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善良な男の罪


「髪、メデューサみたいになってるぞ……」

「流行りなんですよ……」

 月乃が腕から抜け出したことで起きたらしい閻魔が掠れた声で呟く。

 月乃は頭を撫で付けながら返事をしてベッドから下りた。確かにモサモサしている。そういえば昨日乾かさずに寝た。

「ちょっとシャワー借ります……」

「ああ……」

 返事を聞いてから着替えを持ってよたよたと浴室に向かう。半分寝ながらシャワーを浴びて、ついでに顔も洗うとようやく目が覚めた。

 爽やかな気分で月乃が部屋に戻ると、閻魔は二度寝をしていた。

 必死にその体を揺するポチが、縋るような目で月乃を見上げる。ポチの頭を撫でて、代わりに閻魔の体を揺らした。

「閻魔様、もう起きないと仕事に間に合わないですよ」

「あと五分……」

「知りませんよ。私、起こさないですからね」

「あと、あと一分……」

 まるで自分を見ているようだ。時計を見て六十秒数えて、もう一度閻魔の体を揺らす。

「一分経ちましたよ。起きてください」

「あと一分……」

「あなたの分の朝ごはん、私が全部食べますから」

「やめろ……」

 月乃なら本当にやりかねないと思ったのだろう。閻魔はようやくのっそりと起き上がった。

 席に着いて顔を洗っている彼を待つ。

 ふらふらと戻ってきた閻魔と一緒にいただきますをして、相変わらずほっぺたが落ちそうなくらい美味しいご飯を、月乃は美味しい美味しいと言いながらあっという間に平らげた。

 何も言わずに黙々と食べている閻魔に「美味しいですか?」と尋ねると、彼は少し顔をしかめて視線を逸らす。しつこく聞き過ぎて機嫌を損ねたかと思ったが、閻魔は月乃を見ないまま言いにくそうに口を開いた。

