2章 1話 キューピッド像
リズたちと一緒に住み始めてから一週間が経った。
相手はサキュバスだ。
しかし、冗談めかした誘惑をされたり、寝込みを襲われたりしたかというと、そんなことはない。
なぜなら、我が家のサキュバスは、俺たちが想像するサキュバスとは異なる様相を呈しているからだ。
一人は血に飢えた狼のような凶暴性を持ち、もう一人は男に触れることもできない。
では、これまで通り平穏かというと、首を横に振らざるを得ない。
どういうことか。
まず、サキュバスであるということを度外視すれば、女の子と、それも美少女二人と一緒に住むと聞くと、健全な男子は幸福な妄想にたぶらかされるだろう。
そして、それは実現する。
実現するが俺の場合は、廊下の角で偶然リズと接触したり、あるいは寝ぼけたリズに抱きつかれたりして、彼女が我に返った後、もれなく爆破に見舞われるのだ。
しかもその度に、血の匂いを嗅ぎつけたハイエナのごときスピードで、オリヴィアが飛んで来るのである。
最近ではオリヴィアの攻撃をかわせるようになってきた。
危機を察知し、回避することで種の保存を目指すことは、洗練ではなく本能と言える。
こうして生物は進化してきたのだと思うと、実に感慨深い。
ともかく、何とか同居は成立していて、今日も学校に向かう。
通う高校は市街地からは距離があるが、郊外と呼ぶほど閑散とはしていない。
海が近いこの街自体も、都会とも田舎とも言えないのだが、唯一有名なものがあって、それだけがその存在を国内に轟かせている。
その名は――キューピッドランド――大規模な遊園地だ。
俺が生まれるずっと前、日本が経済的に豊かだった時代に建設され、絶望的な景気後退期を乗り切った。
その広大な敷地にひしめく多数のアトラクションと、何よりキューピッド像のおかげだろう。
キューピッド像とは、集客数を上げるために園内に作られた巨大なオブジェだ。
遊園地の名前にもある、ローマ神話の愛の神クピードー、――日本では英語読みのキューピッドをデフォルメしている。
背中に白い翼を生やし、恋の矢を携えた三等身の幼児の姿で、額に遊園地のマークが描かれている。
全高は百メートル、三十階建ての高層ビルと同じくらいの高さだ。
キューピッド像は、単に目立つものを作って話題性を獲得することだけを期待されたのではなく、他に狙いがあった。
それはキューピッドランドを訪れ、キューピッド像をバックに男女二人で写真を撮ると、恋愛成就するというジンクスを作ろうとしたのだ。
もっとも、アトラクションとキューピッド像が功を奏し、人気を博したわけではない。
この話には続きがある。
あるとき、テレビのワイドショーで特集が組まれ、流行の女性アイドルがレポーターとしてキューピッドランドを訪れたのだが、放送の直後、そのアイドルの恋人との破局報道が流れた。
不思議なことに、それからインターネットでキューピッドランドを訪れたカップルが、自分も恋人と別れたと相次いで騒ぎ始めたのだ。
その結果、キューピッドランドに行ったカップルは別れる、という不吉なジンクスが生まれてしまった。
あくまで俺の推測だが、そのアイドルの破局報道にインパクトがあったため、過剰反応が起こったのではないだろうか。
この話だけ聞くと、キューピッドランドは廃園に追い込まれそうなものだが、全盛期ほどの賑わいはないものの、現在も経営を続けている。
つまり、ジンクスは良くも悪くも、宣伝としての絶大な効果をもたらしたというわけだ。
とにかく、今やキューピッド像は、失恋の神として所在無げに鎮座している。
教室に着き、鞄を机に掛けていると、前の席に南条が座った。
「おはよう。聞いてくれよ、木場。昨日隣のクラスの子と遊んだんだけどさ――」
南条は「女の子大好き」を公言して憚らない正直な男だ。
明るい茶髪に端正な顔立ちで、女子ウケがいい。
こいつの鞄の中を見たことがあるが、整髪剤と小さな鏡、他には眉シェーバー、制汗剤、汗拭きシート――と、授業に関係のないものばかりが入っていた。
驚いたのは、教科書どころかペンケースすら確認できなかったことだ。
一体何しに学校へ来ているのやら。
とは言え、まるっきり軽薄な優男ってわけでもないから、つるんでいるんだが。
気がつくと、いつの間にか南条の話は終わっていて、何故か俺の顔をじっと見ている。
「なんだよ。気持ち悪いな」
「いや、お前さ、最近顔色悪くね? 何か疲れてる?」
心当たりはすぐに思いつく。
「……ちょっとな」
「目の隈凄いし、頬もこけてるし。鏡貸してやろうか? お前元々強面なのに、威圧感が五割増しになってるぞ」
「うるせーよ。顔のことは放っとけ」
「いや、マジで。今にも人を殺めそうだぜ」
「それ以上言ったら――」
凄んで見せると、南条は腹を抱え、破顔した。
「今のお前が言うと、シャレにならねーから」
そして、ひとしきり笑った後、
「気分転換に放課後、ナンパ行こうぜ、ナンパ」
「ンパンパ、うるせー。俺はそういうのはいいよ」
「たまには付き合ってくれてもいいだろ?」
俺たちの間でお馴染みになっている会話をしていると、教室の前のドアがゆっくりと開き、担任の御影先生が入ってきた。