悩みのはけ口-批判の仕方・受け止め方
『批判』と聞くと、ネガティブでやってはいけないような、悪いイメージがある思うのです。
「批判的な言い方」というと、「ケチをつける」という意味にも取れる気が。
つまり、批判=否定?
しかし調べてみると、意味は異ってます。
○大辞泉 (国語辞典)
ひ‐はん【批判】
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
ひ‐てい【否定】
1 そうではないと打ち消すこと。また、非として認めないこと。⇔肯定。
2 論理学で、ある命題の主語と述語の関係が成立しないこと。また、その関係を承認しないこと。⇔肯定。
3 ヘーゲル弁証法で、発展の契機の一。
4 文法で、打ち消しの語法のこと。
○wikipedia - 批判的思考
「批判」と「否定」の違い
「批判」という言葉は反対する、受け入れない、などのイメージから「否定」という言葉と同義で用いられるケースが少なからず存在するがここでいう批判とは情報を分析、吟味して取り入れることを指しており客観的把握をベースとした正確な理解が必要とされる。「否定」という言葉はその情報自体を拒絶するという意味合いが強くまた主観的要素を含んでおり「批判」という言葉の意味とは隔たりがある。
つまり、良い意見も悪い意見もひっくるめて『批判』
『批判的』となったら、また意味が変わるのですが、こっちのイメージが強いのでしょうか。
○大辞泉 (国語辞典)
ひはんてき【批判的】
批判する態度や立場をとるさま。否定的に批評するさま。
そもそも批判って、誰もが日常的にやってることです。
雑誌の読者アンケートなどで、面白いと思う作品を、3段階ないし5段階の評価で○をつけていますよね?
詳しく説明するまでもなく批判してます。
スーパーで陳列されていれば、どれが一番良さそうか、見定めてからカゴに入れていませんか?
それは同じものが並んでいる中で評価して、一番良いと思うものを手にしています。
なにかを食べれば、おいしいかまずいか。
初対面の人に会えば、好ましい人物かそうでないか。
良し悪しの判断する場面って、相当あるはずなんですよ。
そもそも乳幼児の頃から、快・不快を泣くことで親に伝えているのですから、批判は本能レベルの行動と言ってもいいのでは?
けれども世の中には、批判は間違っていることが多い。
それこそ「ケチをつける」ことが「批判すること」だと勘違いしてる人がいる。
なにが言いたいかといいますと。
「なろう」で他の方々の作品の感想を覗き見していると、『悪い点』を書く人は、多くないように思うのです。
もちろん「悪いと思う部分がないから書かなかった」という場合もあるでしょうが、作品の悪い部分を書くことが、批判することが、タブーに触れることだと思ってる人がいる気がしてならないのです。
ですけど、自分の作品の悪いところを大勢の目に触れるところに放置するって、その方が恥だと思うのですよ。
そして他者の視点の意見が無いと、改善するなんて無理です。
作者が未熟を自覚して放置しているのなら、それは読者が関与するところではないですが。
それに伴って。
まれに前書きなどで、「誤字・脱字以外の批判は受け付けません」と書いている作家さんがおられる。
悪い評価を書くなという意味なのでしょうが、これが個人的にはあまり気に入らない。
感想は全面的に受け付けていないならともかく、好意的な感想だけは受け入れて、否定的なものは排除しようとする。
そういう人に対して「否定的意見も受け入れろ」と強要する気はないです。その人の精神的な耐性もありますから。
でも、ちょっとムシが良すぎという気がするのですよ。
世間に出たら、否定する人はいっぱいいますけど、褒めてくれる人なんて極少数ですよ。
ファストフードの店員が仏頂面で接客して文句言うことがあっても、最高の笑顔で接客されても「当たり前」と思って気にしないでしょう。むしろそんな場で「いい笑顔ですね」なんて褒める人がいたら、「下心ある?」と邪推する自分はヨゴレでしょうか?
こういう意見を出すと、「自己満足で活動していることだから、否定的なことを言うのはけしからん!」と言う人がいるかもしれない。
ですけど、考えてみてください。
自由に書いてもいいのでしたら、標準語からかけ離れた方言や、他国の言語を使うどころか、作者本人以外解読不可能な暗号で書いてもいいわけです。
全文暗号を使った超難解なネット小説。
趣味の範疇で書かれた自己満足作品です。規約に触れる内容は書かれておらず、ルール上はなにも問題がない。
そんな作品があったら、「電波?」と無視する人が大多数でしょうが、中には「解読なう」と喜ぶ奇特な方もいるでしょう。
そして「小説だったら読める日本語で書け」と否定する人も必ずいるでしょう。
その否定に「けしからん」と反論できますか?
