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閻魔様の黒猫



 月乃は白い空の下に立っていた。

 地面は草原だが、まるで水彩絵の具で着色したかの様な薄いまだら色だ。

 周りには何人かの人が立っていて、彼らはぽつりぽつりと歩き出す。

 すぐ近くにいるくたびれたスーツを着たサラリーマン風の男と目が合った。お互い思わずといった風に会釈をし、彼が歩き出したのをぼんやり見つめ、自分の手のひらを見て、そして思い出した。

 そうだ、死んだんだった。

 車、そう車だ。赤い車。青信号で横断歩道を渡っていたというのに、赤い車が。

 首を振って、ため息をついて歩き出す。両親や弟たちは悲しんでいるだろう。彼らの泣く声が地面の下から聞こえる。それだけが心残りだったが、月乃の足を止める事はできなかった。

 ほとんど変わらない景色を眺めながら歩いていると、行列が見えた。よく分からないが、ここでいいのだろうかと最後尾に並ぶ。

 並んでいたら、天国へ行けるだろうか。警察のお世話になるような事は何もしていない。きっと天国へ行けるはずだ。

 長い長い行列は、ずっと遠くにある赤い建物に続いている。淡い景色の中で、唯一はっきりと色を主張している建物だ。

 随分長い時間待ったが、列は1ミリすら進まない。なぜか体は全く疲れないが、いかんせん退屈だ。

 頭の中でしりとりを始める。すぐに飽きて、誰か誘ってみようかと目の前に並んでいる男を見上げた。

 今さら気付いた。さっき会釈したくたびれたスーツのサラリーマンだった。あの時は気付かなかったが、彼の首にはロープが結ばれていてだらりと数メートルほど垂れ下がっている。死因は明白だ。声をかけるのはやめた。

 それから体感時間で数時間。いい加減に退屈が最高潮に達し、サラリーマンのロープを借りて大縄跳び大会でもしたら楽しいのではないかと血迷った時、前からざわざわとざわめきが聞こえた。月乃は顔を上げる。

 列に並ぶ人々の顔を確認するように覗き込みながら、三人の男が走ってくる。男たちは黒いスーツを着ている。

 彼らは月乃の目の前まで来て、そのうちのひとりと目が合った。彼は「あっ!」と声を上げて月乃を指差した。

「いいねいいね! 君、可愛いよ!」

 手を掴まれ、その勢いに「ひっ」と声を上げる。ド下手くそなナンパだろうか。

 他のふたりも月乃を見て歓声を上げている。

「黒髪ロングでパッツン前髪にくりくりの目! 色白細身だけど胸は大きめ! 完璧じゃないか!」

 頭をがしがしと撫でられ、肩に触れて二の腕を握られ、おまけに胸を鷲掴みにされた。ナンパなんかじゃない。これはセクハラだ。痴漢だ。犯罪だ。男の手を振り払う。

「け、警察を呼びますよ!」

「残念だがここに警察という組織はない」

 問答無用の強い力で手を引かれる。列から外れてしまった。

「ちょっと! せっかく並んでたのに!」

「君、我々に協力してくれないか?」

 ぐいぐいと押され、背中に何かがぶつかって驚いて振り返る。そこには玉虫色の派手な車があった。さっきまではそんなものなかったはずだ。

 ひとりでにドアが開いて中に押し込まれる。慌ててドアを開けようとするが、鍵なんて見当たらないのになぜか開かなかった。

「誰か助けて……!」

 ガラスのない窓から列に並ぶ人々に手を伸ばして助けを乞うが、彼らはあわあわと顔を見合わせるばかりだ。列を崩せないのだろう。

 その中で、首吊り自殺のくたびれサラリーマンが月乃に向かってロープを投げた。うまくキャッチして、そして考える。今車が発進したらどうなるか。月乃が車から引きずり出されるのではなく、おそらくサラリーマンが車に引きずられることになるだろう。

「お気持ちだけ受け取っておきます……」

 そう言ってロープを離す。サラリーマンは足を踏み出そうと踏ん張っている。両手で太ももを引っ張っているが、地面に引っ付いて離れないようだ。とてもいい人だ。死因で判断して悪かった。一緒にしりとりをすればよかった。