「誰かと一緒に食べると……美味しい」

 心臓が飛び跳ねた。突然のデレは心臓に悪い。

 自分の存在が閻魔のプラスになっているのが嬉しかった。胸を揉ませなくたって、彼の癒やしにはなれる、はずだ。

「嬉しいです」

 笑顔が引かないままデザートに突入する。

 閻魔の視線を感じる。目を合わせるのが何となく気恥ずかしくて、ふらふらと本棚に視線をやった。

 その視線の先で、何か違和感を覚えた。

 その原因を知るために目を細めてじっと本棚を見つめていると、閻魔が平静を装った声で言う。

「エロ本なんか置いてないぞ」

「そうやって言うってことは置いてあるんでしょ? 後で探そ」

「本当にやめろ」

「冗談ですよ」

 ようやく分かった。本棚の一番上、ほとんど日焼けしていないきれいな漫画を指差す。

「あの漫画……確か作者の人が急逝して、七巻で終わっていたはずなのに」

 それなのに本棚には十巻まで並んでいる。

「ああ。死んだ作者がここに来たから描いてもらった」

「ズルい!」

 何という職権乱用だ。そんなことしてもいいのか。誰か咎める人はいないのかと考えたが、そう言えばここの最高責任者はこの閻魔だった。何という独裁だ。

「最終巻、どうなるか教えてやろうか?」

「駄目!」

「主人公が敵を倒すんだけど」

「わーわー!」

 耳を押さえて首を振る。閻魔はにやにやと笑いながら耳を塞ぐ月乃の手を剥がし、警戒する月乃に目を細めてみせた。

「読みたいなら読んだらいい」

「ホントですか! やった!」

 打ち切りと聞いた時、それはもう落ち込んだくらい好きな漫画だ。

「なら、今日はここで漫画でも読みながらのんびりしていろ」

 礼を言おうと顔を上げて、閻魔の顔が少し寂し気に見えた気がして口をつぐんだ。彼の顔を覗き込む。

「……私がいなかったら寂しいですか?」

「別に」

 そう言いかけて、彼はまぶたを伏せる。フォークでスクランブルエッグを何度かつついて、視線を逸した。

「いや、話し相手がいないのは、少し……つまらない」

 二度目のデレも心臓に悪いものだった。なぜか月乃が恥ずかしくなって、赤いであろう頬を手のひらで撫でた。

「だったら、一緒に行きます」

「でも読みたいだろ?」

「今日の夜に読みます」

 閻魔は少し考えて、そして顔を上げた。

「だったら、午前中に読めばいい。昼前に帰ってくるからここで昼飯を食って、午後は一緒に行こう」

 見事な折衷案だ。

「……いいんですか?」

「いいよ」

 彼の顔を見る。怒ったり寂しがったりはしていないようだ。

「じゃあ、お言葉に甘えます。ありがとうございます」

「ああ」

 朝食を食べ終わった閻魔が立ち上がる。「あ」と月乃は声を上げた。

「ケーキがまだありますよ」

「もう食えない。お前にやる」

「ええ、美味しいのに」

 仕方ないなぁ閻魔様はと喜んでケーキを受け取る。ふたくち食べて視線を感じて閻魔を見上げた。

「お前が食べていると全部美味しそうに見えるな」

「ひとくち食べますか?」

 そう言うと彼は口を開く。果物の乗っているいいところをフォークですくって口の前に差し出すと、彼はなんのためらいもなくそれをパクリと食べた。

 餌付けしているようで、なぜか興奮する。唇についたクリームを拭い取って口の中に運ばれた指に目を奪われていると、閻魔は少し口元を歪めた。

「そんな顔するな」

 月乃は焦る。唇がエロいとか思っていたのがバレただろうか。

「どっ……どんな顔してましたか?」

「全部食べたかったのに、って顔」

「してないよ!」

 思わず叫んだ。

「私の事なんだと思ってるんですか!」

「食い意地のすごい女」

 酷い言いぐさだが事実なので反論できなかった。まあとにかく、唇がエロいとか思ってたのがバレなくてよかった。

 憮然とした顔を作って残りのケーキを口に運ぶ。

「間接キスだな」

「小学生ですか」

「細いのによく食うな」

「美味しいものをたくさん食べるために、涙ぐましい努力をしてたんですよ」

「全部胸にいってるんじゃないのか?」

「セクハラ親父!」

 中途半端な下ネタを言いやがってと、閻魔を睨みつける。彼は笑っていた。

「俺への態度が雑になってきたな」

「そんなことないですよ。尊敬しています」

「何だよその棒読み」

 シロが運んできた着物を手に取って、彼はTシャツを脱いだ。

「あの、せめて向こうで着替えてください……」

「男の裸ぐらいどうってことないだろ」

 そう言ってハーフパンツを脱いだ閻魔から盛大に顔を背けた。

「ものを食べてる時に変なもの見せないでください」

「変なものとは失礼な。……ほら、もう着たから」

 恐る恐る見ると、彼は長襦袢を着込んで腰紐を結んでいるところだった。確かに着てはいるが、薄い素材なので思い切り透けている。彼はボクサーパンツ派のようだった。ふんどしじゃなくて本当に良かった。

「男の人の着物ってすごく、エロ……色っぽいですよね」

「そう?」

 閻魔は自分の姿を見下ろしてふんふんと頷き、そしてニッコリとわざとらしい笑みを浮かべた。

「なら今日はこの格好で迫ろう」

「今日も迫るんですか。懲りない人ですね」

 月乃も負けじとわざとらしくため息をついたが、実際に閻魔がこの格好で迫ってきたら本当に抵抗できるのか不安だった。Tシャツでは何とも思わなかった病的に白い肌や線の細い体が、着物だとあまりにも艶かしく見える。正直エロい。そうだ、この男は外見も中身もエロい。今日起きてから一体何回エロいという言葉を使った。

