住めば都
「お疲れになったでしょう」
白い着物を着た女が、宗介の背に手を添えて畳の上へと促す。真っ黒な髪を背に垂らし、目尻と唇に紅を引いた彼女は、息を飲むほど美しかった。妙齢の女性だからなのか、それとも宗介が命の危機を感じていたからか、やけに艶っぽく見える。
「さあ、お食事をどうぞ」
だだっ広い座敷に、漆塗りと思われる品のいい食膳が一つ。そこには、お茶や葉物のおひたし、鮎らしき焼き魚、清汁、卵焼きに漬物など身体に良さそうな食材が品良く並んでいる。白米からはまだ湯気が上がり、食欲をそそるいい香りが胸を満たした。
ああ、どれだけこの瞬間を待ち望んだだろう。急にお腹がしくしくと空腹でうずいてたまらなくなる。
「良いのですか?」
「ええ。あなたのために用意させたものですから」
「……ありがたい」
膳の前に座る。そうなるとたまらず、箸とご飯を同時につかみ上げた。鼻腔を甘い白米の香りがくすぐった瞬間、宗介は我を忘れて白米を口へとかき込んだ。
よく噛むことすら惜しく、それでも甘さを感じる米をどんどん腹に納めていく。こんなに美味い米を食べたのは初めてだ。血の匂いがないだけで、こんなに美味しいと感じるとは。
茶碗半分ほどを胃に入れたところで我に返り、茶碗を下ろした。鈴のような笑い声が真横からして、そこに女が座していることに気がつく。
「よほど空腹でしたのね」
「あ、ああ……そうなんだ」
宗介は逃げなければならなかった。小さなヘマだ。獲物を仕留めたと思って油断していた。そいつは宗介の視線が外れた瞬間に絶叫したのだ。仲間を呼ぶために。
その頭を砕いたものの、声に集まって来た有象無象の畜生どもに襲いかかられ、逃げるしかなかった。
まだまだ若い盛り、ここで終わるわけにはいかない。執念のようにしつこく追ってくる畜生どもから無我夢中で逃げた。逃げて逃げて逃げて、気がついたら森の中で野垂れ死のうとしていた。逃げても逃げなくても結果は同じなのだと絶望した。倒れたままもう目覚める事はないのだと思いながら意識を手放した。
だが、運は宗介に味方したのだ。
落ち着こうと汁を飲み、息をつく。
「ところで、ここは……?」
「宗介さんは、この邑のことをご存知ありませんか? 神子の産まれる邑を」
「さあ……神子?」
「ええ。この邑では神子、神の子が産まれるのです。わたくしもそうです」
女は目尻を下げた。口角が上がり、妙に色っぽくほほ笑む。
「そうして、わたくしの娘もまた神子」
「なんと」
妙齢だとは思っていたが、すでに子を儲けていたとは。
「神子はこの邑に富をもたらします。神子の力で疫病も退けられます」
「ほう、それはすごい」
「犯罪とも無縁ですよ、富は有り余っていますからね。邑を見て歩いてみてください、森の中にある邑とは思えぬ豪華絢爛なお屋敷が並んでいますから」
「なるほど……」
これはますます運が向いているようだ。宗介の胸が軽くなる。
「ではあなたにもそういう力が?」
神子とはいえ、ただ人にそんな力があるとは信じがたい。もしかしたら人里離れた邑で、彼女の一族が祀り上げられているだけかもしれない。きっとそうなのだろう。だがそれを言うのは野暮だ。
「ええ。娘はもうすぐ四歳になりますが、力を発揮出来るようになるにはまだわずか日が足りません。今はまだわたくしがこの邑を繁栄させています」
ふふ、と笑った女が宗介を覗き込む。
「わたくしはミコ。仲良くしてくださいね」
その黒々とした瞳に吸い込まれるような色香が漂い、一瞬時が止まったかのような錯覚に陥る。
人の気配。はっとして女から目を外すと、いつの間にか目の前にもう一人年配の女が進み出て来ていた。その手に持っている盆には、徳利とおちょこが乗せられている。
