第17話『教師、檻を破る。数式が裂く風の牢獄』
地下魔導層。
“空律の檻”――それは風の国エルストラが誇る、絶対魔導拘束式。
数百層にわたる風属性式の干渉によって、対象の魔力の“座標そのもの”を消去する。
この檻の中では、どんな魔法も術式も“存在”できない。
そして今、その中心で――ルーティア・フォン・ヴァレンシュタインは囚われていた。
(くっ……力が、まったく……)
何度魔力を込めても、何も起きない。
(あの人は……知っているのかしら。私がここにいるって……)
(お願い……来て。来て、カイ……)
その時だった。
バチッ――と、空間の一角に“ひずみ”が生じた。
刹那、地面に一筆の白い線が走る。
「……ほぉ。お出ましか」
ゼルダ=ファリオンが笑う。
風をまとい、長衣をなびかせながら、その奥に立つ“あの男”を見据えた。
「教師、という立場でここまで来るとは」
「教師っちゅうのはな、“どこに生徒がいても”行かなあかん仕事なんや」
カイ・クロスは、片手にチョークとスケッチブックだけを持っていた。
「空律の檻は破れませんよ。
それは“魔法”として起動すらできない空間。
あなたのような、戦わない者には、何もできない」
「せやろな」
カイは静かにチョークを滑らせた。
石畳の上に、同心円状の複雑な数式構造が描かれていく。
√[(x – a)² + (y – b)²] = r
sinθ = y / r、cosθ = x / r
∴ θ = tan⁻¹(y / x)
式が発動すると同時に、空気の流れが変わる。
「何……この座標の……“再定義”……!?」
「空律の檻の理論は、魔力の初期座標を消して閉じ込めることや。
なら、その座標を“新しく定義”し直せばええやろ?」
「バカな……!」
式魔法――それは理論と式変換に基づく、“座標再生成”魔術。
魔力を新しい位置に“存在させ直す”ことで、拘束を回避する発想。
異世界の誰も試したことのない、完全な“数理的アプローチ”。
「ワイはな、“魔法使い”ちゃう。
せやけど、“わかるようにする”ことには自信ある」
術式が発動した瞬間――
ルーティアの周囲の空間が、音を立てて崩れた。
風の膜が裂け、封印の檻が“再定義”された領域から消失する。
「っ……魔力が……戻ってくる……!」
その場に崩れ落ちそうになるルーティアを、カイが受け止めた。
「無事でよかった」
「……どうして……来たの?」
「教師やからやろ」
「それだけ……?」
「……ちゃうかもな」
カイの声が、少しだけ優しく、少しだけ震えていた。
だがその時、空気がまた激変する。
ゼルダ=ファリオンが、静かに指を鳴らした。
「では、次はこちらの番ですね」
彼の背後に、六つの魔導陣が回転を始める。
「“知”は確かに強い。しかし“力”の前では無力だと、教えて差し上げましょう」
“風裂式・六連転界陣”――
それはゼルダが一国の魔術師団長たるゆえん、風の剣と空間干渉の複合術。
だが、カイは一歩も退かなかった。
スケッチブックを開き、魔導陣に並行するように数式を描く。
cosθ + sinθ = √2・sin(θ + π/4)
ΔE = –∂Φ/∂t
「物理も混ぜたら、面白なるやろ」
「何……この反作用式……ッ!」
空気が押し返され、風の剣が反転する。
「まさか……魔法を……“逆方向に再定義”したのか!?」
「せや。“魔法を止める魔法”ってな、数学的には成立するんやで?」
戦場が、静まった。
ゼルダはしばらく沈黙してから、肩をすくめて笑った。
「……面白い。あなたは、やはり脅威だ。だが――」
「次は、国そのものが動く。覚悟しておいてください」
彼はそのまま、風に乗って撤退した。
静けさの戻った魔導層。
ルーティアは、崩れるようにカイの胸元に顔を埋めた。
「バカ……バカ……どうして、そんな風に……!」
「泣くとこやないやろ」
「泣いてない……ッ、泣いてないわよ……ッ!」
でも、その声は震えていた。
心の奥が、“この人を失いたくない”と叫んでいた。
◆◇◆
その夜。
カイはルーティアを背負って学舎へ戻る。
そして、誰もいない講堂でそっと呟いた。
「数学教師やからって、魔法に勝てるなんて、ほんまおかしい話やな……」
でも、次の瞬間。
その背中に、静かに、誰かの小さな手が触れた。
「カイ先生……ありがとう」
フィリアだった。
戻ってきた少女の瞳に、まだ言葉にはできない想いが、確かに灯っていた。