 月乃の後悔を乗せて車が走り出した。サラリーマン達の姿はあっという間に見えなくなってしまった。

「大丈夫、大人しくしてたら悪いようにはしないよ」

 後ろから完全に悪役の台詞が聞こえて振り返る。月乃の胸を揉んだ男がいつの間にか隣に乗っていた。

「ちょっとね、話を聞いてほしいんだ。君、さっさと天国に行きたいだろ?」

「……もちろんです」

「君たち死人を天国行きか地獄行きか裁く閻魔様という方がおられるんだ」

 それは知っている。嘘をついたら舌を引っこ抜く人だ。すごく大きくて目つきが鋭くで髭が生えていて、いかつい顔の男の人のイメージがある。

「その閻魔様がな、今、業務をボイコットされている」

「……閻魔様が、ボイコット」

「すごい列だろ。いつもはこんなに並ぶことなんてない。このままボイコットが続けば、この空間は死人で溢れかえってしまう」

 手を掴まれ、ぐっと握られる。

「そこで君の出番だ! 閻魔様のタイプの女性ドストライクな君の出番だ!」

 月乃は顔を引きつらせた。嫌な予感しかしない。

「閻魔様の機嫌を取って、仕事に戻るよう説得してくれ……!」

 月乃は掴まれた手を力いっぱい振りほどいて、腹の底から叫んだ。

「いやだ!!」

「頼む! この通り!」

「無理無理無理! 下手して機嫌を損ねて地獄行きになったらどうしてくれるのよ!!」

「……拒否すればどのみち地獄行きだ」

 男はゴソゴソとスーツの内ポケットを漁って、ハンコのようなものを取り出した。『地獄行き』と書いてある。彼はずいと近付いて腕を掴んで、そのハンコを月乃の頬に近付けた。

「やっ、いやだ……!」

 車の扉に背中を押し付けて、体を小さく縮こませる。

 地獄といえば、針山を登らされたり鍋で茹でられたり鞭で打たれたり、よく分からないがとにかく死ぬよりも辛いことを延々とされる所だと聞いたことがあるがある。そんなところに行きたくない。

「分かった……やるから……!」

 涙が溢れ出てぽろぽろと落ちる。嗚咽を漏らしながらも、恐ろしくて男から視線を逸らせない。

 さすがに罪悪感を感じたのか、男は気まずそうに月乃から視線を逸らせてハンコを懐に仕舞った。

「うまく閻魔様を業務に戻すことができたら、君を列の一番前に並ばせてあげるから」

 小さくこくりと頷く。

 機嫌をとるなんてどうすればいいのか分からない。仕事してくださいお願いしますと頭を下げればいいのだろうか。

 普通に天国に行きたかっただけなのに、どうしてこんな事になってしまったんだ。

 男が差し出したハンカチを受け取って、涙を拭ってから鼻をかむ。そのまま男に返すと、彼は少しハンカチを見つめて、諦めてポケットにしまった。

 車が真っ赤な建物のそばで止まり、恐る恐る降りる。男に促されるがまま、行列が目指している入り口ではなく、建物の側面にある小さな扉をくぐった。

 建物の外見からは想像もつかないような長い長い廊下を歩いていると、何人かの死人とすれ違った。みんな長い黒髪で色白で細身の女だ。戸惑ったような顔をしていたり、憮然としていたり、明らかに怒っていたり。