畳に膝を付き、盆をミコの前に差し出すと女は平伏した。
「ミコ様、清酒でございます」
畳に額を擦り付けるほどに、いや文字通り擦り付けながら女は告げる。その声は幾分か震えて聞こえた。顔色も悪い。
「ご苦労でしたね。下がっていいわ」
「はい、失礼いたします」
明らかに女は震えていた。この邑では、神の子であるミコはそれほどまでに恐れ多い存在なのだろうか。
女は下がり、ミコが徳利を持つ。その肩が、しなだれるように宗介の肩に触れた。
「どうぞ一杯。この邑の清酒は美味い上に疲労も取れると街でも評判ですよ」
おちょこを手に取る。ふっくらと焼き上がっている鮎と合いそうだ。
とく、とくと注がれる清酒から甘く華やかな香りが広かった。口に含むと、ころころとした不思議な感触が舌をなぞり、甘さと熱さが喉元を抜けた。たしかにこれは美味い酒だ。
鮎の身を剥ぎ、口へ運ぶ。程よい塩味を感じると同時に、身が解けた。噛むとこれぞ鮎と言わんばかりの甘味が溢れ、思わず唸る。
そうして何杯か清酒を喉へと流し込んだ頃。パタパタという足音がし、廊下から小さな人影が畳の上へ上がった。
それは子供だった。おかっぱの髪をして、白い着物の童女。
「ヒメ、こちらへ」
ミコが声をかけると、ヒメと呼ばれた童女がこちらへと歩き出した。ミコの娘だろうか、たしかに四歳くらいに見える。
ヒメはなんの表情も浮かべず近づいて来た。二人の肩の隙間に自分の身をねじり込む。そうして、宗介の肩にひしと身を寄せた。
「ヒメは宗介さんが気に入ったのかしら」
また、ふふ、とミコは笑った。その目線が、ヒメの頭越しに宗介と絡まる。
童女の少し高い体温が肩先を温める。その温度に、なんだか急に眠気が込み上げてあくびをした。その反動で視線がミコから外れる。
「お疲れですものね。もう休まれますか?」
「ああ……いや、ご馳走は全部いただくよ」
食べるのは大事だ。腹が減っては戦は出来ぬ。いつでも動けるよう、食べられる時は食べなければ。ああ、それにしても眠い。
それから、おそらく食事は全部摂ったはずだが記憶がない。気がつけば宗介は布団の中で朝を迎えていたのだった。
* * *
なるほど邑には立派な屋敷が立ち並んでいた。街ほどの大きさはなく、やはり邑は邑。だが、どの屋敷も立派なものばかりだ。そして、人々も仕立ての良い上等な絹の着物を着ている。形こそ普段着だが、その艶は本物だ。
それらを値踏みしながら見て歩く宗介の後ろを、乾いた足音が付いてくる。ヒメだ。そっと目線だけふり返り様子を伺うと、相変わらずの無表情で歩いている。
「なにが気に入ったんだか……」
朝目覚めると、ヒメはすでに布団の横にいた。そのまま食事する時も側を離れない。邑を見て回ろうと屋敷を出れば付いてくる。宗介さんが気に入ったのかしらと笑った母親の方を見もしなかった。
それからずっとこの調子だ。それに。
(誰もかれもヒメをないもののように扱っているんだな)
ヒメの姿は皆見えているばはずだ。それなのに、誰もそちらへと視線を向けない。ヒメに気づくとさっと視線をそらす。ヒメが小石に躓いて倒れても誰も助け起こすどころか声さえかけない。そのよそよそしさが宗介に得体の知れない居心地の悪さをもたらしていた。
(そういえば、子どもがいないな)
年若い者はいる。だが、子どもと言えるような年齢の者はとんと見当たらない。そのせいか、大人から目を逸らされるヒメの姿は余計に浮き上がって見える。
なぜヒメを避けているのだろうか。やはり神子だから?
ミコは、ヒメを神子だと言った。神子とは文字通り神の子だ。だが、その特殊性がヒメには感じられない。無感情で表情の変化がなく、カラクリ人形の方がよっぽど人間らしいまである。それを特殊性ととらえ、畏れから避けているのだろうか?
