ヴェルの提案
頭は寝不足でぼんやりしていたが、眠気はない。漠然とした不安が胸に不快感を広げ、眠いと思える状態ではないのだ。
ディオルゼに送り出され、ジートはルドアの丘へ向かった。
「よう、ジート。今朝は早いんだな」
畑へ向かう途中のリパレットに声をかけられた。親の畑を手伝うジートの友人だ。
「あ、リパレット、おはよう。ちょっとね」
「ふぅん。あ、ジートはさ、フーリルを見たことってある?」
突然の質問、しかもかなりタイムリーな質問に、ジートはどきりとなる。
「うん、あるよ」
「今もちゃんと咲いてるか?」
「え、どうして?」
さりげなく質問をスルーして、ジートは聞き返した。
「ここ数日、麦の伸びがちょっと悪い気がしてさぁ。親父は日によって伸び方が少ないこともあるって、あんまり気にしてないんだけど」
フーリルが枯れかけた影響が、もう出始めているのだろうか。
リパレットの気のせいならよかったのだが、実際にフーリルは枯れかけている。彼は敏感に作物の成長の異変に気付いているのかも知れない。
「お父さんが言うように、麦もゆっくり伸びたいって思ってるんじゃないのかな」
「んー、そんなもんかなぁ」
本当のことは言えない。
ジートはリパレットの気のせいのように言って、彼と別れた。
かなりよくない状況……なのかな。これからヴェルと会って、この状況がいい方へ向かってくれるんだろうか。
不安にかられ、丘へ向かう足は自然と速くなる。
こんなに暗く、不安な気持ちで丘へ向かうのは初めてだ。ヴェルは一体何を考え、ジートに来るように言ったのだろう。
「ヴェル、ジートだよ」
ジートは昨夜と同じように、適当な方を向いてそう言った。
「おう、来たか」
木陰から、小さな白銀の竜が姿を現す。初めて見た時より小さい姿だ。
あの時は中型犬サイズで、今は子犬サイズ。だが、大きなあくびをして頭を大きく振ると、特訓に付き合ってる時のサイズに戻った。
その大きさの変化に、見慣れているはずのジートも内心驚く。
「おはよう。眠そうだね。早かったかな」
「いいよ、朝に来いって言ったのは俺だし。じゃあ、ジート。俺の背中に乗れ」
ヴェルが言い、しばらく沈黙がおりる。
「……じゃあ、の意味がよくわからないんだけど」
しかも、じゃあの後で何かとんでもないことを言われたような……。
「それではって言葉を砕いて、短くした口語じゃないのか?」
「そういう文法的な意味じゃなくて! 俺の背中に乗れって、どういうこと?」
「だから、そのまんまだけど。翼がある所より少し前くらいの方が、バランスは取りやすいかな。ジートも乗りやすいだろうしさ」
確かに、その位置の方が乗りやすそうではあるが、乗せる目的がわからない。
「ぼくがヴェルに乗った状態で特訓するってこと? ぼくはあの崖から落ちて、無傷でいられる自信なんて全くないよ。今はそんなことをしている場合じゃないし」
「人間がヤワだってのは、ジートに聞いてわかってる。昨夜はずっと特訓して、ちゃんと飛べるようになったんだ。安心しろ」
「え、昨夜って、あれからずっと?」
ジートが帰ってから、ヴェルは飛ぶために猛特訓して飛べるようになったと言う。あくびをしていたのは、寝たのが明け方近くだったためだ。
「だけど、今までずっと飛べなくて、一晩でいきなり飛べるようになるの?」
今までの特訓状態を見ているジートは、そんなことを言われてもすぐには信じられない。海へ落ちては崖を這い上がる、をずっと繰り返していたのに。
「ちょっと遊びの部分が多かったからな。真剣にやれば、こうして一日で飛べるようになるんだ」
楽しくやらなきゃ、なんて言っていたが、やはり半分遊んでいたのだ。ジートも何となくの予想はしていた。
いや、一晩で飛べるくらいなら、遊びが大部分だったのではないか。
「こうしてって言われても、まだヴェルが飛ぶところを見てないし」
「いいから、乗れって」
「ぼくが乗ってどうするのさ」
「竜の谷へ戻るんだ」
「そこって、ヴェルのふるさとって話してた場所だよね? ヴェルが飛べるようになって帰るならわかるけど、どうしてぼくまで」
「父さんがいるかも知れないだろ。まぁ、絶対にいるとは言えないけど。俺より当事者が話した方が、通じるのも早いと思って」
「え……じゃ、ぼくのために特訓してくれたの?」
正確にはアンブルーの島のため、となるのだろうが、そんな細かいことはいい。
ヴェルの思いがけない言葉に、ジートは呆然となる。
「話を聞いたのに、放っておけないだろ。特訓仲間なんだし」
「ありがとう、ヴェル!」
ジートはヴェルに抱きついた。竜の身体は長いので、そこが首になるのか胸に当たるのかわからないが、とにかく白銀の身体を精一杯抱き締める。
「ほら、さっさと行こうぜ。飛べると言っても、どれだけ速く移動できるかは何とも言えないんだ。それに、竜の谷は遠いからな」
「うん。あ、その前にディオルゼに出かけるって言わなきゃ」
黙って出て行ったら、心配をかけてしまう。ヴェルとの話が済めば、すぐ帰って来ると思っているだろう。遅くなったら、ジートがヴェルに喰われた、と最悪の勘違いをしかねない。