 月乃は気付いた。閻魔の機嫌をとるために連れてこられ、追い返された女達だ。

 もしかしたら自分も追い返されるかもしれないと、月乃は淡い期待を抱いた。追い出されたら、ああ残念だなぁという顔をしながら列に戻ればいいのだ。

 ある扉の前で男が立ち止まる。ノックをしたが返事はない。

「閻魔様、失礼します。入りますよ」

 男がビクビクと扉を開く。肩を捕まれ部屋の中に押し込まれた。

 どうやら私室のようだ。扉に背を向けた大きなソファに、黒髪の後ろ姿が見えた。

「閻魔様、代わりの女を連れて参りました。身の回りのお世話でもなんでもさせてください」

 驚いて男を見上げる。代わりってなんだ。身の回りの世話なんて聞いていない。

 その時、ソファに座っていた男、閻魔が立ち上がった。もっと三メートルくらいあると思っていたが、そこまで大きくなかった。

「何が代わりだ、馬鹿どもが! くだらん女ばかりかき集めやがって!」

 そう叫びながら振り返ったのは、月乃が想像していた閻魔とは程遠い、なかなか見目よい青年だった。

 髭も生えていないし、目つきも鋭くない。その辺の道を歩いていてもきっと全く違和感はない。

 年は恐らく、大学生の月乃とそう変わらないか少し上だろう。

 閻魔は続けて叫ぼうとしていた言葉を切って、驚いたような視線を月乃に向けた後、まじまじとその顔を見つめた。

 黒スーツの男が「よっし」と小さな声を上げる。

「それでは閻魔様、十分お休みくださいませ」

 男は九十度のお辞儀をすると、月乃を残してすたこらさっさと部屋を出ていってしまった。

「ま、待って……」

 扉に張り付いたが、ノブは回らない。向こうから押さえているのかもしれない。

 後ろから深い深いため息が聞こえて、月乃は顔を青くした。

「こっちにおいで」

 さっきの怒声とは違う、意外に優しい声だった。恐る恐る振り返る。閻魔と目が合って、彼は顎をしゃくった後、ソファにどっかりと腰を下ろした。

 どうすることもできずに、ためらいながら近付く。向かいのソファを指差され、そこに浅めに座った。

「……大丈夫か?」

 怯える月乃にかけられたのは、そんな言葉だった。何を心配されているのか分からずに戸惑って首を傾げる。

「泣いた跡がある」

 慌てて目と頬を服の袖で拭った。それなのに、怖いと思っていた閻魔が優しい言葉をかけてくれたせいか、また涙が溢れて頬を滑り落ちる。

「さ、さっきの人に……ここに来ないと、地獄行きにするって脅されて……」

 涙がスカートに水玉模様を作る。

「地獄行きにするかどうかは、俺にしか決められないことだ」

 え、と声を上げる。

「でも、ハンコみたいなので脅されて」

「ただのハンコ」

 ギリリと歯を鳴らした。

「あの野郎……今度会ったら一発殴ってやる……」

 泣きながら悪態をついた月乃の目の前にハンカチが差し出された。

 閻魔はソファに座ったままだ。目の前にいるのは、二足歩行している犬だった。

 茶色い毛で、耳の垂れた柴犬。

 それはそれは器用に後ろ足で立っていて、小さな手でハンカチを持っていた。

 月乃は目をぱちくりさせながらハンカチを受け取る。

「ありがとう、ワンちゃん……」

「ポチだ」

 それはまた古風な名前だ。

「ポチ、晩めしの準備をしてくれ。二人分」

 ポチはワンと鳴いて、キッチンがあるらしい扉の向こうへ消えていった。中からカチャカチャと食器の音がする。

 あまりのことに涙が止まった。

「俺の身の回りの世話は三匹の犬がやってくれる」

 閻魔を振り返る。よく見ると、彼はTシャツにジーンズというラフな格好だ。どこをとっても閻魔らしくない。

「で、お前は俺の何を世話してくれるんだ?」

「えっ」

 そんなの知るはずもない。こっちが聞きたいくらいだ。

 そんなことよりさっさと追い返してくれ。どうして追い返してくれない。何なんだ。そんなにもタイプか。死んでからモテたってこれっぽっちも嬉しくない。どうして生前モテなかったんだ。おかげで二十歳を過ぎたのに、キスすら経験せずに死んでしまったじゃないかどちくしょうが。

 月乃は一通り脳内で悪態をついてから、視線をふらふらと泳がせてしどろもどろに言葉を発する。とにかく、機嫌を損ねてはいけない。何かヘマをやらかしたら、この場で地獄に落とされるかもしれない。

