を押させてもらうよ」ヤツデはやさしく言った。ヤツデのやさしさはきちんとチコリーにも伝わった。
「うん。わかった。それにしても、犯人は予告殺人なんて本当にやるつもりなのかなあ?」チコリーは聞いた。チコリーにとっては未だに信じられないような事態なのである。
「それは難しい問題だね。でも、警察からはこれだけ警戒をされていても、頭のいい人なら、犯行はやるかもしれないね。まあ、犯行予告は悪戯の可能性も高いだろうけど」ヤツデは不偏不党の立場を決め込むことにした。現在のヤツデはあらゆる可能性を視野に入れているのである。
「でも、犯行は逆に頭の悪すぎる人もやるんじゃないのかい?」ビャクブは聞いた。
「そうかな?」ヤツデは曖昧に答えた。ヤツデはそして再びビャクブに対して『もしも、嫌だったら、ビャクブは帰ってもいい』という旨の言葉をやさしい口調で投げかけた。
ビャクブはそれを受けると真剣に悩んだ。しかし、ビャクブは少し不憫そうにしていたが、結局は自分もヤツデに付き合うことにした。ビャクブは久しぶりに本を読んでみたくなったし、殺人予告に関しては自分もなにかの役に立てればいいなと思ったのである。また、ビャクブは『ヤツデの面倒を見るのは自分の仕事だ』と思っているのである。なぜなら、ヤツデの性格は子供っぽいからである。
ヤツデとビャクブとチコリーの三人はそんなこんなでシロガラシの家を出てから約20分が過ぎるとツバキの家の近くまでやってきた。チコリーは身を固くしているが、その必要は別になかった。
「なーんだ。警察はいないじゃないか」ビャクブは緊張が解れた様子で言った。ヤツデは異を唱えた。
「安心はしていられないよ。予告殺人の対象者はツバキさんでもアカネさんでもなければ必然的にナズナさんっていう人が対象者になるんだからね。ビャクブはここで引き返すことにする?」
「いや。おれはもちろんまだ付き合うよ。ん?ツバキさんの家からは誰か出てきたみたいだな」ビャクブは訝しげな声を上げた。ビャクブの言うとおり、一人の女性はツバキの家の玄関から血相を変えて飛び出してきた。ビャクブはやがてその女性を凝視すると次のようにして指摘をした。
「ああ。あの人はアトランタ動物園で会ったヤツデと気の合う女性じゃないかい?」
ヤツデとチコリーの二人はそれを受けると同時に肯定をした。アカネはやはり未だに落ち着きのない様子でツバキの家の門にいる。ヤツデはやがてアカネの傍まで行くと聞いた。
「あなたはそんなに慌てた様子でどうかされたのですか?ツバキさんのお宅ではもしかしてなにかあったのですか?」ヤツデはアカネの顔色を見て嫌な予感を抱いている。チコリーは平然としている。
「死んでいるの」アカネは切羽詰まったような表情で言った。
「え?死んでいる?なにが死んでいるんですか?一体」ビャクブは間が抜けたようにして聞き返した。
「人よ。自宅ではツバキさんが死んでいたの」アカネはもどかしげにして答えた。ヤツデはビャクブが『なんだって?』と言い終わる前にツバキの家の中へ向かって駆け出して行った。ツバキはまだ助かる可能性もあるかもしれないとヤツデは思ったのである。ビャクブはヤツデのあとを追った。
しかし、自分の後ろにはなんとチコリーまでついてきていることに気づくと死体を見せる訳にはいかないので、ビャクブは慌てた。チコリーはすごい心力の持ち主だなと同時にビャクブは思った。
「ええと、おれたちはすぐに帰ってくるから、とりあえず、チコリーは外で待っていてくれるかい?」ビャクブは大人として当然の言動を取った。アカネはその隣で顔面蒼白になっている。
「うん。わかった」チコリーは素直に指示に従った。チコリーの性格は無邪気かつ好奇心旺盛なので、チコリーはなんにでも首をつっこんでしまう性質なのだが、今回ばかりは出過ぎたまねをしてしまったなと羞恥心を抱いている。という訳なので、チコリーは外でアカネと二人きりになった。
ビャクブは家の中へと入って部屋を順ぐりに見ていくと果たして二階へと続く階段の手すりではバス・タオルによって首を吊ったツバキの死体を見つけることができた。そばにはクリスマス・ツリーのようなハンガーのポールが立っている。また、階段の下の床には一つの鍵が落ちている。
一応はツバキの脈を取ったが、ビャクブはツバキがすでに事切れていることを確かめるだけだった。それは当然のことながらヤツデも確認ずみである。それにしても、知り合いが亡くなるなんて体験は22歳の時の祖母以来なので、ビャクブは茫然自失になってしまった。ビャクブには繊細なところがあるという訳である。それよりも、ヤツデの姿は見当たらないので、多少は人の家を勝手に歩き回るのは失礼には思ったものの、ビャクブは他の部屋を見に行くことにした。そこにはするとヤツデの姿が認められた。
