三十人は殺してる
寒い。
手をふらふらとシーツにさまよわせて、温かいものを探す。何にも触れることができず、月乃はようやく目を開いた。
大きなベッドの上にひとりきりだった。
上半身を起き上がらせると、背後から声がかかる。
「まだ早いぞ」
視線をやると、大きな砂時計の前で屈んでいる閻魔と目が合った。
「……何時ですか?」
「5時半」
「……こんなに早起きしたの、久しぶりです。何してるんですか?」
立ち上がって近寄った月乃を見てから、閻魔は砂時計に視線を戻した。
「もう砂がない。恐らく明日で終わりだ」
「それじゃあ……」
「今日か明日、新しい閻魔が来る。明日、砂が落ちきったら天国に行ってお終いだ」
月乃は言葉が出なかった。数日中にこうなる事は分かっていたはずなのに。何とも呆気ない。
まじまじと砂時計を見つめる月乃を、閻魔はじっと見下ろしてから尋ねる。
「お前はどうする?」
「え?」
「今日でも明日でもいい。いつ天国に行きたい?」
驚いて彼の顔を見た。
「好きにしてもいいんですか?」
「俺より先ならいつでも」
「じゃあ、あなたの最後の仕事にしてください」
何も考えずにそう言うと、彼は目を丸くする。百年務めた仕事の最後を飾るなんて少し図々しかっただろうかと思ったが、閻魔は噴き出すように笑った。
「いいよ」
少女漫画なら恋に落ちている笑顔だ。心臓の辺りがきゅっと締め付けられるように痛む。月乃の頭をひと撫でして踵を返した背中に、しがみつきたい衝動を必死に耐えた。
少し早めに起きたにも関わらず、シロとクロは手早く朝食を作ってくれている。
ポチの包帯を解いて傷を見ると、薄くかさぶたができていた。もうガーゼはやめて乾燥させたほうがいいだろう。覗き込んできた閻魔にそう説明すると、「分かった」と言ってぐりぐりとポチの頭を撫でた。足を引きずる動作もない。痛みもだいぶ引いたのだろう。これで心配事を一つ減らして天国へ行けそうだ。
早起きしたおかげでゆったりと朝食を食べて出かける準備を済ませて、月乃は着替えている閻魔をぼんやり見つめる。
「……怖くないか?」
視線に気付いていたのだろう。閻魔はじっと地面を見たまま月乃にポツリと言った。
「何がです?」
「明日でこの人生は終わるんだ。今持っている記憶も、思考も、何もかもがなくなる。本当なら死後のぼんやりした頭でよく分からないうちに裁かれるのに、お前には考える時間ができてしまった。……怖くはないか?」
顎に手を当て考える。昨日、寝る前に考えたことだ。寂しいと思った。今もそう思う。しかし怖くはない。普通なら怖いだろうに、不思議だった。
顔を上げて笑う。
「怖くはないです。ただ」
立ち上がって、彼のそばに寄った。
「あなたのことを忘れてしまうのは、少し寂しいです」
閻魔が目を丸くする。腕が伸びてきて、少し身構えた体を彼は掻き抱いた。
「お前、やっぱり俺のこと好きだろ。素直になれよ」
「だから、嫌いじゃないですってば」
体が離れて、額が触れ合う。
「このままお前とここにいたい。あと百年閻魔を続けてもいい。もっと早く出会いたかった」
「あなたは……少し素直になりすぎです」
真っ赤であろう顔を隠したくて顔を背ける。その頬に彼が触れて、こめかみにキスをした。
もし唇にしようとしたらもう受け入れてしまおうと思っていたのに、そんな時に限って彼はそっと離れた。
「行くか」
「……はい」
わざとだろうか。焦らしプレイとかいうやつだろうか。そう思って前を歩く彼の顔を見上げると、時間差で恥ずかしさがこみ上げたのか耳がほんのり赤くなっていて。
月乃は口元を押さえて、笑うのを必死に我慢する羽目になった。
*
膝の上にポチを乗せ、ゆっくり撫でながら閻魔の仕事を見る。
彼は今日、とても饒舌だった。出入りする鬼たちがぎょっと振り返るくらいなので相当だろう。
「この子達も任期があるんですか?」
