胡乱な苔
瘡蓋が床を覆っている。壁にも漣が押し寄せるかのように、這い上がっていた。
その物質は肉厚で赤黒く、表面は乾き切り微細な亀裂が幾重にも入っていて、所々で粉を吹いている。割れた部分がてらてらと光り、熟れた果肉のような物が、切れ間を埋めるように盛り上がっていた。
狭いアパートの一室は苔に覆われつつあった。苔に覆われたテーブルは、皮を剥いだ頭のない獣のようになり、部屋の中央に佇んでいる。テーブルの近くに、着膨れした椅子らしき骨組みが転がっていた。食器棚やレンジも肉の塊と化して、わずかな面影しか残っていない。
堂島は玄関敷居に立ち、部屋を見渡している。彼は勤先である清掃会社が支給した作業着を着て、防塵マスクで口元を覆い、長いゴム手袋をしていた。
——この惨状の片付けに呼ばれるのは、何度目になるだろうか。
ゴム手袋をはめた手で、瘡蓋をこそげ取ってみる。固くなった見た目に反してそれは脆く、層を崩すことなく分離できた。手のひらに乗せた一欠片は、空気に晒された表層から階調があり、底に行くに従って瑞々しい肉色に変わっている。指ですり潰すと、上層はもろもろと簡単に崩れるが、色が明るい部分ほど粘着質でゴム手袋にべっとりと取り付く。見た目に反して臭いはあまりせず、微かに頭皮から立ち上るような脂の臭いがするだけだった。
部屋の状態から、壁と床の全面張り替えが決まっているので、堂島は土足のまま部屋へ上がる。今回、住人の保護者から清掃依頼を受けた。住人は今年大学に進学したばかりの未成年であったという。
堂島は部屋をでて、アパートの前に停めたトラックから、柄の長いスコップを持ち出して作業を始める。まず、壁に取り付く瘡蓋をスコップで削り取る。壁への侵食は床ほどひどくはなく、力一杯スコップを滑らせると一回で壁紙が現れた。壁の瘡蓋を取り切ると、今度は床の瘡蓋へスコップを差し込む。わずかな抵抗があるものの、ゆっくりと奥まで沈んだ。掻き集めようと動かすと、ぬったりとスコップが吸いつけられるようで重い。体重をかけて押し上げると、冷えかけの溶岩を掘り起こしたかのように、肉色の層が露出して崩れた表層が飲み込まれていく。そうして何度も床から瘡蓋を掻き出して集めると、浅黒い肉団子状になりゴミ袋へ入れた。
苔に覆われた家具などは、ある程度の瘡蓋をこそぐと外へ運び出し、トラックへ搬入する。侵食されていない家具類も一切合切排除してから、最後に膨れたゴミ袋もトラックへ詰め込んだ。
空になった部屋の床や壁は、赤黒いガムがこびり付いたかのように斑になっているので、薬剤を散布して付着物を洗い落とす。
乾いた布で拭き上げると、薄墨を刷いたような染みが幾重にものたくっていた。
がらんどうになった部屋には、午後の淡い日差しが差し込んでいる。広くなった床に木漏れ日がさざめいているが、
堂島がアパートの一階、隅にある管理人室の扉を叩くと、初老の女性が顔を出した。
「清掃作業が終了いたしました。事前確認の通り、黒い染みは深くまで浸透していますので、私どもでは対処致しかねます。専門の業者様に依頼なさるということでよろしいですね。依頼者様の代理として、お部屋確認を願います」
「ご苦労様。あれ、片付けるの大変だったでしょう。困ったものよね。最近の若い人は部屋を上手に使えないものなのかしら。汚すにしても限度があるわよね。その子の恋人が、私んとこに駆け込んで来て、一緒に見に行ったらもうビックリ。今も行方が知れないらしいわよ、その学生さん」
「行方が、分からないのですか」
「そう、捜索願いも出しているらしいんだけどね。理由も分からないし、手掛かりもなしって話よ。今、流行りの鬱ってやつかしら。若いのに気の毒よね。せっかく有名な大学に受かったって言うのに。親御さんも大層気落ちなさってらして」
堂島は、まだ喋り足りないかのような管理人を伴って、清掃した部屋へ行き、清掃終了の確認を取ると、アパートを後にした。
ゴミを自社の産業廃棄物一時集積所へ搬入すると、空になったトラックの運転席で予定表を確認する。次の作業先は、某町にあるマンションの一室で、依頼内容は固着物の清掃とある。
特記、苔状の物体————。
一日で二度も苔状物質の清掃をするのは初めてだった。以前は数ヶ月に一度位の頻度だったというのに、最近は一月に十件前後の苔状物質清掃の依頼が来る。日追うごとに、同じような依頼が増えている実感がある。
