月乃と黒猫と
ゆっくり目を開いた。白昼夢を見ていたようだった。
チリチリとしたとても懐かしいものが胸に溢れている。ただそれが何なのか、月乃には分からなかった。
辺りを見渡す。バスを待つベンチに座っている事も、隣に初老の夫婦が座っている事も、目を閉める前から何も変わっていない。
もう一度目を細めた。秋の柔らかな陽射しと、老夫婦の優しい声が心地良い。
もうすぐ行く旅行の話、孫の誕生日に贈るプレゼントの話、今月の娘の命日には家族みんなが集まれるだろうという話。
珍しい鳴き声の鳥、どこかの家から聞こえる赤ちゃんの元気な泣き声、そして小猫の声。
驚いて目を開く。こんな大通りの近くに小猫がいるなんて危険だ。辺りを見渡すと、近くの公園の入り口に小さな黒猫が座っているのを見つけた。
首輪はついている。体もふっくらしている。しかし毛皮が汚れていた。飼い猫が逃げ出したのかもしれない。
バスの時間が近かったが、放っておけなかった。そっと近付くと、黒猫はじりじりと後ずさって、公園の中へ逃げていった。怖がらせないようゆっくり歩いて近付く。
「猫ちゃん、大丈夫よ。おいで」
姿勢を低くして指で呼ぶ。ベンチの下に潜り込んでいた黒猫は、長い時間をかけて警戒を解いて、月乃の指に擦り寄った。体を撫でて、そっと持ち上げ持っていたカーディガンでくるむ。
高そうな赤い首輪がついていたが、飼い主の情報は書いていないようだ。
きれいな首輪と薄汚れた毛皮が不釣り合いだ。外猫というわけでもないようだ。きっと逃げ出したのだろう。
「あれ? 月乃?」
どうするか思案していた月乃の背中に声がかけられた。同じ大学に通う友人だった。
「先にバスに乗っちゃったかと思った。……あ、猫だ! 可愛い!」
「迷子みたいなの」
事情を話す。うんうんと頷きながら、友人は喉を鳴らす子猫を撫で回していた。
「迷子っぽいね。飼うの?」
「ううん。確か近くに交番があったはずだから、迷子の届け出がないか聞いてくる。あと保健所にも電話して、近くの動物病院にも聞いてみようかな」
「そこまでするの!」
「だって可哀想。こんなにいい首輪付けてもらって、きっと大切にしてもらってたと思うよ」
「……あんたはほんとに優しいね」
少し呆れたように言って、友人はベンチに置いたままの月乃の鞄を手に取った。
「私も付いていくよ」
ありがとうと言いかけて、ふと思い出す。
「今日デートじゃなかった?」
「ああ、まぁちょっとくらい遅れてもいいよ」
「私は大丈夫よ。デート楽しんできて」
「ひとりで交番行ける?」
「行けるよ。何歳だと思ってるの。二十歳よ」
笑いながら友人の肩を叩いた。心配気な友人をなだめながらふたりでバス停へ向かう。
老夫婦はもういない。月乃たちが乗るバスは遅れていたらしく、ずっと向こうで赤信号に引っかかっているのが見えた。
「ついて行けなくてごめん。今度何か奢るわ」
「いいよ、気にしないで。私が拾った猫なんだから。デート楽しんできてね」
鞄を手渡しながら友人は大きなため息をついた。
「あーあ、あんたほんとに、前世はすごい善人だったんだろうね。性格もいいし顔も可愛いし頭もいいし、おまけにおっぱいがデカい!」
「胸は関係ないと思う」
「さっさと彼氏作って揉みしだかれたらいいのに。この間寄ってきてたのもなかなかイケメンだったじゃない」
「私は顔なんかで判断しないの」
ふたりで腹を抱えて笑っていると、ようやくバスがやってきて目の前で止まった。
「じゃあ月乃、気を付けてね」
「うん、また夜に電話する」
友人が乗り込んで出発したバスに手を振って、腕の中でうつらうつらしている黒猫に笑いかけた。
「お待たせ、行こうか」
小さな鳴き声が聞こえた。交番に向かって歩き出す。とても可愛い猫だ。もし、万が一、飼い主が見つからなければ家で飼おう。家には猫がもう三匹と、猫大好きな両親と犬がいる。あと一匹増えたってどうってことはない。
五分ほど歩いて遠くに交番が見えた時だ。いつもは気にもしないものを、月乃は何となく見上げた。
ポスターなどが貼ってある掲示板だ。秋祭りの知らせ、講演会の案内。そしてその中に、猫を探していますと大きく書かれたポスターを見つけた。
「あっ」
この子だった。赤い首輪、生後半年の黒猫、名前はタマ。それはまた古風な名前だ。
そのポスターはまだ新しい。
携帯電話を取り出して、連絡先に電話する。三回コールが鳴って、電話から聞こえてきたのは若い男の声だった。
『はい、市瀬です』
「あの、すみません。佐久間といいますが、迷い猫のポスターを見て電話させて頂いたんですけど」
『見つかりましたか!?』
「はい、ポスターに書いてある赤い首輪をしているので、間違いないと思います」
『ああ、ありがとうございます……』
心底安堵している声が聞こえて、月乃は腕の中で寝ている猫を見下ろした。なんて幸せな猫だろう。
『今どこですか?』
「二丁目の交番の近くにある掲示板の前に」
『ああ、すぐ近くにいるんで、今から行きます。一分待っててください』
電話が切れて、本当に一分もたたずに男が走ってきた。
なかなかの好青年だ。年齢は月乃とそう変わらないか少し上だろう。驚いた。はっきり言って物凄くタイプだ。本当に驚くほどタイプだ。
さっき顔で判断しないなんて言った舌の根も乾いていないというのに、月乃は心の中でガッツポーズをした。
