第61話『魔族姫と数式の教師』【魔族姫編①】
十月の朝の風が塔の石肌を撫で、並木の影を細く伸ばしていく。
年に二度の入学式。尖塔の鐘が澄んだ音を重ね、校章の旗が新しい季節の気配をはためかせた。
クロス組は二年に進み、ルーティアたちは晴れて先輩になった。
中庭のバルコニーから見下ろす列の最後尾に、目を引く新入生がいる。
髪は月光を溶かしたような白金に、桜色の気配がほんのり差している。
瞳は深い湖を思わせる紫紺。
制服は身体の線を邪魔しない仕立てで、脚の長さが目の錯覚かと思うほど際立っていた。
胸元の起伏も、視線が礼儀を迷う程度には主張がある。
(……黄金比で配置しとるみたいやな。約分できひん類の、整い方や。)
カイはポケットからそっと飴をひとつ取り出して口に放り、舌に乗る甘味で心拍をならした。
◆◇◆
式は滞りなく進む。
学園長が祝辞を述べる声は朗々としながらも、目尻にだけ細い皺が寄っている。
緊張の皺だ。何かを案じているときの顔。
「本年度後期の新入生諸君。学びは未知と出会う勇気に宿る。互いを尊び、よく学び、よく遊びなさい。」
拍手が広がる中、新入生代表として先の少女が一歩進み出た。
足の運びに無駄がない。重心の上げ下げが水面の波のように滑らかだ。
「新入生代表、リリシア・…と申します。」
ごく短い間だけ、彼女は姓を言いかけて飲み込んだ。
けれど声は澄んでいて、言葉の端々に長く書物と式に向き合ってきた者の呼吸があった。
「こちらで“理”を学びたく存じます。どうぞよろしくお願いいたします。」
柔らかなざわめきが広がる。
ただの美貌ではない。言葉の選び方が、確かに学ぶ者のそれだった。
(おや。……ええ抑揚やな。合うとる。せやけど、魔力の滑り、綺麗すぎる気ぃするんやけど。)
カイは自分の耳の奥を片手で軽く擦り、考えをいったん棚に上げた。まだ早い。今は式だ。
「見なさい、カイ。脚、長いわ。」
肘でつついてくるルーティアは、今日も快調だ。
「そこ選ぶんやな。まあ、長い。測ったらなんかの黄金比出てきそうや。」
「負ける気はしないけど。」
「勝負項目が脚の長さやったら、分が悪いで。」
「胸もよ。」
「言い切りよったなぁ。」
言い切ったルーティアは涼しい顔で笑った。蒼い瞳の中心に、いつもの小さな炎がふっと灯って消える。
式が終われば配属だ。
二年クロス組の教室の前に、新入生二十名が整列する。
全員、背筋の立ち方から目線の高さまで妙に揃っているのに、同時に猫の群れみたいな気紛れの匂いも混ざっている。
(統率されとるようで、合図ひとつで四散しそうな“自由”。おもろい子ら、来よったな。)
「入るで。」
カイの一声で、二十の「はい、先生。」が重なって頭を下げた。
その声の帯域に、不思議と耳に残る低い芯が混じる。腹の奥で響くような、もう一色。
「よう来たな。ここは算数で魔法を料理する台所や。怖いのはテストだけや。」
「先生、テストは怖いんですね。」
最前列の短髪の青年が真顔で返し、教室に笑いが走る。
「ほな、代表して……リリシアさん、自己紹介してくれるか。」
リリシアは一歩前へ。
立ち姿に緊張の余分が一切ない。手の開閉、呼吸の置き方まで、見られる所作として完成している。
「リリシアです。これまで“理”に記された術式を読み、いくつか自分なりの注を加えてきました。
こちらでは、魔法を“理”で記述する学びを深めたいと考えています。先生の講義に期待しています。」
後ろで二年の誰かが小さく囁く。
「期待って言った。完璧美人が“期待”って。うちの先生、やっぱすげぇな。」
「黙りなさい。まだ挨拶よ。」
ルーティアがたしなめるが、口元にだけ満足げな影が差す。
(“注”。“自分なり”。新入生の口から出る言葉ちゃうで。
……で、やっぱり魔力の波形は、妙に凪いどる。いや、今はええ。)
「ほな、導入いこか。」
黒板に円と直線を引き、極座標で簡素な風の式を記す。
「湿り気と温度をほどよくする“風”や。今日は、ばらつきに強い式の作り方をかじるで。」
「先生。」
リリシアがすっと手を上げる。
「その係数、ここが“ばらつき”の肝でしょうか。」
「どこ見て言うてんのや。」
「“微小揺らぎの許容域”の取り方です。ここに術者の不均一が入るはず。」
「へぇ。」
カイは口角を上げた。
「ほな、やってみ。」
リリシアは黒板に近づき、式の隙間へ細い補助線を滑らせた。
ぱち、と衣擦れに紛れるほどの小さな音。
教室の空気がそっと整い、窓辺のレースがふわりと持ち上がる。
「……すげ。」
二年の誰かが漏らし、一年の数名は当たり前の顔で頷いた。
当たり前、なのだろう。彼らにとっては。
(きれいや。……きれいすぎる。波頭が崩れん。いや、まだ決めつけるな。今日の主役も黒板や。)
◆◇◆
講義は進む。
チョークが走り、数式がノートに降り積もる。
カイの声は一定のリズムで難所をやわらげ、笑いの粒をところどころに撒く。
二年の顔に安心が、一年の顔に驚きが載り、空気はほどよい温度に温まった。
「先生。もうひとつ、よろしいですか。」
「なんや。」
「この項、こうすると“美しい”のでは。」
「美しい?」
