お月さまは聞いちゃくれない
あれ以来、学校には行っていない。
表向きは、イジメによる不登校だが、本当の所は小説を読み、そして書きたかったからだ。
最近の外出は、バイトと買い物、あとは本屋に行くくらいだ。それ以外の時間は、全て小説に費やしている。
だが、なかなか納得のいく文章は書けない。思っている事はたくさんあるのに、今の言葉には、それをアウトプットするだけの能力がなかった。書きたくても書けない。それが、言葉の闘志に火をつけた。あの日夢見た、あの世界。今の言葉には遠すぎる場所だ。だからこそ、言葉はたどり着くと決めた。何物にもなれなかった自分が、誰かの何かになる。それを想像するだけで、言葉はいくらでも書き続けることができた。
ある日、言葉は新人賞の存在を知った。
作家を目指す言葉だが、まだまだその知識は浅かったため、そのページを見つけるのに、二ヶ月もかかってしまったのだ。
そのページを見ると、〆切は四日後に迫っていた。今まで、書いてきた小説はいくらでもある。しかし、言葉はその中から、どれかを選ぶことはできなかった。この文は、まだまだ拙すぎる。こんなゴミのようなものを見られるのは、我慢ならなかった。
言葉が取った取った選択肢は、今から新たな小説を書き上げることだった。
新人賞の規定では、一枚に42×34文字の原稿用紙を、80枚以上だった。一日に20枚を書けば、〆切には間に合う。言葉はなんの迷いもなく、文也にもらったパソコンのWordを立ち上げ、タイピングを始めた。
不意に目が覚めた。明かりを感じた訳ではない。その証拠に、空はまだ月に占拠されていた。部屋の電気をつけると、学校に行っていたころは使っていた目覚まし時計が目に入った。その時計は、午前二時を指している。午後十一時までの記憶は残っているので、三時間ほど寝てしまったようだ。
画面がブラックアウトしたパソコンの電源を入れ、Wordを開くと、三十ページまで書かれた小説が表示された。言葉が書き始めたのは午後六時なので、五時間ほどでここまで書いた計算になる。これが早いのか遅いのか、言葉にはわからなかったが、新人賞に間に合いそうだということに安堵し、麦茶を一杯飲んでから再び文字を紡ぎ始めた。
今書いているのは、姉が被害者になったことから連続殺人を追う一人の少女の物語だ。一緒にそれを追っていた男の子が無残な姿で発見されるシーン。かつて、学校で酷いイジメにあっていた彼女を救ってくれた二人の死を前に、失意の念に駆られ、絶望し、その絶望を胸に、犯人を殺すことを心に決め、再び犯人捜しの度に出る。
言葉には大切な人、自分を絶望から救ってくれた人という存在がいないので、正確な彼女の気持ちなんてわかりやしないのだけれど、それは想像で書いていくしかない。小説とは少なからずそういうものなのだから。
午前七時。さらに二十枚を書き上げ、五十枚。今日も同じペースで書けば、明日には終わるだろう。だがそんな思考の前にただならぬ疲労感が襲ってきた。腹の底から。その感覚で、言葉は自分が、昨日の昼から何も食べていない事に気が付いた。とりあえず、冷蔵庫にあったヨーグルトを食べてから、コンビニへと出かける。
日がでる前の街の風は冷たかった。カツカツという自分の足音が聞こえる。それくらいには静かだ。街に一人、取り残されたような気分になる。コンビニも、朝方は無人営業をしているので、誰もいない。そろそろ一人くらい店員が出勤してきてもおかしくはない時間帯なので、それに出くわす前に、さっさとパックの紅茶とサラダチキン、それと揚げたてらしい唐揚げ棒など、昼になったらスーパーに行こうと考えながら、電子マネーで支払いを済ませる。
ちょうどレジに店員が出てきたが、すでに言葉は買い物を済ませているので目を合わせないように店を出ようとする。
「もしかして……杠葉?」
名まえを呼ばれたが、振り返らない。振り返らなくても誰かは分かっている。
「みんな、急にお前が学校に来なくなって、心配してるぞ」
クラスのカーストのてっぺん、言葉をイジメたやつらとよくつるんでいる男子生徒だ。日曜日である今日、このコンビニに朝からのシフトで入っていたのだろう。そこにやってきてしまったのが言葉の運の尽きだ。