ミコやヒメの先祖に、特殊能力を持つ人物は実際にいて、信仰の対象だったのだと考えるのが自然だ。しかしそれは形骸化し、ただその一族を神子と呼び、崇めているという信仰だけが残ったのではないだろうか。
だが、なにをどう考えたところで、宗介の想像でしかない。深掘りもしたくない。早急に計画を練り、ここからは出ていかねばならないのだから。もっと遠くへ、遠くの国へ逃げねばならない。
いや一つ知りたいこともある。それだけ聞いてみても良いかもしれない。
誰に聞けば良いかと視線を巡らせる。皆宗介から、いやその後ろを歩くヒメから目線を逸らすせいでなかなか目が合わない。仕方がない。
「ちょっと訊いても良いだろうか?」
ちょうど屋敷から出て来た壮年の男に声をかける。
「はい? ……ッ」
男が息を飲んだ。ヒメに気づいたらしくあからさまに目をそらす。だが、構わず男の前に立った。ヒメも足を止める。
「な、なんでしょうか?」
「こういう屋敷は誰が建てているんだい?」
「……ああ、街から大工を呼んでね。はは、なにしろ富は腐るほどある」
男は、貼り付けたような笑みを浮かべた。その表情は、有り余る富を喜んでいるようには見えない。もうある事が当たり前なのだろう。ますます都合がいい。
「へえ。こんな山の奥なのにどうやって金を儲けるんだい? やはり神子の力?」
「ええ、まあ。神子が示す地を掘れば金も宝石も出ますし、森に入れば一面に貴重な薬草が生えていますから」
街の人達はそういうの好きですからねと男は肩をすくめた。
「へえ……じゃあ移住してくる者も多いだろうね」
「いえ。街の人々はここに皆住みたがりますが、誰でも住めるわけではありません。ここに住めるのは、この邑の神子に選ばれた者だけです」
(邑に住む者を選ぶだと?)
そっとヒメを伺う。相変わらず無表情でぼうっとそこに立っているヒメ。人を選ぶと言われるとなんだか不気味にも見えてくる。
この邑はひょっとしたら、かなり強い思想と信仰で維持されているのかもしれない。
「ヒメも神子なのだろう? こんな子供も人を選ぶのか? それともミコが?」
ただの疑問を口にすると、男は目を泳がせた。じっとりと汗を浮かべ、明後日の方向を見る。
「ヒメ様はその……まだ覚醒されていないので」
「覚醒?」
「は、はい……覚醒は四歳の誕生日と決まっています。明後日ですよ」
そう言えば、昨日ミコも同じようなことを言っていた。ヒメが力を発揮出来るようになるにはわずか日が足りず、今は自分がこの邑を繁栄させているのだと。
どういう意味なのか思案する。四歳の誕生日に覚醒するという明確な区切りはなぜだろう。そんな事があり得るのだろうか。
「覚醒まではミコ様の力ですし、ミコ様が全てを決められます。あなたを迎え入れたのもミコ様ですし……」
「ん? もしミコが俺を助けるなと言ったら助けないのか?」
「ええ、ミコ様の決定は、絶対ですので。今にわかります、ミコ様の……いえ、この邑の神子の力が」
背筋がうすら寒くなる。変な信仰なのだろうが、ミコに言われれば人を見殺しにすることも辞さないのは異常だ。気味が悪い。
それは野生の勘のようなものだった。一刻も早く邑を出なければならない。ゆっくり見て回る時間などない。
(なに、富は有り余っているようだからどこでもいい。さっさと済ませて今夜忍び出よう)
頭の中で邑を出る算段を始めた宗介に、男は話が終わったのだと判断したらしい。
「あ、あのではこれで……」
「あっ……」
男は小さく頭を下げると素早く宗介の横をすり抜けた。足早に歩き去ってしまう。
「まあいいか」
ひとまず、邑を端から端まで見ようと歩を進める。森でまた行き倒れでもいけない。街から頻繁に人が来るなら道があるはずだ。それも見つけておこう。
