如月 立春 菜の花(後編)
「私、牛尾って言うんですけどね。名前の通り、遅いんですよ。なんにもがいつも一歩遅くて。何か買おうとして迷っている間に誰かに先越されちゃったり。迷っていざやろうって腰を上げたら、既に誰かがやってしまってたりね。今回も知人が入院したって聞いて、見舞いに行こうとは思ってたんですけどね。いつ行こう、見舞いに何を持って行こうとかいろいろ考えて、やっと決めて行こうと思った矢先に亡くなったって聞いて……」
客の牛尾さんはそう言って「駄目ですね」と顔を上げ、自嘲気味に笑った。
「それは牛尾さんに限らず、誰もが一度や二度、そういう経験はあるもんですよ。二の足を踏むってのは、慎重なことで必ずしも悪いことばっかりじゃないと思いますがね」
店長はそう言って、盛り付けの終わった皿を「前から失礼します」と言って差し出した。
「お待たせしました。菜の花の料理です。辛し和え、天ぷら、混ぜご飯です」
ずっと喋っていたのに、いつの間にかオシャレなワンプレートランチが出来上がっている。
僕は慌てて箸を牛尾さんの前にセットした。
「もう春ですねぇ。菜の花は久し振りに食べます」
牛尾さんは皿を受け取り、笑顔を見せた。
牛尾さんは箸を手に取り、「いただきます」と言ってまず菜の花の辛し和えに箸をつけた。
次いで天ぷらを口に運び、菜の花とじゃこと卵の混ぜご飯を頬張った。
苦い菜の花を美味しそうに食べる姿に、僕も口の中に唾が広がる。
「春は山菜が美味しい季節ですよねぇ」
牛尾さんは本当に美味しそうに食事を楽しんでいる。
これならここから出られるかも。
僕は牛尾さんに大いに期待を膨らませた。
「そうですねぇ。でも、苦みのあるもんが多いですよね。こいつは菜の花が苦くてあんまり好きじゃないみたいで」
店長が朝食での話を持ち出して笑った。
僕はなんとなく恥ずかしくなって、思わず俯く。
「まだお子様じゃね。この苦みがええのに」
牛尾さんもそう言って笑った。
「わしは人の経験もこの苦みと同じじゃと思うとります。なんでも初めてがあって、最初から上手く行くことは少ないもんです。そういう苦い経験があって、そっから何かを学んで次は上手くなる。ただね、苦い経験って枷にもなるんですよね。一度失敗しとるけぇ、また失敗したらどがしよってなる。じゃけぇ、失敗せんようにあれこれ悩む。それをわしは悪ぃことじゃとは思わんけど、本人にしてみりゃ深刻な悩みじゃいのう。ほいじゃが、苦い経験も悩んだこともいつかはこの先を照らす光になると思うとります。春は厳しい冬の後に来るもんじゃし」
店長の言葉に牛尾さんは箸を止めて俯いた。
「……そう言って貰えると、なんか気が楽になりました」
牛尾さんはそう言って顔を上げた。
その顔はどことなく何か吹っ切れたような、晴れ晴れとしたものだった。
「この店で食事して良かった。本当は入るかどうしようか、少し迷ったんです。それに実は知人じゃなくて、父の墓参りだったんです。真っ直ぐ家に行くのが少し怖くて……ちょうど昼時だからって言うのを言い訳にこの店に入ったんです」
牛尾さんは少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ほいじゃあ、早く行ってあげてください。きっとお父さんが首を長うして待っとってですよ」
店長はそう言って、牛尾さんを促した。
「そうですね。多分、父のことだから遅いって怒ってるでしょうね」
牛尾さんはそう頷いて、皿にまだ少し残っていたご飯を一気に掻き込むようにして食べ終えると、箸をきちんと揃えて置いた。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです。ところで、お幾らですか?」
「お代はいりません。美味しかった言うてくれるんが一番のお代ですけぇ」
「えっ。それじゃ商売にならないじゃないですか。駄目ですよ。ちゃんと言ってください。幾らですか?」
牛尾さんは僕に値段を訊いて来たが、僕も分からないので店長に視線を向ける。
「ホンマにいらんけぇ。この店は道楽でやっとるけぇ、満足して貰うたらそれでええんです」
「でも……」
「今まで来んさったお客さんにもお代は貰うてないんで。気ぃ遣わんで大丈夫じゃけぇ」
「ホンマにぃ?」
牛尾さんはそう言ってまた僕を見た。
僕は今までの客に店長がどう対応して来たのか知らないけど、何度も頷いて見せた。
牛尾さんは少し不服そうに僕と店長を交互に見て、ゆっくりと席を立った。
「ほいじゃあ……ごちそうになります。本当に美味しかったです。何から何まで、本当にこの店に来て良かったです」
牛尾さんは何度も頭を下げ、店を出て行った。
戸が閉まると、僕は真っ先に二階の洗面台に向かった。
鏡の前に立ち、首筋を確認する。
「……まだ、ある」
少しも消えた気配がない。
落胆して一階に降りると、店長は淡々と牛尾さんが食べた食器を洗っていた。
「客が帰ったらまず片付け。それがあんたの仕事じゃろ?」
店長に言われて「すみません」と項垂れる。
「店長も……タトゥー、消えてないんですか?」
「左腕んとこが少し消えたが……でもまだまだじゃね。あんたは? 全然消えんかったん?」
「はい……」
「まあ……わしは料理に満足して貰うたけど、あんたの接客は……なぁ?」
店長に言われて、僕は自分が完全に思い違いをしていたことに気づいた。
そうか。
僕は店員だ。
だから、僕の接客に満足して貰わないと首のタトゥーは消えないんだ。
あー、もっと早くそれに気づいてたら。
牛尾さんが店に来てから帰るまでを反芻する。
反芻しながら悟る。
気づいていたとしても牛尾さんを満足させるような接客はできなかったな、と。
牛尾さんは店長の料理もだけど、店長の言葉に癒されていた。
僕にはあんな人生の先輩のような言葉は逆立ちしたって出て来ない。
「さ、わしらも昼飯にするか。腹減ったじゃろ」
そう言って店長は牛尾さんに出したのと同じ一皿をカウンターに二つ並べた。
さっきまで皿を洗っていたはずなのに、いつの間にか食事の用意まで……
「早う菜の花の苦みが分かるようにならんとな。あと、菜種油は昔は明かりを点けるのに使われとったんで。じゃけぇ、これ食べて元気出しんさい」
店長はそう言って僕の背中を軽く叩いた。
料理にもちゃんと意味があった。
店長が牛尾さんに語った言葉は僕にも刺さった。
牛尾さんの語ったことも。
僕は両手を握り締めた。
「冷めるけぇ、早う」
店長が手招きして急かす。
僕は席に座り、「いただきます」と苦い菜の花を嚙み締めた。