堂島の勤める特殊清掃会社は、腐敗した遺体からの漏出物清掃を請け負うなど、通常の清掃業と一線を画している。しかし、専門性の高い職種でありながら、一般清掃を行わないわけではなかった。通称ゴミ屋敷と言われる、居住者では手に負えなくなった家屋や、遺品整理なども特殊清掃業の役務範囲に含まれている。その中でも、堂島にとって苔状物質の清掃は、作業自体についてはとても楽な部類だった。
だが、気が進まないのだ。理由を考えてみても、これといって何が嫌だというわけではない。髪の毛が浮く腐汁に手を突っ込む必要もなければ、血の染みを根気強く拭き取るわけでもないというのに。
堂島はハンドルに頭をもたせ掛けて瞼を閉ざすと、しばらくそのまま動かずにいた。重い溜息を吐いて時計を確認すると、カーナビへ住所登録をして集積所から依頼先へ向かった。
依頼者のマンションにほど近い区域へ来ると、一戸建てが連なる住宅地が現れた。同じような外観をした新築の家屋が立ち並んでいて、歩道には枝の張りが乏しい細い街路樹が植えられている。小学生達がじゃれ合う姿が、フロントガラスの端に流れていった。
カーナビが目的地を告げて、マンションの敷地内へ進入すると、トラックを一時停車場に寄せる。
エントランスは象牙色の人工大理石で設えられており、置かれた植木は良く剪定されている。マンションは十階建てで、七十五戸というなかなかに大きなマンションであった。
堂島は扉の前で、表札を確認する。部屋番号の上に、佐野 賢介と表札が掲げられている。呼鈴を押した。堂島はインターフォンの反応を待っていたが、唐突に扉が開き、若い女性が顔を出した。依頼者である佐野若花という女性は、髪を後ろで乱雑に括り、化粧っ気がなく顔色がどこか悪い。身体の曲線を強調するようなタイトワンピースを着ているが、装いがちぐはぐで余計に疲れた印象がある。
「真澄清掃から参りました堂島と申します。ご依頼はこちらのお宅でよろしいですね」
「よかった。一人で困っていたんです。どうぞ、お入りください」
堂島が名刺を差し出すと、佐野は名刺の確認もそこそこに招き入れた。明るいフローリングの廊下には、ダンボールが積み重なっている。堂島が玄関からついダンボールへ視線を寄せると、佐野は少し苦く笑う。
「数日前、引っ越して来たばかりなんです。まだ、片付けも全然済んでなくって」
「我が社では、お荷物の整理も承りますが」
「今のところは、このままにしておきます。どうなるか分かりませんから」
佐野の声は消え入るようだった。
堂島は佐野に付いて家へ上がる。廊下の先に居間があり、窓から陽光が眩しいくらいに差し込んでいる。部屋には食卓が置かれているくらいで、ワックスがよく効いたフローリングの床が広く露出している。居間の壁際にはダンボールが廊下同様に積み上がっていた。佐野は居間に隣接する部屋の扉前で立ち止まった。
「あの、私も付き添っていなければ、ならないのでしょうか」
「その必要はありません。廃棄されては困る物が選別されていれば、清掃後の確認をしていただくだけとなります」
「本とパソコン以外は、全て捨ててしまって構いません。主人の仕事に関わる物ですから、状態の悪い本であっても取り置いてください。それ以外の家具類や細々した物は、使えるようには見えませんから処分しても構いません。私は居間にいますから、終わったら呼んでください」佐野は表情が和らぎ、お腹を優しく撫ぜた。
堂島が扉を開けると、瘡蓋が陽光に曝されて鈍く黒光りしているのが目に飛び込んできた。堂島は思わず眉を顰めた。本来、清掃場に対して感情を表すのは褒められたことではないが、無意識に顔から出してしまった。狭い部屋を埋め尽くすように苔がみっちりと這い回っている。幸い扉付近の床には苔の侵食はなく、堂島は部屋へ入ると直ぐに扉を閉める。本棚と思しき物が壁に並び、窓の前に机が置かれているが、全て苔に覆われて本来の姿を失っている。机の上には、薄くて表面積の広い物が立ち上げられている。それが、ノートパソコンだと気付くのに一拍以上を要した。堂島は部屋の様子をざっと確認してから、トラックから作業道具を持ち込む。
部屋の清掃を始める前に、保持を希望された本を棚から出す。棚に詰まった本は、表面が苔によって一つ繋ぎになっている。堂島は本を傷つけないように、手で背表紙の苔を拭うように取った。苔の下から、斑らに赤く染まった真菌という文字が現れた。他の本も専門書ばかりのようで、生物関係の分厚い背表紙が立ち並んでいる。本を引き出そうとすると、電話の着信音が胸ポケットから鳴り出した。堂島は強く息を吐くと、ゴム手袋を外して電話に出る。
