1章 3話 通過儀礼(イニシエーション)
一呼吸置いてから、口を開いた。
「単刀直入に言うが、リズ様と私は、貴様たちが言うところのサキュバスだ」
サキュバス?
夜中に男を誘惑しにくる悪魔……だよな。
確かに、角と翼と尻尾は動物のそれのように、ごく自然に微動しているから、作り物ではない気もするが。
物騒な大剣や、この角やら何やらは本物だってことか?
にわかには、信じられない。
「疑っているようだな。信じられないのなら、別にいい」
長身の女は冷淡な口調で言うと、ソファの子が首を振った。
「助けていただいた方に、嘘をついていると勘違いされるのは不本意です」
長身の女が背を向け、翼と尻尾を大きく動かした。
「触って確かめてみろ」
ちらちら見ていたのに気付いていたのだろう。
翼だろうと尻尾だろうと、女の子に触ることに抵抗がある。躊躇っていると、
「さっさとしろ。私だって貴様に触られるのは嫌だが、そうでもしないと信じないだろう」
光沢のある黒い翼に、恐る恐る触れてみると、硬くてつるつるしている。
無機質ではなく、体温のようなものを感じる。
作り物にしては良く出来すぎている。
腰をかがめ、尻尾にも触ってみる。
翼と同じく、感覚的には体の一部だ。
さらに注意深く調べる。
先端の尖っている部分は、思っていたよりも柔らかかった。
付け根がどうなっているのか気になり、指を這わせようとすると、
「いつまで触っているんだ」
怒りに震える低い声が降ってきた。
長身の女が顔を赤らめ、睨み付けている。
慌てて飛び退る。
気づかないうちに夢中になっていたようだ。
見ず知らずの男に体を長い時間触られるのは、事情があるとは言え嫌だろう。
ソファの子が俺に尋ねる。
「いかがでしたか? 私たちの話を信じていただけましたか?」
翼も尻尾も、どうやら偽物ではなさそうだし、ソファの子を追いかけていた男たちの様子も確かにおかしかった。
ちょっと待てよ。
この子たちが本当にサキュバスだとしたら――。
大慌てで彼女たちから距離を取る。今度こそ逃げようとするが、うまく走れない。
腰が抜けているようで、這うようにして逃走を図る。
サキュバスは男を誘惑する悪魔だ。
何をされるか分からない。
サキュバスってどうやって退治するんだ?
冷蔵庫にニンニクあったっけとか、十字架なんかない、そうだ箸を十字にクロスさせれば……いやいやダメだろ、などと考えを巡らせるが、それらはサキュバスじゃなくて吸血鬼の対処法だと気づく。
無意味だと分かっても、他にどうすればいいか見当もつかないし、良いようにされるくらいなら悪あがきするべきだ。
冷蔵庫を漁ったり、箸をクロスさせたりする。
「なにをしてるんですか?」
ソファの子が近寄ってきて、俺の奇行に小首をかしげた。
なりふり構わず箸を振り回し、「来るな!」と威嚇すると、「きゃ、きゃー」と棒読みで叫んで、茶番に乗ってくれる。
大剣の方は敵意むき出しだが、この子は言葉の端々から、俺のことを気遣ってくれているのが分かる。
しかし、だからと言って恐怖感がなくなりはしない。
「お願いします、殺さないでください!」
「え、そんな私は、」
「何でも言うこと聞きますから。これからは寝坊もしないし、授業もサボりません」
「私はあなたに危害を加える気なんてありません」
「だってサキュバスなんだろ。誘惑して男の精を吸い取る、悪魔なんだろ。俺はまだほんの子供なんだ。喰ってもきっと旨くねーよ。それにまだ彼女だってできたことねーし、せめて本当に好きな女の子とキスしないと死ぬに死ねないよ。初めてのキスは、黄昏の観覧車の天辺か、桜の木の下って決めてるんだ。頼む、見逃してくれ!」
近くにあった鍋で頭を覆い、うずくまってぶるぶると震える。
「聞いてください! 私たちは何もしませんから、落ち着いてください」
鍋から少しだけ顔を覗かせ、「ホントに?」と聞くと、
「本当ですよ」
「ホントにホント?」
「はい」
「いや、でも」
長身の女が突然間に入って来て、大剣を振るい、
「しつこいぞ!」
「やっぱり信用できない!」
俺は鍋を被り直した。
すると、上からソファの子が弱々しい声で、
「そもそも私は、男の人に触れることができませんから」
「リズ様、そのことは、」
肩を落とすソファの子を、長身の女がすかさず制した。
「いいの。私に少し考えがあるから」
「何の話だ?」
男に触れることができない?
「少しの間、私の話を聞いてください。私はリズ・リューネブルクと言います。そして、こちらはオリヴィア。実は私……」
リズと名乗った彼女は、少し言い淀んだ後、決心した様子で口を開いた。
「実は私は、サキュバスなのに、男性がすごく苦手なんです」
男性恐怖症のサキュバス?
何だそりゃ。
子供嫌いの保育士?
音痴の歌手?
みたいなもんか?
嘘を吐いている可能性もあるが、そんなふうには見えない。
本当だとすると、サキュバスのイメージとまったく違う。
そんなことあり得るのか。
「それは珍しいことなんだよな?」
「はい、私くらいです」
ソファの子――リズは話を続ける。
「サキュバスは、というか男性の夢魔ももちろんいるので、私たち夢魔には、異性との粘膜接触により一人前と認められる通過儀礼という伝統的な儀式があるのですけど、」
「粘膜接触……って、そ、それって、つまり、」
話を遮り、声を出した。
しかし、次の言葉が出て来ない。
口をぱくぱくさせる俺に、リズは顔を真っ赤にして、
「ちが、違います! 違わないんですけど、あの、キスでいいんです!」
「そ、そっか。そうだよな」
同じことを想像していたことが分かり、二人して俯いてしまう。
リズは仕切り直し、
「男の人を魅了させられても、そこからの行為に及べないんです」
つまり、キスができない、と。
――キス。
唇と唇を重ねるアレだ。
この子の気持ちは理解できる。
一般的にはどうか知らないが、俺からすればキスなんてそんな簡単にできる行為じゃない。
「今回もその通過儀礼のために、あなたたちの住むこの人間界とは異なる次元にある世界――魔界からこちらの世界に来たのですが、慣れない人間界とたくさんの男の人に驚いて、夢魔の魅了の力をコントロールできなくなってしまって……そのせいで、多くの男性を惹きつけてしまいました」
さっきの騒ぎは、そういう事情があったのか。男が苦手というのが嘘なら、あんなことにはならないだろう。
彼女の話が真実だという裏付けになるのではないだろうか。
リズは俺を見据えて、
「本題はここからです――私の通過儀礼のお手伝いをしていただけませんか」




