睦月 小寒 牡蠣(後編)
「カミさんって……まさか神様?」
僕が問うと男は神妙な面持ちで大きく頷いた。
最初にこれを言われていたら信じなかった。
でも、紙が飛んで来たり、タトゥーが動いたりしたのを見た後だったので、割とすんなり信じた。
神様。
本当にいるんだ。
「で、でも、なんで出られないんですか? なんなんですか、この店」
「……ここは普通の人には見えんのじゃけど、毎月十二日に必ず一人だけ、神さんに選ばれた客が来る。神さんは教えてくれんけぇ、こりゃわしの勝手な想像なんじゃけどな。ここに来る客は皆、心に傷があって、切実な願いを持っとる。それをわしが料理で癒して心を浄化してやったら、わしも浄化されるんじゃと思うとる。神さんがくれた最後の機会なんじゃないかね?」
「でも料理を食べなかったら悪いことが起きるって……」
「わしも料理を食べんかった。普通の店じゃないって気づいたけぇ、そんなところで出されたもんを食べたら、現世に戻れんっちゅう昔話があってな。それを思い出して、意地でも食べんかった。そしたら……こうよ」
そう言って男は自嘲気味に両手を広げて見せた。
「わしの料理で癒されんかった客は大事にしとった品を忘れて行ったり、わしに語ってくれた話を忘れてしもうたり、何かしら忘れてしまうんじゃ。代わりにわしは刺青が増えた。じゃけぇ、良うないことが起きる。そう悟った。あんたもこうしてわしみたいな刺青ができてしもうた」
だから僕が牡蠣を食べないと言った時、あんなに慌てて必死に食べろと促したのか。
「でも、わし以外で食べん言うたのはあんたが初めてじゃ」
男は苦笑いのような困ったような複雑な表情を浮かべ、両腕を組んだ。
「あ、あの……今からでも食べたら消えますかね?」
僕が首を触りながら言うと、男は小首を傾げた。
「さあなぁ? でも試してみるか?」
「はいっ」
僕は意を決して席に戻った。
焼きたてだった牡蠣は勿論、湯呑のお茶もすっかり冷めてしまっていた。
中学生の時にあたって以来、牡蠣を食べるのは初めてだ。
あたるまでは好きだった。
だから、美味しく食べれるはずだ。
僕は箸を手に取り、まず焼き牡蠣を口に運んだ。
磯の香りが口いっぱいに広がる。
ポン酢とネギがよく合っている。
久し振りの牡蠣は美味しかった。
オリーブオイル漬けも添えられた白髪ネギと一緒に頬張る。
しっかりとした味付けがされていても牡蠣特有の味は失われていなくて、これも美味しく食べれた。
最後に生牡蠣に箸をつける。
口に運ぶのに一瞬、躊躇った。
あたった時の記憶が過る。
でも、思い切って口に放り込んだ。
柔らかな歯ごたえと磯の香りが一噛みごとに強くなり、口に広がる香りと感触に急に気分が悪くなった。
やっぱりダメだ。
そう思ったのと同時に僕の目の前は真っ暗になり、次に気づいた時は視界いっぱいに天井が広がっていた。
「大丈夫か?」
聞き慣れない声に自分が何処にいるのか思い出す。
視線を動かすと、傍らに男が安堵と心配の入り混じった表情で僕を見つめていた。
「無理矢理食べさせてしもうて悪かったな」
男はそう心底申し訳なさそうに謝った。
僕が食べると言い出したのに。
僕が牡蠣を食べられないせいで、この人はまたタトゥーが増えてしまったのだろうに。
上半身を起こすと、店の中ではなさそうだった。
僕は普通の和室で布団に寝かされていた。
「何か飲むか?」
問われて少し迷って、水をお願いした。
「消えとらんよ。じゃけぇ……ここから出られんよ」
そう言われて、僕は無意識に首を触っていたことに気づいた。
男が水を取りに部屋を出て行った後、僕は室内を見回した。
上着は畳んで枕元に置いてあった。
その横にはリュックもあって、中身を確かめる。
ここに来た目的がこの中にあった。
古い一通の手紙。
封筒に住所は書いてあるが、宛名は書いてない。
出そうとして出せなかった手紙だからだ。
つい最近見つけて、勝手に中身を見た。
