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真夏の夜の夢

作者: 半平太

1.


 それは、五歳の冬だった。


どんよりと覆いかぶさるようにのしかかってくる低い空。あと数日もすれば新しい年を迎えると云うが、そんなことは子供達にとっては何の意味も持ちはしない。あるのは真冬の寒さすら感じない健やかな精神と、母親が迎えにくるまでの僅かな時間。

そんな彼らの集まる場所はいつも決まって工場裏の空き地だった。

ゆるやかな傾斜を描く土手は、段ボールで作ったソリで滑るには絶好のロケーションを提供する。高い金網の向こうには大阪特有の塀もあるが、深さはたいした事はない。それでもまだザリガニくらいはいるらしく、時折小学生らしい子供達が手製の釣竿を片手にやって来る。もっともそれは幼い子達にとっては自分達とは関わりのない大人の世界であり、せいぜい釣竿が反応した時だけは憧憬に満ちた瞳で歓声を上げるが、後は同じ年の子供達だけで遊ぶ。

それは幼いながらも子供達の世界の不文律であり、ルールであった。


「そういやなぁ…。」

中のひとりが声をひそめて言い出した。

「わいのお母んが云うとったわ。鬼が暴れたって」

「鬼って…あそこのんか?」

「せや、鬼の親玉が人を喰らったんやて。せやから絶対にあそこに行ったらあかんて云うとった」

「せやけど行ったかて見張りがおんのやろぉ」

誰かが不満そうな声を上げた。と、云い出した子供は汚れた顔を得意そうに輝かせて反論する。

「それがせやないねんて。ほら、川向こうにでっかい病院あるやろ? あそこのヤツがわいらと同い年なんやけど、そいつが云うとったんや。ここ二、三日見張りは居ぃひんのやて」

「なんで?」

「…そんなん知らん。」

少年はむっとしたように云ったが、すぐにニッと笑い、更に声をひそめて云った。

「せやけど見張りが居ぃひんのやったら探検できると思えへん?」

途端に周りに居た子供達はぶんぶんとかぶりを振った。

「じょ、冗談やないわ。そんなん探検云わんでぇ!」

「せやせや、大人かて近付かんとこやで?」

「何云うてんねや、誰も近付かんやから探検なんやない。なあんやどいつもこいつも意気地ないねんなぁ」

云い出した少年は嘲るように呟いて、手元の小石を金網に向かって投げた。それは見事なほどするりと金網を抜けて、堀に小さなさざ波を作った。

「そない云うんやったら自分で行ってみたらええやん。」

誰かの言葉に得たり、という顔をし、それから不満そうに唇を尖らせ、

「出来るもんならそうしとるわいボケ。せやけどわい、足まだ治ってないし。この足じゃあの竹林は無理や。あ〜あ」

なるほどジーンズの裾から覗く脚は白い包帯に捲かれていた。そういう状態であればこそ少年も友達と遊びたくて出てきたのであり、大きな口も叩けたのだろう。

「なぁ、誰か確かめに行くヤツおらんのんけ?」

ほとんど皆が目をそらしている中、ひとりの痩せこけた子供が少年の前に進み出た。

ろくに手入れもされてないようなボサボサの髪、はっきりとした眉。その下で大きな黒い瞳だけが好奇心に輝き、キョロキョロと動いている。

「わい、いってみる」

子供は力強く、云った。提案した少年のほうが意外そうに見上げる。

ごう…お前が? 本気なん?」 

「でっきるワケないやーん。知ってンか? 鬼ゆうのんは人を喰うんやでぇ」

「せや、チビの剛なんかいっぺんで掴まんでえ」

「無理はせんとき。ごうちゃんは玉蹴りしとるんが似合うとるわ。それにお前…お父はんも居ぃひんのやろ。」

「ケンカもようせん奴にそないなこと出来るかい」

嘲るとも慰めるともつかない口調で子供達が口々に云う。そんな言葉に剛はむっとして云い返した。

「平気やもんっ。わいほんまは強いんやからなっ。お母んがアカンっちゅうからケンカなぞせえへんけど、わい家やったらお父ちゃんの代わりにお母ん守っとんのやからなっ!」

半分は虚勢で、半分は真実だった。


 剛に父は居なかった。そう呼ぶべき人は彼が生まれる半年も前に亡くなっていた。

そして、生涯一度の恋と命をかけた剛の母は、周囲の大反対を押し切って、剛を産み落としたのである。誰の子でもない、あの人の子だから闇に葬る訳にはゆかないと。京女の意地と誇りだった。そして生まれ育った京都を離れ、愛した者の眠る大阪で息子とふたりっきりで暮らしていた。