言葉は、何も言わず、そのコンビニから出ていった。全力ダッシュで。あのクラスメイトが、本心から言っているわけではないのがひしひしと伝わってきたから。単なる社交辞令だと、不登校である言葉を変に気遣って、何を言うか迷って選んだものだと、言葉は感じたから。そんな言葉に耳を貸すほど、言葉の心は落ち着いていなかった。
家に帰って、先ほど買ったばかりのものにそのままかじりつく。十分においしいけど、味気ない食事だ。
きっと、彼はこんな食事、経験したこともないのだろう。独りぼっちで、薄暗い部屋で、涙を流しながら食べる食事。言葉にとっては、何度も何度も、それこそ日常的にしてきたことだ。しかし、こんな思いをしているのはクラスで言葉くらいのものだろう。初めから幸せの翼をもがれたものの気持ちなんて、空を飛ぶ鳥たちに分かるはずもない。分かってもらいたくもない。同情ならいらない。幸せもいらない。ただ、彼らに会いたくない。それだけだ、言葉が求めるものは。
分からないのなら、せめて踏み込まないでほしい。ここにある足跡は、自分だけでいいから。
言葉は強くそう願って、パソコンを起動して、Wordを開いた。
気が付けば夜中になっていた。月がもたらした冷たい風で言葉は目を覚ました。
原稿は完成した。保存して、安堵のあまり眠ってしまったようだった。
会心の出来だった。間違いなく、言葉の最高傑作だ。誰が読んでも、面白いと言わせる自信がある。それくらいには、自分が書いたこの小説の面白さに自信がある。
高揚した気分のまま、新人賞のページを開き、必要事項を記入してから、ネットの回線を通して送り付けた。
腹が減っていたが、そんなものを気にする余裕は今の言葉になかった。
表情がこわばっている。ひきつった唇は、麦茶を飲むことすらままならなくて、結局諦めてしまうほどだ。それくらいに緊張していた。言葉にとっては、初めての出来事なのだ。新人賞というのは。初めて誰かに、自分の小説が読まれる。それだけで、緊張は言葉の頭を飛び越えて、月まで届きそうなくらいだった。自慰行為を他人に見られるような恥ずかしさと比喩した人もいたそうだが、まさにそれである。それどころか、何を妄想して、どんなシチュエーションを想定して行っていたのかまで全部筒向けになっているような、そんな恥ずかしさで言葉の体は今までにないほどに火照っていた。悲しくもないのに、涙が溢れてくる。熱い熱い涙だ。体の底から、芯の部分から、とめどなく熱がこみあげてくる。想像するだけで、オーバーヒートだ。煙を出して爆発しそうなくらいの混乱が、言葉の頭を攻め落としていた。
この新人賞の、過去のページを調べると、最終選考の結果が発表されるのは、ちょうど半年後だった。その日まで、胸を躍らせながら、言葉は文也の小説を読むことにした。
一次選考は問題なく通っていた。それは、三カ月前に知ったことだ。自分の書いた小説が誰かに認められたのが、純粋にうれしかった。それでますます調子に乗った言葉は、新作の小説を一本と、手を付けていなかった文也の小説を全部、それすらもすでに読みきってしまい、別の作者の小説も読み始めた。
しかし、言葉の快進撃はそこまでだった。
最終選考とともに発表された二次選考に、言葉の名前はなかった。残念なことに、それが今の言葉の限界だった。悔しくはあった。なによりも自信があった。これから、自分の第二の人生が始まるのだと、言葉は本気で思っていた。
それが、こんなところで砕けてしまった。血が出るほどに拳を握りしめ、下唇も強く噛んだ。それでもこの気持ちが晴れることはなかった。むしろ、どんどん募っていく。見る目のない読者が。自分の小説に正当な評価をくださなかったヤツが。そしてなにより、未だ何者にもなれない、自分への苛立ちが。
珍しく壁に手を打ち付ける。普段、どれだけ辛くてもそんなことはしないのだが、今は物に当たるくらいしか、このストレスの発散方法が思い浮かばなかった。