 ごちそうさまをして、着付け終わった閻魔に近付いた。今日はクロとポチが閻魔についていくようだ。

 扉の前に立った閻魔が月乃を振り返る。

「絶対に部屋を出るな。あと、誰も中に入れるな。分かったな」

「分かりました。行ってらっしゃい」

「行ってくる」

 そう言ったのに閻魔は少しの間月乃を見下ろして、それからポチを見た。

「ポチ、今日はお前もここにいろ」

 わんと鳴いて部屋に戻ったポチを見てから、彼は扉の向こうへ消えた。

 やはりついて行けばよかったと今さら思う。寂しいとかじゃなく、彼はきっと心配している。

 漫画を持って隣で読んでいればよかったか。しかし仕事をしている隣で誰かが漫画を読んでいることほど頭にくることはなかなかないだろう。

 昼ご飯までに全部読み終えるようにしようと、月乃は早速八巻を手にとって、ソファに座った。



 十一時を少し過ぎた頃。月乃はソファの背もたれに体を預けて、天井を見上げて泣いていた。

 泣ける最終回だった。こんな素晴らしい漫画を描ききれず亡くなった作者は、どれほど無念だっただろうか。鼻をすすって姿勢を元に戻した。

 シロが入れてくれたお茶を飲み干し、本をきれいに本棚に戻す。

 犬は二匹でキッチンに篭ってしまったので、手持ち無沙汰になり本棚を漁り始めた。

 卑猥な本を探し出して机の上に並べておいてやろうかとニヤニヤしながら本棚を探っていると、急に扉が開く音がして月乃は驚いて顔を向けた。

 少し早めに帰ってきた閻魔だと思ったが違った。

 無遠慮に部屋に入ってきたのは、あの眼鏡の鬼だった。

 彼は月乃を見て笑う。

「……閻魔様はお仕事中ですよ」

「だから来たんです」

「誰も部屋に入れるなと言われているんですけど」

「命令に従う義務はありません」

 そう冷たく言い放った彼の手に日本刀のような長い刀が握られているのを見て、月乃はヨロヨロと後ずさった。

「大変ですね。さっさと天国に行って生まれ変わりたかったでしょうに」

「……そうですね。あなたの尻拭いをさせられて、本当に迷惑です」

「それはそれは、申し訳ない」

 男が鞘から刀を抜く。金属音が響いた。

「時々……裁きの間で地獄行きを言い渡されて、抵抗して暴れる死人がいるんです」

 鬼は感情のこもらない声で続ける。

「そんな時、地獄の扉をくぐらなくてもその魂を消す方法がある。それが、この刀です」

 長さ一メートルほどの刀が、蛍光灯の光を無機質に反射させた。目が眩む。

「僕が責任を持って、あなたの魂をこの地から解放しましょう」

 背筋が凍った。ソファに足がぶつかって、喉の奥で悲鳴を上げる。

「あなたは随分と閻魔に気に入られているようだ。あなたが苦しんで苦しんで地獄に落ちたと知れば、僕の苦しみの数パーセントでも、あの男に負わせることができるだろうか」

 月乃はソファの後ろへ回り込み、テレビに触れる。これを投げて怯ませることはできるだろうか。

「どうしてそんな事をするの?」

「あの男が、僕の大切なものを苦しめて苦しめてこの世から消したからだ……!」

 手に持っていた鞘を鬼は地面に叩きつける。態度が一変し、鬼は憎悪を表情で示した。

「あの男が憎い! 恨めしい! 許せない! 彼女は優しい人だった! 優しい優しい……僕なんかを愛してくれた、優しい……」

 ゆらりと鬼が足を踏み出す。

「そんな人をあの男は地獄行きと裁き、抵抗する彼女を……僕の妻を、この刀で斬り殺したんだ」

 ぎくりと体が強張った。どういう事だ。この鬼の妻を、閻魔が刀を使ってこの世から消した? 鬼はそれを、冤罪だと思っている。

「三年前に妻が仕事中の事故で死んで、すぐに僕の病気が発覚した。喜んだよ。彼女の元へ行けるって。時間はかかったけど僕は死んだ。彼女は天国にいるはずだ。僕も天国に行けるはずだ。そう思っていたのに、あの男は僕を裁かずに鬼の役目を言い渡した。それは仕方がないと受け入れた。鬼の役目は十年、それまで彼女は待っていてくれると。それなのに、せめて彼女の痕跡を知りたいとこっそり彼女の事を調べた時、知ってしまったんだ。彼女が地獄に落とされたと。彼女はもう、どこにもいないんだ……」