「苔の掃除は中止だ」堂島はあまりの大声に、電話を耳から離した。
電話の相手は堂島の上司であった。
「警察から事務所に連絡があって、直ちに苔の清掃中止を申し渡された。今、他の清掃員にも連絡を回しているところだが、苔の清掃中であったらそのまま待機すること。いいか、それ以上何もするな。警察が来るまで、その場で待機して苔を撒き散らすな」
「まさか、苔は病気を媒介するんじゃ……」
「そうした事柄については、何も言及がなかった。とにかく、何もせずに落ち着いて待つんだ。依頼者へも事態を伝えてくれ」
堂島は電話を切ると扉越しに、依頼者へ声を掛ける。
「今、自社から連絡がありまして、警察からの要請により、固着物清掃の中止を申し渡されました。清掃員は、その場に待機するようと厳命されておりますので、こちらに留まらせて頂きます」
「警察が来るって、苔はそんなに危ない物なんですか」
「詳細は何も聞いておりませんので分かりかねます」
「そんな、私のお腹には赤ちゃんがいるんです。病気にでもなったらどうしよう」
篭った電話の音が鳴り響いた。ぱたぱたと軽い足音の後に、話し声がし始める。堂島のいる部屋からは何を喋っているのかは分からない。数分も置かずに佐野は扉の前へ戻って来た。
「家の電話にも、警察から連絡が来ました。直ぐに警察官が向かいますので、そのまま待っていてください、と言われました……主人もいなくなってしまうし、どうしてこんな事に」
「失礼ですが、ご主人の行方が分からないのですか」
「数日前の朝から唐突にいなくなってしまって、それから一つも連絡がないんです。今までそんな事をする人じゃなかったので、どうしていいのか」
「もしや、ご主人の失踪と同時に、苔が発現したのではないですか」
「そうです。朝早く、主人がベッドの隣に居ないので、書斎——あなたの居るその部屋を覗いてみたら、苔のような物がびっちりと付いていて。それが、どうしたんですか」
半刻ほど過ぎると、呼鈴が鳴った。居間へ数人が入ってくる騒がしい音がしばらく続く。そして、扉が何の躊躇いもなしに開けられた。背広を着た体格のいい刑事らしき男が、顔を出した。その男は防護服どころかマスクさえもしていない。
「清掃員の堂島さんですね。こちらへいらして結構ですよ。——先生、部屋には少し手が入っています」
清掃の依頼者である佐野と、話をしていた長身の女性が、手を軽く振って応える。その先生と呼ばれた女性は、黒く長い髪を高い所で括り上げ、薄桃色のパンツスーツに身を包んでいる。切れ長の目に、前に張り出した高い頬骨で、典型的なきつめ顏美人という感じである。彼女は、堂島に気付くとにこやかに手を差し出した。堂島は急いで手袋を外すと、ほっそりとした手を握る。
「あなたが清掃員の中で、一番多く“苔のようなもの”の清掃を行なったそうですね。お話を聞きたくて、参りました。倉敷萌未と言います。ちなみに、警察官ではありませんので。まだお部屋に用がありますから、それが済み次第、私の車でお話をしましょうか」
倉敷は苔の密集する部屋へすたすたと入って行く。薄いラテックスの手袋をはめてから、ピンセットで苔の一部をもぎ取り、ケースに入れると密閉する。それだけすると、背広の男へ向かって何か指示をしていた。
倉敷は堂島を伴ってマンションを出る。彼女は、トラックの横に停められた、青いスポーツカーへ電子キーを向けた。倉敷は心なしか、罰の悪そうな顔だ。
「これ、弟の車なのよ」どこか弁明するように、座席に隣り合った堂島へ笑う。
「警察には、詳しい肩書きは名乗るなっていわれているの。あまり、信用できそうな女じゃないけど、話に付き合って。——もう一度確認するけど、あの物体を清掃するのは初めてじゃないのよね」
「何度も清掃してます。ここ最近、苔を清掃する頻度が増えている気がします」
「あの物体を掃除している時に、何か気付いたことはあるかしら」
「私はあの苔を、自分では瘡蓋と呼んでいました。太陽光に曝されたりすると、更に黒く硬くなっているようでした。それと、苔自体に関係あるのかは分かりませんが、あれが発見される家では、行方不明になる者がいる、と」
倉敷は何か考えているのか、指でハンドルを何度も叩いている。日差しが翳り始めていた。車内は暗く、微かにタバコの臭いがする。堂島は彼女を見つめていた。
