有無
そこは古びたアパートだった。
俺の暮らすはずの部屋は二階で、そこへ上るための階段は錆びて今にも崩れそうだ。間取りの割りに安く、初見で契約したのが間違いだったようだ。
俺は不動産屋のハゲおやじに激しい憤りを感じていた。いや、俺もスキンヘッドではあるが。
階段は上る度に、ギシッ、ギシッ、と呻くように軋む。鉄の赤錆が、何だか血のように見えるのは気のせいだろう。
階段を上り切ると、頭に雫が垂れる。反射的に見上げると、空は雲に覆われ今にも泣きそうだった。
俺は雨を気にしながら部屋に入る。ドアを開くと、カビとは異なる、澱のように沈んだ空気が俺を包む。逃げ出したい気持ちが沸いて出るが、引っ越してきて部屋に入らないで何をすると言うのだろう。俺は意に介さずに部屋へと入った。
入ってみると、不穏な空気は瞬時に掻き消えた。大雑把な性格の俺は、勘違いを気に留めることなどせずに部屋を見てみる。
間取りの通り、案外広い。俺は部屋を広さで選ぶことは、余りない。広かろうが狭かろうが、結局は汚れるのだから。
一応、念のために窓を開ける。
窓はベランダへと出られるように、床から天井に達するまでの大きさになっている。
ドアも全開にして、空気の通りを促す。部屋はすぐに湿り気を帯びるが、それでも心持ち気分が良くなった。
次に押入れを開くと、がらんとした空間がある。特に筆舌すべきこともない押入れである。布団すら入っていないし、持ってきていないから入れることもない。
押入れの襖を閉めた瞬間、雨混じりの突風が俺の左頬を濡らした。慌てて窓を締め、鍵をかける。カーテンすらない窓を激しく雨が打っている。本降りになった雨はやむ気配を全く見せないので、部屋の空気を入れ替えるのは諦めたほうが良いだろう。
俺は部屋の真ん中にごろんと寝転んだ。湿った空気と埃の臭いを感じ、わざと呼吸を浅くする。天井のライトを見つめていると、雨のバタバタという音が部屋に鳴り響く。それは俺の呼吸音をいともたやすくかき消す。俺は部屋の中心に寝転んで、何気に天井を見上げた。木目を読んだりライトをじっと見たり、視線を漂わせるが耳では常に雨音が流れている。五感をいらだたせる空間から逃げるため、俺は目を深くつむり眠りについた。
「ん……」
自分のうめき声で目が覚める。顔を覆っている腕をどけると、光が目に刺さる。もう一度目を閉じ、ゆっくりと起き上がる。両手で目をこすり、ぼやける視界を覚ます。
ざこ寝をしたせいで痛む腰をさすりながら外を確認する。もう雨は止んだようだ。しかし窓の外には闇が黒い壁の様に、また果てがないかのように存在している。
寒さに震える体を、自分の両腕で抱く。すくむ顔を、さらに風が舐め上げる。気付けば窓がかすかに開いている。
窓を閉めようと近づいた時に、ふと足元を見て気が付いた。畳の上に髪の毛が落ちていた。拾って見ると異様に長いことが分かる。俺はスキンヘッドだから、多分この髪は以前この部屋に住んでいた人の髪だろう。俺はゴミ箱に髪を捨て窓を閉めると、飯を買いにコンビニに行くことにした。
コンビニから帰ってくると、買ってきたインスタントラーメンを火にかけて飯を作る。テレビもない部屋は閑散としていて、湯の煮えるクツクツという音しか聞こえない。しっけた部屋の空気はなおも居心地が悪く、どうにも離れたくなってしまう。
安い物件に付き物の幽霊の類は、幸運にもまだ見たことがない。だからこそこの部屋を借りたのだが、どうにも背筋が寒くなる。その考えを振り切るために、俺はまだ固いラーメンをすすり、早めに寝ることにした。
「み……」
「ん……?」
不意の声で目が覚める。寝ぼけた俺はその声に反応をしてしまった。辺りは暗く、慣れた夜目にもほとんどがみえない。起き上がろうとするが体が動かない。これが金縛りというものだろうか。
俺は恐怖よりも関心や好奇心を感じていた。腕を動かそうと神経を集中するが動かない。足を上げようと試みるが、やはり動かない。色々試した結果、動くのは目だけのようだ。すっかり眠気の覚めた目をきょろきょろ動かすが、闇で何も見えない。窓の方を見るが、もう内と外の見分けもつかない。光がないとここまで暗くなるのかと更に感心する。
しかし次第に、体を動かせないという不自由さが浸透し、退屈になってくる。ぼおっとして俺はただ天井を見上げる。そこも例に洩れずに真っ黒で何も見えない。
ふと、光があるから闇があるのか、闇があるから光があるのか、一瞬混乱して訳が分からなくなる。
その時、ぞわっとした。
耳を清ませると、何も聞こえない。金縛りにも飽きて目を閉じると、またぞわっと音がする。
目を閉じたまま、再び神経を耳に集中すると耳元で、ぞわっと何かが這いずる音がした。
何の音か分からず、古い建物だから取り敢えずゴキブリでも居るのだろうと、心の中で反復し言い聞かせる。
音が聞こえないようにと、今度は目に力を入れてじっと天井を見る。
一瞬、天井が揺れたような錯覚に陥る。手でこすれないので、目を二回ぎゅっと閉じてからもう一度天井を見る。するとやはり、天井が左右にずりっと揺れる。地震かと思ったが、体に振動は感じられない。飽くまで視界的に揺れているだけだ。 穴が開くほどに目を凝らすと、天井がずれると同時に耳元でずりっと聞こえた。
耳元の音は、もう途切れることなく、ずりっ、ずりっ、と蛇が進むように動いている。見える訳ではないが、耳元から首に近づいているのだと、俺はそう思った。
恐怖に駆られ天井を凝視すると、天井も絶え間なく油が浮いているように滑らかに揺れ続けている。
そして首筋に何かが触れた。体は瞬時に強張り、痙攣を起こしたようにびくびくと震える。それはきゅるきゅると首に巻きつき、ゆっくりと、しっかりと絞めてくる。
首を絞められているからか恐怖からかは分からないが、次第に呼吸が出来なくなる。ひゅーひゅーと喉元をすぎる息の音を感じながら俺の意識は薄れていく。白む視界の中、俺の耳元でこうささやいた。
「髪がないのね」
そして意識は途絶えた。
やたらと鮮明な声を、未だ俺は忘れられない。部屋は友達に譲り、俺はまた引越しをした。あれ以来、俺は闇が怖い。その闇の一点を、どうしても見つめてしまうのだ。
俺は少し罪悪感を感じたが、部屋を譲ったその友達は、何事もなく過ごしている。ただ夜寝ていると、頭が痛くてよく起きるのだそうだ。