第20話『公認夫婦漫才、王子の動揺、そして優しさの矛先』
朝の鐘が一度。
王都学舎の石畳がひんやり光る。
中庭の噴水は今日も機嫌よく水を跳ね上げてる。
教室の扉を開けた瞬間、わいの手からアメの瓶がふっと消えた。
「おはようさん、今日は“微分で揺らぎを――」
「配給は“奥様”が担当します。
整列、列は二列、混雑緩和のため間隔をあけて」
ルーティアの宣言が美しく反響する。
(出たな、配給大臣)
小さな赤いリボンが揺れて、瓶のふたがカチリと鳴る。
令嬢の右手にミント、左手にハチミツ。
視線だけで生徒の並びを整えていく。
「昨日はミントだったわね。
今日はハチミツ。
はい、あなたは今日こそ甘さを噛みしめなさい」
「先生、ぼくは――」
「君は集中力が続かないタイプ。
ミント。
次」
判断が速い。
そして容赦がない。
(人事部やれるな)
わいは黒板前でチョークを持ち直す。
「ほな始めよか。
揺らぎを“怖いもん”やと思うから手が止まるんや。
せやけどな、揺らぎは“リズム”や。
sin と cos は夫婦みたいなもんでやな」
「夫婦ですって?」
後ろから刺さる声。
「例え話や例え話!」
教室は朝から笑いで温まる。
板書の合間、ルーティアはわいの袖口をさっと直す。
「チョーク粉。
白は白でも、袖に残る白は美しくないわ」
「ファッション講評まで入るんかい」
黒板消しを受け取ると、粉が舞い上がらぬ角度で撫で落とす。
動きに一切の無駄がない。
(ほんでどこで練習してんのそれ)
◆◇◆
休み時間。
質問の行列ができる。
「先生ここが」「先生この積分が」
「ちょい待ち、順番にな」
ルーティアがすっと前へ出る。
「予約札よ。
一人三分、延長は一分。
カイ、三番からお願い」
「ここ、病院かな」
けれど流れは気持ちいい。
生徒の目の色が落ち着いて、教室の空気がすっと澄む。
その様子を、回廊の柱の陰から誰かが見ていた。
金の髪が光を吸い、碧の瞳が細められる。
第一王子レオン・アーデルハイト。
彼は口を引き結び、息を飲んだ。
「あれが……ルーティアの本性なのか」。
彼の脳裏に浮かぶのは、社交界の氷の令嬢。
完璧で、硬くて、絶対に隙を見せなかった彼女の横顔。
いま目の前の彼女は、袖を直し、湯を差し、アメを分け、声を和らげ、笑っている。
自然に。
心から。
「俺にも……あんな笑顔を見せてくれていれば……」
その呟きは風に溶けた。
すぐに、王子は自分の頬を指で押さえ、微かな笑みを作る。
「いや、俺は……俺はフィリアと幸せになるんだ」
決意に力が入る。
視線の先。
講堂の扉が開き、フィリア・エストレアがノートを胸に抱えて立っていた。
彼女はいつもの席のいちばん後ろに座り、小さく頭を下げる。
王子は歩み寄り、いつもより柔らかい声を出した。
「フィリア。
講義、分からないところがあれば……俺も一緒に復習しよう」
「え……レオン様が、ですか?」
「君が望むなら。
君と学ぶのは、俺にとっても嬉しい」
フィリアの頬が、炉の火に炙られたみたいに赤くなる。
「……はい。
お願いします、
レオン様」
彼女の声はいつも通り丁寧で、少しだけ高く揺れていた。
レオンはほんの一瞬、教室の前方に視線を戻す。
カイとルーティアは、相変わらずの掛け合いをしていた。
「先生、水分補給」
「わかったけど“あーん”はやめぇ」
笑い声。
レオンは小さく目を伏せてから、もう一度フィリアへと向き直る。
「行こう。
図書塔で、二人で」
「はい」
◆◇◆
昼休み。
食堂に人の波。
わいが盆を抱えて席を探す間もなく、椅子がすっと引かれる。
「カイ、こっち。