「あるよ。五年だ。ポチはもうすぐ終わり。シロとクロは同時に来て、あと三年残ってる」
「犬も裁かれるんですか?」
「ああ。犬猫引っくるめた担当がいる。俺は日本地区人間担当」
そういえば、並んでいるのはほとんど日本人だ。
「会社みたいですね。じゃあアメリカで牛担当の閻魔様とかがいるんですね」
「あっちは閻魔じゃない。宗教に合わせて、それとない呼び方と格好をしてるはずだ。……まぁ今はどこもこのシステムになっているはずだから、真面目に衣装を着てる奴なんて少ないだろうな」
「巻物の時代は死人の前で裁いていたんですか?」
「そうだ。時々敬虔な他宗教のやつが来て、こんなの違うって暴れることがあった」
はははと笑う。
「日本は宗教観が薄いやつが多いから、他国に比べたらずっと少なかったけどな。他国の人間担当から羨ましがられていたよ」
どうやって他国の人たちと連絡を取っているのだろうと考えたが、もう以下略だ。不思議な空間では不思議なことが起こっても全く不思議じゃない。
「面倒くさいシステムだ。生まれ変わらなければならないなんて、一体誰が決めたんだ。死んだら魂は消え去って終わり、新しい命には新しい魂を、それでいいのに」
ぶつぶつ文句を言い始めた閻魔に笑った。
昼過ぎまで仕事をして、隣の部屋で手短に昼食を食べる。
ふたりでモニターの前に戻って、仕事を再開する。その、本当にすぐ後のことだった。
閻魔が亡くなった原因である心臓病の話をしている時、突然彼は黙り込んだ。
その顔を見て、視線がモニターではないことに気付く。
隣の部屋を見ると、そこには明らかに堅気ではなさそうなスキンヘッドの男が裁かれるのを待っていた。
「あれだ」
閻魔の異変に気付いて注目していた鬼たちがざわめく。「あれだけはやめてくれ……」と悲痛な声も聞こえる。
「次の閻魔だ。連れてこい」
閻魔は振り返って、泣きそうな顔の鬼たちに顎をしゃくった。
不憫な鬼たちを見送って、閻魔を見る。
「どう見ても三十人くらい殺してそうな顔してますけど……」
「小学校の教師だぞ」
「あの顔で! 子供が泣きますよ!」
閻魔はモニターに指を滑らせる。
「子供には慕われていたようだ。弟と妹が五人いるな。幼い頃に父親と死別して、母親を支えながら弟妹たちの面倒を見て、夢だった教師になったらしい。道路に飛び出た猫を助けて車に轢かれて死んでいる」
何だその絵に描いたような善人は。
「見た目で判断してごめんなさい」
隣の部屋に鬼が入り、おっかなびっくりという様子で強面の教師に声をかけている。彼は慣れているのかにこやかに対応していた。
笑うと少し穏やかな顔に――いや、やっぱり怖い。
しばらくして、強面の教師は鬼に連れられてきた。
閻魔が立ち上がる。教師は彼を見て目を丸くした。
「ようこそ、次期閻魔殿」
「次期……閻魔? あなたは……今の閻魔様ですか?」
意外にも優しい声だった。この声を聞きながら顔を見たら怖くな――いややっぱり怖いものは何をしても怖い。どんなに素晴らしい経歴があろうが怖いものは怖い。
そっと閻魔の後ろに体を半分隠した。
「そうだ。詳しいことはこれから鬼が説明する」
「鬼……」
「黒服の奴らが鬼。犬は閻魔の身の回りの世話をしてくれる。三匹いる」
いつの間にか集まっていた犬たちが順番にワンと元気に鳴く。
「飯を作る時はゴム手袋をしているから毛は入らない」
ああ、そう言えば毛の一本も入っていなかった。気にもしていなかった。それにしてもその説明は今必要なのだろうか。
「……分かりました」
そしてこの強面次期閻魔の物分りのいいこと。
彼は辺りを見渡しながら、少し楽しそうな笑みまで浮かべている。普通なら混乱するだろうに。
まあ、百年も働き続けないといけないと知れば、そんな余裕はなくなるかもしれないと哀れんでいると、強面と目があった。ぴゃっと跳び上がる。