後ろからは小さな足音。ヒメが付いて来ているのだろう。無表情で薄気味悪いが、ヒメもまた変な信仰の犠牲者なのかもしれない。そんなことを考えてしまう自分に嗤いが込み上げる。
犠牲者のことを考えるなどどうかしている。
* * *
「立派なお屋敷ばかりで素晴らしかったですよ」
「ご覧いただけましたか」
夜。だだっ広い部屋の畳の上にぽつんと置かれた食膳。そこで食事をしつつ、宗介はミコと当たり障りのない話をしていた。ヒメはというと、さすがに昼間宗介に付いて回って疲れたのか、食膳の前で横になるとすやすやと寝てしまった。
「この邑の富は全てあなたが与えていると聞きましたが?」
「ええ、そうですよ。それが神子として生まれた者の務めですから」
ミコが艶然と微笑んだ。それは、自分のことを神子だと信じて疑わない者の笑みだ。美しいその笑みが、今はうっすら気味悪い。
「と言ってももうその役目も終わります。身体が保ちませんから」
「まだそんな年齢ではないようだが」
「もう子供ではありませんから」
ふふ、とミコの口角が上がる。その真っ赤な唇が宗介に近づく。
「宗介さんもこの邑にお住みください。ここに居れば、立派な屋敷も、富も、こんなふうに贅沢で美味しい食材もなにもかも手に入ります」
「いや……しかし所詮余所者ですからね。勝手わからぬことばかりゆえ」
有り余る富には心惹かれるものがあるが、なにしろここは気味が悪い。長居するような場所ではないだろう。
「それに、故郷に家族がおりますからね」
嘘だ。だが、それを確かめる術とてないだろう。
「家族と言えば、あなたの夫はおられないのか? それらしき人物を見かけていないが」
話を逸らそうととっさにそう口に出す。ヒメがいる以上、父親という存在はいるはずだ。全く顔を合わさない理由がなにかあるのだとしても知ったことではない。
「夫は、おりませんわ」
「えっ?」
夫がいない?
「神子に生まれた者は夫を持たないのです」
「では、ヒメはどういう……」
「ヒメの父は、この邑の男衆達です。誰が父かはわたくしにもわかりません。老いも若きも皆父の可能性がある。誰が父かは重要なことではありませんよ」
妖艶に微笑んだミコの手が宗介の手に重なり、全身が総毛立った。まさか、ミコはこの邑の男達全てと————。
「ヒメは皆の子です。もちろん、わたくし自身も。この邑の男衆達がわたくしの父なのですよ」
「そ、そう……ですか。いや、そういう風習は初めてで……驚いています……」
だとすればミコは、存命であるかもしれない自身の父に抱かれている可能性もあるのだ。気持ち悪い! もちろんミコの歳なら存命だろう。
動揺を誤魔化すように白米を口へと運ぶ。あんなに美味しいと思ったそれは、なんの味もしない。まるでゴムを噛んでいるかのような心地すらする。
なんとか飲み込み、箸を置く。次はいつ食べられるかわからないから出来れば全て平らげたいところだ。だが、これ以上は喉を通りそうにない。
まるで善人かのような己の感覚に吐き気がした。
「宗介さんも……」
真っ赤な唇が迫る。払い除けたいのに、まるで石像になったかのように動けない。
首筋に吸い付いたそれに、急激に身体が熱くなり、頭の中が沸騰する。めまい。
「住めば都、ですよ」
耳元で囁かれたその甘やかな息が、宗介の口を塞ぐ。ミコの腕がまとわりつき、畳の上へと押し倒された。
視界の端に、眠っていたはずのヒメの姿が入る。その瞳は開き、繋がり合う二人をじっと見ている。ヒメが見ていると言おうにも口は塞がれ、身体にも力が入らない。
ミコの手のひらが宗介のほおを撫で、首、そして襟元から着物の中へと入り込む。そこで宗介の意識は限界を迎えたようだった。その後のことはうすぼんやりした夢の中のようにはっきりとしない。そのまま、気がつけば朝になっていた。着衣の乱れも一切なく布団に寝ている。
(……ゆめ?)