だがその反面、母は恋多き女でもある。彼女の周りにはいつも男の影がつきまとった。再婚し、添い遂げようと思うほどではないにしろ、剛の母は母であると同時にひとりの女でもあった。


 それゆえの孤独も剛は幼いながら知っていた。自分にはいつでも甘えられる母が居る。でも母にはその相手はいないのだ。どんなに恋い慕っても自分の手では母を幸せには出来ないことも、自分と亡くなった父の為に一生独りでいる決意の母がつかの間の幸せを求めるひとりの女であることも、剛は知っていた。自分を育てるのに必死な母が、幸せそうに装おうのを止めるすべはない。


 いつか、と剛の母は寝物語のように云う。

 ―いつか剛にもそない思う人が現れるんよ。この人の為やったら命も要らんゆう相手が、ね。

 ―それ、いつや? お母ちゃん。


繰り返された言葉に剛は眼を輝かせる。呪文のような予言。


 ―いつやろねえ。お母ちゃんにも判らへん。せやけど人が人を恋うゆうんはそういうことなの。そやから剛はいつでも前を見て頑張ってなきゃあかんのんよ。…男の子は自分の大切な人の為なら強うならなあかん時がくるもんやからねぇ。あんたのお父ちゃんのようにね。


 まだ恋も判るはずもない子供に剛の母はうっとりと微笑んだ。


2.


 誰が云い出したものやら、鬱蒼と生い茂る竹林の向こうには鬼が棲んでいると近隣の子供達は本気で信じていた。かさかさに枯れた竹の葉は剛達の足元で小さな音を響かせる。


「なあ、ほんま行くんか? この辺で引き返したほうがええんとちゃうか?」

足を引きずる少年と剛の後ろで誰かが云った。

「なぁに怖じけずいてんねん、まだ入り口やで」

「せやけどここに来たんバレたら怒られんで。…わい、帰るわ。」

他の子供達も互いに顔を見合わせ、頷き合った。

「わ、わいも帰る。怒られたないし。」

「せや、わいも。ごうちゃん堪忍なっ」

ひとりが口にしたのを幸いに子供達はおのおの引きずられるように云って、ひとりまたひとりと踵を返し始めた。後に残ったのは剛と、探検をしようと云い出した少年だけである。

「…どないする? 剛も帰りたいんか?」

提案を無視された彼は面白くなさそうに云ったが、剛はううんとかぶりを振った。

「ここまで来たんやもん、わい、行ってくる。中田はここまででええよ。その足やもん、無理せんほうがええわ。すぐ帰ってくるよってここで待っとってや」

中田と呼ばれた少年に云われるまでもなく、剛自身ここには興味があったのである。大きな瞳を輝かせて剛はネットに包まれたサッカーボールを肩にしたまま、さらに竹林の奥へと足を向けた。


サラサラと笹が鳴る。夕暮れの竹林は足元で小さな音を響かせるだけで、誰ひとりとしていない。

深い、静寂。

(…ほんまに…鬼なんて、おるんやろか?)

ふいに噂を思い出し、剛はぶるっと震えた。風に鳴る音が耳をかすめてゆく。風の音に何故かか細い悲鳴のような音が混じる…ような気がした。

「しっかりせえよ!」

剛は頬をぴしゃぴしゃと叩き、自分に喝をいれた。手入れのされていない竹林はただでさえも薄暗い。剛は後ろを見ないように足をすすめていく。知らずに歩幅は狭く、小走りに近くなっていた。

しばらく歩くと竹林はふいに途切れ、目前に視界が広がった。

その向こうに古風な屋敷が見えた。人の気配はない。その隣にこれも年期の入った道場らしき建物があった。恐る恐る、近付く。

(あ…誰か、おるっ。)

