桔梗様のお迎え
稲葉家は、ご内助が裕福な、大きなお店でござます。
異国とも取り引きがおありに、ならはるみたいですが、奥にお仕えする私はよう、わからしません。
ただ、大旦那様から、お国が変わる前までは、えらいお武家さんとお聞きしております。
先見があらはった、その時のご当主様が、お国のお役につかず、お商売を始められたそうです。
当時の総領息子さん、若君の奥方に、お迎えするお方様も、わざに大きな商店のお嬢様を、お選びにならはったと、教えてもらいました。
大奥様も、今も繁盛なさる立派なお店が、ご実家であらはります。
奥様も、手広くお商売されてはる、紙問屋が、ご出自でございます。
なので昔は、お武家様のお言葉だった稲葉家も、時が過ぎるにつれ、町言葉になった、と大旦那様は、よくそう笑いながら、おっしゃりはります。
……大きな町屋敷の『稲葉家』お広い敷地は、高い塀にぐるりと、囲まれてはります。
そして、その内でお生まれにならはった、お子さま達は、昔の名残で、若様、姫様と、お屋敷内ではお呼び申するのが、お武家さんだった名残のお決まり。
今いる稲葉家のお子さまは、成人されてはりますが、これからうちがお仕えをする『一の姫 鐙子様』と、妹君の『二の姫 聡子』様が、おらはります。
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「ごきげんよう、秋子さん、これから、よろしゅうおたのもうします」
その夜遅うに、うちは大奥様のお座敷で、北の屋敷の家令『桔梗』様と、対面をしていました。
「秋子、北の屋敷を取りまとめている『桔梗』や、お顔は知ってはるな」
大奥様が、仲立ちに入って下はります。
「はい、桔梗様、これから、あんじょう、よろしゅうにおたのもうします」
頭を下げて、うちはきちんと礼を取る。明日からは、このお方の下で、お務めをする事になるから。
そんなうちを眺めながら、そういえば秋子さんは大奥様お手づから『琴』の手解きを、受けておられたはず……
と以前こちらの表で、お務めをしてはった、桔梗様こと『三郎太』様は、そう聞いてきはった。
「いえ、ほんの少しだけ、奏でる程度でございますゆえ……」
嫌やわぁ、ほんの少しだけ、教えて頂いただけやのに、何や急に恥ずかしゅうなって、モジモジしていたら、
大奥様がそう謙遜しなし、と助け船を出しはって下さりました。
「秋子はよう習おうて、今では免許皆伝や、なのでこれを、彼方でも鐙子の為に奏でてやってや」
と、古錦砂のふくさで包んだ、小さな螺鈿の小箱をうちに手渡しながら、おっしゃらはられます。
うちはそれに見覚えがあったので、直ぐにはお受けする事ができへんかった。
「大奥様、それは大奥さまの『琴爪』でございますゆえ、うちにはもったいのお、ございます」
どぎまぎしながら、そう言うと大奥様は、師匠から、弟子に贈るんやさかい、かまへんのや、と話されました。
「それに、これ位しか、お前にして上げられることは、あらへんさかいに、本当なら、何処か良い人に嫁がせようと、してたのだけど……」
すまぬな、良い人の元で、お子を生んで育てる、そんな幸せを秋子からとってしもうて、と大奥様はうちを、ふわと抱き締めて、くれはらはった。
お着物に、焚き込めてる白檀の香りが、うちを包み、それは大奥様のお香りや……
何やそれを胸に吸うと、うちはもったいないことや、親ともしとうていた、大奥様の元を離れるのやらで、不覚にも涙が溢れてしもうた。
「秋子は、昔から、その内に強い芯がある。だから大丈夫や、きっと上手くやっていける、鐙子をよろしゅうな……」
はい、がんばります……うちは、それしかよう言わんかった。