「対称性が生まれて、式が歌います。」
「歌う言うたな。よろしい。――ほな、一本足して。」
補助線を一本。
式は一瞬で姿勢を正し、たしかに歌い始める。
「どうや。」
「……美しいです。」
頬に朱を差したリリシアを見て、ルーティアがすかさず手を挙げる。
「カイ。その“歌う”式、私にも。」
「はいはい。奥様優先席はないで。」
「あるわ。」
「ないわ~!」
笑いが広がる。新入生の目が「面白い」と言っていた。
◆◇◆
休み時間。
窓際の一年が包みを開け、香りの強い何かを摘んでいる。
「お前ら、それ何や。」
「“辛味丸”です、先生。」
「名前からして危険やないか。校舎で爆ぜたらワイが書類地獄や。没収。」
「えー。」
「その代わり、次の調理実習で正式にやったる。条件は“燃えへんこと”。」
「やった。」
「やったやない。条件聞け。」
わいわい騒ぎながらも、彼らの手は器用だ。
椅子の脚のガタつきを一瞬で直し、斜めの机を指先のひと撫でで水平に戻す。
細工の精度が妙に高い。
楽しんでやっている。誰かの命令ではなく。
◆◇◆
放課後。
自然と校庭に見物の輪ができていた。
二年と一年の有志が向き合う。
先輩は背中を見せたいし、後輩は力を見せたい。
流れとしては必然だった。
「私と、やってみる。」
ルーティアが剣を肩に担ぐ。
「光栄です。」
リリシアが微笑む。
「ルールは簡単や。刃は当てん。術は校庭を壊さん範囲。ワイが止めたら絶対止まれ。」
カイは二人の間を見て、深く息を吸う。
風がひとつ止み、周囲の空気が澄む。
「はじめ。」
光が、ぶつかった。
金属音は鳴らない。
剣が当たる前に、二人の構築する“面”が互いの刃を撫で、角度を奪い、力を流す。
ルーティアの炎が薔薇の花のように広がり、リリシアの風がその形を保ったまま押し返す。
髪が弧を描き、足が砂を細く割り、靴先が線を引く。
(……なんやこれ。)
カイの後頭部に冷たい指先が触れるような、ひやりとした直感が走った。
式の重なり方が、あまりに滑らかだ。
揺らぎがない。
人の術者なら、どこかに小さなざらつきが残る。
それが見えない。
見事すぎる。
「止め。」
カイの声が鋭く空を切る。
二人は寸前で止まり、砂ひとつ跳ねない終止符を打った。
呼吸だけが熱を帯びる。
「互角やな。」
「まだ行けるわ。」
「行けるのは分かるけど、今日はここまでや。校庭に穴増やすん禁止。」
「はい、先生。」
素直な返事。
その素直さの奥に、別の理由が一瞬顔を出す。
――強いものに対する、ごく自然な服従の回路。
(……もしかして。)
脳裏に、古い魔導書の片隅で読んだ記述が浮かび上がる。
“気紛れで、強さに敏感で、従うと決めたら迷いがない”。
名前をあえて口にしない。
口にした瞬間、何かが変わる気がした。
ルーティアが肩で息をしながら横目でリリシアを見る。
「強いわね。」
「あなたも。」
「……嫌いになりきれないのが悔しい。」
「それは、私も少し。」
二人は同時に笑った。
火花は散るのに、火傷にならない距離が、少しだけ縮まっていた。
◆◇◆
帰りがけ。
図書塔の脇の小道を抜けると、リリシアが分厚い書を抱えて出てくるところだった。
窓から零れる灯りに、頁の端が金色に縁取られている。
「熱心やな。」
「ええ。ここにある“理”は、香りがいいです。文字を追っているだけで式が立ち上がってくる。」
「せやな。……その香り、好きやろ。」
「好き、です。」
素直な頷き。
紫紺の瞳の奥に、波紋がひとつ広がって沈む。
「カイ先生。」
「ん。」
「私は――先生の式に、恋をしてしまいそうです。」
「そこは私の台詞ですわ。」
木陰から飛んでくるルーティアの声。
彼女は当然のようにカイの腕へ絡みつく。
「カイの隣は、私の場所。」
「席取り合戦やめぇ。図書塔に指定席はない。」
「概念としてはあるの。」
「概念で戦うな。」
カイは苦笑して二人のあいだへ割って入る。
「はい散会。夜は冷える。風邪ひくで。」
足取りのリズムは違うのに、歩幅はいつの間にか揃っていた。
その後ろで、新入生の数人が手押し車を直している。
釘が一本も余らない直し方。
器用すぎる手つき。
楽しげに笑いながら、ふとこちらを見る目に、わずかな敬意が混じる。
「先生。さっきの模擬の“式”、もう一度見たいです。」
「ええよ。ほな明日の朝、小テストでやる。」
「やった。」
「やったやない。小テストや言うてるやろ。」
笑いが起きる。
尖塔の影が長く伸び、最初の星が西の空に灯る。
秋の虫が揃って鳴き始め、学園の夜は、学びの熱をほんのりと残したまま冷えていった。
(――魔族、かもしれん。いや、今はまだええ。決めつけんとこ。)
(正体を問うんは、必要になった時でええ。黒板の前に座る限り、みんな“生徒”や。)
カイはポケットから飴を二つ取り出し、ひとつをルーティアへ、ひとつをリリシアへ渡した。
「糖分は脳みその燃料や。補給して寝ぇや。」
「ありがとう、カイ。」
「ありがとうございます、先生。」
二つの声が重なり、音の質が違うのに、不思議に響きが合った。
夜空は深く、静かに広がる。
新しい期が、確かに回り始めたのだった。




