愛を選んだのなら
アルテシア王国、国王の執務室にて、国王ラウムは顔を真っ青に染めていた。
頼み込んでどうにか、アドモンテ公爵の許しを得て、末娘のグレイシアを一人息子の王子レクサスに迎えたのに、あろうことか息子自身がその関わりを断ってしまったのだ。
「何故、こんなに馬鹿に育ったのだ!婚約解消をするなんて!」
温厚な父ラウムに怒鳴られて、レクサスは首を竦めて、頭を下げた。
だが、母セレナは、ぽつりと言ったのだ。
「貴方とそっくりですわね」
「へ?」
息子を怒鳴っていたラウムが間抜けな声で、傍らのセレナを呆然と見る。
だが、セレナは迷うことなく、冷たい顔で言い放つ。
「貴方とそっくりの子供ですよ」
それを聞いたラウムは、みるみると口が開き、顔色が悪くなっていく。
二人の間に何があったかは分からない。
でもレクサスは顔色を失くす父を見て、何かがあった事は分かって、二人の間で視線を彷徨わす。
セレナはとどめを刺すように、冷たい目をレクサスにも向けた。
「恋に目が眩んで婚約解消をする親子なんて、血は争えませんわね。わたくしも頑張ったのですけれど、血には勝てませんでしたわ」
ああ。
そうか。
そうなのか。
父親もかつて同じ轍を踏んだのだと分かって、レクサスは何も言えなくなった。
ラウムも、ただ茫然と涙を流し始める。
そんな二人を置いて、冷たい視線をゆっくりと外すと、セレナは執務室を後にした。
「父上……父上」
「………ううっ、……う……」
傍らに立っている侍従の目も冷たい。
レクサスは、父の侍従に遠慮がちに声をかけた。
「父上を、部屋にお連れしてくれ」
「畏まりました。陛下、泣きたいのは王妃様の方ですよ」
容赦なく言われて、支えられながらラウムは執務室を後にする。
何があったのかは分からないが、自分のしでかした事で決定的に楔を打ち込んでしまった事はさすがのレクサスも分かった。
だが、グレイシアはもう、戻ってこない。
それでももう、グレイシアの支えなしにはカリンは正妃になどなれないだろう。
王妃としての教育どころか、淑女としての教育すらままならないのだから。
ならば、新しく優秀な正妃を見つけねばならない。
……グレイシアは何と言っていた……?
フィラント家のサーシャ……だが、兄であり側近でもあるユーグレアスは怒っていた。
だがしかし、王族へ迎えられるのなら、正妃ならば問題ないだろう。
同席していたユーグレアスはもう帰途に就いている筈だ。
レクサスは、公爵に充てて、早馬で手紙を届けさせた。
翌日。
正式に公爵から返事をもらう前に、ユーグレアスが話をしたいと言ってくる。
「サーシャを王妃に差し出す訳には参りません」
「何故だ。正妃なのだぞ?」
「側妃がいる正妃になど誰がなりたがりましょうか。ですが、もう少し身分の低い家柄の娘ならば喜んでその座に納まるでしょう。私が探しておきます」
断固として譲らない様子のユーグレアスに、レクサスは注文を付ける。
「優秀な者でないと困る」
「存じておりますとも」
フン、と鼻を鳴らして横柄に椅子に反り返る様子をユーグレアスは冷たい目で見てから、部屋を出て行った。
レクサスも今までのようにのんびりと執務をする時間も、カリンに割く時間もない。
学園では生徒会の仕事が、城では執務や公務が待っている。
今までグレイシアが負担していたのは、王子であるレクサスの補佐の仕事なので、その分の仕事が山と積み上がった。
内容を確認しても、到底カリンが出来るような仕事ではない。
側近達に仕事を割り振って、必死に執務を熟しているとあっという間に夜が来る。
カリンの教育係に進捗の報告を受けるが、淑女教育だけで手いっぱいで執務などとんでもない、と否定された。
それに、と忠告をされる。
新しい正妃候補が来たとて、かつて王子妃教育を受けたサーシャやアイリーンならいざ知らず、普通の貴族令嬢ならばやはりまずは、淑女教育の確認からとなるので、すぐに補佐には上がれない、という事だった。
仕事の疲れだけでなく、重責に身体が重くなる。
穏やかな笑みを湛えて、ずっと控えめに微笑んでいたグレイシアが、どれだけの負担を強いられてきたのか。
思い至らなかった自分のせいだと分かっていても、このままでは破綻が目に見えている。
レクサスは恥を忍んで、グレイシアを呼び止めた。
帝国へと伴って行くと言われている令嬢達が、その脇を固めている。
皆一様に冷たい視線を浴びせてきたが、グレイシアだけは優しく瞳を和ませた。
これなら聞き入れてくれるかもしれない。
ほんの少しの間でいいから、仕事を…今までの半分でも良いから引き受けて欲しい、とレクサスは一歩踏み出した。
「シア、君の仕事は多岐に渡っているから、私の側近だけでは片付かないんだよ。だから、手伝って欲しいのだが」
「王子殿下。わたくしは既にハルトムート殿下と婚約している身ですので、名前で呼ぶのはご遠慮くださいませ。愛称など以ての外にございます。……それに、片付かないでは済まされません。わたくしはもう他国へ行くのですから、何とか殿下と側近の方々で対処して頂かないと」
愛称どころか名前で呼ぶ事すら禁じられて、レクサスはズキリと胸が痛んだ。
たとえ、婚約を解消したとしても、長年一緒に居た幼馴染なのに。
あまりに冷たい言葉に、思わずレクサスの言葉が途切れる。
「そんな……グレ……アドモンテ嬢、少しの期間で良いのだ……その、カリンがもう少し仕事を覚えるまで…」
「いえ、わたくしは数日以内には帝国へと赴きますので、お力にはなれませんの」
そんな話は聞いていない!
