影
その夜、箕輪は用意された部屋で、早々に眠りについた。
とにかく体が重く、とてつもない疲労感に襲われた。
――これが、疲れるっていう感覚なのか。
箕輪は簡素なベッドに沈み込みながら、初めて体感する肉体疲労に翻弄された。たしかに、これでは必要最低限のことしかできそうにない。
目を閉じると、あっという間に、泥のように眠りに落ちた。
その夜、箕輪は夢を見た。
それは、まるで他人の夢を覗き見ているような、奇妙な夢だった。
暗闇の中を、脳のない肉体が徘徊している。
それは、今、箕輪の意識がインストールされている肉体である。
ただ、実際と異なり、その頭部には大きな穴が空いていた。そして、そこには頭蓋骨も大脳もなく、ただ、洞のような穴の底に小脳と脳幹が見える。
脳のない肉体は、何かを探すようにして、暗闇を彷徨っている。箕輪は、なぜかその肉体が、失った大脳を探して彷徨っているということに気付く。
箕輪は彷徨う肉体を見て、痛々しい気持ちになった。
――やめろ。お前の脳はもうないんだ。
しかし、脳のない肉体は、自身の脳を探すことをやめない。
ふと、脳のない肉体は、箕輪に向かって手を伸ばしてきた。
箕輪は慌てて逃げようとしたが、体が動かない。いや、そもそも、動かすべき肉体がない。
――よせ。これは俺の脳だ。お前のじゃない。
しかし、箕輪の声は届かない。
そもそも、声など出せるはずもない。
脳のない肉体は、箕輪の入った容器を倒し、ガラスを割る。培養液が溢れ、床が水浸しになる。
脳のない体は、割れた容器から箕輪の脳を取り出し、無理やり自身の頭部に入れようとしている。
箕輪は言い知れぬ恐怖に駆られ、意識の中だけで金切り声をあげた。
――やめろ、やめろ。俺はお前の脳じゃない。
脳のない肉体は、雑な手つきで、箕輪の脳を自身の頭部に押し込む。
ふいに、箕輪の脳を収めた頭部の顔がニタリと笑った。
箕輪はその顔が、自身の表情なのか、肉体の表情なのか分からず、絶叫した。
気が付くと、箕輪は寝室の床に倒れていた。
体中が汗でびっしょり濡れている。
――夢?
箕輪は自身の頭に触って、そこに穴が空いていないことを確かめた。
穴など空いていない。
箕輪は脱力し、深い溜息を吐いた。
――なんてひどい夢だ。
悪夢にもほどがある。
『どうされましたか?』
リサが問いかけてきた。箕輪は重い体を起こし、額を手で押さえる。ひどく頭が痛い。
「……ひどい夢をみた」
『夢、ですか』
「頭が痛い」
『寝ている間に寝台から落ち、その際に、頭を軽く床に殴打したようです。スキャンしましたが、特に身体に異常はありません』
箕輪は溜息を吐いた。
「……まるで、自分の夢じゃないみたいだった」
『おっしゃっている意味が、分かりません』
「この肉体の見ている夢を見せられている気分だった」
『その肉体の大脳は摘出されています』
「そんなことは分かってる。でも、小脳や脳幹は残っているだろ」
箕輪はイライラと吐き捨てた。
知性は大脳新皮質、感情は大脳辺縁系が司っている。しかし、体内環境の調整や、食欲、性欲などの本能的な欲望は間脳が担っている。間脳は脳幹に含まれる部位である。間脳から延髄につながる部分を脳幹という。
――さっきの夢。
あの夢はまるでこの肉体の見ている夢を覗き見たようだった。
しかし、この肉体に大脳はない。
我々は、大脳に心があると信じている。だからこそ、大脳を取り出し、大脳のみで人類の存続を図ったのだ。
――でも、もし、さっきの夢が、この肉体の見ている夢だとしたら。
それはすなわち、大脳のないこの肉体に、心があるということなのではないか。
箕輪は背筋を撫で上げられたような悪寒を感じた。
これ以上、考えてはいけない。心の全てがそう叫んでいる。
『血圧が上昇しています。鎮静剤を出しましょうか』
「いらないよ。余計なお世話だ。放っておいてくれ」
言いようのない気持ち悪さに、箕輪は吐き気を催した。
今すぐ、この肉体とのリンクを切りたい。しかし、3日経たないことには、リンクを切ることはできない。
箕輪はやりきれない思いを抱えたまま、おぼつかない足取りで立ち上がった。廊下に出ようとしたところで、リサに呼び止められる。
『まだ睡眠が足りていません。寝室へお戻りください』