 消え入りそうな声で、鬼は顔を両手で覆う。今のうちにと辺りを見渡したが、鬼はすぐに月乃を睨みつけた。

「あの男は死人を裁いていない。適当に、遊び半分に、何の罪もない死人を裁くふりをして殺しているんだ……!」

「そんなわけないでしょう!」

 カッと頭に血が上ったのが分かった。

 昨日一日一緒にいて、何千人の死人を裁く閻魔を隣で見て、彼がどれだけ苦しんでいるのかを目の当たりにした。

「お前に何がわかる!」

「あんたこそ何がわかるのよ! 私は昨日あの人の仕事をずっと隣で見ていたんだから! あれが遊び半分なわけがない!」

「黙れこの売女が!」

「ふっ、ざけるな馬鹿チビハゲ! 黙るのはあんたよ、この勘違い包茎粗チン野郎!」

 激昂した鬼が刀を振り上げる。恐怖に震える手でテレビを持ち上げて、投げつけてやろうとした、その時。

 キッチンの扉が開いて、顔を出したのはポチだった。部屋を見渡して、ポチは手に持っていたナイフとフォークを地面に取り落とした。

「ポチ! 逃げて!」

 叫んだが、ポチは低い唸り声を上げながら月乃と鬼の間に割って入った。忌々しそうに見下ろす鬼の足に飛び付いて牙を立てる。鬼が刀を振り上げた。

「やめて!!」

 刃はひょいと飛び退いた犬の尻尾の毛先を掠めた。しかしすかさず鬼が足を振り上げ、ポチの後ろ足を蹴り上げる。悲痛な声が聞こえ、テレビを離した月乃はポチに飛びついて、その体に覆いかぶさるようにして庇った。

「この犬も殺すつもりだった。一緒に殺してしまおう」

「やめて……」

「おや、さっきまでの威勢はどうしたんです。思う存分抵抗して、苦しんで苦しんで消えて無くなってください」

 ポチを抱き上げて、座り込んだまま後退る。腰が抜けたようで、震えている足も思うように動かない。

 万事休す。こういう時のためにある言葉か。生前は一度も使ったことがなかったが、まさか死んでから使う羽目になるとは。

 振り上げられた刀から目をそらす。ポチを体の後ろで庇って、そして目をつむろうとした――その時だった。

 廊下に続く扉が勢い良く開く。飛び込んできたのは、いつの間にかキッチンから出ていたシロと、閻魔のそばについているはずのクロだった。

 二匹同時に鬼に飛びついて、鬼は不意をつかれ地面に膝をついた。

「月乃!!」

 閻魔が部屋に飛び込んでくる。彼の声を聞いて、頭をかばうように伏せていた鬼が飛び起きた。

「殺してやる!!」

 犬が首筋に歯を立てるのもかまわずに、鬼は月乃に刀を振り上げる。

「貴様!!」

 月乃の頭上に刃が振り下ろされる、その直前に、閻魔の持つ鞘が刀を受け止めた。響いたのは歯の浮くような金属音だ。

「月乃! 下がれ!!」

 その怒声にようやく意識が帰ってきて、ポチを抱きかかえると這うようにその場を離れた。後ろでガチャンと音がなる。振り返ると、閻魔が鞘で鬼を押しやり、鬼が後ろへバランスを崩したところだった。