なんて酷い夢だったのだろう。それに、障子の向こうはもう明るいではないか。とうに日は昇り切っているようだ。夜のうちに忍び出ようと思っていたのに。
障子戸に人影が浮かぶ。
「宗介さん」
戸が開き、顔を出したのはミコだ。その赤く熟れた唇に一瞬目を奪われ、慌てて布団から飛び出る。
「お加減はいかがですか?」
「さ、昨晩……」
「ああ。急にめまいがすると仰って……覚えていないのですか?」
めまい。そうだめまいがしたような気がする。昨晩の事を思い出そうとするが、頭にもやがかかったようになにもかもが曖昧だ。
「疲れが出たのでしょう」
「そうか」
なんだか恐ろしい夢を見ていた気がしていたが、目覚めると夢を思い出せなくなるのはよくある事だ。
「今何時頃だろうか?」
「もうお昼が近いですよ」
「なんと」
そんなに長い間寝ていたのだろうか。とにかく、当初の計画は失敗した。早急に案を練り直さなくては。
「宗介さん、これから少しだけ外を歩きませんか? 邑のことをお話ししておきたいのです」
「あ、あぁ……」
「お着替えを」
人影が増える。二人の女が部屋へ入って来た。一人の腕には宗介のものらしき新しい着物がかけられていた。
見ただけでわかる上等な艶のある絹だ。宗介が腕すら通したことのないような。
二人の女に手際よく着替えさせられる。一人で出来ると思うものの、今まで着たことのない素材のものであるために反論は出来なかった。腕を通した感触からして違う。着慣れるにはそれなりに練習が要りそうな代物だった。
「では、参りましょう」
着替えを終えた宗介を伴い、ミコが外へと足を運ぶ。いつの間にか、宗介の後ろから小さな足音。ヒメだ。母の手を求めるでもなく、昨日のように無表情で付いてくる。ミコもそんな娘を気にかける様子はない。
「本当は昨日の朝に差し上げたかったのですが、仕立てが間に合いませんでしたの」
「いや、十分ですよ」
むしろ、この短期間で仕立てられる方が凄い。
外は晴れていると思いきや曇り空だ。その下の通りを忙しく人々が行き交う。それでもミコの姿を認めると、皆深々と礼をし通り過ぎるまで頭を上げない。目を合わさないという点ではヒメと同じだが、ミコには皆が礼を取る。皆が崇めている対象はあくまでミコなのだろう。
「この邑はわたしが、いえ、歴代の神子が築き上げて来ました」
「はあ……」
「神子は娘しか生みません。その娘は、四歳の誕生日に覚醒し、次代の神子として君臨します。それが、明日」
思わずヒメをふり返る。そこに居るのは、無感情で無表情の幼子。
「覚醒とは?」
「文字通りのことですよ。実際に見て頂くのが良いと思いますわ」
「————……」
そう言われては少しばかりの興味が頭をもたげてしまう。それをふり払うようにヒメから視線を前へと戻す。だめだ、今夜にはここを出なければ。
「あなたは神子を引退されるのか? もう大人だから?」
「ええ。引退というよりは……この命の終わりです。わたくしの身体はもう限界が来ていますので」
「は……?」
「人の身体とは脆いものですから。神の力を使うにはあまりにも脆い」
ふふ、と乾いた笑い声。横目でミコの表情を伺うと、まるで熱に浮かされたようなうっとりした表情を浮かべている。
おかしい。これまでの話で、こんな表情になるような話題などなかったはずなのに。
邑の広場に出る。そこには、昨日はなかったはずのものがあった。薪だ。乾いた薪が、これから燃やすかのように積まれている。
「明日、ヒメの誕生日を祝うための準備です」
薪の前で足を止め、ミコが宗介を見上げる。そこには、得体の知れない妖艶な笑みが張り付いていた。そして、その、顔色。それは生気のない土気色をしていた。
背筋に冷たいものが走った。なにがとは言えない、なにか本能めいたものが警鐘を鳴らしている。耳の奥でごうごうと嵐の音が響いた。
「宗介さんも祝ってあげてくださいね」
にこりと微笑んだそのほおが文字通り削げた。ぼとりと落ちた土色の肉片がミコの白い着物を汚す。
「ひいッ」
あまりの出来事に逃げ出そうとして足がもつれた。地面に倒れしたたかに身体を打つ。立ちあがろうにも腰が立たない。
「まあ、これはお見苦しいところを」
ミコがそう言う間にも、身体はどんどん変色していき、黒々とした髪が束になって落ちた。白い着物に次々と茶色いしみが浮かび上がり、たちまち辺りが鼻をつく腐敗臭に覆われていく。
「ば、化け物……ッ」
歯がガチガチと鳴る。立たなければ、逃げなければと思うものの恐怖から来る震えでそれもままならない。ただ邑で祀り上げられているだけの偶像だと思っていたのに、こんな醜い化け物だったとは!
