睦月 小寒 牡蠣(前編)
一月。
雪は降っていないが、今にも降るのではないかというくらい寒い日だった。
かじかむ手でスマホを握りしめ、画面に表示させたマップを見つめる。
細い道が多いし、マップ上じゃ分からなかったが坂も多い。
気づけば入り組んだ路地裏に迷い込み、道はますます細くなっていた。
「腹、減ったな……」
白い息と一緒に零れた声は、少し震えていた。
昼はとっくに過ぎている。
周囲には民家しかない。
人通りはなく、猫すら見かけない。
道を尋ねようにも訊く相手がいない。
いや、いたとしても声をかけられただろうか。
僕はこの三年間、ほとんど部屋から出ていない。
いわゆる引きこもりというやつだ。
親ともまともに話していない。
そんな僕が今、尾道にいる。
自宅のある広島市内の家から電車に乗り、見知らぬ町まで来た。
一人でこんな遠くへ来たのは初めてだ。
本当なら大学に通っている歳だが、今の気分は初めてのおつかいに出された子どもに近い。
そのときだった。
視界の端に、藍色の暖簾が揺れた。
「食堂……?」
古民家のような店構えに足が止まる。
スマホのマップを確かめるも店の表示はない。
暖簾があるなら営業中なのだと思うが、中の様子は全く見えなかった。
怪しい。
そう思ったが、腹に手を当てる。
周囲に店は見当たらない。
寒さと空腹に負けて、意を決して店の引き戸を開けた。
「いらっしゃい」
店の中は、カウンターだけの狭い空間だった。
古びてはいるが、妙に落ち着く雰囲気がある。
だが、そのカウンターの奥に立っていた人物は、店の外観とはまるで似合わなかった。
日に焼けた肌。
人懐っこい笑顔。
捲り上げた袖から覗く筋肉質の腕には、びっしりとタトゥー。
首筋にも見える。
おそらく全身に入っている。
どう見ても料理人というより、海帰りのサーファーのような若い男だった。
入るんじゃなかった。
そう思ったけど。
湯気の立つ湯呑を出され、席を勧められ、出汁の香りがして。
そして何より部屋の暖かさに店を出る気は失せた。
背負っていたリュックを隣の席に置き、上着を椅子の背に掛けて座った。
湯呑を両手で包む。
凍ったように冷たかった手が溶けていくように温まる。
「ええタイミングで来たのぅ。さっき焼けたばっかりじゃけぇ、熱いうちに食べんさい」
そう言って店主が出した一皿には。
殻付きの焼き牡蠣、同じく殻付きの多分生牡蠣、そして牡蠣のオリーブオイル漬けが綺麗に盛り付けられていた。
磯の香りが鼻に抜ける。
ネギやレモンが添えられ、見た目にも美味しそう。
とは思ったが。
「……す、すみません。あの……牡蠣じゃないものは……ありますか?」
恐る恐る問うと、店主の表情が曇った。
「なんでじゃ?」
「牡蠣は……その……昔あたったことがあって……」
「これは大丈夫じゃけぇ。絶対大丈夫じゃけぇ。頼む、一口だけでええけぇっ」
店主はカウンターから身を乗り出して必死に訴えた。
そう言われても、あたって以来、あの苦しみを思い出すと食べれない。
「……どうしても無理か?」
店主に困った表情で問われ、僕は「はい」と頷いた。
すると、「そうか」と呟いて、なぜかとても僕を憐れむように見つめて来た。
広島県民だからといって、牡蠣が好きとは限らない。
牡蠣を食べなければいけないということもない。
なのにそんな目で見られるのはとても心外だ。
だが、店主がそういう意味で憐れんでいた訳じゃなかった。
「うちはな、出された一皿を食べんかったら良うないことが起きるけぇ。じゃけぇ、できれば食べてくれんかのぅ? 食べたら絶対満足させる自信はあるけぇ」
店主が客を脅すってどういう店だよ?
やっぱり入るんじゃなかった。
席を立ち、上着とリュックを手に店を出ようとした。
しかし引き戸は開かず、引き戸にはどこからか飛んで来た紙が貼り付いた。
『決まりを守れば願いを叶える』
達筆な筆文字で書かれた紙に驚いて振り返る。
と、店主の腕のタトゥーが蠢いていた。
「タ、タトゥーが動いてっ……!」
驚いて思わず声に出てしまった。
「タトゥーが見えるんかっ?」
店主も驚いている。
タトゥーがゆっくりと動いた。
蔦のように伸びて、店主から僕の足元へ這ってくる。
狭い店の中を逃げ回ってみたが、足に絡みついて動けなくなった。
「こりゃ……どういう……?」
店主も困惑している。
すると、引き戸に貼り付いていた紙が再びひらりと舞って、店主の元へ飛んで来た。
それを店主が掴む。
「……『店員にしろ』?」
紙にはそう書いてあったようで、店主は怪訝そうに僕を見た。
「もしやあんたも……?」
男は言いかけて口を噤んだ。
それから何か考えこむように紙を見つめたまま押し黙っていたが、しばらくすると紙をカウンターに置き、「名前は?」と訊いてきた。
「こ、子守です」
男は一瞬、眉間に皺を寄せたが、柔らかく笑んだ。
「わしのことは店長と呼べ」
そう言って名乗らなかった。
「この店は見ての通り、普通じゃない。わしは毎月十二日に店を開け、ここに来られた客を一皿の料理でもてなす。客がわしの料理を食べて満足したら、わしの刺青がちっとずつ消える。食べんかったり、満足させられんかったら、わしの刺青が増える」
「えっ? じゃあ、僕も……?」
「さあな。わしみたいに体全部に刺青された訳じゃなさそうじゃし、店員ってことは料理作る側じゃなさそうじゃし……」
言われて袖を捲ってみる。
足もズボンの裾を捲ってみた。
が、どこにもタトゥーはない。
「首輪ができとる」
僕の様子を見た男が自分の首をちょんちょんっと指さして言った。
慌てて首を両手で触ると、何かが肌の下で一瞬蠢いて、思わず首から手を放す。
「あ、あのっ。僕、用事があって……人を探しに尾道まで来たんですっ。だから、ここから出られないと困るしっ」
三年間、引きこもっていた僕が勇気を出して尾道まで来たのに。
必死に訴えてみたが、男は軽く溜息を吐いた。
「諦めんさい。ここからはどがぁしても出られんけぇ。多分じゃけど、この刺青が無くなったら出られるけぇ。地道に客をもてなすしか……」
男はそう言って、また憐れむように僕を見た。
ってことは、この男も自分の意思でこの店にいる訳じゃないのか。
「あなたも……元はここの客だったんですか?」
僕の問いに男は黙って静かに頷いた。
「この店はな、神さんが営んどるんじゃ」
男はそう言った。