「ヤツデはそんなところでなにをしているんだい?」ビャクブは聞いた。
「ビャクブはちょっと待っていてね」ヤツデはそう言うと駆け足で二階へと上がって行ってしまった。
「どうしたんだよ?一体」ビャクブはそう言って念のために自分もヤツデを追いかけて行った。
ヤツデはやがて全ての部屋を見て回ると一階へと戻ってきた。結局はなにもしていないビャクブも一緒になって階段を降りて来ている。ヤツデはようやく落ち着きを取り戻した。
「ぼくは鍵の状態を確かめていたんだよ。とりあえず、これ以上はなにも触らないようにして家を出ようね。警察の人からは叱られちゃうからね」ヤツデはそう言うとビャクブと共にツバキの家を出た。
ヤツデの気はとても弱い。そのため、もしも、ツバキの遺体は流血をしていれば、ヤツデは気分を悪くしていたが、ツバキは絞殺されていたので、精神的なショックはともかく気分に関しては大丈夫だったのである。ビャクブの方はちなみにツバキの遺体を見ても悲しく思っただけだった。
「警察と救急にはもう連絡をされましたか?」ヤツデはアカネに対して聞いた。
「ええ。警察と救急にはこの子に言われてさっきスマホで連絡したわ」アカネは答えた。『この子』とはもちろんチコリーのことである。アカネは家の外でチコリーと一緒に立ち往生していたのである。アカネの神経は太くできている。それでも、アカネはかなりの衝撃を受けている。
もっとも、アカネはパニックに陥ったからではなくて間が抜けているから、警察と消防はチコリーに言われるまで呼ぶべきだという発想が出てこなかったのである。
「警察はこれから来てくれるのなら、ぼくも一緒に死体発見時の話をさせてもらいますが、あなたはこの家に入ろうとされていました。つまり、あなたはツバキさんと一緒に暮らしているというアカネさんですね?」ヤツデは聞いた。とりあえず、ヤツデは警察が来るまで情報収集をさせてもらうことにしたのである。チコリーはこの緊急時代にも小学生にしては落ち着いている方である。
「ええ。私はアカネよ」アカネは首肯をした。チコリーはコニャック村の村民と懇意にしているが、アカネとだけは唯一今までは接点がなかったのである。ビャクブは聞き手に回っている。
「それではこの家に入る時に鍵は閉まっていましたか?」ヤツデは問いかけた。
「ええ。私はチャイムを鳴らしたんだけど、返事はないから、ツバキさんは出かけているのかと思って私が自分で鍵を開けたの。私はそこで異変に気づくべきだったかもね」アカネは後悔をしている。
「まあ、普通は普段からそんなことは考えもしないものですよ。ツバキさんの遺体の横の床には鍵が落っこちていましたが、あれはツバキさんの家の鍵ですか?」ヤツデは質問を続けた。
「ええ。キー・ホルダーはツバキさんの持っている家の鍵と同じだったしね」アカネは答えた。
「それでは他に家の鍵を持っている人は何人いらっしゃいますか?」ヤツデは訊ねた。
「一人よ」アカネは片言隻語で答えた。つまり、それはヨモギのことである。
「わかりました。ツバキさんの家の中は一階も二階も全てのドアと窓の鍵が閉まっていました。ぼくはざっと見たところでは家の中に隠れている人も見当たりませんでした。つまり、ツバキさんは鍵を持っているもう一人の方が凶行に及んでなかった場合は完全な密室の中でたった一人で亡くなっていたということになります。ということはこれがなにを意味するかはわかりますよね?」ヤツデは聞いた。
「ツバキさんは一人で密かに首を吊って自殺をしていたっていうこと?」アカネは確認をした。
「ぼくは現場を見た限りではその可能性が高いと思います。アカネさんには動機になにかのお心当たりはありますか?」ヤツデは聞いた。ビャクブとチコリーは当然のことながらこの話に驚いている。
「いいえ。心当たりはないわ。私にはアスナロくんともあんなに楽しげに毎日を過ごしていたツバキさんが自殺するなんて考えられない。ツバキさんはお気に入りのタイマーが壊れて悩んでいたのかしら?」相変わらず、アカネは不可解なことを口にしている。アカネは妙な性格をしているのである。ヤツデはとにかくそれについて聞こうとした。しかしながら、ビャクブはその前に口を開いた。
「そう言えば、アスナロくんはどうしたんだろう?アスナロくんはどこにいるんですか?」
「今は学校にいるはずよ」アカネは答えた。今は大抵の小学校が秋休みだが、アスナロの通っている小学校は私立だから、学校は今日もあるのである。もっとも、休日は週一でその学校にもある。
「アカネさんとツバキさんはどういうご関係なのですか?アカネさんはツバキさんのことを『さん』づけで呼ぶっていうことは姉妹ではないですよね?」ヤツデは気になることを聞いた。