 間髪いれずに鞘が鬼の足を薙ぎ払う。なす術もなくひっくり返った鬼の刀を持つ手を、閻魔は踏みつけた。

「クソッ! クソが!!」

 刀を奪われた鬼はさらに抵抗しようとしたが、閻魔に顔面を蹴り上げられ、ようやくおとなしくなった。

 閻魔は着物の装飾紐をむしり取ると、鬼を後ろ手に縛り付ける。大きく息をついて額を撫でてから、彼は落ちた刀を拾い上げた。

「殺せ! ここで殺せよ! 裁きの間以外で死人を裁けば規律破りだろ! お前も地獄行きだ! 道連れにしてやる!」

「なぜ俺が貴様と一緒に地獄に落ちなければならないんだ」

 閻魔は吐き捨てるように言って、月乃に近付くとその頬に触れた。

「怪我は?」

「私は何も。でもポチが」

 ポチの足を見る。折れてはいないようだが血が出ていて、月乃は涙を滲ませた。

「ごめんなさい。私を庇って……」

 閻魔はポチを見下ろして、それからその頭を撫でた。ポチは嬉しそうに鳴く。

「もう少し下がってろ」

 月乃の肩に触れてから閻魔は立ち上がる。その顔は見たこともないくらい冷然としていた。それは地面に這いつくばる鬼に向けられていた。

「なぜこんな事をした」

「なぜ? それは僕の台詞だ! どうして僕の妻を地獄へやった!? どうしてこの世から消したんだ!」

「妻?」

 閻魔はまぶたを伏せ、額に手を当て眉根を寄せる。

 思い出そうとしているのか。今まで裁いた数え切れないくらいの死人の記憶の中から、鬼の妻を探し当てている。少しして彼は「ああ」と声を上げた。

「地獄行きを拒んで、俺が直接手を下した女だな」

 体を強張らせて閻魔を見る。鬼の言っていることのどこまでが事実なのか分からなったが、彼の妻を閻魔があの刀で斬ったのは事実のようだった。

「そうだ! どうして! 彼女は完璧な人だ……! 地獄に行かなければならない理由などひとつもない……!」

 閻魔が馬鹿にしたように鼻で笑った。

「おめでたい奴だな。あんなに胸糞悪い女なんぞ滅多にいない。まだ騙されているのか」

 鬼は目に見えて動揺する。

「な……何が」

「貴様の妻の一番の罪を教えてやろう。子殺しだ」

 鬼は目を見開いて、そして歯を食いしばった。

「ほらやっぱりお前はインチキだ! 僕達に子供はいなかった!」

「誰がお前の子だと言った。女が死ぬ三ヶ月前、自宅で不倫相手の子供を産み落とし、殺してごみと一緒に捨てている」

 おぞましい言葉に、月乃は両手で口元を押さえた。

「それが貴様の子ではないことは、貴様がよく分かっているだろう」

 閻魔が額に当てた手を撫でるように動かす。地獄行きの死人を裁いている時も、彼は同じ動作をよくしていた。割れそうなほど頭が痛くなるんだと言っていた。

「単身赴任中の貴様がせっせと送った金で、男遊びをしていたようだな。産んで一緒になろうとほざいていた男が堕ろせる時期を過ぎた頃に消えて、貴様にばれないよう殺した」

「そんな、そんなわけ」

「死んだ時に一緒に車に乗っていた仕事の上司、そいつとも関係を持っていた。仕事を抜け出してよろしくするつもりだったようだぞ」

 閻魔が重い息をつく。いつも凛と張っている背筋が、疲れ切ったかのように少し丸い。

「嘘をつくな……嘘を……彼女は、僕を愛していると」

「逃げるな。薄々感付いていたんだろう? 結婚してから女に触れたことがあるか? 女が死んだ後に通帳を確認しなかったのか? 貴様がふたりのためにと貯めた金が通帳からごっそり消えていただろう? 女にとって貴様は、金のために結婚した都合のいい奴でしかなかったんだよ」

「そんなわけがないだろう!!」

 鬼は狂ったように、いや実際狂ったのかもしれない、金切り声で喚いて慟哭した。

 閻魔が部屋の扉を振り返る。

「おい、鬼ども! そこで聞いているんだろ!」

 彼が叫ぶと、少しして扉が恐る恐る開き、数人の鬼たちが顔を覗かせた。

「こいつを裁きの間に運んでくれ」

「かしこまりました」

 数人の鬼たちに担がれて、けたたましく喚き続ける眼鏡の鬼は、扉の向こうへ消えた。

 月乃は胃の辺りを押さえる。ドロドロと汚くて醜い話を聞いて、吐き気がする。

「月乃、今日はここから出るな」

 鞘を拾い上げて刀をしまって、閻魔が強い口調で言った。

「でも、私……」

「シロ、クロ。絶対に月乃から離れるな。何かあればすぐに俺を」

 よろけながら立ち上がって、閻魔の着物にしがみつく。言葉を切った彼に必死に訴えた。

「置いていかないで」

 ただただ怖かった。閻魔はじっと月乃を見下ろして、涙が滲む目元に触れた。

「……分かった。おいで」

 着物を翻し部屋を出ていく閻魔の後を、ポチを抱き上げてから追う。後ろからシロとクロがついてきている。

 仕事場に入ると、ガラスの壁の向こうの部屋に、他の鬼三人に囲まれて項垂れている眼鏡の鬼の姿が見えた。閻魔はモニターに近付いて流れる文字を凝視している。

 腕の中でポチが弱々しく鳴いて、慌ててそばの椅子の上に寝かせた。クロが持ってきてくれた救急箱のガーゼを水差しの水で濡らし、茶色い毛についた血を拭き取ってやる。血はもうほぼ止まっていて、思っていたよりもひどい傷ではないようだ。軟膏を塗ってガーゼを当てて、軽く包帯を巻いてやった。

