竜の花
大陸の南の沖合に浮かぶ、緑豊かな島。大陸との距離は、舟でおよそ三十分といったところか。
アンブルーと呼ばれるその島には、現在二百に満たない人が住んでいた。
この島では、主に家畜用の麦を栽培している。生育が早く、季節を問わず収穫できるので一年中どこかの畑で刈取作業がされていた。
冬だけは多少育ちが遅くなるものの、少し暖かい日があればあっという間に取り戻せる。
アンブルーの麦を食べた家畜はよく太って味もよい、と評判がいい。なので、アンブルー産の麦は大陸の酪農家などからとても重宝されている。
もちろん、同じ麦を食べているアンブルーの島から出荷される家畜も、高値で取引されるのが常だ。
おかげで、島の人達が生活に困ることはない。大陸に住む人より余程裕福な家庭がほとんどだ。
しかし、そんな雰囲気はなく、田園風景が広がるのんびりした島である。
だが、昔のアンブルーに今のような豊かさはまるでなかった。土がやせていてどんな野菜を植えても大きく育つことはなく、収穫できる数そのものも少なかったのだ。
作物の実りがあまり……いや、かなりよくなかったアンブルーの島。
そんな島におよそ五百年前、竜が一輪の小さな花を植えた。その花は大地に力を与え、島は今のような姿になった、と言われる。
昔の話であり、よその土地では竜と花のことはおとぎ話レベルだ。大方、大地の妖精か何かが島のことを気に入り、その加護を受けられるようになったのだろう、といった見方をされている。人の少ない田舎の島だから、妖精も居着きやすかったのだろう、と。
実際のところ、アンブルーに住む人達も、この話については半信半疑だ。
フーリルと呼ばれる竜の花が植えられている場所は確かに存在するし、花も確かに咲いている。季節ごとに色とりどりの花が咲くルドアの丘にそれはあり、誰でも行くことは可能だ。
ただ、フーリルはとても小さな花なので、他の花に紛れてしまってよくわからない。
すみれに何となく似ている、らしい。
色も正確な大きさもはっきりせず、その程度の情報しかないので、普通の人にはこれがフーリルだ、と断定できないのだ。
島にいる魔法使いなら、他の花と違う気配を漂わせているのでどれかわかるが、無闇に教えることはしない。よそ者がどこでその情報を入手し、盗みに来るかも知れないからだ。
もっとも、教えられても他の花に隠されてすぐに見失ってしまう。仮にどこかの魔法使いが見付けて盗もうとしても、摘み取れない。
過去によそから来たそんな輩が存在したが、ことごとく失敗した。どんな魔法を使っても、フーリルを引き抜くことができなかったのだ。
なので、妖精達が花を守っているのだろう……などと言われている。本当に竜の花なのかどうかはともかく、大切だから人間に触れられたくないのだろう、と。
フーリルという花の存在よりも、本当にそんな小さな花が島に恵みをもたらしてくれているのか、人々には信じ切れない部分がある。
それでも、現実に島は豊かだ。アンブルーの島の住人には、それで十分。
実際に存在する、竜の花と呼ばれるフーリル。五百年枯れることなく、咲き続けているらしい。
しかし、その花がアンブルーの大地に力を与えているかどうかはわからないし、誰も気にしていない。
☆☆☆
見習い魔法使いのジートは、いつも島の南西にあるルドアの丘近くで魔法の練習をしていた。
ここなら広いし、人はあまり来ない。もし失敗しても、被害を最小限に抑えられる。
もちろん、失敗しないに越したことはないのだが、そこは訓練中の半人前。何がよくなかったのか、呪文を唱えて小さな爆発を起こしたり、突風を起こしたりを繰り返している。
そんな時に人がそばにいたら危ないし、何より……失敗すればやっぱり恥ずかしい。
その日も、ジートは魔法の練習をするべく、ルドアの丘へとやって来た。季節はすっかり春になり、外で魔法の練習をするのが気持ちいい気温が続くようになっている。
「あれ……? 誰か……って言うか、何かいる?」
ジート以外に誰かがいることはほぼないのに、何かの影が動いていることに気付いた。
小高い丘のふもとには、草原が広がっている。草はくるぶしくらいまでの丈しかなく、所々に小さな花が咲いているくらいの場所だ。
村の広場よりずっと広いし、数軒の家を建てても余裕の場所なのだが、ここに人の手が入ることはない。
緩やかな坂を上って行けば竜の花フーリルがある場所だが、そこにいる妖精達は人間が居着くことをいやがっているらしく、人が手を加えようとするといつも邪魔されるのだ。
次第にルドアの丘周辺は妖精の村と認識されるようになり、今ではフーリルに興味を持った人間がたまに来るか、ジートのような魔法使いが来るくらいになっていた。訪れる程度なら、妖精も許してくれるらしい。