格子の隙間から覗くと、小さな素足が眼に入った。

「やああぁっっ!」

いきなり澄んだ声が辺りに響きわたる。

思わず剛は声を出しそうになったが、それさえ止まった。次の瞬間、息を呑んで彼は目の前の光景に魅入った。そこには稽古場にひとり、夢中になって竹刀を振っている子供が居たのだ。年の頃は剛とそう変わるまい。だが夕日に照らし出されたのは、ぞっとするほどの美貌の少女だった。

 白い着物に濃紺の袴姿。肩で切り揃えられた艶やかな髪がほんのりと上気した頬に張り付いている。誰もいない空間に向かってその子は竹刀を振り下ろす。その度に汗が光る。静と動が見事に調和している光景…。

(お…お姫サンや…)

思った途端、かっと頭に血が昇った。

「誰やっ!」

気配を感じ取ったとでもいうのか、振り返った少女と視線が絡み合う。たおやかな容姿とは裏腹に、それは恐ろしくきつい眼差しだった。そこだけが唯一、光彩を放っているかのような美貌の中でそぐわないほど凄まじい気迫を感じさせた。塊のような意志の力が剛を圧倒する。

「あ…か、堪忍…っ…」

つぶやいて剛はかぶりを振った。

そしてそのままきびすを返し、後も見ずに駆け出した。こんなふうに誰かに背を向けたことなど一度もなかった。例え年長の男子でも、複数相手でも後ずさる事さえなかった剛である。母との約束でこちらから手を出すことはなかったが、蹴られても殴られても相手の眼を恐れず睨み返した。それだけで相手は戦意を喪失したものだ。…けれど。

訳も判らぬまま竹林を抜けて、逃げるように走っていた。


 元の場所に戻ると中田がすかさず声を掛けてきた。

「ど、どないしたんや、剛。顔、真っ青やで…。あれ、ほんまやったんか? 何がおったんや?」

矢継ぎ早に尋ねられる言葉に剛は青ざめたまま、無言で何度もかぶりを振った。何ひとつ答えられなかった。口にしたら今見た光景がすべてうたかたのように消えてしまう。自分でも判らない取り留めもない感情に、剛は震えたまま家路を辿っていた。


 その夜、布団に入ってから剛は母の胸に縋り付いてわあわあと大声で泣いた。なにが哀しかったのか、剛はただそうするしか出来ないように泣いた。

「どないしたん? 大っきななりして赤ちゃんみたいやねぇ。」

母の呆れたような言葉も耳に入らなかった。

夕暮れの道場で一心不乱に竹刀を振るっていた少女のことばかりが脳裏に焼き付いて離れなかった。整った顔だち、切れ長の双眸と赤い唇。自分や自分の周りにいる子供達とは別世界の人間のようだった。すっきりとした背中には甘えのかけらすらもなかった。

それが美しければ美しいほど剛は哀しかった。

 あれはきっと囚われのお姫様に違いない、と剛は思った。でなければあんなにも寂しそうな背中をしている訳がない。まるで見えない敵と戦っているように悲壮な後ろ姿だった。

(…わいが…わいが助けたる…!)


 母の胸に縋り付いたまま剛はそう決心した。


3.


 翌日は見事なほどの快晴だった。冬の間のわずかなきらめき。いつもの工場跡には子供達が集まっていたが剛は彼等に眼もくれず、昨日の竹林へと向かっていた。

足元で乾いた音を立てる枯れ葉もサラサラと鳴る林も気にならなかった。昨夜、布団の中で考えた計画は、あの少女を助けることだけだった。

言葉を交わした訳でもないのに、剛は少女が悪漢に捕われているに違いないと堅く信じ込んでいた。足の速さでは誰にも負けない。悪い奴が現れたらあの子の手を引いて逃げてやるのだ。いざとなれば自分が戦っている隙に少女を逃がしてやればいい。

子供らしいと云えば子供らしく、他愛ない計画だった。


 昨日の道場はしんと静まり返っていた。

(今日は居ぃひんのやろか…)

そう思いつつ、そっと昨日覗いた格子の間から視線を送る。と、はたして少女の後ろ姿が見てとれた。覚えず小さなため息がもれる。昨日と同じ白い胴着に身を包み、静かに正座している。思わずその背中に見とれていると、気配に気付いたように少女はふいに振り返った。