もしできる人がいたとすれば、それは『小説を出す場で小説でない物を出す是非』と取り違えているか、ただ単にケチつけたいだけだと思うのです。
暗号まで行くとオーバーですけど。
要は、読者さんはそれぞれの自分の基準を持って、文章を読んでおられるはずなのです。
ある人は、小学一年生の作文で十分だと思っている。
ある人は、最低中学生レベルの国語力を使うべきだと思っている。
ある人は、大学院の論文くらいの文章構築を要求している。
だから同じものを見た時、反応が異なる。
小学一年生の作文として考えれば上等と納得する人。
中学生レベルの国語力は辛うじてあると判断するものの、首を傾げてなにも言わない人。
「これが論文だとしたら笑うぞ」とボツにする人。
そんな風に読者各人の基準に照らし合わせて、ただ批判しているだけ。
句読点の位置や数、表現方法、言われた方は「そんなの自分の勝手だろ?」と思うようなことも含まれます。
それはごく自然なことです。
どの基準で判断し、それを口に出すか出さないか。その違いだけです。
口に出しても、ただ自分が感じたことを素直に言っているだけで、善意も悪意もないのです。(元々悪意を持った意見は論外です)
それが良し悪しになるのは、受け取る側との問題です。
そしてその意見の受け止め方は、作者さん側が、どれだけ目標設定を高くしているかで、変わってくることでせう。
現状で満足している人は、否定されることを嫌うでしょう。
テストの点で赤点を回避できて喜んでいた学生が、友達と点数を比べて負ければ、「補習はないからいいんだよ」と負け惜しみを言うかもしれません。
向上心がある人は、否定的意見も受け止める。現状に満足していないのだから、高みを目指す手段の獲得に貪欲。
たとえテスト90点を取ったとしても、間違えた10点を復習して、次は100点を目指そうとするでしょう。
批判することで、ある作者さんは消沈して挫折する原因になり、ある作者さんはステップアップの手段とする。
だから絶対的に正しいやり方なんて存在しない。場合場合で違うのです。
「どんな意見でもどんと来い!」な作者さんに、消極的な読者さんは物足りない。
打たれ弱い作者さんに、積極的に意見を出す読者さんは怖い。
作者と読者の性質がかち合った時に、その批判は良い批判になり、そうでなければ悪いものになる。
じゃあ、どうすればいいか。
一番いいのは、読んだ感想を書かないこと。
消極的ですが、作者も傷つかないですし、読者も気にする必要がない、堅実で安全な方法です。
それではこの駄文の趣旨に合わないので、批判するとした場合、どうすればいいか考えましょう。
自分の経験上、批判の仕方は四種類あるように思います。これによって感じ方がかなり違います。
・明確で肯定的な意見を出す。
・あいまいで肯定的な意見を出す。
・あいまいで否定的な意見を出す。
・明確で否定的な意見を出す。
アンケートや世論調査での四択だと「良い」「どちらかといえば良い」「どちらかといえば悪い」「悪い」ってなってますが、それとは少し違います。
ものすっごく簡単に言えば具体性のあるなし。
主観にプラスして、客観性を持たせているかどうか、でしょうか?
受け取る時に一番いいのは、もちろん『明確で肯定的な意見』を出された時でしょう。
作家活動をはじめとするクリエイティブな活動なら、自分の作った創作物が、誰かに認められたと実感ができますので。
「あのシーンが感動的で面白かった」と言われば、難産だったけれども、評価されるだけの価値が作れたと達成感が得られる。
「このキャラクターがお気に入り」と言われれば、自分ではどうかと不安だったけれども、受け入れられると確認ができて、安心できる。
だから自分が感想を書く時は、こういう書き方をするように心がけています。
次点は『明確で否定的な意見』が来ます。
他の意見を持つ方もおられるでしょうが、自分は場合はこちらを優先させます。
「ここのこういう表現はどうかと思う」と具体的な意見を出すには、その作品を深く読んでないと不可能ですから、その人はそこまで読んで下さってるわけです。
そして指摘された部分が納得できるなら、修正するなり、反省点として次に生かせばいいんです。
もちろん粗探しをして出した意見ではないです。他の人も納得できる否定の意見のことです。
否定的でも正しく批判するならば、それは『アドバイス』『忠告』と呼べるものになり、決して悪いものではない。
そう信じて、自分が感想で悪い意見を挙げるときには、具体性を持った書き方をするようにしています。
次、『あいまいで肯定的な意見』
言い換えれば、どうでもいい意見です。
好意的な意見に対して「どうでもいい」とまで言うと、不思議でしょうか?
ですが、たとえば小学生に作文を書かせると、こんな作文を書く子がいると思います。
『えんそくのおもいで 1ねん1くみ ●田◆朗
○月×日、▽△こうえんにえんそくに行きました。たのしかったです』
さぁ、あなたが担任の先生だとして、この作文を「素晴らしい」と思って、花丸を付けますか?
中には「一生懸命書いたんだから!」と付ける人もいるかもしれませんが、多くの人は付けないでしょう。
書いて提出したことは評価できますが、文章力や表現力は評価できませんよね?
自分の作った作品に対し、「面白かったです」とたった一言だけ言われて、「明確な否定が出るほどではない出来」と安心することはできますが、それ以上はないのです。
優・良・可・不可の四段階評価で、可以上だとはわかるけれども、優か良なのかは不明。「50点~100点の間」なんて採点されたテストを返却されたら、どう思いますか?