「そんなに驚かないでください。言ったではありませんか、この身体はもう限界だと」
ミコが膝を折り、宗介へと手を伸ばす。悲鳴を上げそれをふり払うと、その腕はあっけなくもげて地面へと落ちた。そのままぐずくずと形を無くして地面に広がる。
「————ッ‼︎」
もう声さえ出ない。
「この姿が怖いのですか? わたくしは宗介さんにまだなにもしていませんのに」
ミコが首を傾げる。その首がもげそうなほどに真横へと倒れる。
「恐怖で声が出ない者を宗介さんは見たことがお有りでしょう? その時の者のような心地が致しますか?」
上がった口角が裂けた。間からだらだらと茶色い体液がこぼれ出す。
「……あと一日でしたのに。もったいないですが仕方がありませんね」
急に遠くで女の泣き叫ぶ声が上がった。その声が宗介の背後からこちらに近づいて来る。
その悲鳴は宗介の横を通り抜けた。そして、ミコの横に膝を付く。
壮年の女だ。皺がいくらか目立つとはいえ、まだ働き盛りだろうと思われる歳。その顔は、自ら歩いて来たとは思えぬほど恐怖に歪み、嗚咽している。
「ああ、ミコ様……! おた、お助けを……ッ」
「もちろんですよ。あなたにも神のご慈悲を」
崩れきり醜い化け物の顔が女に迫る。泣き叫び顔を背けたが、女は縫い付けられたようにその場から首以外を動かすことは出来なかった。
ミコのどこが口かもわからぬ唇が女の唇を塞いだ。途端に、女の顔に朱が昇る。うっすらと笑みを浮かべた女は、熱に浮かされたようにミコの身体をかき抱いた。
ミコの身体が発光する。その光の中で、肌がみるみる再生し、もげた腕が生えて女を抱きしめ返す。髪もあっという間に生え揃い、元のように美しいミコが女へと接吻をくり返す。
「ああ、ミコ様……ミコ様……ッ」
それは恍惚の表情。あんなに泣き叫んでミコに恐怖していた女と同一人物とは思えぬ様相だった。
「ミコさまぁ……っ」
一際大きな嬌声を上げ、女は息耐えた。ばたりと地面へ倒れ動かなくなる。そして、そこに立っていたのは、美しくも恐ろしい妖艶な微笑みをたたえたミコ。その姿は、着物に出来た茶色いしみが無ければ夢かと思うほどに元通りだ。
(なにが起こっている……? なにが……)
とにかくわかることは、ミコは化け物だと言うことだけだ。
ヒメがミコに歩み寄り、その手を握った。
(こいつらは人間じゃない、化け物だ)
後ずさる。逃げなければ、今すぐに逃げなければ!
「宗介さん」
「ひぃ……ッ来るなぁッ‼︎」
とにかく必死に立ち上がり、砕けそうになる腰に鞭打って駆け出す。昨日邑の外に出るための道は確認した。逃げろ、逃げるんだ。
一目散に駆ける宗介を、皆が痛ましそうに見ている。
「あいつは、ミコは化け物だぞ……ッ」
駆けながら叫んだものの、誰も騒がない。宗介の言うことを信じていないのだろう。いい、そんな奴らなど知るものか。
とにかく駆けて駆けて、息が切れても足を止めず邑から森へと伸びる山道へとまろび出た。ふり返りもせず、鬱蒼とした森の中へと走り込む。
(逃げなければ————‼︎)
* * *
「なぜだ……‼︎」
宗介の目の前に広がっているのは、邑の入り口だった。もう空は薄暗くなって来つつある。しかし、薄闇に広がる立派な家屋の数々が、そこが神子の統べる邑だと言うことを否応なく示していた。
あれからどれほど森を彷徨っただろう。逃げて逃げて逃げて、ずっと山道を逸れずに前へ進んでいたはずなのに。
宗介はもう何度目かわからなくなるほどこの邑の入り口へといつの間にか戻ってしまっていた。しかも一度や二度ではない。その度にまた逃げて逃げて……そしてまた戻って来てしまうのだ。
引き返したりはしていない。ずっと前に進んでいた。そのはずだ。邑に戻ることなどないはずなのだ。
後ずさる。邑に背を向け、のろのろと前へ進む。もう走る体力などない。ただ、少しでも遠くへ逃げなければという思いだけが宗介の足を動かしていた。
