EP73 するべきこと
――地球 ハトヤの事務所
DtEOでの会議を終え、俺は自分の事務所へと戻ってきていた。
時刻はすでに深夜を過ぎていた。時計の針は、午前0時を静かに指している。
「ただいま、ネフィラ」
ドアを開けると、ソファで待っていたネフィラが立ち上がり、慌てた様子でこちらに駆け寄ってくる。
「おかえり、ハトヤ……。これ、ポストに入ってたの」
そう言って差し出されたのは、長形三号の封筒サイズ――真っ黒なハードケースだった。
手のひらに収まる小ささだが、その表面は艶消しの黒で、不思議なほど光を吸い込んでいた。
「これは……!」
見た瞬間、息を呑む。
それは間違いなく――瀬日田社長が話していた“あの箱”だった。
「わたしが触っても何も起こらなかった。でも……ハトヤなら、きっと何かが」
ネフィラが不安そうに俺を見上げる。
俺はゆっくりと手を伸ばし、彼女の手からその黒い箱を受け取った。
触れた瞬間、ぴたりと時が止まったかのような錯覚に陥る。
そして――
箱の表面に、淡い白光で文字が浮かび上がった。
《ヒデンスターノヴァ案内人として、前任者 瀬日田より貴方が指名されました》
《この箱を開けることで、任を承諾したと見なされます。途中で降りることは許されません》
《覚悟がない場合、この箱はポストに戻してください》
俺は――一度も迷わなかった。
静かに、しかしはっきりとした動作で、箱の留め具を外した。
「……開けるよ」
ハードケースを開けた、その瞬間だった。
――カシュン。
鈍い金属音を立てながら、黒いケースはまるで意思を持っているかのように変形を始めた。
変形したそれは輪のような形になり、俺の首と両腕へと一瞬で装着された。
「……聞いてた通りだな」
驚きはあるが、ある程度覚悟していたことだ。
しかし、次の展開は想定外だった。
《対象者から天力を感知。案内人から先導者へ変更》
静かに現れたメッセージとともに、装着された輪が液状に変化する。
見る間に溶けるように形を失い――そのまま、右目に滑り込むように吸い込まれていった。
「……ッ!」
あまりのことに、声が漏れた。
だが感覚としては――水で目を洗われたような、そんな不思議な感じだった。
わずかに沁みる程度の痛みはあったが、耐えられないほどではない。
「は、ハトヤ!? 大丈夫……!?」
ネフィラが目の前に駆け寄ってくる。
「ああ……痛みはない。けど、右目……何か変になってるか?」
「えっと、え……瞳の中に、光ってる線……。立方体の形で……ゆらゆら動いてる……!」
その言葉に、俺はすぐそばの姿見を手に取り、自分の顔を映してみた。
――本当だ。右目の瞳に、淡く光るキューブが浮かんでいる。
その時だった。視界にメッセージが表示される。
《地球壊滅まで:あと335日23時間32分》
《それまでに移住計画を遂行し、“統合”に備えよ》
「ネフィラ、このメッセージ……見えてるか?」
俺がそう尋ねると、ネフィラはゆっくりと首を横に振った。
「やっぱり……俺にしか見えないんだな」
“統合”――まだその意味を深く理解できているわけじゃない。
だが、その疑問に応えるように、視界が再び情報を映し出した。
《先導者のため、一定の相互やり取りが許可されています。統合について回答を開始します。》
《統合とは、地球とヒデンスターノヴァの行き来を断絶する際に、肉体と記憶を完全に一本化する処理です》
《現状は、ヒデンスターノヴァ内での行動情報は“中間記憶帯域”に保管され、一部が地球に反映されていますが、統合後は全情報をヒデンスターノヴァ側に固定し、地球と同様の身体感覚・機能を持つ形で再構築されます》
《ヒデンスターノヴァでのステータスは維持され、生理現象、痛覚、快楽、感情の強度なども現実とほぼ同水準になります》
「つまり……リンカと同じ状態になる、ってことか」
納得のいく説明だった。あのときリンカが見せた圧倒的な実在感――
あれは既に“統合”を済ませた存在だったというわけか。
《なお、ヒデンスターノヴァに一度も入場せず、地球上で命を落とした者も、統合された状態で転送されます》
《但し入場ボタンが機能している間に限ります》
……不思議と、焦燥や不安はなかった。
謎のピースがひとつずつ埋まっていくことで、頭の中が整理されていく。
「次のフィルホワイトデーの日、地球がなくなる……それが真実だと仮定するなら、俺がやるべきことは決まってる」
“レベル10の先”へ進むこと。
そのためには――
「まずは、キューイに会わなきゃな。統合までにもっと強くならないと」
あの時、偶発的に発動した“カオスアビス”――あの力をもう一度使えたら。
けれど、あれっきり再現することができていない。
その謎も含め、今は準備を整えるしかない。
「ネフィラ。俺はこれからレベル10の先へ行く準備を始める。君も来てくれると嬉しいが……無理をするな。あまりにも異常な状況だから……」
俺の言葉に、ネフィラはほんの一瞬、目を伏せた。
だが――すぐにまっすぐな瞳でこちらを見つめ、力強く言った。
「事態をぜんぜん呑み込めてない……でも、わたしはハトヤについていくって決めた。一緒に行く」
「……ありがとう」
気持ちが、少しだけ軽くなった気がした。
「まずはキューイを探そう。この真相を伝えたい。彼女なら、受け止めてくれるはずだ」
ネフィラは不安そうな表情を浮かべながらも、小さくうなずいた。
「よし、行こう」
そして、俺たちは――再び、ヒデンスターノヴァへと入場した。
第四章 真実 ~完~