今日は日向が弱めだから、この席で大丈夫」
「どんな日照管理しとんねん」
皿が並ぶ。
サラダ、スープ、主菜、パン。
「まずサラダ。
ドレッシングは軽め。
はい、ニンジン」
「ニンジンは“敵”や」
「味方よ。
健康の」
フォークがニンジンを刺し、わいの皿へ着地。
「次、スープ。
熱いからふーふー」
「いやふーふーは自分でできる!」
「できるのは知ってるわ。
でも、したいの」
「うわ直球」
背後の席から「ひゅー」とか「王国一の嫉妬を買う所作」とか小声が飛ぶ。
教師のテーブルからは無言の視線。
誰も止めない。
止められない。
家柄、成績、働きぶり、そして“幸福そう”という謎の権威。
レオンは少し離れた席で、黙ってフォークを持っていた。
視線の先、ルーティアの笑みが柔らかくほどける。
眉尻が下がり、目元がふわりと笑う。
あれは、王宮では一度も見なかった表情。
「……本当に。
あれがルーティアの本性なのか」
王子の胸が針でつつかれたみたいに痛む。
だが、彼は肩の力を抜いて、そっと吐息をこぼす。
「俺は俺の道を行く。
フィリアと、ちゃんと向き合う」
隣のフィリアにパンを差し出す。
「熱いから気をつけて。
蜂蜜バター、君が好きだろう」
「えっ?
覚えて、くださって……」
「当然だ。
君の好きなものも、嫌いなものも、全部覚える」
フィリアの目がうるみ、けれど真っ直ぐ王子を見た。
「ありがとうございます。
レオン様」
わいはその様子をちらりと見て、心の中でうんうん頷く。
(ええやん
それでええ)
ルーティアが肘でわいの脇腹を小突く。
「どこ見てるの。
あなたはこっちを見なさい」
「はいはい、
おかん」
「奥様」
「そこは譲らんのか」
会計カウンター前。
「おばちゃん、今日もようけ食べたし、ほら、ちょっとまけて――」
「まけません」
「秒で不成立!」
横から黒のカードがスッと出る。
「領収は“カイ先生の研究費”で」
「いややめぇ!」
「じゃあ“家庭の予算”で」
「それが一番あかん!」
おばちゃんが涙目で笑う。
「ほんま、お似合いやねぇ」
「照れますやん」
「照れてる場合じゃないわ。
午後の講堂、準備が残ってるでしょう」
腕を引かれ、半ば連行される。
(幸せに連行されるの図)
◆◇◆
午後の公開演習。
講堂は満員。
黒板の前、わいがチョークを鳴らす。
「今日は“魔法、止めたるで講座”や。
相手の魔法を怖がるな。
構造を掴め」
ルーティアは最前列の端でタイムキーパー。
生徒の手が挙がるタイミングを見計らい、質問の順を整える。
「はい、あなた。
その次はそちら。
カイ、右側から」
わいは式を描き、魔導陣の歪みを指で示す。
「ここや。
ここが“支点”。
ここを押さえたら、向こうは勝手に崩れる」
生徒の目が大きく開く。
「やってみ」
小さな光。
初めて成功した子の手が震え、笑顔が弾ける。
ルーティアが小声で「よくできました」と囁き、掌サイズの飴を渡す。
“先生の代理配布”と書かれた小札つき。
(徹底してるな)
陰の列で、王子レオンが腕を組んだまま立っていた。
何も言わない。
ただ、見ている。
笑い声が波のように広がるたび、彼の表情から強張りが少しずつ取れていく。
(認めないとな)
(あれは今のルーティアで、俺の知らない彼女だ)
胸の奥にまだ痛みは残る。
けれどそれは、憎しみではない。
置き忘れたものに触れた時のような、鈍い温もり。
演習が終わると、講堂の裏手に回った。
フィリアがノートを抱えて待っていた。
「レオン様、
少し、時間をいただけますか」
「もちろんだ。
……ああ、待て。
