EP57 罠
――ついに来た。
崖を超え、いくつもの歪みを避けながら数時間――
俺たちは、かつて「ゲーム」では踏み込めなかった場所、世界の端へとたどり着いた。
目の前には、果てしなく上空へと伸びる真っ黒の壁がそびえている。
その質感はまるで液体のように柔らかそうでありながら、硬質な存在感を放っていた。
「これが……」
ネフィラがぽつりと呟き、首を反らして壁の頂上を見上げる。
――この壁、ゲームでは「この先へは侵入不可」と表示されていた場所だ。
だが、今は違う。
「ネフィラ、同時に触れよう。ここまで一緒に来た仲間だ。抜け駆けは、したくない」
ネフィラは小さく頷き、俺の手にそっと自分の手を重ねる。
「いくぞ……」
二人で同時に、壁へと手を伸ばした――。
ズブリッ
まるで液体に沈み込むように、俺たちの手首までが壁の中へと吸い込まれた。
次の瞬間、黒い粒子が全身を包み、身体が一瞬動かなくなる。
抜こうとしても、強い力で引き止められ、まるで“何か”に解析されているような感覚。
そして――
「ッ……!」
脳を貫く強烈な衝撃が襲ってきた。
――いや、これは痛みではない。
“記憶が戻ってくる”感覚だ。
断片的だった記憶、空白の時間に感じていた違和感、忘れていた数々の感情――
まるで滝のように、頭の中に流れ込んでくる。
「ハトヤ……文字が浮かんでる」
ネフィラの言葉に我に返り、壁を見る。
そこには、まるで天からのメッセージのように、淡い光の文字が浮かび上がっていた。
【以下の条件を満たしていない為、入場不可】
① 身体の統合が完了していない。
「……身体の統合?」
言葉の意味がまったく分からない。
ネフィラもまた文字を読んでいるようで、少し顔を曇らせていた。
「ネフィラ、お前は?」
「わたしのは……」
① 入場に必須の神器化結晶石を所持していない。
② 身体の統合が完了していない。
③ 熟練度が規定を満たしていない。
「……俺とは、違う内容だな。条件をクリアしないと入れないってことか」
俺はキューブから神器化結晶石を一つ取り出すと、そっとネフィラに手渡す。
「これ……いいの?」
「せっかくだし、二人で入場しよう。……どのみち、すぐには行けないけどな」
「熟練度……わたし、頑張ってみる……」
「そうだな。だが一番の問題は、身体の統合ってなんだよ……」
その時だった。
空間が、“瞬間的に”ねじれた。
「……ネフィラ、危な――」
言葉より先に、ネフィラの目の前に突如出現した歪みが、彼女を包み込むように広がった。
「ハトヤ――っ!」
叫びとともに、ネフィラの身体は空間の裂け目へと吸い込まれた。
「来ないでっ! 逃げて――っ!」
その言葉は、彼女から初めて聞いた“必死の叫び”だった。
だが――
「置いて行けるわけがないだろ……!」
俺は迷わず、ネフィラが吸い込まれた空間の歪みへと飛び込んだ。
「ハトヤ、なんで来たの……!」
ネフィラが叫ぶ。声が震えていた。
「見捨てられる訳ないだろ。大事な仲間だ。」
静かに、でも強くそう告げた。
その一言に、ネフィラの表情が揺れる。
「ハトヤ……」
だが感傷に浸っている暇はない。
「ネフィラ、俺のほうじゃなくて“あいつ”を見ろ。」
ゆっくりと、奴が姿を現す。
それは、獣と機械が不完全に融合したような、悪夢のような存在――
《ダラ=ヴォイドロア》
四脚で、全身を黒金の甲殻に包み、
骨のようなフレームに歯車と蒸気機関が噛み合っている。
背中からは空間のノイズのような靄が吹き出し、
目には理性の欠片も感じられない紅い光が宿っていた。
「こいつは……ゲームで見たことがある。」
俺の脳裏に蘇る情報。
・一定範囲の空間を「虚無」に落とし、スキル・スペルを封印
・空間ごと踏み潰す、回避不能の即死級ダメージ
・戦闘時間が長引くほど形態が変化し、能力が強化される
ここがヒデンスターオンラインそのままだとするなら――
「俺の攻撃は効かない。レベル10の魔物には最低でもレベル9の武器が必要だからだ」
だが、可能性はある。
「攻撃の起点は分かる。俺の《ディスラプションカット》で奴のスキル発動を無効化できる。そして、ネフィラ――お前の《ブラッドヴェイン》なら、固定ダメージとして通る可能性が高い」
ネフィラは驚いたように目を見開いた。
「でも、それはシールドの50%を消費する……。ポーションも限られてて……」
「俺のも全部渡す。そして……」
俺はキューブから全シールドポーションを取り出し、ネフィラに渡した。
そしてもう一つ――
「《クロスオブスティグマ》――あれを俺に使え。俺のシールドを吸収して攻撃に変換するんだ」
「でも……! そんなの……!」
「それが一番生き残れる可能性が高い。頼む……!」
――一瞬の沈黙。
だが、ネフィラの表情が変わった。
恐れが、決意に塗り替えられる。
「……わかった……!」
歯を食いしばり、血の気が引いた顔でも、目だけは強く光っていた。
ゴウン…… ゴウン……
蒸気が吹き出し、鉄が軋むような音が鳴る。
――《ダラ=ヴォイドロア》が動く。
巨体の中心に収束するように、蒸気の渦が集まり、腹部の炉が赤く発光していく。
「さぁ、来るぞ――!」
俺とネフィラは、死地に立つ覚悟を胸に、武器を構えた。