鬱蒼とした森が、ただでさえ薄暗い空の光を遮る。
「なんだあれは……あの化け物はッ」
ミコの身体は崩れた。それなのに、邑の女の命と引き換えに再生した。あんなのは人間ではない。
あの女は泣き叫んでいた。ミコの元へとやって来たのは自分の意思ではなかっただろう。そして、ミコに殺されるとわかっていた。
だとすれば、他の人間だってミコが得体の知れない化け物で、いつ殺されるともわからないと知っていたはずだ。なのに逃げるそぶりはなかった。
あの邑はミコやヒメのような神子だけでなく、住人すらおかしいのかもしれなかった。
風が吹き、木々がざわめく。そのざわめきの中から、ふふ、と女の声がした。
「ひッ————」
ふり返る。誰もいない。邑も見えない。だがまた女の、いやミコの嗤い声がした。
——宗介さん。逃げても無駄ですよ。
頭の中に直接聞こえているかのような近さで、ミコの声がこだまする。再び腰が抜けた。立ちあがろうにも疲労も加わり動けない。
——宗介さん。あなたは邑の物を食べ、わたくしと接吻しましたね。
——宗介さん。わたくしはあなたがどこにいてももう分かります。
——宗介さん。逃げるならあなたの命をいただくわ。
——宗介さん。邑で暮らせば贅沢三昧をしながら贄になる日を待てますよ。
——宗介さん。
ミコの吐息が、蛇のように宗介を絡め取っていく。
「嫌だ‼︎」
なんのために必死に街から逃げて来たのか。生きるためだ。それなのに、こんなところで。
——宗介さん。
めまいがする。ああ、また。
意識が薄れていく。
逃げられない。
また邑へ。
ああ嫌だ。
嫌だ。
いやだ……
* * *
宵闇に沈んだ空にオレンジ色が映り燃えている。それを地面に寝転がって見上げていた。
「目が醒めたか?」
近くでそう男の声がかかり、これまでの事が一気に脳裏を駆け巡った。悲鳴を上げて起きあがろうとするものの、身体は驚くほど緩慢にしか動かなかった。身を起こすだけで精一杯で立てない。
「ここは……」
辺りを見回す。そこは邑の広場のようだった。昼間に見た薪に火が付けられ、ごうごうと燃えている。
その火の周囲に、邑の住人たちが集まっているようだ。宗介はそこから少し離れた場所に倒れていたらしい。
邑の入り口どころか、邑の中に舞い戻っているなんて。本当に、逃げられないのだ。
「また戻って……」
「そうだな。さっき邑の入り口に倒れていたんで、俺がここまで運んできた」
首を巡らせ声の主を見上げる。それは、でっぷりと太った中年の男だった。
「まあ、そうなるのも無理はない。俺もそうだったよ」
「は……?」
「神子に選ばれた者としてこの邑に迎えられた時さ。逃げようとした。無駄だったがね」
火の前に集まっている人々から、わあっと声が上がる。そちらに目を向けると、なにかを取り囲んでいるようで円陣が出来ている。その円陣の中央には、白いものが見え隠れしていた。
彼らは声高になにかを罵りながら、円陣の中央の白いものを蹴り、踏みつけている。
あれは、もしや。
「あれから何日経った? ヒメの、誕生日は」
あの薪は、ヒメの誕生日を祝う準備だとミコは言っていた。だが今、その薪を燃やしている炎の前で行われているのは————。
「今日だ。お前が逃げ出してから二度目の夜になる」
「あれは、なにをしている……?」
「今日死ぬミコ様にとどめを。皆恨みが溜まっている。だから最後はああしてとどめを刺すのだ。それが許されている」
「は、はは……狂っている……」
膝が笑っているが、なんとか立ち上がる。
「ヒメも一緒に殺してしまえよ」
「やった奴もいたさ。でもそいつが命を落としただけだった」
しかも想像を絶するほど苦しんでだと男が淡々と告げてくる。その瞳は暗く沈んでいる。
「ミコ様はご自分の意志で抵抗されていないだけだ。死ぬ瞬間までヒメ様をお守りしている。ミコ様が死ねば、ヒメ様が覚醒される。そこに一瞬の隙もない」