それはともかく。
ジートが見付けた影は、フーリルを見に来た人間ではない。フーリルうんぬんより、まずその影は人間の形ではなかった。妖精でもない。
ほとんどの人に妖精は見えないが、魔法を扱っていることもあってジートには見える。しかし、これまでに見た妖精の姿とも違っていた。
翼があるようだが、その形がコウモリのものに似ている。しかし、コウモリの姿とは全然違う。
まず、身体全体が白銀だ。人間はもちろん、妖精でそんな色の身体なんて見たことがない。遠目だが、表面を覆っているのは恐らく鱗だ。
身体は細長い。その細長い身体に、短い手足と小さな翼。サイズは中型犬くらい、か。顔が長いので犬っぽいと言えなくもないが、犬に枝分かれした細長い角はない。ひげもあんなに長くない。顔と同じくらいの長さがある。遠くから見てひげの存在がわかるのだから、近付けばそれなりの太さがあるはず。
もしかして……竜? まさかね。だって、人に姿を見せることはあまりないって本に書いてあったし。ここが無人島だと思って上陸した、なんてことはないよね。上空から見れば、絶対人間が住んでいるってわかりそうなものだし。家や畑が見えなかった、なんてことはないはずだよね。それより、何してるんだろう。
竜、かも知れないそれは、さっきから走り回っていた。いや、翼を必死に動かしているから、飛ぼうとしているようにも見える。でも、身体が浮いていない。
まさかとは思うが……飛ぶ練習、だろうか。しかし、身体に対して翼が小さいように思える。あれで飛ぶのはかなり難しいのではないか。
声をかけたら邪魔かな。だけど、ぼくも魔法の練習をしに来たんだから、何もしないで帰りたくないし。かと言って、横で走り回られたら集中できないし、何かあった時に危ないよね。
微妙にずれた点でジートが悩んでいると、あちらの方が彼に気付いた。
「あ、この島の奴?」
竜と言うのは、荘厳で猛々しいというイメージがあったのだが……軽い口調で声をかけられた。その声音から推測するに、ジートと変わらない年頃の少年だ。
「うん……」
アンブルーの島の住人には違いないので、ジートは頷いた。
こちらへ近付いてくる白銀の身体は、太陽の光を受けてきらきらと輝く。宝石のかたまりのようだ。瞳は大粒の碧玉を思わせた。
相手が何者かわからない不安と、美しい物を見て素直に感心するのと、色々な意味でどきどきする。
「あの、きみは誰?」
竜って飛んでるイメージしかないけど、歩くこともあるんだな。
すぐ目の前まで、長くはない脚で歩いて来た相手を見て、ジートはそんなことを考える。
「俺はヴェルッジュ・ゼクト。長いからヴェルでいいぞ。お前は?」
「ほくはジート。魔法使いの見習いなんだ」
答えながら、一切警戒していない様子でそこにいるヴェルをジートはまじまじと観察する。
「ヴェルは……竜なの?」
名前がわかったので、一番気になることを聞いてみた。
「ああ。見りゃわかるだろ」
あっさりと答えられ、ジートの方がちょっと戸惑う。こうして目の前まで来ているが、もう少し隠そうとする素振りでもするかと思ったのに。
「わからないよ。今まで竜なんて見たことないんだし」
「じゃ、どうして俺が竜かって聞いたんだよ。見たことがなくてわからないなら、聞けないはずだろ」
的確な突っ込みを入れられ、ジートはたじろぐ。
「そ、それは……本で見たりして、こんな感じらしいって。だけど、竜を見たことがあるって人はそんなに多くないし、情報があいまいなんだ。だから、そうなのかなって」
「ふぅん。じゃ、よく見ろ。俺は竜だ」
言いながら、ヴェルは胸を張る。
「竜って、思ってたより小さいんだね」
「小さいって何だよ!」
怒られた。
「あ、ごめん。本ではものすごく大きい、みたいな書き方がしてあったから」
人間の家よりはるかに大きかったりするらしいので、犬サイズのヴェルはその話からすれば間違いなく小さい。現実はこんなものなのかと思って言ったのだが、ヴェルの機嫌を損ねたようだ。
「その本、正しいぞ」
「え?」
ぷいっと横を向きながら、ヴェルは不機嫌そうに言った。
「俺はまだ子どもだから、小さいだけだ。俺の両親も、周りにいるおとな達もすっごく大きいから」
自分のサイズを気にしているところへ、さらにそれを言われたのでつい怒ってしまったらしい。
「そうか。じゃ、本を書いた人はおとなの竜に会ったってことだね」
「俺だって、これからどんどん大きくなるんだよっ」
絶対ふくれているな、と思える口調で言い返すヴェル。