「彼女は閻魔様の秘書ですか?」
「いや、これは」
「ペットです」
簡素かつ的確に説明したつもりだったが、閻魔は勢いよく振り返って月乃を非難した。
「やめろよ。変な趣味があると思われるだろ」
「えっ、ないんですか?」
「ない……ないよ!」
首輪がどうのこうの言っていた気がするが、彼の名誉のため黙っておくことにする。
「あー、これは、ワケ有りでそばに置いているだけだ。俺が後で天国にやる」
「分かりました」
次期閻魔は楽しそうにふたりを見ている。歳は四十手前くらいだろうか。閻魔と違って大人の余裕溢れる笑みだった。
「とにかく、鬼から話を聞いてくれ。部屋にも案内する。その後は俺の仕事を見てもらってもいいし、休んでもらっても構わない。本格的な仕事は明日からだ」
「分かりました」
「頼んだぞ」
閻魔が鬼を見やり、まだ少し警戒している鬼たちは、頭を下げてから次期閻魔を連れて部屋を出ていった。
「丸投げなんですね」
「案内なんて誰でもできるからな。明日は引き継ぎと初めての業務に手間取って余り裁けないだろう。少しでも行列を減らしておくのが俺の役目だ」
「あんな風に、次期閻魔って言われてはい分かりましたってなるものなんですか?」
「そんな風に思えるような奴しか閻魔は務まらない」
「私なら発狂しますね」
仕事を再開して一時間ほどたった時、説明を聞き終わった次期閻魔が見学に来た。
任期が百年もあると聞いたはずなのに、この落ち着きようだ。人生を達観しているようだ。一体何周人間をしているのだろう。
彼は月乃の隣に椅子を持ってきて座った。三人でお喋りする。
その強面とは裏腹に穏やかに喋る人だったが、月乃が猫の代わりをすることになった原因を聞いて少し声を荒げていた。めちゃくちゃ怖かった。
どうやら生前、猫や犬の保護活動を行っていたようだ。同居人が勝手にペットを捨ててしまうという事案は少なくないらしい。
彼はポチの傷も見てくれ、心配ないと言ってくれた。膝の上に乗せこれでもかと撫で回していたので、犬たちのことも可愛がってくれるだろう。
次期閻魔が仕事についていくつか質問しているのをそばで聞いた後、死因の話で盛り上がる。
その頃には彼の印象は『良い人っぽいけど顔が怖い』から『顔は怖いけどすごく良い人』にレベルアップしていた。
話が一段落して、次期閻魔はうんうんと頷いてみせた。
「月乃さんはこうやって閻魔様のそばについて、猫の代わりに閻魔様を癒す係りなんですねぇ」
「別に癒やされてなんかない」
久々に閻魔のツンが発動して月乃は笑う。次期閻魔はそんなふたりを見てにんまり笑って顎をさすった。
「月乃さんのような可愛らしい方がそばにいてくれるなんて、僕なら癒やされまくりですけどねぇ。僕がお役目についた後もここにいて欲しいくらいです」
閻魔の手が止まる。そしてちらりと次期閻魔の強面を睨んだ。
「……これは俺が引き止めた死人だ。俺が責任を持って裁く。女が欲しいなら自分で見つけてくれ」
「分かりました。すみませんでした」
強面を両手で隠して、次期閻魔は体を震わせて笑いを耐えていた。わざとからかっているようだ。
むっつりと拗ねた顔の閻魔と彼の顔を交互に見て、余り怒らせないでくれと強面に困った顔を向ける。彼は両手を合わせてごめんなさいのポーズを取った。
しばらく閻魔の仕事を見て「後は若いおふたりで」と言って、次期閻魔は部屋を出ていった。
「……お前は残りたいか?」
ぶっきらぼうに閻魔が聞くので、月乃はそっと彼の裾を掴んだ。
「あなたに裁かれたいです」
「……そうか」
小さな声で言って、彼は仕事を続ける。しかしその口元が少し緩んだのは横顔でもよく分かった。恐らくこれが萌えという感情なのだろう。
その後もずっとふたりで話をしていた。好きなものの話、嫌いなものの話。話しても話しても話題は尽きなかった。時間が足りないとさえ思った。