「は……意味がわからん……」
自分の意思で抵抗していないだと? 自分を殺させる? なんのために。
「ミコは、身体が限界だと言った。ぐずぐずに崩れ出して、それで女を殺して……元に戻って……」
「そうだ」
「なのに殺されるだと?」
「我々がなにもせずとも、どのみち次代の神子四歳の誕生日に今の神子は死ぬ定めだ。どうせ死ぬ運命は変えられないのだからと下さった慈悲だ」
慈悲。これが。
円陣を組んだ老若男女が、赤く照らされた顔を醜く歪めて暴力の限りを尽くしている。
「いつ贄とされるのかわからぬ定めだ。代替わりの時に運良く生き残っていたなら……次はお前もそうしたくなるさ」
にやりと口元を歪めた男が、宗介から離れて円陣の方へと歩き出した。その中に入ると地面を、いや、その中心にいるだろうミコらしき白いものを踏みつけた。
背筋が震える。しかし、宗介の足は円陣へと踏み出していた。あの化け物が、目の前で女の命をいとも簡単に奪ったあの女が暴力の限りを尽くされている。逃げても無駄だと嘲笑っていたミコが。
その姿を、見たい。
「ミコ……」
円陣にたどり着いた宗介に、人々が場所を開けてくれる。そこから見えたのは、ボロ雑巾のように踏みつけられ倒れているミコだった。その美しかった姿は血にまみれ、所々茶色く変色して来ている。手足は既におかしな方向へと折れ曲がり血を吹き出していた。
それなのにミコは、原型をとどめぬ腫れ上がった顔で宗介を見上げ、にやりと笑みを浮かべた。
「おかえりなさい、宗介さん」
はっきりとした声でミコが宗介を穿つ。
「そちら側に回ったお気持ちはいかがですか?」
ふふ、と嗤ったミコの声に頭の中でなにかが弾けた。咆哮を上げ、宗介はミコの腹を力任せに踏みつけた。ぐにゃりとした気持ち悪い感触が足の裏を刺激する。
覚えのある感触だ。抵抗を失った肉体が、どこまで容易く形を変えるか。それをこの足は、嫌というほど記憶していた。
「あぁ、ああ、もっと痛みを……!」
「うわあぁぁぁぁ‼︎」
折れた手足をさらに踏みつけ、頭を蹴る。
「気持ちいい……ああ、素晴らしい……」
口から泡を吹きながら恍惚の表情を浮かべたミコの衣をつかみ上げる。
今理解した。この炎がなにをするものなのかを。
「黙れ化け物‼︎」
叫び、その身体を炎めがけて放り投げた。ぼっと音がしたかと思うと、あっという間にミコの着物が燃え上がる。その髪も。皮膚が焼け、異臭が広がる。
炎の中でミコが嗤う声がしていたが、それもじきに消えた。炎がミコを舐めるように覆い尽くし燃やしていく。
これでミコは死んだ。そして。
「ヒメ様!」
誰かの声にふり返ると、広場の入り口に小さな人影が立っていた。ヒメだ。
ミコが死んだ。ならばヒメは覚醒したのだろうか。
「ヒメ様、おめでとうございます」
狂ったようにミコを踏みつけていた群衆が一斉にその場に平伏した。これまでいないかのように目を逸らすだけだったのに。
自分も平伏した方が良いのだろうか。もちろんそうだ。ヒメは神子。この邑の住人を贄に取る存在だ。
これまで無感情で無表情だったヒメ。その瞳に、明らかに光が灯っていた。膝を付いたものの、ヒメから目が離せなくなる。
ヒメは広場を見渡し、宗介に目を止めた。こちらへと歩いてくる。
宗介の前に立ったヒメは、口角を釣り上げた。子どもとは思えない妖艶な表情を浮かべる。
「宗介さん」
それは初めて書くヒメの声。明らかに子どもの声で、それなのに大人の表情。
「住めば都、ですよ」
「————ッ‼︎」
一瞬で冷や汗が全身に吹き出し、激しく動悸がした。ごうごうと耳鳴りがし、めまいに襲われる。なにも食べていないはずなのに吐き気に襲われ地に伏した。
そういうことなのだ。そういう————。
地に額を擦り付けた宗介に、ふふ、と嗤う声が頭上から響いた。
「あなたにも神のご慈悲を」




