エフォルトの森
すぐに次へ向かいたいところだが、無理をしたっていいことはない。元々、竜の谷に着いた時点で、昼をとうに過ぎていたのだ。
そして、湖へ着いた頃には、空はコバルトブルーに染まり始めていた。湖から出た今は、太陽も完全に落ちている。仰げば、満天の星が美しい。
さすがにどちらも、長距離の移動に疲れている。特にジートの疲労を考え、早々に休むことにした。
湖に近い森へ入り、食料と寝床を確保する。そこで一晩を過ごし、出発する前にヴェルは森にいる妖精達に父のことを尋ねた。
この森は母レドリーが話したイアンドの行き先候補には入っていなかったが、もしかしたら……ということもある。
だが、妖精達はイアンドを見ていない、と答えた。やっぱり、と思いつつ、残念という気持ちは強い。
気を取り直し、次の目的地へ向かった。
「ヴェル、次はどこへ向かうの?」
「エフォルトの森。昨夜休んだ森と代わり映えはしない所なんだけど、父さんと仲のいい妖精がいるんだ」
そう話しながら飛ぶヴェル。その彼の背中に乗るジートが見回すと、出発した時とよく似た濃い緑が大地に広がっていた。夜明かしした森はすでに遠く後ろへ消えているので、この緑は別の森の木々だろう。
しかし、ヴェルはあっさりとその上空を通過してしまう。
山を越え、また森らしき緑が目に入る。ヴェルはそれもまた通過してしまった。
「ヴェル、もしかして竜の谷には森がいくつもあるとか?」
「ん? あー、そうだな。いくつあるのかは知らないけど、たくさんあるぞ。広さやそこにいる奴は色々だけどな」
「ヴェルにもわからないくらい、たくさんなんだ……」
ジートにとっての世界は、アンブルーの島だけ。数回、大陸へ行ったことはあるが、狭い地域を少し回った程度。
そんな彼にすれば、広大な森がいくつもある大地なんて、頭が混乱を通り越して爆発しそうだ。
えーと……あ、縮小しよう。ぼく達がうんと小さく……今は虫くらいになって飛んでいて、普段なら地面に生えてる雑草が森。本当はそんなに広くないけど、自分達が小さくなったから何もかもが大きく見えるってことで。雑草が点々と生えているのが、ヴェルの言ういくつもある森。その雑草のどれかに、ヴェルのお父さんがいるかも知れないんだ。
半ば無理矢理な想像で、ジートは今の状況の自分と置き換えて受け入れやすくしようとした。
海も世界もすごく広いんだってことはディオルゼから聞いてたけど、まさかここまで広いなんて……。今見ている景色だって、竜の谷の一部なんだよね。
「ジート、大丈夫か?」
「え? あ、うん、平気だよ」
世界に圧倒され、放心しかけていたジート。それをヴェルは具合が悪いのでは、と思ったらしい。
「竜の谷って、本当に広いんだなぁって感心してたって言うか」
「ああ……。俺もこうして自分で飛ぶと、なかなか次へ行けないって実感した。父さん達に連れられた時は、すぐに思えたんだけどなぁ」
それだけおとなの竜は速いのか、子どもの感覚故なのか。
やがて、エフォルトの森と呼ばれる場所へ着いた。確かに、夜明かしした森と何が違うのかよくわからない……と思ったのは、上から見ている時だけ。
「ヴェル、夜明かしした森と代わり映えはしないって言ったよね?」
「ん? 何か違うか?」
「すっごく違うよ。この木の高さとか」
遠目では、森という一つのくくりで呼ばれる場所。だが、近付くと、全然違う。
昨日の森は、入る時にヴェルは少年の姿になった。竜の姿では低空飛行になるし、木と木の幅が狭いからだ。
今来たエフォルトの森は、ヴェルが竜の姿でも余裕で木々の間を飛び抜けられる。その木一本も、幹がヴェルの胴体よりずっと太いのだ。それが当たり前のように並んでいる。
高さはヴェルの体長の何倍あるだろう、というくらいで、上を向いても茂っている葉の形が遠すぎてわからない。
移動中、ジートは自分達が虫くらいに小さくなって……と想像していたが、この森にとっては実際のヴェルでも虫レベルに思えるだろう。
「木の形とかは同じだろ。ちょっと他より木が高いだけだって」
「ちょっとってレベルじゃ……」
「まぁ、そういうことは気にするなって。森より、森にいる妖精の方が重要なんだから」
母レドリーが、イアンドはここにいるかも、とあげてくれた場所の一つ。ここの妖精に会いに来ているかも知れないのだ。
ヴェルに言われ、ジートもそういう「ちょっと」なことは頭から追い出すことにした。
「ヴェル、妖精の居場所は知ってるの?」
「確か、奥の方に集会所みたいなのがあったと思う。ずいぶん昔に連れて来られただけだから、うろ覚えなんだけど」
記憶があいまいだから時間がかかるかも知れない、と思った竜と少年だったが、森の中を飛ぶ竜を見掛けた妖精の方から声をかけられた。
「ねぇ、あなた。イアンド・セフラの息子じゃない?」
その声に気付いたヴェルが止まり、そちらを見る。
ジートはこんなに高い木だらけの森なら、森の大きさに見合った妖精がいるのでは、と思っていた。ジートが知る妖精は手のひらに乗るようなサイズだが、もしかしたら人間と変わらない大きさの妖精がいるのでは、と。
