2.(6)
その日、帰寮してからずっと瑠衣のことを待っていたのだが、彼は来なかった。その次の日も同じ。
家を出たと言っていたが、さすがに疲れてしまったのかもしれない。家に戻ったのだとしたら、それは良いことだ。
音羽は思いながら彼が寝ていたベッドを見つめていた。
理亜が使っていたベッド。そこに理亜の姿がないことに慣れてきた頃になって現れた瑠衣。
消えていたはずの寂しさが、またほんの少しだけ蘇る。
音羽はため息を吐いて窓の外へ視線を向けた。よく晴れている。
今日は土曜日。学校は休みだ。かといって勉強をするような気分ではないし、遊びに行く友人もいない。出掛ける用事も特にない。
今日も適当にぼんやりと部屋で過ごそう。理亜がいなくなってからそうしてきたように。
そう思っていたとき、部屋のドアがノックされた。
また涼が訪ねてきたのだろうか。今はあまり彼女と話をしたくない。しかしドアを開けると、そこには寮母の姿があった。
「はい、これ。崎山さんに届いてたよ」
初老の寮母は人の良さそうな笑みを浮かべてそう言うと、一通の封筒を音羽に手渡した。
「手紙……?」
「珍しいわよね。今時、手紙なんて。宛名も手書きだし。お友達?」
「えっと」
正直、心当たりがない。音羽は怪訝に思いながら封筒の裏側を見る。そして思わず「え……」と声を漏らした。そこには香澄美琴と書かれてあったのだ。
音羽は顔を上げて頷く。
「友達です」
「そう。大切なお友達なのね」
「え?」
「だって崎山さん、すごく嬉しそうだもの。よかった……」
寮母はそう言って微笑むと、廊下を戻って行った。
「よかった……?」
その言葉の意味がよく理解できず、音羽は首を傾げながらドアを閉める。そしてテーブルの前に座って手にした封筒を見つめた。
「香澄美琴――」
その文字の横には住所が書かれている。それは電車で五十分ほど行った先にある街の住所。そこに今、理亜は住んでいるのだろうか。それにしても――。
「まさか手紙で連絡してくるなんて」
思わず苦笑してしまう。そして封筒を開けるためにハサミを探す。そのとき、再び部屋のドアがノックされた。
「崎山さん、度々ごめんね。ちょっといいかしら」
聞こえたのは寮母の声だった。まだ郵便物でもあったのだろうか。しかし、開けたドアの向こうでは寮母が困った表情で立っていた。
「どうしたんですか?」
「うん。あのね、崎山さんにお客さんが来てて」
「わたしに……?」
音羽は眉を寄せる。どうやら寮母の表情からして家族が来たというわけではなさそうだ。
「誰ですか」
訊ねると、彼女は少しだけ視線を泳がせてから「警察の人なんだけど」と小さな声で言った。そして気遣ったような笑みを浮かべる。
「宮守さんのことについて、もう一度話を聞きたいって」
「理亜のこと、ですか……」
「嫌だったら断ってもいいのよ? わたしが言ってあげるから」
音羽は少し考えてから首を横に振った。
「大丈夫です。来客室ですか?」
「ええ。でも、ほんとに大丈夫?」
「平気です」
それでも心配そうな表情を浮かべる寮母に、音羽は笑みを返して部屋を出た。
来客室は寮の玄関ホールにある小部屋だ。外部からの来客とはそこで会う規則となっている。
土曜日の午後。玄関ホールには外出をする生徒たちが多く集まっていた。その中で、音羽が来客室へ向かうのを見ている生徒が何人かいる。もしかすると警察が来ていることを知っているのかもしれない。
音羽が視線を向けると、こちらを見ていた生徒たちは一斉に視線を逸らした。
音羽は軽く息を吐いてから来客室のドアをノックする。
「どうぞ」
女の声が聞こえた。失礼します、と声をかけて部屋に入る。
簡易的な応接セットが置かれた小さな空間。そこに、皺ひとつないパンツスーツ姿の女性が姿勢良く立っていた。
「お久しぶりです。崎山さん」
まるで旧知の仲であるかのように、彼女はにこやかな笑みを浮かべる。
「どうも」
