EP62 ネフィラの覚悟
わたしの家は――父、母、妹、そして姉であるわたしの4人家族だった。
父は小さな会社を経営し、母はその手伝いをしていた。
ただ、家族と言っても……わたしはその輪の外だった。
物心ついた時から、両親の目は妹にしか向いていない。
わたしの存在は、そこにいてもいないような――ただの空気だった。
……でも、それでもよかった。あの頃は、まだ。
地獄の始まりは、妹の中学受験が始まる頃だった。
父の会社が急激に傾いた。
家計が火の車になると、わたしは高校を辞めさせられ、当然のように働くことを命じられた。
「妹の学費のためだ」
「家族のために頑張れ」
そう言われ、寝る暇もなく家業を手伝い、営業や配送バイトに駆り出され、汗だくで帰っても、出迎える家族の声はなかった。
まるで、使い潰すための駒のように。
――そして、あの日が来た。
「大口の案件を取ってきた」
そう父が言った。
「お前が直接営業先に行け。それが契約条件だ」
言われるまま、スーツを着て現地へ向かった。
だが、そこにいたのは――社長と呼ばれる、見知らぬ中年男。
そして、その部屋には……ダブルベッドが一つ、置かれていた。
「君の父から聞いたよ。初めてなんだろう?」
――その一言で、すべてを理解した。
この瞬間のことは、一生忘れない。
背中が凍りつき、吐き気と怒りと恐怖が一気に噴き上がった。
わたしはその男を突き飛ばし、逃げ帰った。
これまでで一番、身長が高くてよかったと思った瞬間だった。
だが――帰宅してからが、本当の地獄だった。
「お前、何をやってきた!? 台無しにしやがって!」
「ふざけるな……契約が飛んだらどうなるか分かってるのか!」
怒声とともに、父と母の拳がわたしの顔に降り注いだ。
頬の皮膚が裂ける音がした。
目の焦点が合わなくなるほど、殴られた。
その日から、“空気”だったわたしは、“奴隷”になった。
無視される日々は終わり、代わりに、命令と暴力と侮蔑の言葉で構成された日々が始まった。
何もかもが嫌になり、
「死ねたら楽になるかも」と、思うこともあった。
そんな時――フィルホワイトデーがやってきた。
それから、わたしはこの世界、ヒデンスター・ノヴァで生きてきた。
地球に戻ることは、一度もなかった。
いや、戻れなかった。
……そして今日。
何年ぶりか……長い時間を経て――
わたしは地球へと帰還した。
「……ケホッ……!」
埃っぽい空気が、肺の奥まで染み込んでくる。
帰ってきたのは――二階の、自分の部屋。
だけどそこはもう、かつてのわたしの場所ではなかった。
引き倒された本棚。ひしゃげたハンガーラック。
壁に叩きつけられたような、ひび割れた姿見。
まるで、泥棒でも入ったかのような惨状だった。
(……いいや、違う。これは――)
わたしが、「家を出て行ったこと」への怒りをぶつけられた結果。
そう、わたしへの憎悪が、物に向いただけの光景。
(……もういい。誰にも会いたくない)
そう思って、何も持たずに――パジャマのまま、ドアを開けて階段を下りた。
……だけど。
その希望は、あっけなく打ち砕かれる。
居間にいたのは――父、母、そして妹。
記憶にあった姿よりもずっと老け、疲れきっていた。
けれど、その目だけは変わっていない。
――支配する者の目だ。
「どの面下げて帰ってきたんだ、クズが!」
怒号と共に、コップが飛んできた。
「……っ」
体が、瞬間的に硬直する。
昔と同じ――叩かれ、罵倒されてきた日々が、電流のように蘇る。
「全部、お前が逃げたせいだぞ!」
「すぐに戻って働くか、身体を売るか選べ!」
言葉の刃が、容赦なく突き刺さる。
視界が震え、脚が動かなくなる。
(いやだ……戻りたくない……!)
その瞬間だった。
「ピンポーン」
インターホンの音。
全員の意識が、玄関へと向いた。
モニターに映ったのは――
スーツ姿の鋭い眼光を携えた男。
――ハトヤだ。
「おい、誰だあいつは?」
父が不快そうに尋ねると、母も妹も首を横に振る。
「知らないけど……なんか、カッコよくない……?」
妹はモニターを見ながら無邪気にそう言った。
その一言に、父の眉がわずかに動く。
(……今だ)
震える声を押し殺し、わたしは用意していたセリフを搾り出す。
「……あの人は、融資の話を持ってきてくれた。ヒデンスター・ノヴァで知り合った知人……です」
「……融資?」
父の声色が変わった。母の顔にも欲がにじむ。
「どこの誰だか知らんが、こっちに都合のいい話じゃないか!」
「でも、あの子の知り合いよ? 怪しいわ……」
「構うもんか。金さえ引き出せれば、後はどうとでもなる……!」
父の顔が、久々に笑った。
――狩人のような、餌にありついた獣の笑みだった。
そのまま玄関のドアが開けられる。
わたしの“助け”であり、“破壊者”である彼が、笑顔で招き入れられた。
(……来てくれた。ハトヤ……)
だが彼が握るのは、救いの手ではない。
罰を下すための鍵だ。
すべてを終わらせるために――この家に、やってきたのだ。