 その頭を撫でて抱き締める。

「ごめんね、ポチ。守ってくれてありがとう」

 ポチは嬉しそうに鳴いて、そして月乃の頬をひと舐めした。

 後ろから誰かが頭に触れる。振り返ると、閻魔がすぐそばに立っていた。

「裁きの間に行ってくる」

 一緒に行くと言いかけて、唇を噛む。どう考えても足手まといだ。

 小さく頷くと、閻魔はもう一度月乃の頭をくしゃりと撫でて、一緒に出ていこうとする数人の鬼たちに「ここにいろ」と声をかけて出て行った。彼は刀を手に持ったままだ。

 間もなく裁きの間の扉が開き、閻魔が入ってくる。項垂れていた眼鏡の鬼が、彼の姿を見て噛み付くように吠えた。

「殺せ! 早く殺してくれ! 早く、早く、妻と同じ方法で、妻の元へ!」

「やかましい。俺に命令するな」

 同じ部屋にいるかのように彼らの声はよく聞こえた。

 眼鏡の鬼の前に立ち、閻魔は刀を地面に突き立てる。

「貴様はふたつ規律を破った。ひとつは閻魔以外閲覧禁止の死人の情報を見たこと。もうひとつは閻魔以外触れてはならない刀を持ち出し、罪のない死人に向けたこと」

「そうだ! だから早く殺してくれ!」

「しかし、だ」

 閻魔の声が響いて、鬼は顔を引きつらせた。

「貴様は生前、善良な男であった。鬼の役目に就いたのが何よりの証拠だ」

 鬼が震えながら呟く。

「頼む……やめてくれ……」

「鬼の役目を解き、望み通り裁いてやろう」

 閻魔は忌々しげに顔を歪めて、刀で扉を指した。

「天国へ」

「やめてくれえぇ!!」

 どこにそんな力があったのか、細身の眼鏡の鬼は体を押さえつける三人の鬼たちを跳ね飛ばし、地獄の扉へ駆け出した。閻魔がその首根っこを掴もうと伸ばした手を身をかがめて避ける。

