第一話 ある朝の出来事
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
住宅街を二人の男女が走っていた。
天気は晴れ、ゴールデンウィークが終わったばかりなのに、もう初夏のような陽気である。
少女の額には汗が浮かんでいた。
リ~ン、ゴ~ンと教会の鐘の音が聞こえてくる。
少女は近くの教会の鐘を見上げて立ち止まった。
六月になればこの教会で結婚式を挙げる人もいるんだろうなあ。
と、そこに立つウエディングドレス姿の花嫁を想像してなんだか笑顔になる。
そんな少女の気分を少年は台無しにした。
「おい紗也香、急がないと遅刻するぞ!」
「もう、誰のせいで急がないといけないと思ってんのよ」
少女は膨れっ面で少年に反論している。
「まあまあ。いい運動になるじゃないか。最近、お前ふとっ――――」
少年のセリフは最後まで言われることはなかった。
少女の持つ鞄が危険な風切り音を立てて頭にクリーンヒットしたからだ。
少年はその衝撃でよろめき、危うく転びそうになるのを懸命にバランスを取って堪えている。
そして、体制を立て直した少年は少女に向き直って文句を……言えなかった。
「何か言った!」
「…………何でもありません」
少女の鋭い目つきを前にして、少年は怯えたように口では謝っていた、が目の奥に不満の色が見え隠れしていた。
その証拠に少年はブツブツと文句を言っている。
「別に太ったっていっても、そんなに気にする程のことでもないのに……」
「……何か言った?」
少女が笑顔でそう聞き返すと少年は慌てて首を激しく横に振っていた。
そんなに怯えることないでしょ。
と少女は腹を立てていたがそこをグッと堪えた。
こんなところで騒いでいては本当に遅刻してしまうからだ。
少女の名前は星野紗也香。
そして、さっきから煮え切らない態度でいる少年が彼女の幼馴染みの神代健太である。
う~ん。それにしても……
「さっきからブツブツ、ブツブツ。あんたね、男だったらハッキリしなさいよ。文句あるの? ないの? どっち!」
紗也香の剣幕に健太は首がもげるんじゃないかと言う勢いで頭を振っていた。
それを見て紗也香は大きな溜息をつく。
本当にこいつは、なんで文句の一つも言えないのかしら。
それなら、最初から何も言わなければいいのに。
もう、イジイジ、イジイジ、イジイジして。
あの時はあんなに強引で格好良いのに。
なんで普段はこんなにヘタレなんだろう。
紗也香がそんなことを考えながら溜息を吐いていると健太がヘラヘラとこちらのようすを伺っている。
そんな態度が余計に紗也香をイラつかせた。
我慢が出来なくてもう一度、怒鳴りつけようと口を開きかけた時だった。
「あれ? 救急車?」
健太が間抜けな声でそんなことを言っていた。
耳を傾けると確かに遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
結構近いわね。
と思った時、前の道を救急車が横切っていった。
健太はそれを見てこれ幸いにと話題を変えてきた。
「救急車だ。何かあったのかなぁ?」
あからさまな健太の態度が紗也香には気に入らなかったが、救急車に続いて消防車が通過していったのを見ると好奇心の方が勝ってしまう。
「健太、行くわよ」
目を輝かせた紗也香は消防車の向かった方へと走りだした。
健太は紗也香の興味が移ったことホッとしたのか。
「よし、これで何とか切り抜けることが出来たぞ」
本音がこぼれていた。
それを聞いた紗也香は溜息を吐いてから立ち止まり、ゆっくり振り返ってニッコリと微笑んだ。
「さっきの件は学校に着いてからゆっくりと話し合いましょうね」
紗也香はそれだけ言ってまた走りだす。
健太が呆然と立ち尽くしているのを背中に感じて「自業自得よ」と満面の笑みを浮かべていた。
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角を二つほど曲がると直ぐに人だかりが見えてきた。
ちょうど、消防車からホースが伸び消火活動が始まろうとしている。
火はどこにも見えなかったが、正面のマンションから煙が上がっているのだけはわかった。
朝の通勤時間帯だからか、人通りが多く、かなりの野次馬が集まっている。
紗也香はその人ゴミを掻き分けて一番前までいった。
その時だった。
頭上から激しい爆発音が響いてきたのは。
四階? いや五階か?