一時間残業して、二十時に部屋に戻る。朝よりも寂しさが強くなっている。
料理を机に並べている犬たちの邪魔をしないようソファに座っていると、着物を脱いで長襦袢の腰紐に手をかけていた閻魔が体の動きを止めた。
「月乃」
彼の指を追っていた視線を顔に上げる。彼は月乃に近付いて、月乃を挟むようにソファの背もたれに両手をついた。
「迫っていい?」
「……どうしようかな」
困ったように呟くと、閻魔の手が頬に触れた。思わず首をすくめる。
「どうする?」
耳元に唇を近付けて囁いて、閻魔はそのまま耳にキスをした。首筋に指が這い、襟元と肌の境目をなぞっていく。
目が合って、顔が近付く。全身を固まらせて目をぎゅっとつむったが、唇同士が触れることはなかった。
「嫌?」
閻魔の声に目を開いて首を横に振る。
「いや、じゃないけど……怖い」
「怖い?」
ぶっと閻魔が吹き出す。それを半泣きでぎりりと睨み付ける。
だってこのエロ閻魔のことだ。絶対にキスだけで済まない。その先もあるに決まってる。
「怖いなら抵抗しろ」
「だ、だって、もう明日で終わりだし……出血大サービスしようと思って……」
でも怖い。でも。でも。
彼は少しの間月乃の髪をいじり、そして離れた。
「やめた」
「……怒ったんですか?」
「これくらいで怒るか馬鹿」
閻魔は襦袢の袖を掴んで、月乃の顔をゴシゴシと拭いた。
「別に泣かせてまでしたいわけじゃない」
「……泣いてないです」
「嘘付け。鼻が真っ赤でブッサイクだぞ」
「そのブッサイクに一目惚れしたのは誰ですか」
「俺だよ」
驚いて閻魔の顔を覗き込む。てっきり「してねえよ!!」的な返事が帰ってくると思っていた。何か変なものでも食べたのか、それともとうとうツンを捨て去ったのかと閻魔の顔をまじまじと見つめていると、彼は居心地が悪そうに視線を逸らした。
「……嘘に決まってるだろ」
ああ、いつもの閻魔だ。安心したが、それの倍ほど残念な気持ちにもなった。素直に喜んでおけばよかった。
「そうですか」
寂しげな声を出して俯くと、閻魔が狼狽えたのが分かった。
「違う」
彼の手が月乃の頬にかかる髪を払う。顔を上げると真剣な顔をした閻魔がいた。
「月乃」
視線を逸らしたくなるのを我慢して、じっと彼の言葉を待つ。
「俺は、お前が……す」
「ワン!」
閻魔の声に――クロの元気な鳴き声が重なった。
月乃は脱力して笑う。なんてタイミングだ。
閻魔はクロをじっとり見下ろしてから、その頭を撫でた。
「クロ、空気を読め」
「犬に無茶言わないであげてください」
クロは嬉しそうに、食卓の下でもう一度声を上げる。食事の準備ができたらしい。
「はぁ……食べようか」
「はい」
部屋着を着た閻魔の後に続いて、月乃は食卓についた。明日の終わりの時までに、さっきの続きを聞くことはできるのだろうか。
彼は夕食の席でも饒舌だった。おまけにデザートをおかわりした。
それが不安から来ているものだとようやく月乃が気付いたのは、風呂から上がってテレビを見ている閻魔の隣に座った時、彼の手が月乃の手を取って強く握り締めたからだった。
その手を握り返して、彼の膝に頭を乗せた。
ゆっくりと髪を梳く手を好きにさせる。テレビの声は耳に入ってくるが理解はできない。
「そう言えば、猫らしいこと全然しませんでしたね」
「そうか? 一緒に寝たし、頭も撫でたし……まあまあいい猫だったぞ」
「光栄です」
ドキュメント番組が終わり、つまらないニュースが流れ始めると、閻魔はテレビを切った。
彼は月乃をひょいと抱き上げ、ベッドに運ぶ。この細腕のどこにそんな力があるのか。そう言えば人生初のお姫様抱っこだ。
人生は不思議だ。死んだ後にこんなにたくさんの初体験をするなんて。
恥ずかしさを誤魔化すように笑った。
「力持ちですね」
「お前なんか重いのは胸くらいだろ」
「……サイテー」
カッコイイだなんて思うんじゃなかった。
