第9話『空席の隣、騎士の挑発、魔導陣の異変』
カイの授業は今日も平穏に進んでいた。
黒板には魔法陣の“回転対称式”と、その数学的な簡略化。
目を輝かせて聞き入る生徒たち。だが、その中に――
ルーティア・フォン・ヴァレンシュタインの姿は、ない。
……いや、厳密には「席に」いないだけだった。
彼女は教室の扉のすぐ外、廊下の柱の陰から、そっとその様子を見ていた。
(また……笑ってる)
教壇の上で、カイが無造作に飴を配りながら、今日もマイペースに授業を進めている。
「ほら、君はこの式の変数“r”を魔力の距離と勘違いしてるやろ? ちゃうちゃう、それは“半径”や。世界のな」
(……なんなのよ、世界の半径って)
突っ込みたい衝動を抑えながら、ルーティアはふと胸の奥を押さえる。
(……もう終わったのに。契約も。関係も。なのに……)
(どうして、まだ目が離せないの?)
◆◇◆
放課後。
カイは実験棟で、補講希望者の相手をしていた。
そこへ現れたのは――武闘系魔法騎士科のエース、
貴族家の御曹司、ギルベルト・ヴォルクレインだった。
「カイ・クロス、と言ったな」
「……おぉ、なんや強そうな名前やな。どうしたんや?」
ギルベルトは鼻で笑った。
「お前が“教師”だと聞いた時は冗談かと思った。平民風情が、貴族の魔導理論を講義する? 滑稽だな」
(お約束すぎるやろ……)
カイは額を押さえた。
「別に平民やからって関係あらへんやろ。数学に身分なんてないで?」
「その口の利き方、気に食わんな……!」
ギルベルトが腰の剣に手をかけた瞬間、
部屋の空気が一瞬、ピリッと張り詰めた。
(あ、これもうアカンやつや)
その騒ぎを聞きつけ、偶然通りかかったのは――ルーティアだった。
(……またあいつ、なんか巻き込まれてる……!)
思わず扉を開ける。
「ちょっと、なにしてるのギルベルト!」
「おや、ルーティア様。これは教師と“演習”の相談をしていただけです」
「嘘を言いなさい。剣を抜く寸前だったじゃない」
カイは手を上げて遮った。
「大丈夫や。こういうの、ようあるから」
「よくあるわけないでしょ! 普通は教師が“決闘”なんて……!」
「ワイ、教師やけど、“普通”ちゃうからな」
「は……?」
「……ちょっと、見せたろか。ワイが何を教えとるのか」
ギルベルトは構えを取り、魔力を込めた剣を振り上げた。
「いくぞ、カイ・クロス! この“雷の斬撃”を受けてみろッ!」
(アホか……廊下で剣ふるな言うたやろ、規則に)
カイはため息ひとつ。
地面にチョークで数式を組み込んだ簡易魔法陣を描く。
「√3n + θ / λ = 0」
キュイン、と空間が揺れた。
ギルベルトが剣を振り下ろす直前、
足元の重力が一瞬、反転する。
「ぐっ……!?」
彼の体がふわりと宙に浮き、バランスを崩して転倒。
その瞬間、剣から抜け出た魔力が弾かれるように上昇し、天井に吸い込まれた。
「な、何だ今のは……!? 重力の逆位相……!? なぜそんなことが……!」
「せやから、魔法ってのは“構造”やねん。パワーやない」
場が静まり返る中、カイはチョークを置いた。
「これが“数学教師”のやり方や」
ギルベルトは、なにも言えず、ただ地に伏したまま天井を見つめていた。
その隣で、ルーティアがぼそりと呟いた。
「……もう。やっぱり、あんたって……意味わかんない」
◆◇◆
その夜。
ルーティアは自室でひとり、窓の外を見つめていた。
(また目が離せなかった)
(契約は終わった。距離を取るはずだった。私が、望んだことなのに)
(なんで、あんな姿見せられて……また、ドキドキしてるのよ)
胸元をそっと押さえる。
でもその鼓動は、止まる気配がなかった。
一方、教師寮の自室に戻ったカイは、飴の瓶を眺めながらため息を吐いた。
「……またやってもうたな。ああいうの、ほんま勘弁して欲しいわ……」
(でも、あの子……)
ふと、思い浮かんだのは、騒動の最中に見せたルーティアの真剣な眼差し。
(あんな目、契約中ですら見たことあらへんかったな……)
カイの手が、ゆっくりと飴の瓶に触れる。
(……終わったはずやのに、なんやろな)
◆◇◆
そして、翌朝。
学園の正門に、漆黒の外套を纏った数名の来訪者が現れた。
胸元に輝くのは――魔導省の紋章。
「異世界から来た“教師”カイ・クロス。特例で雇用された者に関し、正式に“調査”を行う」
物語は、戦火の匂いを纏いながら、新たな段階へと進み始めた。