夜半、堂島は自宅アパートへ帰ると、食事もそこそこに電話へ登録したばかりのアドレスを眺めていた。倉敷は別れ間際に、堂島へ電話番号を教えていた。何か気になる事があれば連絡して来い、と。苔に接触したことについて、特に注意を促すような話は最後まで出なかった。
何となく釈然としない。堂島は電子端末で、キーワードを思いつく限り片っ端から検索してみるが、それらしい記事は見当たらなかった。そう、一つとして。奇妙なことに思えた。誰一人として“苔のような物質”についてのネットへ記事を上げていないのだ。検索の仕方が悪いのかと考えて、色々試してみても結果は変わらなかった。
翌日、堂島はいつも通りトラックで、一日分の予定を確認していた。清掃依頼には、苔に関連するような記述はない。堂島は依頼先を回って清掃をしていったが、苔を見ることはなかった。事務所へ行っても、同僚達は苔についての話題は口にしない。ある種の禁忌になっているようだった。
倉敷との接触から日が経つにつれて、堂島は苔についての関心が薄れ始めていた。何より、苔の清掃依頼自体が、ぱったりと途絶えてしまったからだった。
事務所で上司との話を終えて、トラックの駐車場戻ると、同僚が清掃の仕事を終えて戻って来たところだった。同僚はトラックに鍵をかけると、堂島へ手を上げた。堂島とその同僚は、特に親しいわけではないが、よく顔を会わせる。二人で駐車場の隅にある休憩所へ行った。
堂島が自販機の取り出し口から缶を取り出すと、ベンチに座っている同僚の横に座った。しばらく世間話をしていると、同僚は少しの間黙り込み、周りの様子を窺ってから再び口を開いた。
「堂島も、苔掃除で警察と話したんだってな」
「お前もか、俺は先生とか呼ばれている若い女に質問されたけど」
「こっちは、刑事のおっさんだけだ。俺に質問してくるばっかりで、こっちの疑問には答えてくれさえしない。調査中だから何も答えられないの一点張りだ」
「俺の方も大差ないよ。結局、何も分からず終いか。苔掃除の依頼も、全然来ないみたいだしな」
「……会社に苔の清掃依頼が来ても、警察へ連絡を回して、警察関係者が全て回収してるらしいぞ。減ってるどころか、ここ最近極端に増えているみたいだ」
堂島は同僚と別れると、電子端末を手にした。
青いスポーツカーが堂島の前に停まった。車に乗り込むと倉敷は車を出した。
「倉敷さん……いや、先生。あなたは何者なんですか」
「別に、どう呼んでも構わないわ。そうね、優秀な動物の先生ってところかしら」
「何の動物ですか」
「痛いところを突いてくるわね。広義な意味での動物って説明で許して」
「では、倉敷先生。あの物体は何なんですか」
「あの苔のような物体を、構成しているのは紛れもなく人間の細胞。遺伝子を解析したところ、寸分違わず人間の遺伝子配列だった。そして、失踪した家主本人の遺伝子と完璧に一致した——案件に複数当たったあなたなら、ここまでは予想できたでしょう」
「あれはまるで、皮膚のない肉そのものだった」
「そして、問題はこれから。今からする話は、全部私の妄想だから、聞き流してちょうだい」
「粘菌っていう菌類を知ってるかしら。その中でも、細胞性粘菌というのは特殊なサイクルを持っているの。色々端折ってしまうけど、アメーバ状の移動体期と、植物のように動けなくなる子実体期がある。その形態の変化を誘発するのは飢餓。アメーバ状の時に、飢餓状態が生じると子実体を形成して胞子を飛ばす。その胞子が、また移動体となって成長する」
「まさか、人間も……いや、それはおかしいです。今の脊椎動物としての形態である方が、効率よく捕食が可能だ。あんな苔地味た肉塊が人間の姿より、優れているなんて」
「人間の場合、飢餓感の意味合いが異なるとしたらどうかしら。飢餓という言葉が表すのは、何も食欲に対してだけではない。その飢餓感を満たして個を存続させるには、人間という形態が最も適していた。人間は漠然と、どうありたいと考えるのかしら。——堂島さん、あなたはどうなりたいの」
「漠然とした思い……苦しみたいと思う人間はいない。人は楽しいと感じることを望む。たとえ、個々人で楽しさを感じるものが違っても、それは変わらないはず。喜び、人が求めてやまないのは幸福か」
倉敷は微笑む。
「幸福感の飢餓。私達人間は、幸福感を糧にする生物の子実体。人類全体が個であり、幸福に閾値があるとしたら」
「そう、人間という種は満たされたの。——幸福になったのよ」
了