「お前…昨日の…!なんで、おんねん。どないして入ったんや?」

間抜けな顔を見られたろうか?剛は丸い眼をさらに真ん丸にし、威勢よく云った。

「そ…んなん、どうでもええわいっ。なぁ、お前…ひとりなんか?」

こくん、と少女は頷いた。

「せやったら…せやったら、わいと友達にならんか?わい、助けに来たンや。お前ここに閉じ込められてんのやろ?わいが助けたるっっ!なな、わいんとこ、来ぃひんか?」

まくし立てるように云う剛に少女は一瞬ぽかんとした表情になり、それからすぐに花がほころぶような微笑みを浮かべた。

もう言葉は要らない。格子を開けようとした瞬間、奥から大きな足音が聞こえてきた。

「ひかる!」

雷鳴のような怒声とともに入って来たのは、黒い胴着を着た長身の、抜き身のごとき鋭さを感じさせる男だった。五十は過ぎているだろうか。しかし老いなど微塵も感じさせない。剛にはまさに”黒鬼”に見えた。

「正座もまともにできんのかおどれはぁっ!大人がおらんと一人でギャアギャア騒いでからに。そないなことでこの九堂の家が守れると思っとるんか。餓鬼や思ぉて承知せんぞ、くらぁ!」

道場がびりびりと震えた。ひかると呼ばれた気丈な少女でさえも動けなかった。剛も同じである。青ざめながらも少女は黒鬼のほうに向き直り、剛がいることは悟られまいとした。男の手には木刀がある。それが何を意味しているか、幼い剛にもすぐに判った。

(ああ…あ)

このままでは助けるどころか自分をかばって彼女がひどい折檻を受ける。だが足が動かない。声すら出ない。どうする。汗と涙だけが滲んでくる。自分には、子供にはどうすることもできない。どうしようもない世界があるのだ…。

男が木刀を振り上げた。


 ―いつか剛にもそない思う人が現れるんよ。この人の為やったら命も要らんゆう相手が、ね。


 ―それ、いつや? お母ちゃん。 


「わあああぁーっ!!」

剛は格子を開け放ち、眼前の鬼神のような男に遮二無二突き進んでいった。

「わ、わいのおひいさんを、いじめんなあっ!」渾身の力を込めてぶつかるが、まるで岩にぶつかったようだ。弾き返された体中が痛む。

「なんや、小僧。どこから紛れ込んで来た?」

木刀を下ろし、男が問いただす。

「がああっっ」

剛はもう何も聞こえない。再び突進する。傷めた同じ肩で、何度も何度も。ここで引き下がったら、もう二度と前には進めない。呆気に取られていた少女がやっと気をとり直した。

「な…なんで、隠れへんねん。なんで逃げへん?助けに来た、ゆうんか…なんでそないボロボロになって!」

初めて少女の顔に戸惑いと恥じらいが垣間見え。そして。

ドン!

剛の突進に合わせ正眼の構えを取り、自らも男にぶつかっていった。

『わああああああああーっっ!!』

 猛進する二人を受け損ね、男がよろめいた。

「いまやっ!」

剛は少女の手を掴み、もとの格子を潜り、外へ駆け抜けた。そのまま林を目指す。

男は…追ってこなかった。


 竹林を走っている途中少女が立ち止まり、脇の薮に入っていった。幾分落ち着きを取り戻した剛が声を掛ける。

「どないした?」

「…これ、お前んやろ」

薮から出て来た時には、ネットに入ったサッカーボールを手にしていた。

「せや!わいのや」

「昨日、表に落ちとった」

「そっかぁ、おおきにな。大事なもんやのにどこに落としたんか判らんかってん。ここで無くしたんか…」

云っていると、ふいにガサガサと枯れ葉を踏む足音が聞こえた。竹の向こうに先とは異なる、人相は悪いがまだ二十代程度の男二人が見えた。明らかに誰かを探すしぐさだ。真っ赤と真っ青のあつらえたような背広を着ている。そのまんま”赤鬼”と”青鬼”だ。