音羽は一言返すと、そのまま彼女の向かいに腰を下ろした。無愛想な音羽の態度にも気にした様子を見せず、彼女は「わたしのこと覚えてますか?」と椅子に座りながら少しだけ首を傾げた。
つい気を許してしまいそうになるほど素直な笑み。
おそらく年齢は二十代後半だろうが、笑った顔はまるで音羽と同年代かと思わせるほど大人らしくない。
その笑顔を最初に向けられたのは、寒い冬の日だった。
「……理亜がいなくなったときにお会いしましたよね。名前までは、ちょっと覚えてないですけど」
音羽が答えると、彼女は笑みを深くして頷いた。
「坂口です。よかった、覚えててくれて」
言って彼女はじっと音羽のことを見つめてくる。なんとなく居心地が悪くなって音羽は眉を寄せた。
「なんですか?」
「あ、ごめんなさい。少し痩せたなと思って。以前、お会いしたときに比べて」
「そうですか」
「あのときは、崎山さんも辛かったのに色々聞いてしまってごめんね」
音羽は申し訳なさそうな表情を浮かべた坂口を見つめながら、あの頃のことを思い出そうとした。
坂口が音羽の元に来たのはいつだっただろう。寒い日だったということはよく覚えている。しかし、その他のことはよく覚えてない。
思い出そうとすると線香の香りが蘇ってくる。きっと理亜の葬儀が行われた頃だったのだろう。あのとき何を聞かれたのか、そして何と答えたのか、記憶は曖昧だ。
「別に、いいですよ。あまり覚えてないし。仕事ですもんね」
音羽の答えに、坂口は少しだけ悲しそうな笑みを浮かべた。音羽はそんな彼女を見返しながら「今日は何ですか?」と聞く。
「理亜のことを聞きたいって、寮母さんが言ってましたけど」
「うん、そうなの。もう一度、彼女がいなくなる前後のことを聞きたくて」
言いながら坂口は手帳をスーツのポケットから取り出して開いた。音羽は首を傾げる。
「なんで今頃になって?」
「今だから、かな」
「今だから?」
「時間が経ってからの方が思い出せることもあるから。それに、あのときの崎山さんはあまり話せるような状態でもなかったから」
「そうですか」
音羽は無言で頷く。坂口は「ごめんね」と気遣うような笑みを浮かべた。それは寮母が見せた笑みとよく似ている。
別に彼女が謝る理由はない。
仕事だから聞きに来た。それだけのはずだ。なのに彼女は申し訳なさを感じているようだ。きっと根っからの良い人なのだろう。
そう思ってから音羽はふと疑問に思う。
「あの……」
「ん?」
「今頃になって理亜のことを聞きに来たということは、まだ警察は捜査してるんですか?」
すると、坂口は迷うように「んー」と唸ってから手に持った手帳に視線を落とした。
即答しないということは違うのだろうか。それとも部外者には教えられないことなのだろうか。
考えながら坂口の答えを待っていると、彼女は「宮守さんのご両親はね」と口を開いた。
「自殺ということで処理してくれって仰ってるの」
「え、自殺……?」
思わず音羽は呟く。坂口は頷き、そして音羽を真剣な表情で見つめる。
「あなたはどう思う? 宮守さんがいなくなる前、そういう雰囲気を感じたことは?」
「わたしは――」
音羽は膝に置いた手に視線を落とした。答えることができない。
まだ理亜が何をしてしまったのか、何も聞いていない。ここで下手な返答をすれば彼女に迷惑がかかるかもしれない。
どう答えるのが正解なのだろう。
無言で俯いていると「あれからね」と坂口が言った。
「他のクラスメイトの子たちにも聞いてみたの。どの子に聞いても、とても自殺するような雰囲気はなかったっていう答えだった」
「――わたしも、そう思います。理亜はいなくなった朝もいつも通りだったし」
「そう。やっぱり……」
「やっぱり?」
音羽は顔を上げる。坂口は頷いた。
「実は他にもちょっと気になってる点があってね」
「気になってる点、ですか」
坂口は頷きながら手帳の開いたページを指でなぞった。
「聞きたい?」
「まあ……」
音羽が頷くと、彼女は「だよね」と笑みを浮かべた。
「じゃあ、ちょっとだけ」