「つまり、成長期ってこと? じゃ、ヴェルは人間で言えば、ぼくくらいの年齢なのかな」
「実際に生きてる年数は違うけど、それくらいだな」
そう言うと、ヴェルの身体が白く光る。何が起きたんだろうと思った次の瞬間には、ジートの目の前に見知らぬ少年が立っていた。
胸まである真っ直ぐなプラチナブロンドに、ジートよりも濃い青の瞳を持つ美少年だ。竜の時は小さかったのに、身長はジートよりも少し高いくらい。見た目は十五、六歳といったところか。
面食いでなくても、こんな少年がいれば女の子は黄色い声を上げて騒いでいるだろう。
「竜って人間の姿になれるんだね。すごい」
突然の変身に、ジートは目を丸くする。
「これくらい、当然だ」
当然と言うからには竜なら誰でもできるのだろうが、ジートが素直に驚いたせいかヴェルは自慢げな態度。感情がわかりやすいタイプだ。
「ところで、ヴェルは何をしてたの?」
「飛ぶ練習」
それっぽいとは思っていたが、本当に飛ぶ練習だった。
「竜って、生まれた時から飛べるんじゃないの?」
「そううまくいけばいいけどな。俺達は今くらいの時期から飛ぶ練習を始めるんだ。それまでは、翼だってないしな」
「あ、さっきの……」
小さな翼、と言いかけて、ジートは言葉を切った。身体が小さいことを指摘して不機嫌になったのだから、翼が小さいと言ったらまた不機嫌になりそうだ。
「身体に見合わず、翼が小さいって言いたいんだろ」
ジートの言いたいことがわかったらしい。だが、予想に反して、ヴェルが再び不機嫌になることはなかった。
「うん、まぁ。あの大きさの身体なら、もっと翼が大きくないと浮かぶのが大変じゃないのかな。ぼくの身体にニワトリの翼を付けても、力が足りなくて絶対飛ばないと思う。それくらい大きさがアンバランスに見えたんだけど」
「ニワトリ自体、あんまり飛べないだろ。どっちにしろ、普通に考えればあのサイズの翼じゃ飛ぶのは無理だな。でも、竜には魔力がある。わずかでも風をとらえたら、あの翼でも飛べるんだ」
しかし、翼が生えて間がないヴェルは、まだ風を掴みきれないでいる。翼自体が自分のものになっていないのだ。
「大変そうだね」
「おとなになる一歩手前の時期だからな。相当努力しないと、地べたを這うだけの竜になっちまう。だから、今は大事な時期なんだ」
ヴェルは生まれ育ったふるさとである竜の谷から、父親にこの島へ連れて来られた。
谷の近くで飛ぶ練習をしても、誰かに頼ろうとする甘えが出てしまう。なので、ヴェルくらいの子ども達は親に遠くまで連れて行かれ、そこへ置き去りにされるのだ。
あとは自分でひたすら特訓するのみ。風をとらえ、その魔力で飛ぶことができれば谷へ戻れる。谷へ戻って来た竜だけが「おとな」として認められるのだ。
ちなみに、戻れなかった竜は過去にいない。
「うわー、大変そう」
「ジートだって、そういうのがあるだろ?」
「ぼくは特にないよ。でも、一人前の魔法使いとして認めてもらうために、特訓はやらなきゃいけない。ディオルゼが出す課題をクリアできないと、一人前になれないんだ」
「ディオルゼ?」
よくわからず、ヴェルが聞き返す。
「あ、ぼくの師匠。元々、お父さんの弟子だった人なんだけどね。お父さんはぼくが魔法を始める前に事故で亡くなったんだ。それで、お父さんの代わりにディオルゼが魔法を教えてくれて……。そういう意味では師匠なんだけど、ずっと一緒に暮らしてるとお父さんみたいな、年の離れたお兄さんみたいな、妙な感じなんだよね。あ、お父さんなんて言ったら、いやな顔するかも。まだ独身で三十代だし」
七歳の時、魔法使いだったジートの父は用事で大陸へ行き、そこで事故に遭って亡くなった。母はその二年前にすでに亡く、他に身よりはなし。
ジート親子と生活を共にしながら魔法の修行をしていたディオルゼは、近いうちに独立するはずだった。しかし、そんな事情からジート一人を放って行けず、保護者兼魔法使いの師匠となってジートを育てている。
「何だ、ジートだって結構大変そうだぞ」
大変そう、と言いながら、その口調は軽め。
「そう、かな」
両親のいない淋しさはあるものの、ジートは特に大変だと思ったことはない。
「中身が違っても、俺達は特訓仲間ってことだな」
「あ……うん、そうだね」
島に同年代の友達がいない訳ではない。だが、彼らは家の仕事の手伝いをし、ジートから見れば大人と同等の働きをしている。そういう意味では肩を並べにくい。
だから、ヴェルの言葉はどこかジートをわくわくさせた。よく似た、いや、同じ目標を持った同志を得た気分だ。
友達とは違う、高揚感を覚える「仲間」という響き。
ジートとヴェルは、お互いににかっと歯を見せながら笑った。