なぜこんな気持ちが浮かんでくるのか、今の言葉には分からない。ただ、悔しさだけが残り、言葉の初めての新人賞は、無念な結果に終わった。
人間の心というのは常々変わっていくものらしいけれど、どんな小説を読んでも、誰が書いた小説を読んでも、一つだけ変わらないものが言葉の中にはある。
他でもない、芥川文也の小説である。文也は、デビュー作からヒットを飛ばした売れっ子だ。そして、言葉には文章の世界を教えてくれた人でもある。実際のところは、言葉が勝手に一人で知っただけなのだけれど、あの廃屋で文也にパソコンを貰わなければ小説という媒体を目にすることなどなかっただろうし、それがなければ言葉が小説を書き始めることもなかった。あの日が、間違い用のないくらいの分岐点だ。
そして文也はかなりの速筆として知られている。ほぼ毎月、酷い時は1ヶ月に3冊を刊行することもある。令和の文豪と呼ばれる彼は、令和一の速筆作家としても有名だ。
今日は、文也の新刊の発売日。そして、文也が一番刊行しているレーベルの新人賞の〆切の日でもある。
すでにその原稿を終わらせ、何度も何度も、紙媒体であれば穴が空いたであろうほどに見直しを重ねて、万全を期して言葉はデータを送った。それが昨日のことだ。面白さだけなら、文也にも負けず劣らずと自負できるほど、いい作品に仕上がったと思う。
朝目が覚めると、珍しく今回は文也のサイン本が発売するらしく、学校に行っていない言葉は平日にも関わらず、本屋が開店する1時間前に並びに行った。
何度か利用している本屋で、平日の昼間に当然のように来店する言葉は珍しかったようで、顔を覚えられている。
せっせとダンボールから平台へと本を移していく。
それを見つめながら、言葉はいつかここに、自分の本が並ぶことを夢見た。
ビニールで包まれている本を見ると、それだけ人気なのだろうと嫉妬するし、大反響と書かれたポップを見ると羨ましくなる。
言葉には、何もない。
生まれてすぐに両親は事故で他界したし、孤児園の人たちの、どこか憐れむような視線が嫌いだった。そのため、頼れる人間という存在がそもそもいないし、それはつまり、言葉は今まで一人で生きてきたことを意味する。
別にそれ自体が悲しいわけではない。恨んだって仕方のないことだというのは、言葉はちゃんと分かっている。それに、その環境が自分と文也をめぐり合わせたというのなら、それこそ自分を取り巻くすべてに感謝せねばならないだろう。
言葉がそれを羨ましそうに見つめるのは、勿論それが、純粋に羨ましいからだ。だって、彼らはすでに手にしているのだから。自分が自分である、確かな証拠を。本屋にならぶこれらが、彼らの存在意義を生み出しているのだから。
何も手にしていない言葉は、それが羨ましかっただけなのだ。自分は、何者でもないから。
もう何度目になるかわからないが、言葉は今度こそ、と新人賞を受賞することを心に決めた。それを決めるのは、言葉ではないのだけれど。
しかし、そんなことは文也の新刊を手に入れてご機嫌な言葉にとっては、どうでもいいことだった。
ひたすらに言葉は小説を書いた。具体的には、一か月に80万字ほど。毎日おうちとお友達をしている言葉にとって、時間というのは無限に存在するものだ。それにしても世間からすれば早い方なのだが。毎日、15時間ほどパソコンに向かう言葉には、もはや誰の声も届かない──ということはなかった。
「杠葉言葉さんで、お間違いないでしょうか」
その瞬間、言葉はスマートフォンをフローリングに落とした。
カツン、と高音とも低温ともつかない音が鳴り響いた後、慌てて言葉はスマホを拾って、声を絞り出した。
「は、はい。間違いない、です」
言葉には、感覚的に、それが何の電話なのか分かっていた。
「私、紅海文庫の編集者の河村と申します。本日は、新人賞の件で電話させていただきました」
とくん、と心臓が跳ね上がる。胸の奥から、涙が込み上げてくるが、電話中なので必死に堪える。
「まずは、おめでとうございます。新人賞、受賞されました」
しかし、その言葉で、言葉の瞳から、ぽろぽろと雫が零れた。
ああ、私は、ついに……。