 鬼が地獄の扉に飛びついた。手を拘束されている鬼は口でドアノブを回す。ギギギと嫌な音を立て、扉が微かに開いた。

 しかしすぐに追いかけてきた鬼三人に引きずり倒され、抱え上げられる。眼鏡の鬼は自由な足を滅茶苦茶に動かしながら、無駄な抵抗を続けた。

「嫌だ! 頼む! 彼女がいない世界で生きたくなんてない!」

「安心しろ。すぐにあんな馬鹿女の事なんか忘れる」

「忘れたくない! 愛しているんだ! あの人を……あの人と同じ場所へ……!」

「俺だって貴様を天国にやるのは不本意だ。さっさと扉の向こうへ消えてくれ」

「嫌だああぁ!!」

 まるで断末魔だ。ガタガタと震える月乃の体にシロとクロがぴたりとくっつく。

 天国への扉が開かれる。向こう側は真っ白で何も見えない。

 鬼が女の名を叫ぶ。何度も何度も、愛されていると信じていた女の名を。

 眼鏡の鬼の体が他の鬼たちによって扉の向こうへ放り投げられ、扉が閉められた。数十秒、狂ったように扉が向こう側から叩かれ続けたが、やがて聞こえなくなった。

 閻魔が額を押さえて乾いた笑いを漏らす。

「地獄へ行くのを嫌がって抵抗する奴は何人も見たが、天国へ行くのを嫌がる奴は百年で初めてだ」

 笑いを大きくて重いため息に変え、閻魔は鬼たちを振り返った。

「ご苦労。怪我を見てもらってこい」

 眼鏡の鬼に蹴られ顔に痣を作って座り込む鬼達に、閻魔が手を差し出す。

 何とか終わったようだった。閻魔に負けないくらい大きなため息をついて、そばにあった椅子に腰を下ろした。と言うよりは、力が抜けて座り込んだ。

 怖かった。恐ろしかった。今まで生きてきて――今はもう死んでいるが、一番怖い出来事だった。

 安心しきった月乃の隣で、シロが唸るように吠えた。驚いて犬を見ると、クロもポチまでもが次々と吠える。

 彼らの視線を追う。地獄の扉を睨みつけているようだった。眼鏡の鬼が少し開いたままにしていた、地獄の扉を。

 風邪を引いたときのようにぞくぞくと全身が粟立った。なぜか嫌な予感がする。

 扉の隙間から何かが覗く。黒い、あれは何だ。しゃらんと金属の触れる音がした。閻魔が腰に差した刀を抜いた音だった。

「下がってろ。絶対にあれに触れるなよ」

 彼が部屋に残っている鬼を庇うように立つ。

 何をするんだと一歩踏み出した月乃のスカートが、突然後ろへ引かれた。

「っ、クロ」

 クロが唸りながらスカートを噛んで後ろへ引っ張っている。

「月乃、部屋に戻れ!」

 隣の部屋から閻魔が月乃を見ることもなく叫んだ。「でも」と弱々しく呟いた月乃の肩を、部屋に残っていた鬼が掴む。

「お部屋へ」

 でも、でも。危ない状況なのではないだろうか。刀を抜いたのだ。しかし問答無用の強い力で肩を引かれ、月乃は閻魔と鬼を交互に見た。

「閻魔様!」

 閻魔は結局、月乃をちらりとも見なかった。

 引きずられるように部屋に連れ戻される。

「絶対にお部屋を出られませんよう」

 鬼は念を押すように月乃を睨んで、扉を閉めた。呆然と立ち尽くす。

 あの黒いものは何だったんだ。危険なものなのか。絶対に触れるなと閻魔は言った。もし触れたらどうなる?

 犬の鳴き声が聞こえて我に返った。シロ、クロ、ポチまでもが足元にいる。ポチは足を引きずって月乃を追いかけてきたらしい。

「ごめん、ごめんね、ポチ。みんなもおいで」

 ポチを抱き上げてソファに移動する。

 何をする気にもなれず、犬たちと並んでソファに座ってテレビを見る。時間がすぎるのがあまりにも遅い。

 閻魔は二十時を過ぎても帰ってこない。

 二十一時を数分過ぎた頃、扉がノックされ体を固まらせたが、扉の下に差し込まれた手紙をクロが持ってきてくれた。恐らく閻魔だろう、走り書きのような字で『先に飯を食って寝ていてくれ』と書いてあった。彼は無事なようだ。手紙を両手で握り締め、月乃は長い時間動けなかった。

 ひとりで食事を取って、風呂に入る。出てきたら二十二時を過ぎていたが、閻魔はまだ帰ってきていない。

 日付が変わるくらいまでは待とうと、本棚から引っ張り出した本を開いた時だった。ポチが「ワン」と小さな声で鳴いて顔を上げる。おそらく笑顔だ。そのおかげで、ノックもなしに開いた扉に怯えてソファから落ちずに済んだ。入ってきたのは閻魔だった。