見たら届けないと、と思った。
それが僕が……引きこもりだった僕が家を出てこんな遠い場所まで来た理由だ。
だから、なんとしてもこの店を出て届けに行かないといけない。
「それは?」
水の入ったコップを手に戻って来た男に声を掛けられ、僕は手紙をリュックに戻した。
「……僕が尾道に来た理由です」
「手紙を届けに来たのか? 切手貼って出しゃえかろうに。それに今は電話やメールがあるじゃろうが」
「電話番号もメールアドレスも知らないんで。それにこれ、宛名がないんです。住所が書いてあるだけなんで。だから、書いた人に代わって届けに来たんです」
「……そうか。なら、早うこっから出んといかんね」
男は深く訊こうとしなかった。
僕はコップを受け取って、一気に水を飲み干した。
口の中の気持ち悪い感触を洗い流すように。
口の中がすっきりすると、ふと疑問が浮かんだ。
「そういえば、あなたはこの店にどれくらい閉じ込められているんですか?」
「そうじゃのう……一周……」
斜め上を見上げていた視線が僕を見て止まる。
「一周年になるかのう?」
なぜか少し困ったような慌てたような表情でそう言った。
一年じゃなくて一周年?
変な言い方……
あ、店だからか。
もっと長く閉じ込められているのだと思っていた。
案外短い。
いや、でもいつまでいるのかは分からない。
死ぬまで一生ここで暮らすのかな?
そう思ったら両親の顔が浮かんだ。
上着のポケットを探る。
スマホを取り出して電話を掛けようとした。
だが、案の定、圏外だった。
やっぱりここは『普通』じゃない。
「店の外とは連絡が取れん。ここは完全に外界とは切り離されとる」
「じゃあ僕がここにいるって家族にどうやって伝えたら……?」
「……伝えられん」
「じゃあ僕は行方不明者になるってこと?」
「さあな。わしも外でどうなっとるかは分からんけぇ」
「きっと……いや、絶対心配されてますよ。ニュースになってるかも」
「わしの場合、それはないな」
「なんで……?」
「……心配されんけぇね」
男は淡々とそう言って、立ち上がった。
「しばらく一緒に暮らすことになったな。既に勝手に布団やなんかが増えとる。この部屋はあんたの部屋になるけぇ、いろいろ開けて見てみぃ。あと、客には一皿しか出さん決まりじゃが、店員になったあんたは毎日食事ができる。食べたいもんがあったら言い。知っとる料理じゃったら作れるけぇ」
男は優しく笑んで、部屋を出て行った。
残された僕は改めて部屋を見回した。
押し入れと和箪笥が一つある和室で、他に家具はなかった。
箪笥の引き出しを開けてみる。
中には……僕の服が入っていた。
三段ある引き出し全てに綺麗に畳まれて僕が持ってる服全部が収まっている。
ただ、下着や靴下まであるのに、コートなどの羽織物はない。
外に出られないからだ。
ここに着て来たコートだけは消えずに残っていた。
押し入れを開けてみる。
何も入ってなかった。
パソコンとかゲーム機とか僕の部屋にある物が服みたいに入ってるかとちょっと期待したけど。
「本当に外と繋がる物は何もないんだな……」
外に出られない。
誰とも連絡を取れない。
まるで牢獄だ。
なんで僕がこんな目に……?
ただ手紙を届けに来ただけだ。
もしかして、届けてはいけない手紙だった?
それにこの店のルールだと出された一皿に満足できなかったら悪いことが起きるってことだけど。
僕はただ牡蠣が食べれなかっただけだ。
好き嫌いをするなってこと?
それだけでこんな目に遭うなら、世の中の大半の人が同じ目に遭ってないとおかしい。
なんで僕だけ……?
それに、僕は首だけだけど、店長は全身にタトゥーがある。
あの人もただ出された一皿を食べなかっただけだ。
この店は本当に神様の店なのか?
僕はこの非現実的な現実をどう受け入れたらいいのか。
店に入ったこと、手紙を届けようと思ったこと、そもそも部屋を出たこと。
全てを後悔していた。