「こっちやッ!」

剛は夢中で少女の腕を引いてまた走り出した。竹林を抜け、少女の手を引きながら走る。耳の隅にふたりを追って来るような足音が聞こえたが、剛は後ろも見ずにただただ握り締めた小さな手を離すまいと力を込めた。明るい世界へ、剛の持つ暖かな世界へと。


 ようやく一息をついたのは、竹林を抜けて国道へと続く小路に出てからだった。

「はっ、はぁっ…もう、大丈夫やで」

「……」

黙ってついてきた少女は、やはり何も云わない。明るい陽射しの中で見ると、一際整った顔立ちをしていた。その相手を自分は助け出したのだと思うと剛は嬉しくて、自分が何か勇者にでもなったような気がした。

剛はそのまま手を引いて自分の家へと向かった。いつもの工場跡なら友達もいるに違いないが、剛は少女を他人に見せたくなかったのだ。

初めて自分で見つけだした、自分だけの純粋な友達…。自分が救い出したお姫様なのだ。こんなにもきれいで無垢な存在は他にいない。

どうしてこの少女の姿を、我が身可愛さに逃げ出してしまうような臆病な友達に紹介などできようか。誰の眼にも晒したくなかった。

「な、なぁ、何して遊ぶ?…サッカーは…出来ひんやろなぁ」

云った言葉に剛は頭を掻いて笑った。いくら竹刀を振り回すような気の強い少女でも、荒々しいサッカーとなると話は別だ。夢中になって怪我でもしたら可哀想過ぎる。姫を救出した勇者にあるまじき振る舞いであろう。

「なんでや?お前のしたいこと、したらええやん」

しかし少女はあっさりと応えた。

「お前、口悪いなーッ。そない口利いとると嫁にゆかれへんねんぞ。イカズゴケや。女のくせに…」

その言葉に少女の頬がぴくっと引きつった。

「だ、誰が女やっ。わいは男じゃ!見て判らんのかボケっ」

「…う…そ、やろ…?」

今度は剛の方が顔を引きつらせた。ただでさえ大きな瞳がますます見開かれる。こんなにもきれいで愛らしい容姿の少女などおそらく二人といまい。それなのに少女ではない? 云われた言葉に剛は茫然としてしまった。

「なにが嘘や。けったくそ悪いやっちゃな。わいは正真正銘お・と・こ、や。ぐだぐだ云うとると股蹴り飛ばすぞ!」

なるほど云う台詞は間違いなく男の子のそれだ。特に今見せたきつい眼差しは少女のものである筈もない。今思えば、あの鬼のような胴着の男の目つきや口ぶりに似てはいなかったか。

「か、堪忍ッ…。まさか男やと思わんかってん…きれいやし…あわわわ。あ、あんなぁ、わい剛云うねん。鳳剛おおとりごう。お前なんちゅうん?」

「ひかる、や。九堂光くどうひかる

どうだとばかりに胸を張る。おとぎ話は終わった。それでも。今いきいきと話す目の前の美少女…ではない、男の子が、剛にはもっとまぶしい存在に映った。

剛は人懐っこい笑みを浮かべて、ごしごしと右手を半ズボンの後ろで擦り、生涯の親友になる少年に差し出した。


4.


 それはかつてないほど充実した時間だった。光と名乗った少年は天性の運動センスの持ち主らしく、今まで一度も剛からボールを奪い取ることの出来なかった友人達とは違い、いともあっけなくボールをさらってゆく。もちろん負けず嫌いの剛だから大人しくやられたりはしない。いつの間にか本気でぶつかっていった。その時間はあっという間に過ぎた。

ふと気づくと辺りはとっぷりと夕暮れに薄暗くなっていた。


「光、待っててな、今鍵開けてくるから」

我が家の前で剛は云った。裏口に回るらしい。剛の姿が消えると赤と青の背広の巨体が光の後ろに立った。

「若…」

「ぼん、帰りやしょう。」

赤鬼と、青鬼だ。

「何も云うな。叔父貴には後できっちりとわびを入れる。わいかて九堂会…九堂コーポレーションを継ぐ身や。父様や母様がおらんでもわがままは云わん。けど…剛には手を出すなよ。したらお前らかて許さんからな。わいの、と、友達やから。」

