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大切な人へ  作者: 七草せり
1/4

失われた時間

雨が降り出した。夏の蒸し暑い夕方。

夕立ちであろう。

空から降る雨が、地面を叩きつける。

水しぶきが飛び散る。

蒸し暑い日が続いたので、この雨で、

いくらか涼しくなるであろう。


自宅から最寄りの駅までは、歩いて

十分くらいの距離である。

しま夫は駅近くのパチンコ店で、パチンコ

をしていた。

しかし、手持ちの金が無くなったの

だろう。パチンコ台を軽く叩き、面白く

なさそうな顔をして、店を出た。


そして雨に降られた。


「ついてないな。 当たらない上に、

雨かよ……」 右手をズボンのポケットに

入れ、小銭を取り出した。

「これじゃあ、酒も買えねえ」 あーあ。

と言わんばかりに、取り出した小銭を

見つめた。

小銭が数枚。酒は買えない。


しま夫は足早に、パチンコ店から出て、

「仕方ねぇ。帰るか」 そう言い、家に

帰った。

パチンコもできないし、酒も買えない。

家に帰るしかなかった。


しま夫は中年の男である。やや小太りの、

さえない風貌をしている。

定職についていない。

パートで働く妻に、頼る生活をしていた。


何年か前までは、きちんと働いていた。

仕事人間と言ってもいい。

しかし、今は仕事を辞め、生活保護を

受けていたが、それも受けられなく

なってしまった。

妻の収入と、まだ働ける年齢だから。

と言う理由であろう。


始めのうちは、仕事を探し、何社か面接

も受けた。

しかし、何の取り柄も、資格もない上、

年齢的にも厳しく、全て不採用であった。

嫌気がさした。

それから、パチンコと、酒の生活になって

しまった。


家に帰り、雨で濡れた服を着替えた。

そして、台所へ行き、冷蔵庫を開けた。

「何だ。ビールが後二本か……」 そう

ブツブツ言い、ビールを一本取り出した。


居間のテーブルにビールを置き、どかっと

畳の上に座り、テレビを付けた。

ビールをあけ、グイッと飲む。

つまみはない。


しま夫は妻と二人暮らしであった。

妻は近所のスーパーでパートをしている。

いつも、帰宅は夜の七時を過ぎる。


二人には子供がいた。しかし、十年前に

病死した。愛嬌のある、一人息子だった。

まだ五歳と言う年齢で、この世を去った。


しま夫と妻のしず子は、一人息子を

こよなく愛し、大切に育てた。

アパートの二階、狭い部屋であったが、

幸せの溢れる部屋、明るい家庭だった。



「おーい。おとーさーん」 息子が父を

呼ぶ。

日曜日、公園へ家族三人で出かけた。

おにぎり、水筒、少しのおかずを持ち、

公園へ行き、遊ぶ。

家族の楽しみであった。

父と息子はキャッチボールをしている。

母はベンチに座り、微笑ましい光景を

見ていた。

キャッチボールが終わり、息子が母に

駆け寄り 「お母さん! お腹すいた!」 甘えた声で、母にせがむ。

「ちょっと待って。 今出すから。 それより手を洗った?」 にこやかに息子に言った。

父は 「よし、お父さんと洗いに

行こう」 息子を促し、公園の水道で

手を洗う。

そして、母の元に戻り、母の作った

おにぎりをほおばる。

嬉しそうに、美味しそうにおにぎりを

食べる。

そんな息子を優しく見守る、父と母。


幸せは続くと信じて、疑わなかった。

突然に、幸せが奪われる事など、ないと

思っていた。


息子の病気が分かったのは、五歳に

なったばかりの時。

中々おさまらない咳を心配した母は、

病院へ連れて行った。

診察の後、父も呼ばれた。

「落ち着いて聞いて下さい」 神妙な面持ち

をし、医師が二人に言った。

母は 「息子は、風邪ではないので

しょうか……」 不安気に尋ねた。

「息子さんは、肺結核を患っています」

医師の言葉に父は 「結核……。 昔の

病なのでは?」 そう言った。

医師は 「確かにそうです。 しかし、

現在でもかかる病気です」 そう説明

した。

「治りますよね……?」 母が少し震える

声で聞く。

「薬で治りますよ。 大丈夫です」 そう

言った。

息子に薬が処方され、入院したが、

元気になり、退院した。


父も母も、心から安心し、より一層

息子を大切に育てた。


「今日は何が食べたい?」 夕飯の

リクエストを聞く。

息子が答える。

笑顔の息子を見ていると、病気をした

事が、嘘の様に思えた。


しかし、またもや家族の幸せが、脅かされ

る。

息子が高熱を出した。三日間続いた。

すぐに入院し、色々と手がつくされた。

父と母は必死に祈る。

苦しそうな息子……。

意識が朦朧とし、視線が定まらない。

弱々しく、母の前に手を差し出す。

息子の手を握り 「大丈夫。 すぐに

治るからね」 そう励ますしかない。


しかし……。

懸命な治療も虚しく、祈りも届かず、

五歳と言う命を全うし、息子は逝って

しまった。

桜の散る季節、桜の花びらが散る様に、

呆気なく……。


母は泣いた。泣くしかなかった。

涙が枯れ、声が掠れても、どうする事も

できず、写真に映る、息子の顔を

指でなぞり、泣いた。

父も泣いた。けれど、泣いてばかりは

いられない。

生きていくしかない。息子が死んでしまった

現実を、真っ直ぐに受け止めて。


二人は夫婦だけの生活になった。

けれど、息子が確かにいたと言う現実は、

消える事はない。

生きた証が、家の、あちこちにある。

一つ一つを思い出に変えるのには、

時間がかかるかも知れない。

それでも、息子の証と共に生きよう。

そう決めた。



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