如月 立春 菜の花(前編)
二月。
不思議な店から出られなくなってから一カ月が経とうとしていた。
首に蔦のようなタトゥーは相変わらずある。
特に痛みがある訳でも、あれ以来動いたりもしない。
生活必需品はいつの間にか必要な場所に増えてて、ここでの暮らしに不便を感じることはなかった。
三年間引きこもりだった僕にとって、外に出られないことは苦痛ではなかったけれど、目的を持って尾道に来たこともあるが、家族に連絡を取れず、自分の無事を伝えられないことだけが唯一の不満だった。
この建物は一階が店で二階が居住空間になっている。
一階の店の奥に階段があって、上がって右手が僕の部屋、左手が店長の部屋になっている。
風呂とトイレも二階にあって、全体的に古民家風だけど、トイレは水洗でウォシュレットもついてて、風呂にはシャワーもちゃんとある。
洗面所も割と広く、洗濯機もある。
洗濯物は家の中に干す場所がある。
外に出られないよう徹底している。
庭くらい外に出られる場所があってもいいのに。
ただ、洗濯物を干すところだけ天窓があって、晴れた日は太陽の光を拝める。
僕の部屋も含めて、そこ以外に窓すらない。
湿気そうな気がするけど、除湿器が欲しいと思うほどの事態にはなっていない。
顔を洗って一階に降りると、店長が朝食の支度をしていた。
食事は常に店で摂る。
台所が店にしかないからだ。
「今日は月に一度の客が来る日じゃけぇ。飯食ったら支度するけぇ、手伝うしてな。あんたにとっては初仕事じゃね」
店長に言われて、今日が十二日だと知る。
テレビもネットも見れないので、曜日感覚どころか日付の感覚も薄かった。
客が来る。
そのことに僅かに緊張する。
一体どんな人が来るのか。
「料理はどうやって決めるんですか?」
茶碗にご飯を盛りながら問う。
この家での朝食は常にご飯だ。
「食材が勝手に用意されとるけぇ、それをわしが料理するだけじゃ。今日は菜の花があるけぇ、それを使うて辛し和えと天ぷらにしようか思うとるよ。あとはちらし寿司か混ぜご飯もええね」
「僕の時は牡蠣だったんですか?」
「缶に入ったんがこのカウンターに置かれとったんよ。倒れるくらい嫌いなもんとは思わんかったけぇ……」
「それってじゃあ……神様は初めから僕をここに閉じ込めるつもりだったってことですか?」
「ほうじゃのう。そういうことになるのう」
店長は皿に盛り付ける手を止めて僕を見た。
「……本当に神様……なんでしょうか?」
僕はここに来た時も思った疑問を口にした。
すると「しっ」と店長は慌てたように人差し指を立てた。
「滅多なことを言うちゃあいけんっ。常に見られとるんじゃけぇ」
店長の言葉に僕は周囲を見回す。
店長も一度も姿を見たことはないと言う。
でも、勝手に物が増えたりして、見られているという気配は確かにある。
ただ、姿が見えないので、ついその意識は忘れがちだ。
「さ。ちゃっちゃと食べて働かんと」
店長に促され、僕は茶碗をカウンターに置いた。
カウンターに二人並んで、手を合わせる。
「いただきます」
今朝は菜の花のおひたしに卵焼き、鮭の塩焼きだった。
「菜の花、初めて食べました」
「美味いじゃろ?」
問われて少し間が開く。
「……苦いですよね?」
正直に答えると、店長は笑った。
「子供じゃのう。その苦みがええんじゃろが」
「大人ってビールとか苦いもの、よく美味しそうに飲みますよね」
「いろんなことを経験するとな、苦いもんが美味いと思えるようになるんよ。あんたももちっと経験積んだら、この菜の花が美味いと言えるようになるんじゃろうな」
店長はそう言って目を細めた。
多分まだ二十代後半か三十代前半と思われるのに、この店長は時々凄く年寄り臭く感じる。
広島弁が強いせいだろうか。
それとも歳の割にいろんなことを経験してきているのだろうか。
この人は一体何者だろう?
僕は名乗ったのに相変わらず『あんた』と呼ばれ、店長は名前すら教えてくれない。
「店長、そろそろ名前教えてください」
「ここじゃ名前なんか必要ないじゃろ」
「僕は名乗りましたよ?」
「そりゃ、呼ぶ時困るから……」
「でも店長は名前で呼んでくれないじゃないですか。いつも『あんた』って言うなら名乗る必要なかったですよね?」
「な……今日は機嫌が悪ぃのう。初仕事じゃけぇ、緊張しとるんか?」
「はぐらかさないでください。名前、なんで言えないんですか?」
「べっ、別にそがぁなこと、どうでもええじゃろっ。名前で呼ぶ必要もないんじゃけぇ」
店長はいつもこんな感じで名前を教えてくれない。
名前を隠す理由って何だろう?
