曇り空に濡れて
「どうした? 傘が無いのか?」
塾の帰りのことだった。さらさらとした雨をこの身に受けながら、小走りで僕は家路についていた。
雨宿りがてら、ひと息つけようと思い、車通りも少しばかりある表通りから少し外れた公民館へと逃げ込む。
……逃げ込んだ先、公民館は今日は閉館日だった。
閉館日で助かった。といっても僕がここへとやってくるのは、日曜日に雨が降っている、今日のような閉館日の日しか無い。
勿論、閉館日に公民館に来るような物好きは居ないし、不思議と雨宿りをするような人も僕は居合わせた事がなかった。
僕は人と会話を保たすのは苦手だから、赤の他人だろうが近所の人達だろうが誰とも顔を会わせなくて済む分、一人だけの静寂に少しばかり身を置くことの出来るこの場所は結構気に入っている。
雨の日の日曜しかこんな場所に来ることは無いけど、降り注ぐ雨を眺めながらお気に入りの音楽でも聴いていると、日常に疲れ切ったこの心も癒されるというものだ。
そして今日。久し振りに雨宿りをしに来たこの公民館で、初めて一緒に雨宿りする事になる先客がそこには居た。
ただ、最初はその存在に気付かなかった。
「う、うん。無いけど……」
突然に掛けられた声に驚いたが、もっと驚いたのはその掛けてきた声の主の姿だった。
「なんだ? 何をそんな、驚くように俺を見るような目をしているんだ?」
そりゃあ、″狐″に″ヒト″の言語で喋り掛けられれば誰だって驚くもの。
そう、共に雨宿りすることになった相手は狐だったのだ。
当然ながら存在に気付いて無かった訳ではない。「あぁ、なんか狐みたいなのが居るなぁ」程度で認識はしていた。
公民館の玄関口の屋根で雨宿りしていた狐は、わざわざ雨に打たれるように僕の目の前までやって来てはちょこんと座り、「傘が無いのか」なんて問い掛けてきた。
その言葉を聞くまでは、人に慣れた狐なのかななんて思っていたが……。まさか、狐から人間の言葉が発せられるなんてのは思ってもみなかったし、今もまだこの現状に僕の理解が追い付いてない。
「君は、僕と会話が出来ていることに何も感じないのか?」
僕はとても驚いている。だけど僕は、理解が出来ないなりに夢でも見ているのではないかと、少し冷静な思考が巡り、そんな結論に至った。
夢を見ているのであれば、今こうして目の前にある理解不能且つ、説明不能な人間の言葉を話す狐との遭遇にも無理くりだけど納得がいく。
何故狐なのか、という無粋な疑問を投げ掛けたい訳ではない。何故、他の生物とのコミュニケーションが取れているのかというのを僕は知りたい。
「別に何も感じないが? たまたまお前と俺の会話が成立してしまっただけだろう。何も不自然な事はない」
そう言って、狐は僕のすぐ横へとやって来て、ぶるぶると身体を震わせ毛に纏わりついた水気を振り払う。
雨粒で重み増し、ぺたりと身体に沿うように横倒れしていた毛は、軽さを取り戻したのか、身体を震わせた瞬間に立ち上がった。
「不自然な事ではないって……。不自然だろ? 君と僕では姿がまるで違うじゃあないか」
「では聞くが、お前はどうして俺の言葉が理解できる?」
「そんなの、わからないよ」
「俺もわからない。いいか? 説明のしようがないものを無理に知ろうとするな。そういうものなのだと、納得するしかない」
この狐の言うことは正しい。答えの無いものの答えを知ろうとするのは、一度入り込めば出口も入り口も消えてしまうような、そんな滅茶苦茶な迷路の中に入るようなもの。
「僕以外の人間とは会話は出来るの?」
「いいや、同族以外と話が出来たのはお前が初めてだ。なんとも不思議な出会いだとは思わないか?」
狐に面と向かって不思議な出会いだと言われても……。なんだかおかしな表現にしか僕は思えない。
「不思議というより不自然だよ……。やっぱり」
「まぁそう言うな。それよりこんな所で自分と同じ姿以外の生き物と会話を交わすことが出来るんだ。お互いのことを語り合おうじゃないか」
なるほど、人間は狐の事を知っているけど、狐は人間の事を知らない。
僕は狐に、人間という生き物について、僕の知っている事を教えて上げた。
自分たちで火を起こせたり、翼を持っていないのに空を飛べる術を持っていたり、一人一人に名前があるという事。
