外界調査依頼
見渡す限りの白い砂丘を背景に、箕輪は茫洋と空中を漂っていた。
うっすらと目を閉じ、暖かく吹く風に身を任せる。空はまっさらな青。
なだらかな凹凸の砂丘には、無数のエメラルド色の湖が点在している。地下水が雨水で嵩上げされ、砂丘の凹部分に小さな湖を形成している。雨季の風景である。
今日の景色は、ブラジルのレンソイス・マラニャンセス国立公園の風景である。
南米大陸北東に位置する、この白い砂漠は、宇宙からの衛星写真でも確認することができるほど、広大な面積を誇っている。その面積は、およそ15万ヘクタールに及ぶ。
砂のほとんどは水晶の原料でもある石英で構成されており、太陽光に反射すると、白く輝く。そのため、この砂漠は普通の砂漠よりも白く見えるのである。
――今日の景色は悪くない。
箕輪はそう思った。
景色は毎日変わる。景色の選択は無作為に行われ、住人が意見を出すことはできない。
昨日はオランダのキューケンホフ公園のチューリップ畑。その前は、イギリスのブルーベルの森だった。
いずれも美しい景色だが、箕輪には花畑よりも、今日のような無機質な印象の景色の方が性に合っていた。
風に吹かれて、砂丘の砂がサラサラと流れる。物理エンジンが機能しているため、実際の砂丘と同じように景色も変化する。
毎日、目の前に現れる美しい景色は、世界各地から選りすぐられ、データベースに保存された絶景である。
細部に至るまでリアルに再現された、本物と寸分違わない風景。住人達の精神衛生を保つために、運営側が配慮し、用意した壁紙である。
箕輪は空中を浮遊しながら、体温とほぼ同じ温度の風を感じていた。気温も湿度も、この世界で暮らす住人が心地よく感じられる程度に設定されている。
暑くもなく、寒くもない穏やかな気候。
飢えも痛みも苦しみもない。不快が全て取り除かれた世界。
時折、衝動的に舌を噛みたくなる。
しかし、噛んでみたところで、痛みなど感じるはずもない。
この世界における痛みは、人々にとって、レクリエーションの一つという認識である。全てにおいて心地いいこの世界では、痛みもすでに娯楽の一つでしかない。
――あなたは大変幸福です。
12歳になった時、運営から初めてかけられた言葉である。
初めは何のことだか分からず、ただ困惑した。
――あなたは無事12歳を迎えることができた。そして、この世界に迎えられる資格を得ることができたのです。これは、非常に幸運なことです。あなたは、古い殻を脱ぎ捨て、新たなステージに進化する権利を獲得したのです。
手放しに賞賛され、お前は幸運であり幸福なのだと刷り込まれた。
箕輪には12歳より前の記憶がほとんどない。
箕輪に限らず、ここに暮らす住人全員が12歳より前の記憶を失っていた。
ぼんやりと覚えているのは、粘液のような液体の中を浮遊する感覚。
ひどく苦しくて、全身が慢性的に痛み、指一本動かすのにも大変な労力を必要とした。体が石のように重く、自分の意思ではろくに動かすことができなかった。
揺れる景色の向こうには、薄暗い無機質な部屋が見えた。
子供の体が入った円筒形の透明な容器がいくつも並んでおり、たくさんのチューブが彼らの体から伸びていた。
子供の体は餓鬼のように痩せており、浮いた肋骨の下には、異様に膨らんだ腹部が見えた。
容器の傍には、たくさんの機械があり、どうやら、それらの機械で容器内の子供の体調管理をしているようだった。
それらの機械は、容器の外を動き回るロボットが管理していたが、容器の外で生きている人間は一度も見たことがなかった。
ある日、隣の容器の機械が、ピーッと高い音を立てて警報音を鳴らした。
心電図と思われる計器が、赤いハザードランプを点滅させて異常事態を知らせている。
すぐに管理ロボットがやってきて、機械を操作したが、既に手遅れのようだった。波打っていた心電図が一本の線になり、常態では青色に点灯していた容器の上にあるランプが赤色に変わった。
ロボットは素早く容器と機械を繋ぐコードを外した。
すると、今度は移動用の大型ロボットがやってきて、子供の体が入った容器をどこかへ運んでいった。
しばらくすると、大型ロボットが容器を元の場所に戻しに来たが、その容器の中は空になっていた。
あの時は、何が起こったのか分からなかった。
しかし、今ならば、あの時、何が行われたていたのか分かる。