「あの、えーと、犬にできない事を、何か……」

「例えば?」

「あの……か、肩を揉めます……」

 少しの間月乃を見つめていた閻魔が、我慢できなかったという風に吹き出した。口元を押さえながら、彼は「じゃあ頼む」と言った。

 馬鹿にしているのに近い笑い方だったが、もちろん文句は言えず。立ち上がり、彼の後ろに回って恐る恐る肩を揉み始めた。

「もう少し内側」

 少し内側を強めに揉むと、彼は「あー」だとか「うー」だとか気持ちよさそうな声を出し始めた。意外と好評のようだ。

 五分ほど揉んでいると、彼はうつらうつらと目を閉じた。少し心に余裕ができ始め、部屋を見渡す。

 建物の外観は和風だったが、この部屋は洋風なものでまとめてある。布団ではなくベッドだし、ソファもクローゼットもある。デスクの上にはノートパソコンのようなものもあり、画面には月乃もよく知っている動画サイトが映し出されていた。猫の動画が一時停止してある。――猫の動画。閻魔大王が、猫の動画を。

 ふるふると頭を振ってさらに部屋を見渡す。壁に埋め込まれた本棚には本がぎっしりと詰まっていて、さぞかし難しい本が並んでいるのだろうと思いきや、棚の半分以上が漫画のようだった。

 目を凝らしてタイトルを見る。随分と昔のものから、つい最近発売されたものまで様々だ。一体この空間はどうなっているんだ。

「そう言えば、名前は?」

 起きていたのかとギクリと体を震わせる。

「月乃です」

「そう。月乃、お前は猫派? 犬派?」

「えっ」

 突然の質問に素っ頓狂な声を上げてしまった。何なんだその話題が乏しい女子高生みたいな会話は。

 月乃は生前猫を飼っていた、生粋の猫派だ。しかし彼の好みでない方を上げたら機嫌を悪くしてしまうだろうか。

 調理音の聞こえるキッチンを見る。彼は犬派かもしれない。いやしかし猫の動画をわざわざ見るくらいだ。猫派かもしれない。嘘をついたら舌を抜かれてしまうだろうか。

 ごく短時間でそれだけ考え、月乃は冷や汗を垂らしながら口を開いた。

「どっちも可愛くて好きですけど、どちらかと言うなら猫派です」

 閻魔はその言葉ににっこりと笑った。

「一緒だな」

 はぁあああと内心大きなため息をついた。そしてなぜそんな質問をしたのか彼の顔を見る。

「犬も可愛いんだけどな……」

 目を伏せたまま閻魔がボソリという。

「猫はまた違うんだ。あのツンツンしてる癖に気まぐれに甘えてくるところが、たまらない」

 月乃は飼っていた猫を思い出す。閻魔の言っていることはとてもよく分かる。

「分かります」

「ツンツンしてる時にも、お前どうせ俺の事好きなんだろ? って思って、こう、もう、たまらない」

「すごくよく分かります」

「分かるだろ!?」

 閻魔が振り返って、月乃の手を握り締めた。

「それなのに鬼の奴、俺の猫を勝手に天国へ送ったんだ……!」

 両手で手を握られ端正な顔がすぐそこまで近付いて、月乃は声をひっくり返らせる。

「お、鬼……?」

「お前をここに連れてきた黒いスーツの奴らだ。……犬と一緒にずっと可愛がっていた黒猫だったんだ。それなのに最近入ってきた鬼が、黒猫は縁起が悪いだのどうだの言い出して、俺がいない間に勝手に……」

 閻魔はガクリと項垂れた。

 彼がボイコットしている理由はこれなんだろう。

 天国へ送るというのが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、愛猫を勝手に連れて行かれたのだ。それは怒って当然だ。同情の念が湧き出る。