 おかえりなさいという言葉を飲み込む。彼の着物の前面に、おびただしい量の血がついていたからだ。

「怪我は……」

「俺の血じゃない。シロ、クロ、穢れたから捨ててくれ」

 閻魔が服を脱ぎ捨てるのをじっと見つめる。長襦袢を脱ぎ捨てて下着一枚になって、その肌に血がついていないことを確認してホッと息をついた。

「しまったな」

 閻魔が呟いて月乃を見る。

「襦袢を着たまま迫ると言っていたのに」

 その顔がにやりと笑って、月乃はようやく全身から力が抜けた。張り詰めていた神経が途切れて額を手で覆う。安心したのだ。

「早くお風呂に入って、ご飯を食べてください」

 閻魔は笑いながらソファのポチをひと撫でし、浴室に入った。

 数分後に出てきた彼と一緒に食卓につく。聞いてもいいのか分からず、こんな時間にシロが出してくれたケーキをもそもそと食べていると、閻魔が顔を上げた。

「気になるか、あの後どうなったか」

 顔を上げて、俯いて、また顔を上げた。

「気になります」

「地獄の扉を開いたままにしていただろう。黒い影が見えたか? 今日裁いた地獄行きの奴らだ。それらが裁きの間に乱入してきて……まあ、色々あった」

 何となく想像がついた。全員斬ったのだろうか。

 理解したと小さく頷いてケーキを運ぶ手を動かす。閻魔は月乃を見ないまま箸を置いて、低く沈んだ声を出した。

「怖い思いをさせてすまなかった。……本当は地獄へ落としてやりたかったが、俺の感情で天国か地獄か左右するわけにはいかない」

「あなたは正しいです。それに」

 月乃はあの断末魔を思い出して身震いした。

「あの鬼にとってどっちが地獄なのか、私には分かりません」

「……そうだな」

 静かに食事を終えて、ふたりで並んで歯を磨いて、ドライヤーをせずに寝ようとする閻魔を押さえつけて髪を乾かしてやる。

 ベッドに入って、いつものように彼は後ろから月乃を抱き寄せた。

 部屋が暗闇に包まれる。

「月乃」

 耳元で声が聞こえて、くすぐったさに体をよじる。

「漫画どうだった?」

 そういえばすっかり忘れていた。余韻に浸る暇もなかった。

「すごく面白かったです」

 彼の腕の中で体を反転させ、向き合って語り合う。本棚のラインナップを見て思ったが、彼とはきっと趣味が合う。

 昼間ほとんど話せなかった反動を全てぶちまけて、満ち足りた疲労感に月乃は満足した。

「良かったです、ここに来て」

「本当に? あんな怖い目にあったのに」

「あなたにも会えたし」

 たまにはデレてみようと正直に気持ちを伝える。漫画を読めたのも嬉しかったし、こうやって話が合う人と語り合えたのも楽しかった。

「……お前、俺のこと好きだろ」

「嫌いではないですよ」

 声を出して少しだけ笑った。

「今日、私のことを守ってくれた時、すごくかっこよかったです。普段はおっぱいおっぱい言ってる人だとは思えないくらい」

「そんなこと言ってない」

「言ってますよ。視線が」

 あくびを噛み殺して彼に背を向けようとしたが肩を引かれた。

 顔が近付いて体に力を込めると、彼の唇が額に触れる。昨日と同じように頬にも触れ、今度は首筋にも。

 伸し掛かって月乃の手を取って、その手首にもキスをして、指を絡めて――そして唇に降ってきた顔を月乃は既のところで手で止めた。

「……今絶対そういう雰囲気だっただろ!」

「雰囲気でファーストキスを奪われたらたまったもんじゃないですよ!」

「俺だって初めてだからいいだろ!」

「何がだよ!」

 わけが分からない。何かいいんだ。わけが分からない。

 しかしふと気付いて、よくよく考えてみる。

「……イケメンのファーストキス……百二十二年物……」

「ビンテージだろ。有難く受け取れよ」

 彼の顔が近付く。長いまつげに一瞬目を奪われ、しかし既のところで顔を背けた。頬に熱い熱いキスを受け止める。

「……お前な」

「ほっぺたで我慢してください」

 閻魔が上半身を起こす。そして自らの下半身を指差した。

「どうしてくれるんだよこれを!」

 首が捩じ切れそうなくらい顔を逸らしてそれを視界に入れないようにし、月乃は叫んだ。

「知らん!」

 激しいため息が聞こえて、視界の端の閻魔がぐしゃぐしゃと髪をかいたのが分かった。

「全く、お前は……」

「こっちの台詞です!」

 肩を押され反転させられ、後ろから苦しいほど抱き締められる。くそ、当たっている。腰の辺りに当たっている。どうにか体をずらして逃れようとしたが、彼の力のほうが強かった。強く強く抱き締められ、月乃はとうとう諦めた。

 怒っているくせに抱き締めてくるのだ。本当に素直じゃないったらない。

「おやすみ」

 ぶっきらぼうな声で言われて、ふふと笑いながら「おやすみなさい」と返すと、彼は月乃の後頭部に顔を擦り付け深呼吸して、数十秒で動かなくなった。寝息が聞こえ始める。

 あと何回こうやって貞操を守らなければならないのかと考えて、あと一晩二晩だと気付いて逆に寂しくなった。

 寂しいだなんて思う必要はない。数日のうちに天国へ行けるのだ。生まれ変わればこの記憶はなくなるし、彼といた数日間も、思い出ですらなくなる。

 それはやっぱり、少し寂しい、のかもしれない。

 体を小さく丸めて、暖を取るために彼の体に擦り寄った。





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