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それじゃあまた来世






 目を開いた。驚くほど寝起きがよかった。

 すぐそこには閻魔の顔があり、彼もぱっちりと目を開いていた。

「……遠足とか運動会の日は、ぱっちり目が覚めるタイプでしたか?」

「遠足や運動会に参加したことはないが、そういうタイプだ」

「私もです」

 のっそり起き上がって伸びをする。

 そういえば着衣に乱れはない。体に違和感も無い。どうやら大人の階段はまだ登っていないらしい。

 立ち上がろうとした月乃の腕に閻魔が触れた。

「……寒いな」

「もう十月ですからね」

「寒い」

 腕を離さない彼を見下ろしてから、時計を見上げる。早起きした。少しなら大丈夫だろう。

「私も寒いです」

 布団の中に潜り込んで、閻魔の腕の中に収まる。

 彼の手が背中を撫でる。

 このまま色っぽい展開になるのかと思いきや、さすが寝汚いふたりだ。あっという間に一緒に夢の中で、月乃はいい匂いと犬の鳴き声でハッと目を覚ました。

 時計を見る。もう部屋を出なければならない三十分前だ。

「閻魔様! 遅刻ですよ!」

 飛び上がって閻魔を叩き起こし、引きずるようにイスに座らせた。

 自分もイスに座ってから、月乃は喜びの悲鳴を上げた。今までも豪華な食事だったが、今朝はさらに豪華だ。これはもう遅刻決定だ。こんな豪華な食事を味わって食べないわけにはいかない。

 机の上の皿を全て空にしかねない勢いの月乃に、ようやく閻魔が目を覚ます。時計を見上げて、そして諦めたようだ。彼もゆったりと食事をし始めた。

「最後の最後で遅刻か……」

「昨夜はお楽しみでしたね、って思われますよ」

「何それ」

 さすがにこれは通じなかった。

 犬たちがせっせと持ってきてくれる食事をデザートまで全て平らげ、月乃はごちそうさまをしてから思う存分犬を撫で回した。

「美味しかったよ。全部美味しかった。ありがとうね」

 もう猫派から犬派に寝返りそうな気分だった。犬たちは舌を出して嬉しそうに月乃の周りを飛び跳ねる。いつまでも見ていられそうだったが、もうすでに仕事を始める時間は過ぎていた。