 擁護しようとした月乃を見上げ、彼はじっとその顔を見つめた。

 そして、とんでもない事を言い始めた。

「……よし、決めた。お前、猫の代わりをしろ。そうすれば明日から仕事に戻ってやる」

 月乃はぽかんと口を開けて、大真面目な顔をした閻魔を見つめる。

 猫の代わりって何だ。一体何をすればいいんだ。

「俺に仕事に戻るよう説得するために連れてこられたんだろう? やるか?」

「いつまでですか……?」

 閻魔は飾り棚の上を指差した。そこには三十センチ程の大きな砂時計が置いてあって、もうあと少しで砂が落ちきってしまいそうだった。

「俺の任期があと一週間くらいで終わる。それまでだ」

 閻魔には任期があるのか。いや、今はそれどころじゃない。

「一週間後には、天国に行かせてくれますか……?」

「ああ、いいよ。あと、来世を少し優遇しよう」

「……分かりました」

 もちろん、拒否することなんてできないのは分かっていた。もう半分ヤケクソだった。

「首輪でもつけましょうか?」

「……いや、悪いけどそういう趣味はない」

 真顔の閻魔に私にだってそんな趣味ないよと心の中で叫びながら、月乃は半泣きの顔を俯かせた。

「……何をしたらいいですか?」

「あー、そこら辺でゴロゴロしてて。ちょっと出てくる」

 ベッドを指差して、閻魔はさっさと部屋を出ていってしまった。

 扉を少しの間見つめて、そしてため息とともに脱力すると、言われた通りにベッドに寝転ぶ。さっそく猫らしい仕事だ。いやらしいことをさせろと言われるよりは一億万倍マシだ。

 猫といえば、食べて寝て、時々飼い主に甘えるくらいしかすることはないのではないか。甘えるってなんだ。顔をこすり付けたり腹を向けて撫でられたりすればいいのだろうか。

 うんうんと唸りながらいい香りのするシーツに顔をうずめていると、なんと図太い神経なのか、そのまま眠ってしまった。

 頭がくすぐったくて月乃は目を覚ます。

 目を開くと、閻魔がすぐ隣に腰を掛けて本を読んでいた。

 彼の手がベッドに流れる月乃の髪を指で弄っている。

 それを認識して、そしてワンテンポ遅れて叫びながら飛び起きた。

「うわ、びっくりしたな」

「な、な、何をして……」

「猫を撫でて何が悪いんだ。こっちに来い」

 ああやっぱりこういう事なのかと青くなりながらも、言うことを聞くしかない。月乃は閻魔に近付いてそばに座る。

 彼は読んでいた本を閉じてベッドに置くと、月乃の髪に触れた。くるくると巻きつけて弄ぶ指を見つめながら、あまりの気まずさと恥ずかしさを誤魔化すため口を開いた。

「どこに行っていたんですか?」

「鬼のところ。明日から仕事するって言いに」

 閻魔の顔が曇る。

「あいつ、何を企んでいるのか分からない」

 あいつというのは、彼の猫を勝手に連れて行った鬼の事だろうか。気になったが、聞いてもどうにかできることではない。閻魔もそれはよく分かっているようで、話を切り上げるように首を振った。

 髪の次は頬と首筋に触れられる。本物の猫にするように指が皮膚を撫でていく。唇を噛んで顔を背け、くすぐったさと背中がぞわぞわする感覚を月乃は必死に耐えた。「ああ」と彼が声を出した。

「やっぱり首輪つけようかな……」

 襟と首の隙間に指が滑り込んで、思わず体がびくりと震えた。恥ずかしくて指から逃れようと体を反る。そのまま肩を掴まれ押し倒され、月乃はベッドに背中から倒れながら悲鳴を上げた。

「んぬわあぁ!」

「……もっと色気のある声を出せよ」

 猫に色気など必要ない。そう言いたかったが、彼の手が足首を掴んで持ち上げて、月乃はまた叫んだ。

「ひいいっ!」

 捲れ上がったワンピースの裾を必死に押さえる。閻魔はふくらはぎにキスを落とす。そのまま膝、膝の裏、そして太ももに移動しそうになったので、月乃は半泣きで叫んだ。

「ま、待って! 猫にそんなことしないでしょう!」

「うーん、いや、するな」

「しないよ!」

「するする」

 適当に言い包めようとしている閻魔に必死の抵抗をするが、想像していた三メートルよりは小さかったといえ、月乃より頭ひとつ大きい男の力に敵うはずがなかった。足を離した手が頬に触れて彼の顔が近付く。キスをしようとしていることに気付いた。

