朝日山の糸
正月の灰がまだ残る一月の夕暮れ、朝日山の稜線は冷えた光を帯び、谷を渡る風が鋭く肌を刺した。城外れの古い祠の前に設えられた簡素な庵で、玄照は羽黒衆の者二人を控えに残し、一人で待っていた。袈裟の裾は静かに揺れ、胸に忍ばせた駒姫の短冊が冷気に震えてかすかに揺れる。
土塀の向こうから低い足音が近づき、甲冑の端が夕闇に光った。使者を従えた城主が現れる。池田盛周――朝日山の当主だ。盛周は簡潔に礼を返し、視線を玄照に据えた。背後では正月の残り香を運ぶ焚き火の煙が薄く立ち上る。二人の間で祠の鈴が一度鳴り、沈黙が落ちる。
盛周が先に口を開く。声は抑えられているが、問いは直截だ。
「羽黒の者が何の用で朝日山まで来る。宗務か、救済か。それとも別の糸か」
玄照は短冊を胸に当て、静かに答えた。
「専称寺の追悼と駒姫の供養。表向きはそれだ。だが我らは山の民の声を聞き、道を繋ぐ。朝日山は北の入口だ。貴殿の立場を無視しては話は始まらぬ」
盛周の瞳に過去の傷が一瞬影を落とす。玄照は袈裟の裾から小さな包みを取り出し、差し出した。米俵の端切れと薬種の包み。物はささやかだが、示す意味は明白だった。
盛周は包みを受け取り、指先で布を確かめるように触れた。風が稲穂を揺らすような音が、二人の会話を包む。
「情報か」と盛周は短く言った。
玄照は目を細め、言葉を選ぶように言った。
「露見すれば我らの名は汚れる。だが黙って座しているだけでは民は飢え、城は孤立する。まずは小さな糧と声を運ぶ。糸は情報を運び、やがて物資を運ぶ。貴殿が望む時にだけ、より大きな動きを支えることもできる」
盛周はしばらく黙考した。やがて慎重に条件を並べる。
「一つ、貴殿の動きが我らの領民を危うくしてはならぬ。二つ、露見した場合の言い訳を共有する。三つ、我らが求める時は速やかに身を引くこと」
玄照は一つずつ頷いた。言葉は短いが、互いの覚悟がそこにある。盛周は腰の小刀に触れ、紋章入りの布を取り出して玄照に差し出した。互いの証だ。だが盛周はさらに一つ、提案を付け加えた。
「貴殿の嫡男であり徒弟でもある若者を、朝日山の遠縁として小姓に置け。名は池田盛照とし、家の者として振る舞わせる。客人ではなく血縁に見せれば、疑念は薄れる」
玄照の顔に一瞬、複雑な色が走る。やがて彼は静かに言った。
「彼は私の嫡男、喜之助だ。ただし補足を。喜之助は私の実子ではない。おそらく二、三歳の頃に山中で親を失い、羽黒衆に保護された。正確な年齢は不明だが、今は十四歳と見立てている。小柄で聡明、健脚と視力に優れ、山での暮らしで機敏さを身につけた。私は彼を徒弟として、また家の跡取りとして育ててきた」
袂の影から若者が一歩前に出る。十四歳の喜之助。小柄な体躯に似合わず、目は鋭く、谷筋の動きまで捉える視力を持つ。足取りは軽く、山を駆けた健脚が歩幅に現れている。彼は一礼して、声を落ち着けて言った。
「池田殿、私は玄照の嫡男、喜之助と申します。朝日山では池田盛照として小姓に仕えます。師の命を継ぎ、家を継ぐ者として、貴殿に仕え、民の声を聞き、玄照と貴殿の間の糸を繋ぎます」
盛周は若者の顔をじっと見据え、視線が布の結び目から足元へと滑る。随行の一人が小さく眉を寄せるのが見えた。年齢を推し量る視線が一瞬交わる。盛周はゆっくりと頷いた。
「嫡男を遠縁に偽るか。巧妙だ。だが、遠縁の名は我らの責任でもある。裏切りがあれば朝日山は火に包まれる。覚悟はあるか」
喜之助は胸の奥で鼓動が速まるのを感じながらも、言葉を選ばずに言い切った。
「覚悟はあります。山で学んだ脚と目で、師の務めを、家の灯を、そして民の安寧を守るために」
盛周は小さな布を喜之助に渡した。それは朝日山の印であり、同時に盛周の信頼の証でもある。喜之助はそれを胸に結び、冷たい夜風がその布を揺らした。玄照は父であり師としての所作で喜之助の肩に触れ、短く囁いた。
「まずは聞け、次に報せよ。判断は我らに仰げ」
喜之助は深く息を吸い、内側で揺れる不安を押し込めた。幼い記憶が断片のように胸をよぎる――山の朝、マタギの親が火を熾した匂い、湿った土の感触、抱かれて見た大きな手の温もり。年は定かでないが、走るときの風の感触は確かだ。城へ向かう道すがら、彼は小さく歩幅を取り、石段を軽く踏みしめてみせる。随行の者の視線が一瞬、彼の足取りを確かめる。
盛周は最後に一つだけ念を押した。
「もし貴殿が我らの領民を危うくするような行為をするならば、我らは貴殿を守らぬ。だが、貴殿が民を守るならば、我らもまた貴殿を守る。約束だ」
祠の鈴がもう一度鳴り、夜は深まる。喜之助は袈裟の裾を整え、玄照に一礼してから、池田の随行に導かれて朝日山の城へと向かった。歩みは確かだが、その背には師であり父である玄照の影と、託された偽りの名の重さが乗っている。正月の余韻を帯びた冷気の中、灯を守るための糸は、今、一本、朝日山へと垂れた