マンションの一室から炎が噴きだしている。
爆発の勢いで割れたガラスの破片が道路の方まで飛んできていた。
悲鳴がこだまして現場は騒然としている。
現場の雰囲気は一変していた。
いままで煙が出ているくらいで大したことがないように思っていたが、事態は想像以上に深刻なようだ。
消防士たちの動きも慌ただしくなり、増援の消防車が来たのかサイレンの音が遠くから聞こえてくる。
野次馬たちはKEPP OUTと書かれた黄色のテープを乗り越える勢いで火事を見物していた。
それを押し返そうと消防士たちが「下がってください。危険です」と大きな声を張り上げている。
そんな時にもう一度爆発が起こった。
先程より大きな爆発。
炎が勢いよく外に吹き出し、火の粉が野次馬たちの頭上に降り注いできた。
何度か火事の現場を見た事はあるが、ここまで派手に燃えている火災は初めてだった。
何だか映画の一場面を見ているようで、どうにも現実味がない。
そんな紗也香の横にいつの間にか女性が立っていた。
「きゃあああああ。なに? 何が起こっているの? 郁美? 郁美いぃぃぃ!」
紗也香は女性の悲鳴に驚いて我に返った。
その二〇代後半くらいの若奥様と言った感じの女性は人目もはばからず悲鳴を上げている。
そして、テープに詰め寄って、それを乗り越えようと暴れだした。
なんだ、こいつ?
と言う目で見ていた人達も彼女が燃え盛る建物に駆け込もうとしているのに気付いて慌てて止めに入っていた。
だが、彼女は暴れるのをやめようとしない。
それどころか髪を振り乱して抵抗を激しくしていく。
取り押さえていた人達も彼女の尋常でないようすに顔を引きつらせていた。
しばらくして、やっと騒ぎに気付いたのか消防士が二人駆け寄ってきた。
野次馬達はホッと一息つく。
「何を騒いでるんですか? ここは危険です。テープの中に入らないでください!」
「郁美が! 中に娘がいるんです! ここを通して下さい」
一瞬、いままでの騒ぎが嘘だったかのように沈黙がおりた。
彼女の取り乱し方から予想はしていたが、誰もがその事を考えるのを避けていた。
しかし、実際にその言葉を聞いてしまうと……最悪な想像が誰の頭にも浮かんでしまう。
そんな中、いち早く自分を取り戻したのは消防士の一人。
年配の貫禄のある男だった。
「奥さん。落ちついてください。娘さんはどの部屋にいるんですか?」
彼の落ちついた声がその母親を少し冷静にさせる。
「五〇二号室です。ほらあそこ。あの布団が干してある部屋です」
一斉に視線が彼女の指を追った。
五階と言われても何処だかわからなかったが、彼女の指さす先に布団が目えた。
あそこかとみんながその位置を確認する。
そして、その場にいた全員が息を飲んだ。
「あそこは……」
悲壮な表情で全員が見上げていると少し焦げたその布団が炎に煽られて、『ドスン』と音をたてて地面に落ちた。
それは不吉な想像を呼び起こす出来事だった。
暗い雰囲気が辺りに漂いだし、受け答えしていたベテラン消防士の表情にも絶望の色が浮かんでいる。
それに気付いてしまったのか母親がまた暴れ出した。
「郁美。郁美。いくみ~~~!」
泣きわめく彼女を年若い消防士に預けてベテラン消防士が消防車に駆け寄る。
そこには仮設の本部が設置されていて無線が引っ切り無しに入ってきていた。
彼は怒鳴るような感じで部下に要救助者の存在を知らせる。
紗也香はそれに耳を傾けていた。
