EP34 ラフリットの準備
「……ふう」
ラフリットは机の上に残された資料を回収しながら、小さく息を吐いた。
──グルメ雑誌と、潤沢な予算。
見せたのはたったそれだけだが、ニナシの興味を引くには十分だった。
ラフリットはグルメ雑誌を手に取る。ページの角がわずかに折れ、指紋の跡も残っている。
しっかりと読まれた証拠だった。
隣に置いてあったのは、ヒデンスター・ノヴァ用の予算資料。
これは"ギルドマスター就任後の祝い事に関する見積もり"という名目で作成したものだった。
──地球側の予算運用には、複数の承認印が必要だ。しかし、ヒデンスター・ノヴァに関してはその限りではない。
バレイがギルドマスターであった頃、彼は現地に深く関わり、現場の判断を最優先に動いていた。
その信頼から、ノヴァ側の予算については「ギルドマスターの裁量」に一任されていたのである。
ニナシがその座を引き継いだことで、本来は見直されるべき制度だった。
しかし──彼が現地に一度も訪れていないことが、逆に幸いした。
「予算は、地球とヒデンスター・ノヴァで完全に切り離されている……ならば」
ラフリットの目が鋭くなる。
「この余っているノヴァ側の予算は、間違いなく奴の私腹を肥やすために使われるだろう。そんな事になる前に決着をつけなければなりませんね」
あとは、就任式のタイミングを“クリーンタイム”に重なるよう調整すればいい。それだけで、ニナシをノヴァに縛りつける罠の完成だった。
──だが。
「……念のために、もう一手、保険を打っておきましょうか」
彼は残された書類の山を素早く片付けると、上着を羽織ってオフィスを後にした。
・・・
・・
・
──夜の街。煌びやかなネオンの明かりが静かに濡れた石畳を照らしている。
ラフリットが足を運んだのは、裏通りにひっそりと佇むラウンジだった。
外観こそ控えめだが、店内に足を踏み入れた瞬間、世界は一変する。
──深紅と金を基調とした絨毯。
柔らかな間接照明に包まれた空間には、調和の取れたジャズが流れ、グラスを交わす音が静かに混じっていた。
テーブルは黒檀で統一され、壁には控えめに装飾された美術品。
空間全体に「選ばれた者だけの社交場」としての気品が漂っている。
店員に案内され、ラフリットは奥の半個室席に腰を下ろした。
──数分後。
現れたのは、銀色を基調としたドレスに身を包んだ女性だった。
長い髪を優雅に流し、磨き抜かれた笑顔と気品を併せ持つその姿は、場の空気を一瞬で変える。
「ジュリアさん。お忙しい中、時間を作っていただき感謝します」
ラフリットが頭を下げると、ジュリアは柔らかく笑い、隣に腰掛けた。
「……お久しぶりね、ラフリット。あなたが来るときって、大体ロクな話じゃないんだけど?」
「はは……その予感、少しは当たってるかもしれません」
「まったく……。でも、話は明日じゃなくて“今夜”聞くわ。だから、今日はしっかりジュリアに貢献して帰ってもらうからね?」
「もちろんです。ただ……明日も仕事なので、どうかお手柔らかに」
「ふふ。いいわよ。楽しい夜にしましょう」
グラスが軽く触れ合い、店内のジャズが一層甘く響いた。
──結局、ラフリットはその夜、ジュリアと語らいながら数本のボトルを空け、夜が白むまで飲み明かした。
そして翌朝、仮眠もとらず、そのまま次の準備へと向かうのだった。
──数日後、
ラフリットとジュリアは、ヒデンスター・ノヴァのレベル0、草原エリアにあるひと気のない古びた小屋の前で再会した。
空は曇天。風が吹き抜けるたび、草の穂が一斉にささやき合う。
魔物も、人影もない。まるでこの世界に、二人だけが存在しているかのような静寂が広がっていた。
「先日はどうもありがとう。オーナーもすごく喜んでいたわ」
ジュリアは風に揺れる銀の髪を払いながら、変わらぬ優雅な笑みを浮かべる。