愕然とした後、怒りに任せてレクサスは問い詰めた。
「卒業まであと半年近くもあるではないか、何故、そんなに急ぐ……!」
「わたくしはそもそも、この学園の卒業課程をとうに終えておりますの。通っていたのは王国の臣民である皆様と交流を図る為でしたから、もう十分用を終えました。それに、帝国で学ばねばならぬ事も数多くありますので、無駄な時間を過ごしてはいられませんの」
無駄な時間、私との時間も、その無駄な時間に入るのか。
何を言われているのかと、レクサスは混乱した。
ずっと、傍に居た筈なのに。
「私と過ごす時間が、無駄だと、いうのか……!」
だが、グレイシアは優しく諭すように、穏やかな言葉を続ける。
「殿下はもうずいぶん前からカリン様と多くのお時間を過ごされてきましたでしょう?これからの人生も、共に過ごされるのはカリン様なのですよ。お間違えなきよう」
確かに、そうだったし、言い逃れは出来ない。
勉強が分からないというカリンに教えたり、何かと時間を割いていた。
だが、グレイシアを蔑ろになどしていなかったし、愛していると言っていたのはグレイシアだ。
「俺を、愛しているのだろう?だったら、困らせないで、此処に残ってくれ……!」
思わず口から出てしまった言葉に、レクサスも少し驚く。
そうだ、本当なら。
グレイシアを正妃にして、カリンを側妃に迎えるのが正解で。
最初にそう言えば、受けたと言っていたじゃないか。
期待を込めた目で見るが、グレイシアはゆるゆると首を横に振ってから答える。
「殿下。わたくしはもうハルトムート様に嫁ぐ身です。貴方を困らせる為に言っているのではありません。殿下がこの先愛を受けるのは、カリン様と正妃様もしくは側妃様です。婚約者のいるわたくしにそのような言葉は……お慎みくださいませ」
決して失うことなど無いと思っていた。
どんな我儘も微笑んで受け止めてくれたグレイシアが、自分の傍を離れるなど。
カリンかグレイシアか選べと言われれば、グレイシアを選んだのに。
「……カリンと別れれば良いのか……?」
「なりません。カリン様のお気持ちをお考えくださいませ。貴方の我儘で伴侶に望まれて、望まぬ立場に心細い思いをしていらっしゃるでしょう。その上、そのお気持ちを踏み躙って、突然お捨てになられては、外聞も今より悪くなります」
「私だけが望んだ訳ではない!カリンもそう望んだのだ……私を愛しているから、傍に居たいと……!」
愛されたから、嬉しくて愛を返した。
でも、そのせいでグレイシアという大事な存在を手放すという覚悟の上でじゃない。
カリンを無理やり妻にしたいと言った事もないし、ただ、そう望まれて……。
だが、その言い訳はグレイシアには届かない。
さすがのグレイシアも目の前でため息を零した。
淑女教育では良くない事だが、ため息は穏やかな否定である。
「でしたら猶更、そのお気持ちを大事になさってあげてくださいませ」
「君はどうなる……私を愛しているというのに、身を引くのか……?」
手放したくない。
愛し合っているのに、少しのすれ違いで壊れてしまうなんて嫌だ。
最初から言っておいてくれれば、正妃になどと言わなかったのに。
それどころか、カリンを遠ざける事も断りはしなかった。
やっぱり戻る、という言葉をレクサスは期待したが、その希望は脆くも崩れる。
グレイシアは穏やかに優しく、決定的な拒絶の言葉を紡いだ。
「既にその話は終えたはずですわ、殿下。わたくしは第二皇子殿下の求愛を受け入れて、帝国へと嫁ぐのです。以前、もう5年にも前になりますけれど、帝国に行った時に再会して見知った仲でございますの。彼とはまたこれから愛を育んで参りますので、どうぞご心配なく」
「……え、………あ……他の、他の男を愛すという事、なのか……」
それはレクサスにとって信じられない言葉だった。
いつも、傍に居て。
ずっと、自分を心配して、優しく支えてくれた。
愛も伝えてくれた女性が、誰か別の男を愛するなんて。
そんなのは嫌だった。
目の前で微笑むグレイシアは、女神のように美しい。
何故、自分がそれを手放したのか、レクサスは意味が分からなかった。
「ええ。だから心配には及びませんわ。殿下は殿下の愛を大事になさいませ、ではご機嫌よう」
「待っ…」
手を差し伸べようとすると、けたたましい呼び声と共に、側近のアルトーの婚約者であるベルティーユがグレイシアの前に走ってきた。
レクサスの存在に気付いていながら、視線も向けずに、グレイシアに熱心に話しかけている。