12歳になり、この世界に迎え入れられた際、全て教えられたからだ。
自分は幸運だ。
全てを知った箕輪は、確かにそう思った。
しかし、幸運と幸福は、必ずしもイコールで結ばれるものではない。
君は幸福なのだと言われるたびに、箕輪はどこか腑に落ちない思いを味わっていた。幸福である事を強要されているようで、心の中がいつもざわつく。
実際の所、箕輪には目の前の景色を絶景だと言われても、今一つピンとこない。
この世界に迎え入れられてから、美しい景色以外を見たことがないため、美しくない景色というものが一体どういうものなのか想像がつかないのだ。
――でも、もうすぐ依頼が来る。
箕輪は無意識のうちに顔をしかめた。依頼とは、外界調査依頼のことである。しかし、実際にその任務を終えて帰還した連中からは、ろくな話は聞かなかった。
あんな所、二度と行くもんじゃない。人の住める場所じゃない。思い出すだけでも脳細胞が壊死しそうになる。そんな感想ばかりだ。
箕輪はウンザリしたように空中で伸びをした。
あれは、数日前のことである。箕輪は突然、運営から呼び出しを受けた。
「――私にですか?」
箕輪は呆然と呟いた。
場所はメキシコのイキル・セノーテを模した疑似空間である。
会議など、込み入った話をする時は、周囲を壁で囲まれている場所を壁紙として使用することが多い。神殿や洞窟、地底湖などがそれに当たる。
セノーテの水上には、7人の美しい若者が浮いている。見た目こそ若者だが、彼らは住人達の中では最古参の人々で、彼らが、現在の人間社会を仕切っている。
この世界の管理者権限を有する彼らは、住人達から運営と呼ばれている。運営は7人と決まっており、欠員が出るたび、住人の中から選出され、増員される。
「不満ですか?」
中央の女性が穏やかな声で言った。
「不満というわけでは……」
「脳波が乱れていますよ」
女性はクスクス微笑んだ。
箕輪は観念したように溜息を吐く。元より、彼らの前で嘘など無意味なのだ。
「正直、あまり気が進みません」
「なぜです? これは、人間全体にとって、大変意味のある任務ですよ」
「……本当にそうでしょうか」
「どういう意味だね?」
女性の隣の男性が、眉をひそめて口を開いた。
「外界調査に赴いて帰還した前任者達の話を聞く限り、外の世界は、今だ、人の住める環境にないかと」
「それを調べるために、定期的に実地調査を行っているんだ」
男性は堅い声で言った。
「しかし、大変な苦痛を伴うと聞いています。調査ならば、ロボットの遠隔操作だけで事足りるのでは?」
「実際に人体にどの程度の影響が出るのか、苦痛はどの程度なのか、それらを含めて調べてほしいのですよ」
女性は優しい声音で恐ろしいことを言った。
――つまりは、単なる人体実験じゃないか。
こんな風に頭の中で毒づいたことも、彼らには筒抜けなのだろう。
箕輪は溜息を吐いた。
「分かりました。謹んで拝命いたします」
「感謝します。詳細な日時は追ってお知らせします」
「承知しました」
「そう浮かない顔をしなくても、あなたにとっても、悪くない話かもしれませんよ」
「どういう意味です?」
「もしも、あなたが今回の調査で、これまでに得られなかった成果を持ち帰ることができたなら、あなたには名誉市民として特権が与えられるようになります」
「特権というと?」
正直、得られないものなど何もないようなこの世界で、手に入れたいと思えるほどの特権など思いつかない。
女性はあいかわらず穏やかな表情のまま言った。
「管理者権限です」
箕輪の表情が変わった。
この全ての欲求が実現可能になった世界で、一つだけ、自由にならないことがある。
それは、他者の脳に介入すること。
それだけは、管理者権限を持った一部の特権階級にしか許されていない不可侵領域だ。
他者の脳へ介入できれば、その人間の心を覗くことはもちろんのこと、その人間の行動も、本人に気付かれないうちに操ることが可能である。箕輪の喉がゴクリと鳴った。
「もちろん、全てではありません。しかし、もしあなたが人類にとって良い成果を持ち帰ることができたなら、管理者権限の一部の使用を許可しましょう」
「いいんですか? そんなことを許可して」
女性はニコリと微笑む。
「あなた次第です。それでは、頼みましたよ。良い結果を期待しています」