それに受け取る側は、「読まずにテキトーに書いているんじゃない?」と、うがった見方もできるわけです。
言われて悪い気にはならない。だけど気にする価値のない、どうでもいい意見として流すしかないんです。
最後。一番困るのは、『あいまいで否定的な意見』
これはもう誹謗中傷の類だと思っています。
「キャラクターに魅力がない」
フィクション作品を批判する人が、たびたび使う便利な言葉なのですが、自分はこの言葉が嫌いです。
魅力がないと思えるキャラクターは1人なのか、全員なのか。
人物の感情描写が全般的に希薄で魅力がないと思えるのか、キャラクターが下品な行動をしたシーンのために魅力を落としているのか。
そもそも「キャラクターの魅力」とはなにを示しているのか。魅力と思える要素がない企画力の分野なのか、言動の描写に魅力がない文章力の問題なのか。
「ない」と断言できるなら、その人はどういうキャラクターが「万人が認める魅力的なキャラクター」だと定義できるのか。
なにが言いたいのか全く不明。そんな意見は読まなくても言えるんじゃない?
なのに「お前の作品はダメだ」と否定しているわけです。
「お前の性格のこういうところが嫌い」と言われて納得できたら、まだ直そうと思えますが、「お前、なんとなくムカツク」と言われたら、気分が悪いだけです。
だからもし単純に「面白くない」と思って、大よそでも具体性も出せないなら、言わない方がいいです。
『お前の母ちゃんデベソ』並に、根拠がなくて頭の悪い悪口になりますから。
それを踏まえて、自分なりの意見のまとめを。
まずは批判する側の読者の方々へ。
【せめて中学生になろう】
「なろう」の利用者は、若年層が多い印象がありますが、さすがにパソコンを扱い始めたばかりの小学生はそういないでしょう。
でしたら小学一年生の作文の「おもしろかったです、まる」みたいな、具体性のない幼稚なものはやめましょう。
そんな感想を書くことは、自身の幼稚さを露呈することになります。自身で作品を書いている人なら、尚更そのような文章表現しかできないのは、情けなくないと思うのです。
中学生レベルの国語ができれば、とりあえず人に読んでもらえる丁寧語にはなります。
他の人の作品を批判するなら、最低限それくらいはしましょう。
【貶すなら褒めよう】
否定されると作者はヘコみます。
しかし、良い点も同時に挙げられると、「あぁ、あの部分はよかったけど、あそこはダメなのか」とショックは緩和されて、割合素直に受け止めることができます。
否定する箇所と肯定する箇所が同じことはありえないので、双方出す。
プラスとマイナスを相殺するのが大事です。
次に批判を受け取る、作者側の皆様へ。
特に「批判=否定」だと思われている方へ。
【否定されるだけ読まれている』
よく言いますね、『好きの反対は無関心』って。
本当にどうでもいい作品ならば、そもそも読まれてもいないですから、どんな意見も出てくることはありません。
誹謗中傷の類でも、意見が出てくるということは、それだけ多くの人の目に触れているということです。
そう考えると、否定的でも意見を受け取ることが、多少なりとも怖くなくなりませんか?
【読者の声は鳥のさえずり】
人によって程度の差はあれど、作者は「読む人が面白く思えるものを作ろう」という義務感めいたものを持っていると思います。
対して読者は、義務感や責任感なんてありません。
読むのも自由。どう評価するのも自由。そして声を上げるのも自由。
そして作品を肯定するのも否定するのも、無責任です。
じゃあ、そういう声が聞こえた時にどうするか? それは作者さん次第です。
読む人の声というのは、鳥のさえずりみたいなものです。
鳥が鳴いていても、意識しなければ気にも留めないでしょう?
でも意識してさえずりを聞けば、なにかを得るかもしれない。
ホトトギスの「ホーホケキョ」に春を感じるかもしれない。ハトの「クルッポー」に平和を感じるかもしれない。カラスのダミ声も仲間との意思疎通と考えれば、深慮にたどり着くかもしれない。
それを雑音と感じるか、意味のある声として取るか、それは受け取る側の気持ち次第です。
鳥は人間に話しかけて鳴いているのかもしれない。でも多くは関係なく鳴いているのです。無視するという選択肢もあるんです。
ただし数万羽のスズメが電線に鈴なりになって「ピーチクパーチク」言ってたら、相当うるさいですから、とても無視できないと思いますが。
最後に。
別に自分は『批判しろ』と強要してるわけではないです。
自分で作品を書いている人ならば、『自分の作品も満足に行くものでないのに、人の作品を批評するなんて』と考える人がほとんどでしょう。
読む専門の人なら、『読むだけの立場なので、意見を出す立場にない』と考える人が多いのでは。
そもそも自分の意見を出すって、勇気が必要なことでしょう。奥ゆかしい(?)日本人ならば特に。
ただ、ご自身の『読者レベル』を確認してみる手段として、そういう事をしてみるのもアリではないでしょうか?と提案させて頂きました。
あとはただの自己満足。