その声につられて、中庭にいて遠巻きにしていた生徒達も、段々グレイシアの元に集まってきていた。
もう、声をかけても人前で先程の続きを話す勇気はレクサスには無かった。
「ずっと、お慕いしておりました」
思い出すあの言葉は、変らぬ愛の言葉ではないかと思いたかったのに。
もう、それは違うのだと、改めて突き付けられた。
グレイシアは穏やかだが、曲がった事は嫌う。
拒絶された通り、今更カリンを捨てたところで戻っては来ないのだ。
その後も仕事に追われる日々が続き、グレイシアはとうとう帝国へと旅立ってしまった。
追うようにユーグレアスが婚約破棄までして差し出そうとした自らの婚約者アイリーンも帝国へ。
共に、レクサスの妃候補として最上位に居たサーシャもまた。
それ以外にも、駆け落ちをした者、グレイシアの為に文官や補佐として帝国に行く者が出て、一気に王国の婚活市場は冷え込んだのである。
王子のレクサスだけでなく、側近の公爵令息ユーグレアスも、宰相の息子のシドニスも、新しい婚約者を探す事すら困難になってしまった。
このままでは爵位を受け継げない、という令息達も多いし、婚約を解消した令嬢と実弟が婚約を結び直したことで、自動的に廃嫡になった者もいる。
カリンはその逆恨みの元にすらなっていた。
王城に召し上げて部屋を与え、日夜教育漬けとなるが、日々、カリンの顔からは笑顔が消えていく。
だからせめて、婚約だけでもと父のラウムに相談をしたが、母のセレナが冷たく反対した。
「なりません」
その言葉にラウムがぎくりと固まる。
グレイシアとの婚約解消で、暫く寝付いたラウムが国王の仕事を拒否した時に、セレナはそれならば離婚をと申し出たのだ。
ラウムは慌てて仕事に復帰したのである。
それ以来、セレナの顔色を窺って生活していた。
今や、決定権は母にしかない。
「ですが、彼女も努力して…」
「努力など当然の事でしょう?グレイシアは一体幾つからどれだけの努力を重ねて来たのか、お前はまだ分かっていないのね」
レクサスが思い出せるのは、優雅に踊るグレイシア、微笑むグレイシアで、軽々と何でも熟しているように見えていた。
確かに努力はしていただろうけれど、泣きながら勉強するカリンほどだったかと言われれば首を傾げる。
「そうね。お前には分からないのね。今すぐお前を魔獣討伐の前線に送り出すと言ったら、どうするかしら?」
ヒュッとレクサスは息を呑んだ。
剣は得意ではない上に、最近ヘトヘトになるまで執務をしていて剣も握っていない。
「剣だって修練が必要。人によって努力しなければならない量も違うけれど。礼儀作法もダンスも社交も出来ない者が夜会に出られて?」
「いえ、ですから夜会には…」
「婚約者となるのなら、正妃。夜会に出席できるかどうかが問題になるのです。正妃を娶る前に側妃を娶るなどという恥は許されません。でも表に出ない、側妾ならば許しましょう。結婚は出来ないし子供も王籍には入れずに、継承権も持たせないけれど」
それは、妻ではなく愛人にせよという言葉で。
笑顔も元気も消えたカリンに告げられる言葉ではなかった。
「……申し訳ありませんでした。私が焦り過ぎていたようです。カリンの成長を待ちます……」
「他国にもお前の醜聞は広まっているから、王族にも貴族にもお前の正妃になろうという者はいません。けれど、王になるばかりが幸せな道ではないのです。……愛を選んだのなら、責任は果たすように」
見捨てる事は許されない、という厳しい言葉にレクサスは頷いた。
遠回しに、王になる事は無い、と言われたのだ。
一代限りの爵位を貰い、何処かの領地を治め、カリンと暮らす道。
だが、それでもレクサスの種は断たれるだろう。
穏やかに、心安らかに暮らせるのなら、それも悪くない。
華やかな世界に、どうしても居たいかと聞かれれば否だ。
ただ、失ってしまったものの大きさに、時折圧し潰されそうになる。
何より失ってはいけなかったのが、グレイシアだった。
今後有事の際(帝国の政変等)に王位をどうするか、親世代と子世代の優秀な人々で話し合い中です。少なくとも今のところレクサスが王となる可能性はゼロです。有事の際は今の王にも無理……という事は!?
カリンとレクサスが婚姻するのは全てが落ち着いた後に、一代限りの爵位(伯爵が精々)と小さな領地を貰って治める事になりそう。元々の直轄領はグレイシアへの慰謝料になってしまったし、慰謝料になる前からグレイシアの私物になってました(ちゃんと自分で治めないから…)
明日は皆様お待ちかねのレナト君です(待ってないよ!)