「それは俺が丘にいる妖精達に頼んだ。伝言してくれって。魔法使いなんだから、妖精の言葉もわかるよな」
意外にもヴェルは用意周到だった。木から飛び降り、坂を転げて笑っていた竜と同じとは思えない。
とにかく、今は少しでも早くヴェルの父に会いたいから、その手間が省けるのはありがたかった。
善は急げで、言われるままにジートはヴェルの背中にまたがる。
さっき抱きついた時は感激して全く意識していなかったが、こうしてゆっくり触れると思ったよりも温かい。白銀の身体は、見た目のイメージからもっとひんやりしていると想像していた。
「行くぞ」
ヴェルが地面を蹴ると、次の瞬間にはもう海上だった。
そう思った途端、海へ向かって落下を始める。やはり一晩だけの特訓では無理があったか、と思わず目を閉じたジート。
だが、浮遊感を覚えてゆっくりと目を開けた。
落ちると思ったのは、ほんの一瞬。白銀の身体は、確かに空を駆けていた。
その長い身体にある、小さな翼。地上にいる時はアンバランスに見えたのに、今はヴェルの身体に見合った大きさだ。片翼だけ見ても、ヴェルの身体の半分以上の長さがある。
しかし、よく見ると透けていた。本来の翼の外側に翼の形をとった魔力が、竜の長い身体を浮かせているのだ。
最初の頃、魔力で飛ぶようなことをヴェルは話していた。それがこういう形、ということらしい。
「うわ……すごい」
「へへ、そうだろ」
数回まばたきしただけで、アンブルーの島ははるか後方になっている。飛び上がってから一度落ちかけたので、ジートには方向感覚などほとんどなかった。島の向こうに大陸が見えるので、どうやら南へ向かっているようだ。
「竜の谷は遠いって言ってたけど、どれくらいかかりそう?」
「父さんでも一日近くかかってたから、俺だと二日くらいかかるかな。うまく風に乗れれば、もう少し速くなるんだけど」
「二日も? ヴェルはこんなに速く飛んでるのに、お父さんはもっと速いんだ」
そして、こんなに速く飛ぶ竜でも二日かかると言うことは、目的地である竜の谷はとんでもなく遠い、ということになる。
「父さんに負けるもんかっ……て言いたいところだけど、おとなと子どもの違いはどうしようもないからな。身体の大きさが、どうしたって違うんだ。悔しいけど、それは認める。初心者だから、要領も悪い。それに、俺もまだずっと飛び続けられる力がないしな」
「おとなが一日かかるような距離じゃ、大変だよね。ヴェル、無理しないで」
「だけど、あんまりのんびりもしてられないだろ。期限つきなんだからな」
それを言われると、ジートは何も返せない。可能なら一日で着いてほしいくらいだ。
花が保つのは二週間、と妖精は言ったらしいが、それはどこまで正確だろう。何かのきっかけで、花の寿命が縮むかも知れない。妖精の言葉は昨日のものだし、そうなると最長でも残りは十三日だ。
しかし、ヴェルはまだ飛べるようになったばかり。無茶なことは言えない。休むなとも言えない。
それに、ジート自身も一日中乗ったままではいられないだろう。焦っても、お互いに限界はある。
「ヴェル、竜の谷って竜が棲む所、だよね」
秘境の意味で使われることがあるが、ヴェルが口にしたのはそんな比喩ではないだろう。
「言葉通りだ。あ、谷って言っても谷ばっかりじゃなくて、山とか草原とか湖とか他にも色々あるぞ」
「ぼくが行ってもいいの? ぼくは人間なのに」
竜しかいない場所。竜にとっては、いわば聖地のような場所のはず。フーリルの花がある場所と同じく、竜しか知らない所。
そこへ、人間がのこのこと入っていいものだろうか。
「いいと思うぜ」
いつもながら、口調が軽い。
「そんなあっさり……。他の竜達はこういうことがあるって、絶対に想定してないだろ」
世界のあちこちで竜が人間を竜の谷へ連れて行ってるなら、竜に会ったと話す人がもっといるはずだ。
「だろうなあ。でも、俺が連れて行こうって決めたんだから、それでいい」
「子どもが勝手に決めて、おとなは反対しないの?」
「そりゃ、ことと次第によるだろうけどさ。ジート一人を連れて行ったくらいで、竜の谷がどうこうなるって思えないぜ。それに、次は自力でジートだけ来いって言われても、行けないだろ」
どの辺りを飛んでいるか、すでに見当がつかない。このまま竜の谷へ入っても、一人でアンブルーの島へ戻ることは不可能だ。戻れたとしても、再び竜の谷へ行けるとは思えない。
「ダメならダメでもいいさ。父さんの居場所さえわかれば、竜の谷に居座る必要はないんだから」
ジートとしては、速攻で追い返されないことを願うばかりだ。
さらに願うなら、その場にヴェルの父がいてくれれば言うことはない。
途中、ヴェルは無人島を見付けて二度休憩し、夜は安全な場所を探して休んだ。ヴェルはうまい具合に果物などの食料がある場所を見付けてくれるので、食事には困らない。
どちらも前の夜はあまり寝ていないので、朝が来るまで死んだように眠る。
次の日もヴェルは飛び続け、やがて彼らは竜の谷と呼ばれる場所に足を着けた。