僕らにとって当たり前の事が、狐にとってはどれも衝撃的だったようだ。
「……人間、か。凄い生き物なんだな」
狐は人の持つ文化にとても感嘆している。
いつの間にか雨も止み、遥か彼方にある雲の隙間からは、僅かに太陽が顔を出しかけていた。
「さて、僕はそろそろ家に帰るよ。また雨の日にここに来れば会えるかも知れないね、ノノ」
「俺も、そろそろ仲間の元へと戻るか。また会える時を楽しみにしてるよ、彰人」
僕は狐に自分の名を教え、名前の無かった狐には″ノノ″と名前を付けてあげた。
ノノは大きな欠伸と伸びをして、僕の歩く先とは別方向へ走り去っていった。
「ノノとは、不思議と会話が途切れなかった。また会えるといいな」
湿気ったぬるい風が、散り落ちる桜を少しばかりその身に纏わせて走り抜ける中、僕はゆっくり、家へと続く道を歩いていく。
――暫く経った日のこと。
久し振りに降る日曜日の雨。久し振りと言っても、ノノと出会ったあの日から、まだ二ヶ月しか経っていない。
「ノノ、居るかな」
僕は公民館への道を、あの時と同じように小走りで向かっていた。
「居た! ノ……」
角を曲がり、公民館の屋根の下にはノノらしき狐の姿。
だが、ノノとは別の先客が居たことには気付かず、そして気付いた時には既に遅かったが、反射的に口をつむぐ。
「あれ? 伊藤君?」
逃げようとした時には先客に僕の姿は見られてしまっていた。
「叶さん……」
他人ならともかく、まさかクラスの人間とここで居合わせる事になるとは……。
「伊藤君も雨宿り?」
叶さんはクラスの中でも良く見掛ける、キラキラとした笑顔を向けている。
「あぁ、うん。も、ってことは、叶さんも?」
とりあえず、当たり障りのない答えを返していく。
「うんっ。雨降るって予報見て知ってはいたんだけどね……。忘れちゃった」
「そうなんだ……」
……会話、途切れちゃったな。
「この子、可愛いね」
見れば叶さんはノノ……らしき狐とじゃれあっていた。
狐に噛まれたりしないかな、なんて心配もしたけど、無駄だったみたいだ。
「そうだね。……叶さんは動物が好きなの?」
「うん! とっても!」
手は狐とじゃれあったまま、顔を僕の方へと向けて、叶さんはまたもキラキラとした笑顔を振り撒く。
「そ、そうなんだ。……あっ、忘れてた」
眩しい叶さんにたじろぎながら、あることを思い出し、僕はリュックの底に向けて手を伸ばす。
「……これ。使ってよ」
叶さんへと差し出したのは、柄見のない真っ黒な折り畳み傘。
「え?」
にっこりとしていた叶さんの表情は、少し驚いたようなものに変わった。
「僕はこのまま走って帰るからさ」
「そんな、悪いよ」
「いいから」
今叶さんがじゃれあっている狐がノノだとしたら、久々に話したいのはあったけど、今はこの場から逃げたい一心で、傘を叶さんへと押し付けた。
「じゃあ、また。傘は返さなくていいからね」
それだけ叶さんへと言うと、僕はリュックを急いで背負い、どしゃ降りの雨の中を駆け出した。
「伊藤くんっ!!」
突如大声で掛けられた声に、僕は振り返った。振り返るしかなかったと言うべきか。
「傘っ!! ちゃんと返すから!! また明日ねっ!!」
そう言って、叶さんは大きく手を振る。
そんな叶さんとは対照的に、僕は声を出すことなく首を縦に振り、小さく手を振るだけで精一杯だった。
「頑張れよ!」
走り出す直前、いつしか聞いた、よく覚えている声が聞こえた。
叶さんとじゃれていた狐は、やっぱりノノだったらしい。
何を頑張るかはわからないけど、女の子とちゃんと喋ったこと、喋れたことにどぎまぎした気持ちを振り切る為に、全力で走った。
公民館から家までは結構な距離があり、家の近くに来る頃には雨は止み、淀んだ雲を裂くように陽の光が溢れて来ていた。
立ち止まってびしょびしょに濡れた学ランのボタンを全部外し、湿気と全力疾走で暑くなった身体に少しばかりの風を感じながら、家までの残りの距離歩いた。
願わくば高校を卒業するまでに、ノノと叶さんと三人で雨宿りをする日が来るといいな。
……なーんて考えていた僕の顔は、締まりのなく、だらしのないものだったかも知れないね。