「ええ。ツバキさんの旦那さんはヨモギさんっていうんだけど、私はヨモギさんのいとこなの」
「そうだったのか。つまり、ソテツさんのお兄さんはツバキさんの旦那さんだったのか」ビャクブは得心をした。実はこれに関して言えば、チコリーは初耳ではないのである。
アカネから見れば、ツバキはいとこの妻という訳である。それから、アカネは通っている大学がコニャック村からだと近いので、現在はヨモギの家に下宿をさせてもらっているのである。
「それでは形式的にお訊ねさせてもらいますが、アカネさんにはヨモギさんがツバキさんを殺害する動機になにかお心当たりはありますか?」ヤツデはダメで元々で聞いた。アカネは即答をした。
「ええ。そんなことはナンセンスよ。それよりも、あなたはさっきからアスナロくんやヨモギさんのことを知っているみたいな口振りだったけど、あなたたちは何者なの?あなたたちはこのコニャック村の住民ではないわよね?」アカネはようやくこの質問をした。この質問は遅すぎるくらいである。
「ああ。どうもすみません。申し遅れました。ぼくはヤツデです。こっちはビャクブです。ぼくらはポンメルン県でチコリーとシロガラシさんとミツバさんとお知り合いになって今はその三人にコニャック村に招待させてもらっているんです。ぼくたちはアスナロくんとはコニャック公園で知り合ってヨモギさんとは弟さんのソテツさんの家でそれぞれお近づきになっていたんです。ぼくは引き続いてもう少しだけお話を聞かせて下さいすか?」ヤツデは申し出た。しかし、これはまたダメで元々で聞いたのである。
「ええ。私は別にいいわよ」アカネはトイワホー国の国民らしく快く受け入れた。
「ありがとうございます。どちらからか、アカネさんは帰宅されたところだったのですか?」
「ええ。そうよ。私は図書館で勉強しようと思っていたんだけど、実は勉強道具の一切合切を家に忘れてきてしまったことに気がついて引き返してきたところだったの」アカネは答えた。
「それはお家を出てからどのくらい経ってからのことですか?」ヤツデは重ねて聞いた。
「そうね。時間は図書館に到着してからだから、おそらくは一時間くらい経ってからだったかしら?」
「なるほど。アカネさんはそれでまた一時間をかけて家に帰ってきた訳ですね。うん。うん。ぼくにはよくわかります。そういうことはよくありますよね」ヤツデは納得をしたようだ。ヤツデはアカネに負けないくらいの妙な性格をしているのである。そのため、ビャクブはつっこみを入れた。
「いやいや。おれはそんなことってそうそうないと思うけどな。ヤツデはやっぱりアカネさんと意気投合しすぎだよ」ビャクブは言った。ビャクブは言うまでもなくごく普通の性格をしているのである。ヤツデはビャクブの反論もどこ吹く風である。ヤツデはきっぱりと話を先に進めることにした。
「そうかな?まあ、それはどうでもいいけど、アカネさんは今から二時間前に家を出たということですので、アカネさんが最後にツバキさんを見たのは8時頃ということになりますね。アカネさんはヨモギさんとアスナロくんよりもあとに家を出ましたか?それとも、アカネさんはヨモギさんとアスナロくんよりも前に自宅を出ましたか?」ヤツデは聞いた。チコリーは話が込み入ってきて退屈そうにしている。
「私は最後に家を出たわ。大抵はそうだし、それは今日も同じだった」アカネは断言をした。
「となると、ツバキさんの死亡推定時刻はおそらく今日の午前8時から10時までの間ということになりますね。あれ?というか、ごめんね。チコリーはもうシロガラシさんのお家に戻っていてもよかったんだよね?ぼくの質問を聞いていても、チコリーはつまらなかったよね?ぼくとビャクブはアカネさんと一緒に警察が来るのを待って事情を説明してから帰るからね。そうそう。『親切スタンプ』はちゃんと押させてもらうよ」ヤツデはそう言うとチコリーのカードにスタンプを押した。
チコリーは少しだけうれしげである。ちなみに『親切スタンプ』とはトイワホー国の政策の一つであって親切にしてくれた人に対して親切にしてもらった人が押すスタンプのことである。
そのスタンプは10個ばかりたまると、トイワホー国からはそのシーズンの景品がもらえるという訳である。今なら、トイワホー国の国民は写真立てや防虫剤といったものを貰えるのである。
警察はチコリーが自転車でシロガラシの家に帰ってしまってからしばらくすると到着した。ヤツデとビャクブの二人は死体の第二と第三の発見者として少しばかり警察に対して事情を説明することになった。
ヤツデは野次馬として予告殺人の犯人を見ようとしていたら、自分たちはアカネと遭遇したという事実について偽ることなく話したが、トイワホー国の警察はやはりそのことをバカにはしなかった。