 もうこの部屋に帰ってくることはない。寂しいが、なぜか涙の出る気配はなかった。

 死んだ時に着ていた服に着替えて部屋に戻る。閻魔ももう着物を着て、そしてクローゼットを覗き込んでいた。

「俺、どの格好で裁かれようか」

「ここに来たときに来ていた服は?」

「あるけど、寝間着だし」

 閻魔の隣に並んでクローゼットを覗き込む。確かに少しくすんだ水色の浴衣のようなものがきれいに畳んであった。

「Tシャツとジーパンでいいか」

 閻魔は適当に取り出した洋服をポチに手渡した。

 月乃は砂時計を見る。砂は落ち切らないのが不思議なくらいの量しか残っていない。

「これ、ひっくり返したらどうなるんですかね」

「重大な規律破りで俺が地獄行きになる」

「……危ない、試すところでした」

 砂時計から手を離して、月乃は両手を上げたまま後ずさる。

「月乃」

「大丈夫です。何もしてな――」

 後ろから声をかけられ振り向く。言葉が途切れたのは、閻魔の顔が目の前にあったからだ。

 唇同士が微かに触れて、すぐに離れる。

 気まずそうな目が、真ん丸に見開かれた月乃の目をチラチラと見る。

「薫」

 耐え切れなかったようで、彼は少し目を泳がせた。

「俺の名前。薫だ。教えたらキスさせてくれるんだろ?」

「……ふふっ」

 我慢できずに笑うと、彼は盛大に不貞腐れた顔をした。

「どうして名前を隠してたんですか?」

「……女っぽくてあまり好きじゃない」

「そうですか? 男の人にも合ってる名前だと思いますよ。すごくきれいで、私は好きです」

 閻魔がじっと月乃を見つめる。

 もう一度、さっきよりは少し長く唇を合わせて、そして離れた。

 ポチがこちらを見上げていて、途端に気恥ずかしくなって口元を押さえる。

「胸はいいんですか?」

 恥ずかしさを誤魔化すように尋ねる。閻魔はじっと胸を見つめている。

「……そんな時間ないだろう」

「昨日、寝ている間に思う存分揉んだんですか?」

「してない」

 即答した彼を意外そうに見た。

「そりゃもう揉みしだいたんだと思ってました」

「……俺を信用して隣で寝ている女に、そんな事できなかった」

 起きた時に衣服の乱れを確認したことは黙っておかなければならない。

 思っていたよりも彼は本物の紳士のようだ。

「来世だ、来世。覚えてろよ。揉みしだいてわやくちゃにして、間に何かこう……すごいことしてやる」

 いや、やっぱりただのヘタレだ。

「はい。楽しみにしてます」

 もしかすると来世も無理なんじゃないだろうかと心配になってきた。

 犬が鳴いて、閻魔の足元にまとわりつく。今日は三匹とも一緒に行くらしい。

 月乃がしていたように犬の頭を順に抱き締めてから、閻魔は腰を上げて寂しそうな声で言った。

「行くか」



「遅くなった。すまない」

 大きな扉を開き、閻魔が言う。

 部屋の中には鬼が勢揃いして待っていて、閻魔に向かって頭を下げた。

「そういうのはやめろ、泣くぞ」

 飄々と言って、閻魔は鬼の前を通り過ぎる。困ったように笑う鬼たちが顔を上げてから、月乃は閻魔を追いかける。その途中で見たことのある鬼を見つけて、思わず立ち止まって指を差した。