しかし、そこに現れたのは、アンブルーの島にいる妖精より小さな妖精達だった。金や銀、明るい栗色の長い髪をなびかせ、薄くひらひらした衣をまとい、背中にある透明な羽で飛んでいるのは同じだが、身長が見慣れた妖精達の半分くらいしかない。
木々が高く太いから小さく見えてしまうのかとも思ったが、それを差し引いてもやっぱり小さかった。お互いが飛んで移動しているのと、相手が小さいので周囲にどれだけの数がいるのかわからない。
こんなに小さくて、ヴェルに見えるのかな。でも、声はすごくよく聞こえた。思念を飛ばしてるのかな。
「うん。ヴェルッジュ・ゼクトだ」
ジートの心配は無用で、ヴェルはちゃんと妖精達の姿をその目にとらえていた。視力も視野も人間とは違うのだ。
「俺の父さん、ここへ来てないか?」
「私達は見ていないわね」
「そっか。この近くにサーフェはいる?」
「ええ、いるわよ。あっちの方でみんなとおしゃべりしているわ」
妖精達はある方向へ指し示す。
「ありがと。そこへ行ってみるよ」
妖精達に挨拶をして、ヴェルは教えられた方へ向かってスピードを上げる。普通の森ならスピードを上げるなんて危なっかしいが、この森では余裕だ。
「ヴェル、そのサーフェって、妖精の長とか?」
「どうなのかな。単に父さんと仲がいいから、この森では他の妖精より情報を持ってるかなと思ってさ」
さっきの妖精が知らなくても、サーフェなら知っているということもある。もしくは、そこにイアンドがいる、ということも。
やがて、他の場所より木々の密集度が低い所に着いた。他の場所も木々の間がかなりあいていたが、ここでは木と木の間に家を五、六軒は余裕で建てられそうに広い。
そんな開けた空間で、きらきらと光る花びらが舞っている……とジートには見えたのだが、違った。花びらと思ったのは、妖精の羽だ。
透明な羽が、ほんのわずかに差し込む木漏れ日に照らされ、光っている。妖精の羽が小さいので、花びらに見えたのだ。
「うわあ……きれい」
百は下らないだろう妖精がいて、その羽が光る。こんなにたくさんの妖精も、その羽がこんなに光って見えるのも、ジートは初めてだ。
「あら、嬉しいことを言ってくれるのね」
「あなたは……人間でしょ?」
「竜と一緒に行動なんて、珍しいわね」
ジートのつぶやきに、好奇心旺盛な妖精が近付いて来た。アンブルーの島にいる妖精はどちらかと言えば物静かなタイプばかりなので、恐れることなく近付いて来る妖精にジートはちょっと戸惑う。
「サーフェ、いるかな」
ジートにちょっかいをかけようとする妖精は気にせず、ヴェルは目当ての妖精の名を呼ぶ。
「いるよー」
下の方から、のんびりした声がした。肩まで伸びた薄い金色の髪に、大きな緑の瞳。人間なら五歳前後の男の子に思える姿の妖精が、石の上に立ってこちらに手を振っている。
今まで目にした妖精がみんな「お兄さん・お姉さんタイプ」だったので、ジートは捜している妖精もてっきりそんな姿だと思っていた。
「見た目だけなら、ヴェルより子どもみたいだけど……」
こんな幼い姿の妖精と竜が仲良しなのか。どういうつながりなのか、聞いてみたい。
「あれでも、俺よりかなり年上だぞ。ちゃんと聞いたことはないけど、たぶん俺の兄貴より上じゃなかったかな」
「そ、そうなんだ……」
そもそも、ジートはヴェルの年齢もよくわかっていなかった。とにかく、ジートよりずっと年上だと言うことだ。長命種は見た目にだまされてしまう。
「ヴェルッジュ・ゼクトだよね? 大きくなったねぇ」
短期間でヴェルはものすごく成長している。久し振りの相手にすれば、別竜にも思えるに違いない。ジートだって、ヴェルが声を出さなければ同じ竜とすぐにわかるかは怪しい。サーフェと呼ばれた妖精は、ヴェルが名乗る前によくわかったものだと感心する。
「サーフェは変わんないな」
ヴェルの挨拶はほめているのか、からかっているのかが微妙にわかりづらい。
「今日はきみだけなの? イアンド・セフラは一緒じゃないんだね」
尋ねる前から、この言葉で結果はわかった。イアンドはここにいない。
「ああ。俺、父さんを捜してるんだ。行き先は知らない……よな?」
「わからないなぁ。きみと一緒に来た後、もう一度ここへ来たけれどね。それって何年前かなぁ」
つまり、イアンドは長期間ここへは来ていない、ということだ。
「サーフェ達はフーリルのこと、何か知ってる?」
一応、情報が得られないか聞いてみる。
「竜の花だね」
「他には?」
「それを聞きたいから、イアンド・セフラを捜しているんでしょう?」
仮に知っていることがあっても、サーフェは話すつもりがないようだ。他の妖精達も、こちらを見ているが口を出そうとはしない。
「この近くで父さんが行きそうな場所、知らないか?」
「それはわからないなぁ」
サーフェは困ったように笑う。それについては本当にわからないようだ。
「そっか。別の場所をあたるよ。ありがとう」
「次はゆっくり話をしようね」
どこへ行っても慌ただしいな、と申し訳なく思いながら、ジートはヴェルの背中で妖精達に軽く会釈をした。