透馬
あれから5日経った。そろそろ正式に依頼が届いても良い頃だ。
――来るんだったら、早く来てくれ。
まな板の上で捌かれるのを待つ鯉の気分である。箕輪は、今更ながら、外の世界に怯えていた。
「箕輪」
ふいに声をかけられ、箕輪は空中で振り向いた。
そこには、人と同じくらいの大きさの、巨大な白い魚が浮いていた。
光沢のある大きな半円形のひれを、ドレスのようにたなびかせたその魚は、魚のくせに流ちょうな日本語で箕輪に話しかけてきた。
「聞いたわよ。外に行くんだって?」
「千歳……」
ぼうっとした箕輪を見て、千歳と呼ばれた魚は、魚のくせにため息を吐いた。
「浮かない顔ね」
「まあね」
箕輪は不承不承、体を起こした。
「気持ちは分かるけど、元気出しなさいよ。考えようによってはチャンスかもよ? 何か外で功績を挙げれば、将来、欠員が出た時に、運営に格上げしてもらえるかもしれないし」
「魚に励まされても……」
「あら、綺麗でしょ? ショー・ベタっていう種類の熱帯魚なんですって。今日の景色って、なんだか魚が合うような気がしたから、そうしたの。ウェディングドレスみたいで、良いと思わない?」
そんなことは聞いていない。と言い返そうとしたが、何倍にもなって返ってきそうなので黙っていた。
この世界では、外見を自由に変えることができる。
人間はもちろんのこと、その気になれば、動物だろうが魚だろうが、その日の気分によって好きな外見になることができる。
そのため、千歳のように、日ごとに変わる風景に合わせて、自身の外見を変える住人も少なくない。
一方で、箕輪のように一つの外見を使い続けている住人も、中にはいる。特別なこだわりを持っている場合もあるが、箕輪の場合は、単に、頻繁に外見を変えるのが面倒なだけだった。
頻繁に外見が変わるのに、住人を判別することができるのは、住人全員にIDナンバーが登録されているからだ。
IDは目には見えないが、相手と相対した時に自動で把握できるようになっている。
そのため、姿が変わっても、相手が誰だか分からなくなるということはない。この世界において、外見を変えることは、服を着替えるのと同程度の認識なのである。
ふと、箕輪は思った。
「千歳はさ、自分がもともと、どういう姿をしていたか、知りたいと思う?」
問われた千歳は魚のくせにキョトンとした顔をした。
「何よ、突然」
「いや、何となく」
千歳は少し黙り込んだ。
「思わないわね。第一、元の体なんて、とうの昔に処分されているんだから、今更知りようがないじゃないの」
「そうだよな……」
箕輪はぼうっと空を見つめ、呟いた。
千歳が怪訝そうな声を出す。
「ちょっと、大丈夫? そんなに外に行くのが嫌なの?」
「嫌というか……透馬のことがあったから」
「ああ……」
千歳の口が途端に重くなる。
透馬は箕輪、千歳と同年代の昔馴染みだった。
しかし、今はもうこの世界にはいない。数年前、外界調査員に選ばれ、外に出た後、二度とこの世界に戻ってくることはなかった。
「おかしいと思わないか? どうして透馬は戻ってこない。他の前任者達は、皆、ちゃんと帰ってきたのに」
「運営から説明があったじゃない。透馬は別のサーバーに移動することになったんだって」
「理由は?」
「システムの不具合でしょ。何らかの故障で、元のサーバーに接続できなくなったんだって、そう説明を受けたじゃないの」
「それを信じるのか?」
「信じる他に、どうしようがあるのよ」
「外で何かあったのかもしれない」
「何かって何?」
「それは分からないけど……」
千歳は呆れたように首を振った。
「あんたって、昔から透馬にべったりだったものね」
「変な言い方するなよ。千歳だって、おかしいと思うだろ。そもそも、本当に別サーバーがあるのかだって」
「はいはい、この話はこれでおしまい」
千歳は強引に話を打ち切った。
「ねえ。運営を疑って何になるの? この世界を維持して、私達の生活を快適に守ってくれているのは運営なのよ?」
「でも、彼らだって、本当のことを全部話しているわけじゃないのかもしれない」
「だとしても、それが何? 私達の生活に何か支障でもある?」
箕輪は口をつぐんだ。
「彼らが何を隠していようが、何を企んでいようが、この生活を維持するのに必要なことなら、目を瞑るしかないわ。私達に、他にどうしようがあるの? 人類が存続している今が、既に奇跡なのに。変わらない明日が来るのなら、世界の裏側で何が起こっていようが、知ったことではないわ」
千歳はそう言い捨て、ひらりと尾びれをたなびかせて背を向けた。
「透馬だって、きっと今頃、別のサーバーで楽しく暮らしているわよ。じゃあね。健闘を祈るわ」
そう言って、千歳は青い空を泳いでいった。
後日、箕輪の元に依頼が届いた。
運営からの連絡は、脳に直接送られてくる。
依頼には、外界調査の日程とパスワード、それに、事前講習のスケジュールが記されていた。実際に外界に行く前に、外界に出るにあたっての心構えなどを学ぶため、講習を受けることが義務付けられていた。
講習の際、教官は言った。
「不安は大きいでしょうが、ご心配なく。外界に出た後は、サポート役のAIが、あなたを補佐してくれます。基本的には、彼女の指示に従っていれば問題ありません」
「AIですか」
「はい。ここでいくら外の状況について学んでも、情報として知ることと体感することとでは全然違います。大抵の人は初めて知る感覚にパニックを起こし、まともな思考をすることはできなくなります。そのため、調査員には必ずサポートAIが付くことになっているのです。AIは基地全体を統括するコンピューターに内蔵されているため、基地内のどこにいても、サポートを受けることができます」
「じゃあ、基本的には基地の外には出られないということですか」
「はい。基地の外は、未だ汚染状態で、人が生きられる環境にありません。絶対に、基地の外には出ないようにしてください。基地の内部は、浄化機能が働いているため、防護服なしでも活動することが可能です。箕輪さんには、基地で3日間過ごし、日々の健康状態を記録してもらいます。それ以外は、特に何もする必要はありません」
「何もしなくていいんですか?」
「はい。というより、何もできないと思います」
教官は苦笑いした。
その苦笑いを見て、箕輪は陰鬱な気持になった。
「やはり不安ですね。そんな状況下で、本当に支給された肉体を動かすことができるのでしょうか」
「理論上は可能です。調査に使われる成人男性の肉体は、厳選された健康体ですし、筋肉が衰えないよう、毎日、適切に電気刺激を与えてきたので、活動するのに支障はないはずです」
「でも、生まれてから一度も自分の足で歩いたことのない体でしょう。そんな体を、他人の脳が動かすなんて、本当に可能なんですか?」
「少なくとも、これまでは皆、うまく動かしていましたよ」
教官は朗らかに笑った。
「要は慣れですよ。自転車に乗るようなものだと思ってください。怖いのは最初だけで、一度乗りこなしてしまえば、どうということはありません」
――そもそも、自転車にすら乗ったことがないのだが。
どこか他人事のような教官の言葉に、箕輪は複雑な気持ちになった。