月乃を見て、彼の目が一瞬丸く見開かれる。すぐにその目は黒猫に移り、月乃の腕の中で眠る猫に触れた。
「怪我は?」
「軽く見た限りはしてないみたいです」
「どこにいましたか?」
「すぐそこの公園に」
「こんなすぐ近くに……」
大きな安堵の息をついて、男は額を撫でた。
「本当にありがとうございます」
「いいえ、見つかって良かったです」
そっと小猫を手渡す。男の大きな手の中で少し目を開いた黒猫は、また目を閉じて寝息を立て始めた。
「服、汚れましたね。クリーニング代を払います」
猫をくるんでいたカーディガンを見て、男が申し訳なさそうに言う。慌てて手を振った。
「いえ、安い服だから家の洗濯機で洗えるので、大丈夫ですよ!」
「そういう訳には……少し待ってください」
そう言って男は携帯電話を取り出して、耳に当てた。
「……もしもし、姉貴? タマが見つかった。女の子が見つけてくれた。……今、実家? ……分かった、連れて行く」
携帯電話をしまって、男が月乃を振り返る。
「見つけてくれたお礼をさせてください」
「いえ! お礼とか、ほんとにいいんで……!」
逆に気をつかってしかたがない。手を振りながらじりじりと後退り逃げ出すタイミングを計る月乃に、男はにっこり笑って言う。
「姉がそこの角のケーキ屋をしてるんだけど、もし甘いものが好きなら、ぜひお礼に好きなだけケーキを食べていってほしいって」
「かっ……角のケーキ屋……」
月乃はつい目を輝かせてしまった。
角のケーキ屋と言えば、数年前にできて雑誌などに取り上げられるほど美味しいと評判で、実際にものすごく美味しいケーキ屋だ。学生がしょっちゅう食べに行くにはなかなか辛いお値段設定なので、まだ数えるほどしか食べたことがない。
「甘いものは好き?」
少し意地悪気な表情を浮かべて尋ねる男に、月乃はぐっと唇を引き結んで迷って、それから正直に頷いた。
「好きです」
「なら決定。どうぞ食べていって」
「あ、あ、ありがとうございます……」
歩き出した男の後に続く。大変なことになったが、だってケーキだ。しかも好きなだけだ。いい事をしたんだ。自信を持って好意を受け取ることに決めた。
男が愛おしそうに腕の中の子猫の頭を撫でる。
「いい人に見つけてもらえて本当によかった。俺が拾った猫で、今のマンションじゃ飼えないから姉に預かってもらってるんです」
こんな風にイケメンに愛おしそうに頭を撫でられたい。
「あの、タメ口でいいですよ」
恐らく月乃が年下だ。
「そう? じゃあ遠慮なく。ペット可のマンションに引っ越したら引き取ろうと思ってるんだけど、姉がもう返せないって言ってて」
笑った彼につられて笑う。そりゃあこの可愛さだ。いなくなって、きっと生きた心地がしなかっただろう。
「姉がドアを開けた瞬間に逃げ出して、自分のせいだってもう抜け殻みたいになってるし、俺も心配で心配で、仕事が手につかなくて」
「もしかして、さっきまで探してたんですか?」
「そう」
電話をした時に近くにいたのは、たまたまではなかったらしい。
「自己紹介しておこうか。俺は市瀬薫」
薫。きれいな名前だ。
心臓の辺りがチリチリと焼けるようだ。さっき見た白昼夢に似ている。
「佐久間月乃です」
「……つきの」
男は前を向いたまま呟いて、そして口元に少しだけ笑みを浮かべた。
「学生さん?」
「はい、大学生です。すぐそこの」
「と言うことは、調理師の勉強中?」
「いえ、私は製菓のほうです」
へえ、と薫が顔を上げた。
「じゃあ姉の店には行ったことある?」
「もちろんです!」
同じ学科で行ったことのない生徒なんていないだろう。
「すっごく美味しくて、大好きです」
「そう、よかった。君はタマの命の恩人だ。好きなだけ食べてくれ」
「私が好きなだけ食べたら、お店の商品がなくなっちゃいますよ」
薫は声を上げて笑った。どうやら冗談だと思ったようだ。夕方のこの時間の品揃えなら、本気を出せばいけるはずだ。もちろん本気でそんなことはしないが。
笑う横顔を見上げる。
どうしてこんなに胸が焦げるように痛むのだろう。彼の名前を聞いてからずっとだ。
これが一目惚れとかいうやつかと思ったが、何かが違う。恋慕の情ではないような気がする。
そう、これは、懐かしさだ。
「あの、地元はここですか?」
「そうだよ。どうして?」
「何か、どこかで会ったことがあるような気がして」
月乃の実家はここからバスと電車で一時間のところだ。もしかしたら地元が一緒だったりするのかと思ったが、違ったようだ。
そもそも、こんなにタイプの男に会っていたら覚えているはずだろうが。
薫はじっと月乃を見つめて、そして口の端を持ち上げて笑った。
「口説いてる?」
「違いますよ!」
顔を赤くして否定する。口説きたいのはやまやまだが、恋愛経験ゼロに等しい小娘にそんな芸当できるはずもない。
薫は笑っている。
笑ったまま、どうしてか泣きそうにも見える顔で、月乃を見下ろしていた。
「どこかで会っているのかもしれないな。……前世とか」
思わず笑う。さっき友人も、前世がどうだとか言っていた。
そんなものあるなんて信じていないが、もしあるのなら面白い。
運命という言葉に、まだまだ憧れを捨てられない年頃だ。
「そうかもしれませんね」
薫の腕の中で黒猫が顔を上げた。
小さい声でにゃんと、笑ったように鳴いた。