「セクハラ嘘つき鬼」

 列に並んでいた月乃を連れ去った鬼だ。彼はギクリと体を強張らせた。

 振り返った閻魔が眉間にしわを寄せる。

「セクハラ……?」

 低い閻魔の声に、嘘つき鬼は飛び上がってから後退る。

「いえっ、あの、違うんです閻魔様……! あまりにも閻魔様の直球ドストライクの女の子がいて、テンションが、こう……!」

「連れ去られる時に、体をベタベタ触られて最後に胸を鷲掴みにされたんです」

 正直に言うと、閻魔は目を見開いて、そしてそれはそれは悔しそうに叫んだ。

「俺だってまだ触ってないのに!」

「えっ! 五日も同じ部屋で寝泊まりしていたのに!?」

 思わず叫び返してしまったらしい嘘つき鬼が顔を青くする。

 閻魔は目を細めて月乃を振り返った。

「月乃、一発殴るって言ってなかったか?」

「言いました」

「俺が代わりに殴ってやろう」

「まあまあ、まあまあまあ」

 閻魔の腕を掴んで鬼から引き離す。

 煽っておいて何だが、せっかくの門出を暴力で飾ることはない。閻魔をモニターのそばに押しやってから、嘘つき鬼を指差して叫んだ。

「来世で覚えてなさいよ!」

 完全に捨て台詞だったが、鬼は怯えているようだ。気は済んだ。

 モニターの近くには次期閻魔が強面ににこやかな笑顔を浮かべて立っていた。

 相変わらず顔は怖いがもう慣れた。

 彼はまだ閻魔の格好をしていない。ポロシャツにチノパンという爽やかなコーディネートだ。

「昨夜はお楽しみでしたね、と言おうと思っていたのに」

 その言葉に月乃はぶっと吹き出す。鬼たちからも笑いを耐えるような声が漏れた。

「この人意外と紳士ですよ」

 ひとり意味の分かっていない閻魔は訝しげな顔をしている。

 強面次期閻魔は胸を撫でて笑いを収めて、「すみませんでした」と謝ってから、手に持っていた砂時計を閻魔に差し出した。

 閻魔はそれを覗き込んで、少し顔をしかめる。

「思ったより早いな。午前中は持つと思ったが」

「そうですね」

「閻魔の仕事は昨日見たな。もう見る必要はないか?」

「見てもチンプンカンプンだったので、実際にやってみて覚えます」

「次期閻魔殿は頼りになるな。……月乃」

 名前を呼ばれて顔を上げる。

「裁きの間へ」

「……えっ」

 その言葉に驚いて閻魔に駆け寄った。彼の腕にしがみつく。

「は、早くないですか? ちょっと待ってください、心の準備が……」

「準備なんて何もいらない」

 腕を掴んだまま絶句する。

 もっとちゃんと別れの挨拶をするつもりだったのに、言葉が何も浮かんでこない。もっと話したい事がいっぱいあった。聞きたいことだって。

 じわりと涙が滲む。今さら寂しさが爆発した。

 この人と離れたくない。

「……それは嘘泣きじゃないよな?」

「いつまで根に持ってるんですか馬鹿!」

 震える声で罵倒して、流れ落ちた涙を乱暴に拭う。

 「ごめん」と閻魔は謝って、それからにこりと笑って月乃の手を握り返した。

「またな、月乃」

 思わず吹き出す。まるでまた会うような言い方だ。握手をして、手を離した。

「……はい、また」

 会えるだろうか。また会いたい。またたくさんおしゃべりがしたい。例え覚えていなくても。

 鬼がひとり近付いてきて扉を手のひらで指す。案内してくれるようだ。

 強面の次期閻魔を見る。

「薫さんをよろしくお願いします」

「はい。責任を持って、あなたと同じ天国へ」

 彼は強面に優しい笑みを浮かべて言った。

 次に犬たちを順に撫でる。

「可愛がってもらってね」

 くんくんと寂しげな声に後ろ髪ひかれながらも立ち上がる。

 案内の鬼を見る。歩き出した彼の後ろについて行く。

 頭を下げた鬼たちに同じように頭を下げてから、扉をくぐる前に振り返って閻魔を見た。閻魔はこちらを見ていて、手を振るとほんの少し微笑んで手を振り返してくれた。歩き出す。後ろで扉の閉まる音が聞こえた。

「我々鬼の不手際で、ご迷惑をかけて申し訳ございませんでした」

 前を歩く鬼が言う。

「いいえ、とても楽しかったですよ。美味しいものも食べられたし、犬も可愛かったし、のんびりできました」

「そう言っていただけると救われます」

 怖い目にも合ったが、終わりよければ全てよしだ。一体地球上の生物のうちどれだけが、こんな風に死後に色々な経験をできるだろうか。

「少しでも閻魔様の暇つぶしになったのならいいんですけど」

「それは問題ないかと。私は鬼を務めてもうすぐ十年になりますが、今日初めて閻魔様の笑顔を見ました。過酷な業務の中で、あなたが癒やしになったのでしょう」

「……やっぱりあの人、絶対私に惚れてますよね」

 鬼は肩越しに振り返って、意味深な笑みを浮かべた。月乃はそれを肯定と捉えることにして、照れを隠すためにわざとらしく頭を掻いた。

「あーあ、死んでからモテても遅すぎるんだよなぁ。生きてるうちにあんなイケメンに惚れられたかった」

「来世も閻魔様はあなたに思いを寄せるでしょう。人の本質は生まれ変わっても変わらないと閻魔様から聞きました。あの方はきっと、来世も不器用で一途で、あなたのような女性がタイプです」