「要救助者は五〇二号室にいるとのこと、侵入ルートは確保できそうか?」
「北側の階段から五階に到着。五〇二号室に行くには発火点と思われる五〇四号室を通らないといけません。発火点付近は火の勢いが強くてこれ以上は……」
「南側の階段から四階に到着。こちらも火勢がすごくて、これ以上は進めません」
ダメかぁと諦めの声が上がる。
「高所作業車の出動は出来ないのか?」
「残念ながらここは道幅が狭いのと坂になっている為に高所作業車は展開できません。それに今から出動を依頼しても……」
本部に沈黙が走る。
「何か手はないのか!」
年配の男からは苛立ちの怒声が上がった。
「六階からなら、もしかして」
「聞いていたか!」
「了解。実行してみます」
「絶対に無理はするなよ」
消防士たちの苦悩は聞いているだけでもわかった。
火事の現場で上から救助に向かうのは非常に危険だ。
しかし、いま助けられるとしたらそこからしかない。
ワラをも掴むような気持ちだったのだろう。
いまのやり取りを聞いていると子供の救出は絶望的だった。
五階は火の海のようだ。
それに火災で一番怖いのは炎ではない。
炎に焼き殺されるより、煙に巻かれて死ぬことの方が多いらしい。
それを考えるともう……。
「お願いします。郁美を、郁美を助けて! あの子はまだ一歳にもなっていないんです。まだ、あの子に何もしてあげてないんです」
その母親もいまのやり取りを聞いていただろう。
すがるように悲痛な叫びをあげている。
彼女の独白が続いている。
郁美ちゃんのお姉さんを幼稚園への送迎バスに送っていった、ほんの十分の出来事。
いつもなら抱いて一緒に連れていくのに今日は良く眠っていたからベビーベットに寝かせたまま出てきてしまった。
そんなことをその母親は涙ながらに話していた。
ほんの少しの油断。
いや火事が起こることなんて誰にも予想など出来ない。
この事でこの母親を責めるのは酷だろう。
でも、もし郁美ちゃんが死んでしまったら、
彼女はそのことを一生後悔して生きていくことになるのだろう。
まだ生きてるのなら。
――健太なら。
紗也香は野次馬達を見渡した。
「いた!」
紗也香はそう叫ぶと健太の元へ一直線に走りだす。
野次馬など気にしない。
人ゴミを泳ぐように掻き分ける。
突然の紗也香の行動に野次馬達が迷惑そうにしていたが、そんなものに構っている暇はない。
健太の元まで戻ると唖然とする彼の首根っこを掴まえて、近くの建物の陰に引き摺っていった。
「どうしたんだよ。こんな所まで引っ張って来て」
意味のわからない健太が抗議を上げるが、紗也香にはそれに応えている時間はなかった。
カバンの中に入れている『あるもの』を探しながら健太に話を向ける。
「健太。さっきの騒ぎは聞いていたわね」
「ああ、子供が部屋の中に取り残されているんだろ」
「そうよ。五〇二号室に赤ちゃんがいるわ。消防士は火の勢いが強すぎて近寄れないの。あっ、あった!」
目的の物が見つかったの紗也香は顔を輝かせた。
そして、健太のこと見上げ、それを鞄から取り出す。
「メガネ?」
紗也香の手にある物をみて健太は疑問の声をあげた。
「お願い。健太、赤ちゃんを助けてあげて」
紗也香はそう言って、そのメガネを健太にかけた。
その瞬間、健太が光に包まれる。
そして、光が消えた時にはもう健太の姿はなかった。
微かに「任せろ」と言う声が聞こえたのは気のせいではないはずだ。
「どうか間に合って」
紗也香は祈るように呟いた。