「うるさい! 排泄だ。まったく、なんで肉体というのは、こんなに不便なんだ」
ブツブツ文句を言いながら、箕輪はふらつく足取りでトイレへ向かった。
廊下は薄暗く、非常灯の赤いランプが、わずかに暗がりを照らしていた。
箕輪は廊下の手すりにつかまりながら、足を引きずるようにして、ゆっくりと廊下を歩いた。歩くたびに、船に揺られるように体がぐらつく。
――どうして、肉体という物はこんなに重いんだ。
少し歩くだけで息が切れる。
箕輪は手すりにつかまったまま、ズルズルと床にしゃがみこみそうになるのを必死でこらえた。人類が肉体を捨てたのも、分かる気がする。
箕輪はようやくトイレに辿り付き、事前講習で習った通り、排泄を行った。
排泄を済ますと、ようやく少しだけ気分が落ち着いた。洗面台の前で手を洗い、鏡に映る顔を改めて見つめた。
――凡庸な顔だ。
身体の健康さのみで選ばれた体だ。顔の美醜は選考基準に含まれていない。
大昔、まだ人類が皆、自身の肉体を用いていた頃は、自身の顔の美醜は、人々の大きな関心ごとの一つだったという。
しかし、人々が自身の肉体を放棄した今、元々の顔の美醜は全く意味をなさなくなった。
その気になれば、絶世の美男美女にも、それこそ動物でも魚でも好きなモノに姿を変えられる世界において、持って生まれた顔など、どんなに美しかろうが意味を持たない。
――ある意味、平等なのかもな。
生まれつき、一つの肉体に縛られるというのは、ある種の呪いに近い。
自身が選んだわけでもないその肉体に、死ぬまで縛られなければならない。
ふと、箕輪は気になったことを口に出した。
「リサ」
『はい。何でしょうか』
「俺の元々の肉体は、今、どうなっている?」
『IDナンバー7963。箕輪の肉体は、大脳摘出後、他の個体同様、廃棄処分されております』
「……だろうね」
予想していた通りとはいえ、あっさりとした回答に、箕輪は肩を落とした。
「廃棄処分された肉体は、どういう風に処分されるの? どこかで焼いたりするのか?」
大昔には、死んだ人間を焼く荼毘という風習があったと、何かで聞いたことがある。
しかし、リサの答えは素っ気ない。
『人体を燃焼させるためには、ダイオキシンの発生を抑えるためにも、最低800度の火力が必要となります。それだけの火力を発生させるには、相当のエネルギーが必要です。そのエネルギーを捻出するのは、現時点では無駄と言わざるを得ません。よって、大脳摘出後の人体は、基地の外にそのままの状態で廃棄されます』
「そのままって、ゴミみたいに捨てられるの? それって、ひどくないか」
『人間の倫理観に関しては、私には分かりかねます。私は命令通りに実行しているだけなので』
リサの素っ気ない応えに、箕輪は溜息を吐いた。鏡の中の顔を改めて見つめる。
自分の本当の顔が気にならないと言えば嘘になる。しかし、処分されてしまったものは仕方がない。
ふと、箕輪は鏡に映った肉体の首筋に、薄く数字が浮き出ていることに気付いた。
「リサ。この首筋に浮かんでいる数字はなんだ?」
『それは、その肉体のIDナンバーです。個体には全員、首筋にIDナンバーが印字されています』
「へえ」
改めて、よく見ようと、鏡に顔を近づけたその時、鏡の向こうで、何かと目が合った気がした。
トイレの入り口から中を覗く小さな影。箕輪は驚いて振り返った。
振り返った瞬間、それは脱兎のごとく駆け出した。箕輪は慌ててその影を追おうとしたが、いかんせん、不慣れな体のため、素早く動くことができない。
その影はあっという間に、闇色の深い廊下の向こうへ消えて行った。
箕輪は思わず叫んだ。
「リサ! あれはなんだ?」
『あれとは』
「今、廊下の向こうに走っていった奴だよ!」
『お答えできかねます』
「なんでだ。あれは、生き物じゃないのか?」
あの動きは、どう見ても、ロボットの動きではない。
『あの個体の情報は、私のデータベースには登録されておりません』
箕輪の頭は混乱した。
パッと見ただけだが、今のは人間の子供のようにも見えた。
しかし、この基地内で生きて動いている肉体は、自分だけのはずだ。
「この基地で、他に俺のように活動している肉体はいるのか?」
『いません。あなただけです』
「じゃあ、今のは一体……」
箕輪は呆然と暗闇の廊下を見つめた。