……その様子を静かに見ていたはったのは、濃き紫のお振り、海老茶の袴、黒髪をひとつに束ねた、北の屋敷のお決まりで、女のお衣装に身を変えてはる、三郎太様。
涼しげな端正なお顔なので、ようお似合いになっておいでの、男のお人。
あの夜以来、何でも鐙子様がひどう『男のお人』をお恐がりなさるそうで、それから以降、
三人お仕えしている男仕さんは、皆お花のお名前で、女のお姿で、お屋敷務めをして、はらはります。
この事は、本宅で知っているのは、うちを除いて、聡子さま以外の御家族さまのみ。
北の屋敷のご内情は、決して洩らしてはならぬと、きつうに、大奥様に言われております。
「秋子さんなら、きっと大丈夫やと、思います。時折、大奥様のお供で来られた時に、私達とは、お言葉を交わしますゆえ、そのお人なりは、よお分かっております」
優しゅうにそう話してくれます。何や今宵は、もったいない事だらけやわ、悲しいんか、嬉しいんか、ようわからん。
「ほなら、秋子の事を任したえ、まあ、夏樹が側におるやろから、心配はしとらへんけれど……」
大奥様は、つい、と立ち上がると『桔梗』様に、そうおっしゃいました。そこで、うちは忘れていた事を思いだしたんや。
そうやった、夏樹様がおいでにならはるんやった。
鐙子様の旦那様だった、春樹様の双子の姉上様。うちより確か四歳お年が上……明日から、お仕えする鐙子様は、その一つ下やったはず。
鐙子様がお生まれになられて、そのお乳母になられたのが、稲葉家の分家のお一つであられたお宅の初子様。
お二人は初子様のお子様や、そしてその時もう一人男の赤ちゃんがおらはった、初子様。
最初は、もちろん乳飲み子の、そのお子のみを、連れてこらはったと聞き及んでます、
だけど、鐙子様共々、乳離れするときにご実家に帰され、そのお子様が跡を継ぐ事に、ならはったそうです。
何故なら、春樹様が、夏樹様と共に、こちらに来られたからや、
幼いながらにも、ご利発で見目麗しゅう姉弟、それをある時、初子様を訪ねて来られたのを、ご覧にならはった、
旦那様と奥様が、見初めはらはって、是非とも鐙子様の遊び相手にと、そのままお手元に置かはった、と聞いてます。
そして春樹様は、その後美しくご成長なされた、鐙子様と恋仲となり、一部の分家の者には反対されはったけれど、元々は稲葉家の者。
鐙子様とは乳兄弟にならはるけれど、血の繋がりはお薄いし、ご利発で穏やかで、ほんにお名前の一字『春』の通りのお方様やった。
何より元からお気に召していた旦那様達。大旦那様達も賛成や、鐙子様のたっての頼みも、あったんや。
そして、めでたく祝言の運びになり、その日のお二人は、うちはよう覚えております。
白色の練り絹で作られた、打ち掛け姿の鐙子様、春樹様も婚礼装束を身につけられ、何時もよりいっそう麗しゅうお姿やった。
それはもう、一対のお雛様、綺麗で……うちはよう忘れへん。
もったいない事に、胡蝶を勤められる聡子様のお手伝いで、うちもお杯に関わらしてもろうたんや、
白い手に、赤い漆のお杯を手にし、紅を引かれた唇でそれをお含みになられた鐙子様、綺麗やった。
燭台に揺らめく蝋燭の灯り。ゆらゆらとしてたのを何故かよう覚えている。
それから、お二人は、本宅でのお二人の御住居を誂える間、人静かな北の屋敷へ取り敢えず、お移りに、ならはりはったんや。
そして、あの夜の悲しい事があったんや……
……そのまま、少し窮屈かもしれへんけれど、ここに居られたら、お手元に置いとくべきだった……
と大旦那様も、旦那様も、奥様も大奥様も、未だに深く、悔やまられておられるのは、誰も口には、せえへんけれど、皆知ってはるし、
みなもそう想ってはる、もちろん、うちも……そう。
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