いかつい男達が顔を歪め、始めて笑顔らしいものを作った。

「分かってまさぁ、ぼん。ちゃんとお友達の家で挨拶が済むまで、待たせてもらいます。なあ?」

「おお。ほな私ら先の公園まで戻ってますで、若。」

「…おおきにな」


 仕事から帰ってきた剛の母は、ふたりの顔を見ると呆れたような表情で風呂場に強制連行した。道理である。一心不乱にボールを追っていた彼らは擦り傷はもちろん、ちょっと人前には出られないくらい泥まみれになっていた。初めて逢ったとはまるで思えない打ち解けたはしゃぎぶりで風呂からあがると、光のぶんの着替えも用意され、食卓にもすでに夕飯が乗っていた。


「ごうと一緒やから、ちょっとつんつるてんかもねえ。ん、大丈夫。さ、遠慮せんでええんよ。お腹すいたやろ」

にっこり笑った剛の母に光は端正な顔を曇らせた。

「どないしたん? なんぞ好かんもんでもあるんか?」

「……」

たった三人きりの、けれども暖かな団欒。光はそれに言葉を失った。


 彼にはこんな記憶はなかった。いつでもたった独りっきりの食事だった。どんなメニューでも、好きなだけそろう。

けれども語り合う相手はもちろん、共に箸を持つ相手すらいない毎日。九堂会総帥である父は愛人の家に住まい、病弱な母は自分だけで手一杯という有り様で、ただひとりの息子である光を顧みることが無かったのである。唯一九堂会創成時、裏から助力した叔父が厳しい稽古と作法を教えてくれてはいたが、語り合うことなど皆無であった。

「大人しいんやねぇ。うちのごうちゃんとはえらい違いやわ。しっかりしとるし…。これからも仲良くしたってな」

「お母ちゃんそれ、誤解や!  わいかて父ちゃん代わりや、外ではしっかりしとるんやでぇ。」

剛がおあずけをくったまま、ブウブウ云う。

「へえ〜、この泣き虫ごうちゃんが?」

そう云って母はからからと笑った。女手ひとつで剛を育てている誇りと、芯の強さに満ちた笑顔だった。

「いただきます…」

ぽつりと云って光は箸を取った。


 ――――それ以上口にしたら、泣いてしまいそうだった。



「…それが今やこれやもんな!」


 剛がおあずけをくったような顔でブウブウ云う。

「はん、お前の成長が遅いだけや。この万年欠食児童」

高校2年の夏。二人はまっすぐに成長した。剛は大きな瞳に笑顔もそのままだが、いかんせんやせぎすのままで頭一つぶん背丈も光に離された。光は美しい容姿は変わらずだが女性と見間違うことは今はない。頑健で長身、眼差しは氷のように冷たく鋭い。人付き合いは決して上手くはなかったが剛とだけは饒舌に話しあっていた。

「詐欺やでマッタク…。ま・ええわ。おかげさんで今年の夏休みもグアムの別荘やし、なにより、これ! スイカやがなスイカ〜〜!一個まるごとオタマでスイカ。わいの永年の夢やったんや〜っ!」

感涙にむせんでいる。本当に嬉しいのだろう。まさに「花より団子」だ。

「剛お前、もーちょっとましな夢ないんかい? 見てるこっちが恥ずかしゅなるわ」

抱え込んでスイカを貪り始めた剛にはもう何を云っても無駄である。

「ん、光のぶんもあるしいいやないけ。…ところでお前、なんで日焼けせえへんの?  特異体質やなぁ。シロヘビやシロヘビ」

「ほっとけ! わいはええんや、喰いたいモンなんか…」


(わいが欲しいモンは、みんなお前がくれたんや。剛、お前が…囚われの、お姫サンを助け出したあの日にな。)


 異国の地にも間もなくあの日と同じ、二人で見た夕焼けが訪れる。あの日と変わらぬ二人を夜の闇がつつむ。長い夢を見ていたかのように光はゆっくりと延びをして、剛のもとへと歩いていった。



                                ・・・・・終わり。

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― 新着の感想 ―
[一言] 素晴らしい! 確かにエロイところはありますが、芯はしっかりしていて所々心を打ちます。
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