「んぎゃあああぁ!!」

 こんな所でこんな人にファーストキスを奪われてたまるものかと力の限り叫ぶ。彼の顔を手でぐいっと押すと、さすがの閻魔も体を起こして月乃から離れた。

「お前なぁ……」

「絶対こんなこと猫にしてなかったでしょ! 嘘は駄目なんですよ! 舌を抜かれるんだから!」

「誰に?」

「え? え、閻魔様に……」

「俺が俺の舌を抜くの?」

「……そうです!」

「猫の代わりなんて、お前をここに置いておくための口実に決まってるだろう」

「口実とかそういう難しいことちょっと分からないですね! 猫ですから!」

 少しの間見つめ合って、閻魔は額を押さえて笑いを漏らした。

「代わりなんて言うんじゃなかったな。……まあ、今の色気も糞もない悲鳴で萎えたけど」

「それはよかったです!」

 なんてことだ。やっぱりいやらしいことをしようとしていたんだこの男は。地獄に落ちるのは嫌だが、商売女みたいな真似も絶対に嫌だ。次からこんな目にあったら雰囲気をぶち壊す悲鳴を上げる作戦でいこう。

 牽制するように睨み合っていると、扉の開く音と犬の声がふたりを引き離した。

 ポチの他に真っ白の犬と真っ黒の犬が危なっかしい手つきで食事を運んで食卓の上に並べ始めた。

「……シロとクロですか?」

「よく分かったな」

 ベッドから降りながら閻魔が言う。連れて行かれてしまった猫は、きっとタマだろう。

「食べよう」

 閻魔はさっきまでの事なんてなかったかのように振る舞う。月乃も強張っていた体をどうにか動かしながら、彼の後に続いて食卓についた。

 食卓に並んでいるのは、本当に犬が作ったのか不思議なくらい豪華でとても美味しそうな食事だ。

 閻魔が食べ始めたのを見てから、「いただきます」と手を合わせた。

 少し量が多い。よく見ると男である閻魔と同じ量だ。さすがに完食はできないかもしれないと思いながら魚の煮物を一口食べて、思わず声を上げた。

「美味しい……!」

 今まで食べた魚の煮物の中で一番と言ってもいいくらい美味しい。

「ワンちゃんたち、すごく美味しいよ!」

 犬達に向かって絶賛すると、彼らは少し恥ずかしそうにもじもじと体を揺すった。

 完食できないなんて一体誰が思ったのか、空っぽになった皿を眺めながら、月乃は腹を撫でた。ああ、幸せだ。美味しいものを食べる事は、この世で最上の幸せだ。

「よく食うな」

「だって美味しいんですもん」

 食後のコーヒーをすすりながら、月乃は呆れた顔の閻魔に笑顔を向けた。彼はさらにため息をつく。

「どうせあと一週間です。少しくらい太ってもいいんです」

「この世界では太らない」

 それはなんと素晴らしい世界だろう。しかし気になって聞いてみる。

「どうしてです?」

「肉体は死んで、今は魂だけの存在だ。本来なら食べたり寝たりも必要ない。しかし人間は思い込みが激しいから、食べなければ死んでしまうと思い込んでいると、本当に体が動かなくなってくる。食事が美味しいと思ったのも、お前が美味しそうだと思って食べたからだ。俺みたいに惰性で食べていると、味も何もしない」

「そんな、もったいない」

 クロが持ってきてくれたデザートのプリンを受け取って、スプーンで一口すくう。それを閻魔の口元に近付けた。

「ほら、美味しいプリンですよ。とっても美味しいですよ。すっごく美味しいですよ」

 閻魔が眉をしかめて月乃を見上げる。構わず唇にプリンを押し付ける。

「美味しいですよ」

「おまっ」

 何か言おうとした閻魔の口にプリンを押し込んだせいで、言葉が途切れた。

「美味しいですか?」

 たっぷり時間をかけて咀嚼して、閻魔は観念したように言った。

「……美味い」

 うんうんと頷いて、月乃はクロから受け取った閻魔用のプリンを彼の前に置いた。

「お前な、よく閻魔にこんなことができるな」

「せっかく料理を作ってくれている人の気持ちを踏みにじるなんて、閻魔様でも許されません」

「生意気な。地獄に落としてやろうか」

 ぎくっと体を強張らせて、彼を見つめる。本気で言っているのか見極めたかった。

 猫が好きだったり、猫の動画を見ていたり、さっきも無理矢理でも月乃をどうにかできただろうに、彼はしなかった。そこまで怖い人ではないのではないかと思い始めていたからだ。