「え、いいんですか。そんなこと、部外者に話して」
「うん。このことについて、あなたの意見も聞きたいから」
坂口はそう言うと「まずは発見場所についてなんだけど」と手帳に視線を向けながら続ける。
「登山道の途中にある展望台。あそこは冬は凍結の危険があるから徒歩での入山は禁止されてるの。実際、今年の一月から二月末までの間は登山道入り口は封鎖されてた。まあ、別に壁が張り巡らされてるわけじゃないから入れないことはない。でも、宮守さんが発見されたときのような軽装で登ったとは思えなくて。車道の方には規制はかかってなかったから、入山できたけど徒歩では距離がありすぎる」
音羽は頷いた。たしかに理亜が発見された山は県内でも一番標高が高い。車道を歩いて行くにしても、展望台までは三時間以上かかるだろう。坂口は続ける。
「それ以前に、この寮からあの山までどうやって行ったのかがわからないの。宮守さんはバイクの免許は持っていないから、移動手段としてはタクシーか公共交通機関になるはず。だけど、いくら探しても彼女の目撃情報がない。あの山の車道付近の防犯カメラも調べてみたんだけど、故障気味で画像が所々飛んでたりしてね」
「駅の防犯カメラとかは?」
音羽の問いに、坂口は首を横に振った。
「どこにも映ってなかった」
「どこにも……」
「ええ。彼女の姿が最後に映っていたのは、この寮の玄関に設置された防犯カメラだけ」
坂口はそこで言葉を切ると音羽に視線を向けた。
「ねえ、崎山さん。宮守さんの知り合いに車を所有してる人はいない?」
「さあ。知りませんけど」
音羽は素直に答えてから首を傾げた。
「でも、そのことをご両親に伝えたら何かわかるんじゃないですか?」
「もちろん伝えたんだけどね」
坂口は困ったような表情を浮かべる。
「それでも、自殺として処理してくれって言われてしまって。もう、そっとしておいてほしいって」
ご家族の気持ちはわかるのだけど、と坂口はため息を吐いた。
「……それでも、調べるんですか。理亜のこと」
「ええ」
坂口は頷く。迷いのない表情で。音羽はそんな彼女を見つめながら「それは、理亜が自殺ではないという確信があるから?」と問う。
坂口は答えない。けれど、その真っ直ぐな目がそうだと言っている。
「理亜は、殺されたんですか」
しかし、この問いには坂口はゆっくりと首を横に振った。
「それは、まだ断定できない。事故だったのかもしれない。でも、そうだったとしても間違いなく彼女をあそこまで連れて行った人がいるとわたしは思ってる」
彼女はそう言うと「崎山さん」とそれまでとは違う、低い声で言った。音羽は静かに呼吸を繰り返しながら彼女を見つめる。
「ルームメイトだったなら、きっとプライベートの話とかもしてたでしょ? 本当に心当たりはないかな。車とか、バイクを所有してる宮守さんの知り合い」
強く、鋭い視線だった。
それはさっきまで坂口が見せていた親しみやすい表情とはまるで違う。警察官としての表情。
どんなに気安い雰囲気だったとしても彼女は警察官。ウソを見破り、正義を果たすのが仕事なのだ。
音羽はまっすぐに坂口を見つめながら「わかりません」と答えた。
坂口は何かを見定めるかのように音羽のことを見つめていたが、やがて「そう」と息を吐くようにして頷いた。
「わかったわ。今日は、わざわざありがとう」
「いえ。何もお役に立てなくてすみません」
「いいのよ。少し元気になった崎山さんが見られたから、ちょっと安心しちゃった」
優しく微笑む坂口の顔から音羽はつい視線を逸らしてしまう。
「崎山さん? ごめん。やっぱり辛い話だったもんね。ごめんね。大丈夫?」
「大丈夫です」
音羽は立ち上がるとドアへ向かう。そして一度振り返ってから深く頭を下げた。
「――失礼します」
そしてドアを開けて部屋を出る。顔を上げることはできなかった。
ウソは言っていない。
けれど、あんなに優しい笑顔を向けてくれる人を騙してしまったようで、心が痛かった。