 もう恥ずかしすぎて笑いが押さえきれない。赤い頬を隠すこともできない。

「楽しみです」

 シンプルな扉の前で鬼が立ち止まる。少し離れたところに死人の行列が見えた。

「裁きの間です。どうぞ」

「はい。ありがとうございました」

「よい来世を」

 頭を下げてから部屋に入る。真っ白な部屋だ。

 閻魔たちがいる部屋との境目の壁はマジックミラーにでもなっているのかと思ったが、ただの真っ白な壁だった。

 多分閻魔がいるであろう場所をじっと見ていると、辺りに声が響いた。

「月乃、聞こえるか」

 閻魔の声だった。

 見渡してみるがスピーカーなどは置いていない。不思議な声だった。

「何だ、会話できるんですか」

「ああ」

「さっき感動の別れをしたのに、台無しじゃないですか」

「何が感動の別れだ。さっさと決めろ」

 月乃は訝しげに眉根を寄せる。

「……何を?」

「来世を少し優遇してやると言っただろう。どう優遇してほしい?」

「え! それって私が決めてもいいんですか?」

「言わなかったか?」

「言ってませんよ!」

「なら今決めろ。一分で」

 なんてことだ。哀愁に浸っている場合じゃない。

 慌てて考える。閻魔の後ろで犬がわんわん鳴いているのが聞こえる。

 どこまで聞いてもらえるんだろうか。日本人がいい。覚えていないだろうが、今の家族の住んでいるそばなら嬉しい。あとは何だ? 容姿は? 頭は? 上の下? いや、欲がなさすぎるか。

「ちょっと待って! これ、一分とか無理です!」

 次期閻魔の笑い声が聞こえた。

「ははは、頑張れ」

 あとは何だ、あとは。ふと思う。もし、もし本当に閻魔が近くで生まれ変わってくれるなら、彼が見つけやすいように月乃という名前で生まれ変わりたい。とても気に入ってる名前だし。

 顔を上げる。

「あの、何個まで叶えてくれるんですか!?」

「容姿と頭が上の下でいいなら、全部叶えてやる」

 目を見開く。

「全部モニターに出てるぞ」

「そんなハイテク機能があるなら先に言ってください!」

 恥ずかしくて死にそうだと考えて、もう死んでいるんだと開き直った。

「以上か?」

「あと、あと……美味しいものがいっぱい食べられる人生がいい!」

 聞こえてきたのは閻魔の笑い声だ。

「料理の腕をよくしてやるから、自分で作れ」

 できればラクして美味しいものが食べたいが、まあ仕方がない。

 これだけ遠慮なく希望を言っておいて、今さら少し気になりだす。

「あの、私、たった数日ここで食べて喋ってしただけなのに、こんなに良くしてもらっていいんですか?」

「お前は今世の行いが良かったから、ちょっと色がついただけだ」

 そんなに良い行いをしただろうか。まあ閻魔がそういうのならそれでいいのだろう。

 生まれ変わった先で、月乃がちょっと贔屓されたなんて分かる人はいないだろうし。得をした。

「以上だな」

「はい」

 今度こそさよならか。

 きっと閻魔は寂しがっているだろう。月乃も、死んでしまいそうなくらい寂しい。

 まあ、もう死んでいるのだけれど。

「それじゃあ、また来世で」

「ああ。またな、月乃」

 名前を呼ぶ閻魔の声が耳の中でぽわぽわと反響して、それから消えた。右へ行けと言われた気がしてゆっくりと歩き出す。

 ああ、もう本当にお終いなのか。天国の扉をくぐれば、すぐに意識はなくなってしまうのだろうか。

 即死だったせいで見ることのなかった走馬灯が今さら脳内に流れる。

 優しい両親だった。生意気で可愛い弟たちだった。あの家に生まれることができて幸せだった。もう少しあそこにいたかった。親孝行すらできていない、孫の顔くらい見せたかったのに。

 ぼろぼろと落ちる涙で扉が滲む。ドアノブに手をかけ、閻魔の方を振り返った。

 そこにいるんだろうか。こちらを見ているんだろうか。そういえば、結局あの言葉の続きは聞けなかった。来世で聞かせてくれるだろうか。

 前を向いて扉を開く。向こうには水彩絵の具で着色された薄い花畑だ。

 天国は本当に花が咲き乱れているのか。

 足を踏み出して数歩歩いて、後ろから扉の閉まる音がして――月乃の魂はゆっくりと花と溶け合った。





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