店長は詰め込むように急いで朝食を食べ終え、「ごちそうさんっ」と席を立った。
そして再び台所に立ち、昼食の仕込みを始める。
僕も急いで食べて、台所に回る。
食器を洗ったり、店の掃除が僕の主な仕事だ。
今日来る客が店長の料理を完食して満足したら、この店から出られる。
そう思うと、掃除にも力が入る。
機会は月に一回しか訪れない。
今日を逃せばまた一カ月後だ。
隅々まで念入りに掃除をしていると、店の引き戸が開く音がした。
「いらっしゃいませ」
店長が声を掛けるのに続いて、僕も「いらっしゃいませ」と顔を上げた。
入って来た客は大柄な中年男性だった。
ゆっくりと店内を見回しながら、カウンターの端の席へ座った。
「あの……メニューは?」
「ないんですよ。うちは一皿のみお出しするんで。本日は菜の花の料理となっております。すぐに用意するんで、お待ちください」
店長が広島弁ではなく、標準語でそう説明した。
僕の時は初めから広島弁だったのに。
相手が年上の客だから?
怪訝に思いながらも掃除を切り上げて、お茶とおしぼりを客に出す。
客は丸めたおしぼりを広げ、それを顔に持っていきかけて止めた。
それから一拍置いて、手を拭いた。
僕は手持ち無沙汰になってしまった。
飲食店でのアルバイト経験はない。
というか、アルバイト自体したことがない。
でも、外食はしたことがあるので、店員の動きはなんとなく分かる。
お茶とおしぼりを出した後、料理ができるまですることが……ない。
店の隅に立っとくのか、店長を手伝うのか、何をしたらいいのか、分からない。
あらかじめ聞いとけば良かった。
僕はとりあえず店長の隣に立ち、布巾を手にその辺を無駄に拭く振りをした。
客も料理が出るまで手持ち無沙汰な様子で、おしぼりをいじっていた。
「今日は寒いですねぇ」
不意に店長が料理を作りながら客に話しかける。
「あ、ああ。そうですねぇ」
ぎこちなく客が相槌を打つ。
「尾道にはお仕事で?」
「い、いえ。ちょっと……用事があって」
「どこから来ちゃったんです?」
「竹原から……」
「竹原、ええとこですよね。ほいじゃあ、電車で?」
「ええ、まあ」
「竹原っていやぁ、確か来月雛人形を飾るお祭りがありましたよね?」
「ああ。あれはもう今月からやっとりますよ。竹原は小京都言われとりますが、この時期は特にええですよ。いろんなイベントで町が盛り上がって」
「わしも竹原には昔行ったことがありますが、うさぎの島に行ったり、帰りにウイスキー買ったりしましたよ」
「まあ、それで有名なとこもありますからねぇ」
話が流れるように盛り上がっている。
客もおしぼりから手を放し、店長との会話を楽しんでいる。
僕も会話に参加すべきなんだろうか。
でも、何を話したらいいか分からない。
そう思っていると。
「あんたは行ったことあるんかいのう?」
急に店長に話を振られた。
「あ、い、いえ。ないです」
せっかく振ってもらったのに広げられないどころか、ぶった切ってしまった。
「若い子には……特に男の子にはあんまり面白うないかもしれんね。酒が飲めりゃ、少しは楽しめるんじゃろうけど」
客が苦笑いを浮かべる。
「確か陶芸体験ができるとこなかったかいね? ジャム作ったりできるとことか。それじゃったら若い子でも楽しめるんじゃないかね?」
「ああ、ありますね。よう知っとってじゃねぇ」
僕がぶった切った会話でまた盛り上がっている。
さすが店長。
「確かに何か作るのは……好きです。楽しそう」
呟くように言うと、店長は笑顔を見せ、客も「そうか、そうか」と満足そうに笑顔で頷いた。
しかし、ふっとその表情が曇る。
「実は……ここに来たんは墓参りが目的だったんですよ」
客は湯呑を両手で包み、視線を落とした。
店に来た時はただ「用事があって」としか言わなかったが、雑談で気持ちが解れたのか、唐突にここに来た目的を語り始めた。