ベッドに降ろされ、後ろから抱きすくめられる。腹の辺りにある手を握ると、強く握り返された。
電気を消したのはクロだ。暗闇に包まれた部屋はしんと静かだが、このまま眠ってしまうのがもったいなくて仕方がない。
「そっち向いていいですか?」
彼は返事をせずに腕を緩めた。くるりと反転して彼の胸に顔を埋める。とても早い心臓の音が聞こえる。体はもう死んでいるはずなのにと、おかしくてたまらない。
「あー……キスしたい」
呟くような声が聞こえて顔を上げた。
「キスだけで終わらせてくれますか?」
「無理」
強く抱き締められ、体から力を抜く。覚悟を決めよう、このまま流されてしまおうと思ったのに、彼はいつまでたっても動かない。どうやら我慢しているようだった。
「閻魔様……意外と紳士ですね」
「紳士の塊だろうが」
「紳士の塊は変なものを女の太ももに押し付けたりしませんよ」
「不可抗力だ」
少し離れるという選択肢はないらしい。これくらいならもう甘んじて受け入れよう。
首筋に口付けをしながら、閻魔が呟く。
「来世は、お前の近くに生まれ変われるようにしようかな……」
「本当ですか?」
「それで今できないことを色々やりまくってやる」
「私のタイプの男の人になってくれるなら、いくらでもどうぞ」
彼は返事をせずに月乃の頭に頬を擦り付けた。どちらが猫か分からない。
本当に近くに生まれ変わってくれるのだろうか。それともただ気まぐれで言っているだけなのだろうか。
きっと近くで生まれ変わっても、ふたりとも前世でこんな事をしていたなんて覚えていないだろうが。
いいや、前世の記憶があるという人を時々テレビで見る。もしそれが本当なら、月乃だって覚えていられるかもしれない。何か覚えていられるような、そう、例えば――。
「名前……」
ふと思いついて呟く。
「元々死人なら、名前があるでしょう? 何ていうんですか?」
閻魔は黙った。見上げたその顔は盛大にしかめられていた。
「教えない」
「変な名前なんですか? 権兵衛とかでも笑わないですよ?」
「お前、権兵衛に謝れよ。今でもいるぞ」
「すみませんでした」
素直に謝って、また彼の顔を見る。
「……言いたくない」
「どうして?」
「何となく」
「ふーん……教えてくれたらキスしてもいいのに」
ボソリと言うと、背中に添えられている手がピクリと動いた。
「胸もちょっとなら触ってもいいですよ」
更に大きく手が反応する。
「もうちょっと先も、していいですよ」
どうせ彼のことだ、じゃあ教える、なんて言わないだろうとは思っていたが、やはりそうだった。
「…………言わ、ない」
絞り出すような苦しげな声だった。
「そうですか。じゃあもう聞きません」
何か理由があるのか、今さら名乗るのを恥ずかしがっているだけなのか。どっちにしろ無理に聞き出すものでもない。
「来世は何か分かりやすい名前にしてください。覚えてたら探しますから」
「……えんま君?」
「うわぁ、ひどいな」
体を丸めて笑い転げる。一通り笑って満足して、また彼の胸の中へ戻った。
「……探してくれるのか?」
「来世の私が覚えていたら」
遠慮なしの大きいあくびをする。閻魔にも伝染した。
「寝ましょうか」
「……ああ」
彼の胸に擦り寄って、背中に腕を回す。
「……お前は、人の気も知らずに」
「知っててわざとやってるんです。おやすみなさい」
「……この悪女が。おやすみ」
少しの間眠気に抗う。閻魔が寝た後に、少し顔を眺めたかった。しかしなかなか閻魔の寝息が聞こえてこない。
「……寝ないんですか?」
「お前が寝た後に胸を揉むから寝ない」
「そう言うのはこっそりやってくださいよ」
「だったらさっさと寝ろ」
寝汚いので、恐らく胸を揉まれたくらいでは起きないだろう。
明日起きたら知らないうちに大人の階段を登っていたらどうしよう。月乃は考えるのはやめて目をつむった。