 試しにわざと悲しいことを考えて目に涙を浮かべると、彼は少し焦ったように一瞬だけ視線を左右に泳がせた。

「冗談だ。本気にするな。そんな簡単に地獄には落とせない」

「ですよねぇ」

 安心して余ったプリンを口に含み、月乃は幸せなため息をついた。やはり怖い人ではない。

 閻魔がそれを見て盛大に顔をしかめる。

「……女は怖い」

「地獄ほどじゃないですよ」

 プリンを平らげ、にこりと笑って閻魔を見た。彼は大きなため息をついてから、プリンを食べ始める。

「美味しいですか?」

「美味しい」

 呆れた声で言われる。それでも笑顔で閻魔を見ていると、彼はもう一度ため息をついてからテーブルに肘をついた。

「先に風呂に入ってきてもいいぞ」

 ふと現実に引き戻され、眉をしかめて彼を見る。

「あの……この部屋の?」

「ああ」

「……そういえば私、どこで寝るんですか?」

「そこのベッド」

「あなたは?」

「そこのベッド。猫とはずっと一緒に寝ていた。これは嘘じゃない」

 プリンを平らげてペロリと唇を舐め、閻魔は形勢逆転にニンマリ笑った。

「寝るだけですからね」

 どうして死んだ後に貞操の心配をしなければならないんだ。返事をしない閻魔をじっとり見ていると、クロが月乃の腕をとんとんと叩いた。その後ろにいるシロはタオルを、ポチは着替えらしきものを持っている。

「入ってこい」

「……お先にいただきます」

 犬からタオルと着替えを受け取って、案内してもらった扉へ入る。豪華な作りの脱衣所と浴室だ。そういえばこの水と電気はどこから来ているのだろうと思って、月乃は無駄なことを考えるのはよそうと首を振った。