「それはよかったです。どうぞお掛けください」
ラフリットが木製の簡素なベンチを指すと、ジュリアはためらいもなく腰を下ろした。
「さて──今回はどんなお願いなの?」
彼女の声にはわずかに警戒が混じる。前回の“お願い”が、どれほど面倒だったかを思い出しているのだろう。
「単刀直入に言います。具体的な日時は後日連絡しますが、約三週間後の深夜一時、ニナシと会う約束をしていただきたいんです」
その言葉を聞いた瞬間、ジュリアの表情が一変した。
「……ニナシって、うちを出禁にした最低客じゃない!」
吐き捨てるように言ったその声音には、怒気すら感じられた。
「名前を聞いただけで鳥肌が立ったわ。あいつ、金払いはいいけど店ではセクハラ、モラハラ……“○○ハラ”って名のつくものは全部やってたと思うわ。オーナーが出禁にしてくれてやっと平和になったのに!」
「……ええ。存じております」
ラフリットは冷静なまま、少し頭を下げた。
「ですが、ニナシは今でもジュリアさんにご心酔で……。こんなことを頼めるのは、あなただけなんです」
「ごめんなさい。会うのは本当に無理」
即答だった。
「……わかりました。では“会う約束だけ”、お願いできませんか? 実際には会わなくて構いませんので」
ジュリアはじっとラフリットの顔を見つめた。その視線は鋭く、洞察に満ちていた。
「ふーん……てっきり、ニナシに頼まれてあなたがお願いしてきたんだと思ってたけど……違う感じね?」
「はい。この件について、ニナシ本人は一切知りません」
数秒の沈黙。やがて、ジュリアは大きくため息をついた。
「……わかったわ。詳しいことは聞かずに協力してあげる」
「本当ですか……!助かります。できる限り、ジュリアさんが会わずに済むように調整しますので──」
「その必要はないわ」
ジュリアは微笑を浮かべながら言った。
「“会う”って約束する以上、ちゃんと会う。これでもプロだからね」
その言葉に、ラフリットは感動したようにうなずいた。
「……ありがとうございます」
「ただし──」
ジュリアはその場で小さなバッグを開き、1枚の写真を取り出した。
「今回の報酬は“お金”じゃなくて、“お願い”を一つ聞いてもらう形で」
「……ええ。私にできることならなんでも」
写真には、一人の若い男が写っていた。やや猫背で冴えない雰囲気のその男は、ラフリットの記憶にもない顔だった。
「名前は、沼尾原。店の金を盗んで逃げたのよ。逃げ込んだ先は……ヒデンスター・ノヴァ」
「……なるほど」
「転送先のエリアも把握済み。そこにはもう頑丈な檻を設置してあるわ。なのに、肝心の本人が捕まらない」
ラフリットは無言で頷いた。
「何人か従業員も送り込んだけど、どうやらヒデンスター・ノヴァじゃそれなりに強いみたいなのよね」
ジュリアの表情が憤りに染まる。
「店では陰気でうじうじしてたくせに、ここに来たらイキイキしてるとか……ほんっとムカつくわ」
「……つまり、この男をヒデンスター・ノヴァから退場させれば、ニナシとの件を引き受けていただけるんですね?」
「もちろん。絶対に約束する。たとえ相手が海外にいたって、呼び出してみせるわ」
ラフリットはわずかに目を閉じ、数秒後に手を差し出した。
「……わかりました。どうぞ、お願いします」
しかし、ジュリアはその手を取らなかった。
「頼んでみたはいいけど……あなた、倒せるの? 正直、強そうには見えないけど?」
ラフリットは苦笑する。
「安心してください。必ず倒してくれる人物を知っています」
「ふーん。……信用できないわね。その人、私にも会わせなさい」
ラフリットはしばし考えた後、静かに頷いた。
「……わかりました。では明日、同じ時間にここでお会いしましょう」
「ええ」
ようやく、ジュリアはラフリットの手を取り、握手を交わした。
──静寂の草原に、握手の音が小さく響いた。