先に言わせてくれ」
王子は深く息を吸い、言葉を選ぶ。
「前に、君に“あの教師に近づくな”と言った。
あれは……俺の未熟さだった。
君の学びを狭めるような真似は、もうしない。
俺は、君と同じ方向を見たい」
フィリアは驚いたあと、ゆっくり笑った。
「嬉しいです。
レオン様。
私、カイ先生の教え方が好きです。
でも……わたしの“好き”は、ずっとレオン様に向いています」
「知っている。
そして、それに応える。
……君を、幸せにする」
王子の手がそっと差し出され、フィリアはその指先に指を重ねた。
照れたように微笑む彼女の瞳は、もう迷っていなかった。
◆◇◆
夕刻。
校庭の端、銀葉の並木道。
今日の風は柔らかい。
ルーティアがわいのローブの裾をぱんぱんと払う。
「粉。
今日もよく働いた証」
「それを誇らしげに残すな」
「残すのは“記録”。
落とすのは“粉”。
はい、じっとして」
わいが黙ってると、彼女は満足そうに頷いた。
「よし、
帰りましょう、カイ」
「おん」
ふいにストールが首に巻かれる
ふわりと蜂蜜の匂い
「夜風は喉に悪いもの」
「毎回それ言うやん」
「毎回守らせるわ」
「はいはい、
守られとくわ」
自然に笑う。
彼女も笑う。
通りすがりの生徒が「尊い……」と小声でつぶやき、隣の生徒が「日記につけとこ」と返す。
(やめぇ)
石段を降りる途中、ルーティアが足をとめた。
「ねぇ、カイ」
「ん」
「今日のあなたは、十点満点中、何点?」
「そら百点満点やろ。
ワイの自己採点はいつも甘い」
「じゃあ私が採点するわ。
九十八点」
「お、辛口来た」
「“あーん”を一回拒否したからマイナス二」
「そこ!?」
笑いながら歩く。
石畳が長く続き、影が二本並ぶ。
夕焼けがその影を、同じ長さに伸ばしてくれる。
◆◇◆
夜。
寮の部屋。
机に積まれた課題の束。
赤ペンが滑り、丸が増える。
「先生、肩こってる」
「年や」
「二十代でそれ言う?」
背後から肩を押される。
指が、的確に凝りを捉える。
「いったぁ……そこや……!」
「声が大きい。
喉に悪い」
「厳しい」
湯気の立つカップが置かれる。
「今日はカモミール。
明日は人前で話すでしょう」
「せやね」
「だから、守る。
あなたの声も、背中も。
全部」
言葉が静かに落ちて、音になって残る。
わいは振り返り、素直に頭を下げる。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は窓の二つの月を見上げ、わたしは赤ペンで最後の丸をつける。
机の端に、生徒の落書きメモ。
『本日の夫婦漫才スコア:99点。
※“自然なあーん”+2。
※先生のツッコミ、キレ上々』
(おまえら採点すな)
でも、悪くない。
明日また、笑って、教えて、守られて、守って。
そうして日々は積み上がる。
回廊の陰は静かで、石は熱を失っていく。
遠く、王宮の塔の上で一人の王子が夜風を浴びていた。
レオンは目を閉じ、深く、深く吸い込んで吐く。
「俺にもあんな笑顔を見せてくれていれば……」
悔いは残る。
けれど、次の言葉は迷いがなかった。
「いやいや、何をいつまでも…俺はフィリアと幸せになるんだ」
胸に手を置く。
指先に確かな鼓動。
明日、もっと優しく。
もっと真っ直ぐに。
そう決めて、塔を降りる。
王都の夜は穏やかや。
笑い声で終わる一日が、こんなに心地ええとはな。
(せやけど――これは序章や。
平穏は、もっと強くなるための“休符”や)
わいはストールを首元で結び直し、窓の月に軽く会釈した。
「ほな、明日もがんばろか」