 浴槽には湯が張ってあったが、浸かる気にはなれなずシャワーだけ浴びた。置いてあるシャンプーやリンスも、テレビでCMをしているような有名な銘柄のものだ。

 風呂から出て体を拭く。隣の部屋からはテレビの音がしている。

 着替えようとポチに手渡された服を広げて、それが生前使っていた物だと気付いて月乃は顔を青くした。

 胸元の開いたタンクトップに、下は短パンだ。女友達が泊まりに来たときでさえもう少しマシな格好をしていた。こんな格好で男の前になんて出られない。

 着るだけ着て、浴室の扉から顔を覗かせ部屋を見渡す。犬たちの姿は見えない。閻魔はソファに座って、テレビでドラマを見ているようだ。

「あの、ワンちゃんたちは……」

 月乃の問いに、彼は次回予告の流れるテレビに視線を固定したまま答えた。

「飯を食べに行ってる。どうした?」

「いえあの、他のパジャマはないかなって……」

「お前が生きてる時に使ってたパジャマじゃなかったか?」

「そうなんですけど、少し、ちょっと、アレで」

「ダサいの?」

 いっそダサいほうがマシだ。閻魔を萎えさせられるだろうし。ベージュのババシャツと股引きで寝ていればよかった。

 ごにょごにょと理由を言えない月乃にようやく視線をやってから、閻魔が立ち上がった。慌ててドアを閉める。どうして鍵がついてないんだ。

「何だよ。笑わないから見せろよ」

 ドアの向こうからもうすでに笑っている閻魔の声が聞こえた。ドアノブを回そうとするのを必死に両手で押さえる。

「別に笑われるようなものじゃないです……!」

「じゃあいいだろ。見せろ」

 きっと扉を開けるのなんてひと捻りだろうが、彼はわざと手加減して月乃の反応を楽しんでいるようだ。ドSだ。鬼畜だ。

「開けたら本当に怒りますからね!」

「お前が怒ったって怖くない」

 私の何を知っているんだと月乃は唸る。本気で怒った時の口の悪さなんて知らないくせに。

 閻魔は面倒くさくなってきたらしい。ドアノブが一気に回され扉が引っ張られた。ニヤニヤとした閻魔と目が合って、彼の顔が驚いた顔に変化するのを忌々しく見つめる。

「ああ、うん」

 彼は顎をさすりながら、月乃の体を上から下までじっくり眺めた。

「……思っていたよりも大きいな」

 何がなんて聞かなくても彼の視線でわかる。黒いスーツを着た鬼のように、問答無用で揉んでこないだけまだマシか。

「……もう見られたからいいです、このパジャマで」

 むすりと唇を尖らせながら彼の隣を通り過ぎ、ソファにどっかり腰を下ろす。閻魔の顔には笑顔が戻っていた。

「人がいる時は、もうちょっとちゃんとしたのを着ていたんですよ」

 言い訳がましくそう呟くと、閻魔はクローゼットを探って、取り出した白いカーディガンを月乃に放って寄越した。

「寒かったら着たらいい」

「……ありがとうございます」

 彼はそのまま浴室へ入っていった。調子が狂う。何なんだ。優しいのか意地悪なのか、よく分からない。

 月乃は受け取ったカーディガンを広げる。大きなカーディガンだ。さすが男の人なだけある。寒くはないが、せっかく貸してくれたのだから肌を隠すために着ておくことにしよう。

 羽織って長い袖をいくつか折って、両手を広げて見下ろしてみた。これが俗にいう彼シャツとか言うものか。彼ではないけれど。

 どうせなら生きている時に好きな人の服を着て、この何とも言えない決して悪くはない気分を味わいたかった。

 食事から帰ってきた犬たちを順番に思う存分撫でていると、Tシャツにハーフパンツというどこからどう見てもそこいらにいる青年にしか見えない閻魔大王が風呂から出てきた。彼は大あくびをする。

「明け方まで漫画を読んでいてあまり寝てないんだ。今日は早く寝よう。明日は早いし」

 二度目のあくびを噛み殺しながら、彼はベッドに上がって壁際に寄ると、空いたスペースをポンポンと叩きながら月乃を見た。

「来い」

「……何もしませんか?」

「俺の下半身に聞いてくれ」

「ちゃんと意思疎通してください」

「眠すぎて勃たないって」

 信じてもいいのだろうか。じりじりと彼ににじり寄って、警戒しながらベッドに上がった。その途端に腕を引かれ、その胸の中に飛び込むことになる。

「何もしないって言ったのに!」

「何もしない。このまま寝るだけだ」

 ベッドの上で攻防を繰り広げ、結局月乃の体力不足のせいで、背中から閻魔に抱きしめられる形で落ち着いた。後頭部に彼の息がかかる。腹を抱き寄せるように回されている腕は、風呂上がりのせいか温かい。

「大人しくしてろ。猫はいつも俺の腹の辺りで丸まって寝ていたんだ」

 ぐっと歯を食いしばる。次は何をされるのか戦々恐々と待っていたが、徐々に重くなる腕以外、彼はピクリとも動かさない。

 まさか本当にこのまま眠るのかと、慌てて話しかける。

「か、髪、乾かさずに寝るんですか?」

「うん」

 もうすでに半分寝ているような声で閻魔は返事をした。十秒あれば眠れるタイプなのかもしれない。月乃と同じだ。

 少し待って、彼が身じろぎもしないのでようやく全身に入れていた力を抜いた。

 微かな寝息が聞こえてくる。本当に寝てしまった。

 安堵が九割、拍子抜けが一割だ。うん、まあ、いい、と月乃は頷いた。

 決してこの体に色気がなかったわけではないはずだと自分に言い聞かせる。こんなにも露出しているのに色気がないわけではないはずなんだと。手を出されたら困る癖に、いざ出されなかったら何だかちょっと悔しいと感じるのはやめよう。

 ソファで丸くなっていたポチが立ち上がって扉に近付く。月乃に目で合図をしてから、部屋の電気を消した。

 閻魔の腕の重みと温かさが思っていたよりも心地よかったらしく、月乃も間もなく眠りに落ちた。





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